第5話:『英雄の化皮』
大魔導師カイ・フォン・ローゼンバーグの惨死と、彼が維持していた王都防衛結界の内部崩壊から、わずか六時間。
夜が明け始めた神聖帝国アスタルゴの首都アスタロトは、かつてないほどの混乱と恐怖の渦中にあった。
空を覆っていた輝かしい防壁の光輪は霧散し、煙を上げる『蒼穹の理』の塔からは、黒々とした灰が雪のように街へ降り注いでいる。街頭では警鐘が絶え間なく鳴り響き、完全武装した聖導騎士団や都市自衛隊が、松明と魔導灯を手に右往左往していた。
「カイ教授が死亡したというのは本当か!?」
「結界の制御室で……爆発が起きたと……! 遺体は四肢を失い、見る影もない肉塊だったそうだ!」
「街の防壁はどうなる!? 外から魔物が襲撃してきたらどうするんだ!」
上層の貴族街から下層の商人街に至るまで、民衆は怯え、家々の窓を閉ざして打ち震えていた。彼らが何よりも恐怖していたのは、「絶対の安全」と信じ込まされていた帝国の支配体制が、一夜にして脆くも崩れ去ったという事実であった。
その混乱の喧騒を、真上から冷ややかに見下ろす存在がいた。
大聖堂と王宮を見渡す、王都中央大広場の時計塔の頂。
黒い防寒コートを夜風になびかせ、クラウスは時計塔の石の欄干に腰掛けていた。
彼の黒銀の右義手が、朝焼けの赤い光を反射して冷たく光る。隣には、大きな黒ローブのフードを深く被ったエレノアが、静かに寄り添っていた。
「マスター……。街の熱量が、上がっています」
エレノアが透き通る声で呟く。彼女の銀色の瞳には、広場を埋め尽くし始めた民衆の群れが映っていた。
「ああ。カイの死と結界の崩壊……。民衆は今、自分たちの『神話』が揺らいだことで、強烈な不安に苛まれている」
クラウスの感情には、波一つ立っていなかった。
かつて仲間を失い、裏切られた時に感じた激しい憤怒や、怒号を上げる狂気すらも、今の彼からは消え失せていた。彼の頭脳を満たしているのは、ただ淡々と、精密機械のように工程をこなす「作業の完了」だけだった。
(怒りで動くのは素人の仕事だ。……復讐とは、解体作業に過ぎない)
クラウスは黒銀の右手で、自分の胸の『共鳴・等価倍加の刻印』にそっと触れた。
カイを二千四百度の熱収縮圧力で破裂させ、その魂と魔力を吸い上げたことで、刻印の幾何学回路は以前よりも緻密に、そして広範囲に魔力を投射できるよう拡張されていた。
今や彼らの共鳴回路は、王都全域の魔導伝達網へ直接介入できるだけの出力と精度を獲得していたのだ。
「エレノア。カイの『記憶の保管庫』から抽出したデータと、俺の記憶刻印の同期率はどうだ?」
「一〇〇パーセント……完璧に収束しています」
エレノアが自身の胸の刻印に手を当て、静かに報告する。
カイの肉体を解体した際、クラウスは彼の死に際の脳髄から、彼が隠し持っていた「勇者レオンハルトの裏データ」を根こそぎ吸い上げていた。
カイは論理と計算の信奉者であったが、同時に極度の保身家でもあった。彼は勇者パーティの仲間であるレオンハルトやセレスティアが、裏でどんな悪事や不正を行ってきたかを、万が一の際の「脅迫の札」として、自身の暗号化記憶領域に詳細に記録・保管していたのだ。
その中身は、まさにゲテモノの山であった。
「……レオンハルト。お前が帝国中の民衆から『光の勇者』『神の愛し子』と崇められる背景に、どれほどの血と嘘が塗り固められているか。……今日、この広場で全てを精算してやる」
クラウスは淡々と、コートの内ポケットから数枚の特殊な刻印用羊皮紙を取り出した。
その表面には、黒と金の血で描かれた繊細な『広域光波投影術式』がびっしりと書き込まれている。
ご都合主義の幻覚魔法などではない。
これは、空間中に存在する光素子と魔力素子の配列を書き換え、空中に数百メートルの巨大な「視覚・聴覚再現映像」を物理的に定着させる、超高度な刻印応用技術であった。
「エレノア。時計塔の四方の柱と、広場を取り囲む八本の神聖街灯に、この刻印基盤を配置する。……準備に取りかかるぞ」
「了解しました……マスター」
エレノアの背中から、四本の白銀の魔導アームが静かに展開された。
ふたりはまるで、舞台の照明と音響をセッティングする裏方作業員のように、一切の無駄のない動きで、王都の中心に巨大な「処刑台」を組み上げ始めた。
午前九時。
王都中央大広場は、溢れんばかりの民衆と聖導騎士たちで埋め尽くされていた。
数十万人の群衆が集まり、不安と猜疑心の交じったざわめきが、地鳴りのように広場全体を揺らしている。
「おい! 英雄レオンハルト様はお見えにならないのか!?」
「聖女セレスティア様のお祈りは!? 結界が破れた今、私たちを守ってくださるのはお二人だけだ!」
「カイ教授の死は本当なのか!? 教皇庁は何か隠しているんじゃないのか!?」
混乱する群衆の不満が爆発寸前に達した、その時であった。
ファンファーレの澄んだ金管楽器の音が、大広場に高らかに響き渡った。
大広場に面した『神聖大聖堂』の巨大なバルコニーの扉が重々しく開き、純白の近衛騎士たちを従えて、ひとりの男が姿を現した。
金色の髪を朝日に輝かせ、一傷もない純白と白銀の神聖鎧を纏った男――勇者レオンハルトであった。
彼の腰には、神々の祝福を受けたとされる絶対切断の聖剣『ルミナス』が、燦然と黄金の光を放っている。
そのすぐ後ろには、可憐な薄桃色の聖衣を纏い、神聖な数珠を手にした聖女セレスティアが、控えめに、しかし完璧な「聖母の微笑み」を浮かべて寄り添っていた。
英雄と聖女の登場に、広場を埋め尽くしていた民衆から、嵐のような歓声が上がった。
「レオンハルト様ぁぁぁぁっ!」
「聖女セレスティア様ーッ! どうぞ私たちをお救いください!」
「勇者様がいれば大丈夫だ! アスタルゴは不滅だーッ!」
絶望の淵に立たされていた民衆は、目の前に現れた「分かりやすい救世主」の姿に群がり、狂乱の歓喜を爆発させた。
バルコニーの上に立つレオンハルトは、腰の聖剣『ルミナス』の柄に手を当て、堂々とした態度で民衆に向かって片手を掲げた。
その姿は、絵本から飛び出してきたような完璧な「英雄」そのものであった。
しかし――彼の内面は、破滅的な焦燥と苛立ちで狂いかけていた。
(チッ……群がってくる醜い豚どもが。どいつもこいつも不安で泣き叫びやがって……)
レオンハルトは笑みを絶やさないまま、心の中で民衆へ激しい唾を吐きかけていた。
(カイの奴が間抜けにも自爆しやがったせいで、朝からこの俺様がこんな前線に出てきて愛想を振りまかなきゃならんとはな。……それに、セレスティアの奴もガタガタ震えやがって……『クラウスが生きている』だの、くだらん戯言で俺の手を煩わせるな)
レオンハルトは隣のセレスティアを盗み見た。
セレスティアは完璧な微笑みを顔に張り付けていたが、その細い指先は激しく震え、汗で聖衣の布地がしっとりと濡れていた。昨夜、クラウスから直接かかってきたあの通信の恐怖から、彼女は未だに抜け出せずにいたのだ。
(ふん、どうせクラウスの奴はカイの自爆に巻き込まれて死んだか、逃げ出したかに決まっている。この俺様が王都に君臨している限り、あの無能な不具者が表舞台に出てこられるはずがない)
レオンハルトは胸を張り、大聖堂の拡声魔導具の前へと一歩踏み出した。
彼が得意とする、大衆の心を掴むための「英雄演説」の開始であった。
「アスタルゴの愛すべき市民たちよ! 静粛に!」
レオンハルトの威厳に満ちた朗々たる声が、魔導具を通じて広場全体へと響き渡る。
民衆の歓声がピタリと止まり、全員が息を呑んで勇者の言葉に耳を傾けた。
「昨夜、我々の誇り高き結界塔において、痛ましい事故が発生した。偉大なる大魔導師カイ・フォン・ローゼンバーグ教授が、王都の平和をより強固なものとするための極秘実験の最中、不運にも命を落とされたのだ!」
レオンハルトは悲しみに満ちた顔を作り、胸に手を当てた。
「カイ教授の死は、帝国にとって計り知れない損失である。……しかし! 市民たちよ、恐れることはない! 彼が遺した平和への意志は、この私、勇者レオンハルトと、聖女セレスティアが固く受け継いだ!」
レオンハルトは腰の聖剣『ルミナス』を一閃させ、刃を天へと突き上げた。
シャキィィィンッ! と神々しい黄金の光芒が空を切り、民衆から「おおおっ!」という感動のどよめきが上がる。
「たとえ防衛結界が失われようとも、この聖剣『ルミナス』がある限り、どのような邪悪も王都の一石すら傷つけることは許さん! 我らの正義は不滅だ! 神の加護は、常に我らと共に――」
レオンハルトが、演説の最高潮であるキメ台詞を叫ぼうとした、まさにその瞬間であった。
――チリ。
王都中央大広場を取り囲む、八本の神聖街灯と、時計塔の四方の柱。
そこに隠されるように打ち込まれていたクラウスの『広域光波投影術式』が、一斉に起動した。
キイィィィィィィン……ッ!
空気中に高周波の不快な魔導励起音が響き渡り、空中の光素子が不自然に歪み始めた。
「……ん? なんだ……?」
レオンハルトが眉をひそめ、空を見上げた。
次の瞬間。
王都中央大広場の上空、高度五十メートルの空白の空間に――巨人の如き巨大さを持つ「赤黒いホログラム映像」が、劇的な鮮明さを持ってパッと投影された。
広場の全方位、数十万人の民衆の誰もが、嫌でも視界に入ってしまう超巨大スクリーン。
そこに映し出されたのは――三年前に起きた、帝国の公式記録では『魔物の大群による悲劇の全滅』と記載されていた、『オルゴート開拓村の惨劇』の真実の映像であった。
映像は、完璧な画質と、臨場感あふれる「音声」と共に再生され始めた。
『助けて……! 助けてくれ勇者様ぁぁぁっ!』
巨大な空間スクリーンの中で、泥と血に塗れた村人たちが、必死に命乞いをして叫んでいる。
周囲には火の手が上がり、肉が焦げる煙が充満していた。
そして……その悲鳴を聞きながら、冷ややかな目で見下ろしているひとりの金髪の男が映し出されていた。
白銀の神聖鎧。金髪。
紛れもない――若き日の勇者レオンハルトの姿であった。
映像の中のレオンハルトは、目の前で幼い子供が魔物に襲われそうになっているのを見ながら、助けようともせず、爪を噛んで自分の計算に没頭していた。
映像の中のレオンハルトの声が、魔導拡張された爆音となって、王都大広場全体に響き渡った。
『チッ……面倒なことになったな。この村の魔物ども、予想以上に数が多いぞ。……おい、クラウス! 防衛刻印の展開はまだか!?』
映像の中で、必死に魔法陣を描いているクラウスの背中が映る。
『レオンハルト! 村人を教会へ避難させてくれ! 俺が刻印で入り口を塞ぐ! 三人なら持ちこたえられる!』
『バカかお前は!?』
映像の中のレオンハルトが、冷酷に吐き捨てた。
『こんな貧乏村の平民どもを助けるために、俺の『ルミナス』の耐久値を削れっていうのか!? これからの遠征で、俺の評価に傷がついたらどうするんだ!』
『な……なにを言ってるんだレオンハルト!? 俺たちは勇者パーティだぞ! 目の前で人が死にそうになっているんだぞ!』
『うるさい! いいかクラウス、よく聞け。……この村の人間は、全員ここで魔物に食われて死んでもらう』
広場の民衆が、息を呑んだ。
あまりにも惨虐で、あまりにも醜悪な言葉。
映像の中のレオンハルトは、自身の完璧な経歴と装備を傷つけないために、避難を叫ぶ村人百五十人が立て籠もる教会の扉を――あろうことか、自身の聖剣『ルミナス』で外側から頑丈に「施錠」し、逃げ場を完全に奪い去ったのだ。
『レオンハルト!? お前、何をやって――』
『黙っていろ! 村が全滅した後に、俺たちが遅れて駆けつけて魔物を全滅させればいいんだ! そうすれば「悲劇の村のために戦った美しき惨劇の英雄」として、王都での俺の評判は爆上がりする! 邪魔をするな不具者が!!』
――ドンッ!
映像の中で、抗議しようとしたクラウスを、レオンハルトが容赦なく蹴り飛ばす光景が映し出された。
そして、教会の中から巻き起こる、村人たちの悲惨極まる生きたまま焼き殺され、喰い散らかされる悲鳴。
レオンハルトは、その悲鳴をBGMにしながら、優雅に自分の爪を整え、薄笑いを浮かべていたのだった。
静寂。
王都中央大広場を包んだのは、死よりも深い静寂であった。
数十万人の民衆が、開いた口が塞がらない様子で、空中の巨大な映像と、バルコニーの上に立つ「英雄レオンハルト」の顔を交互に見つめていた。
民衆の心が、誇りが、信仰が、ガラガラと不気味な音を立てて崩れ去っていく。
「な……なんだ……今の映像は……?」
「勇者様が……避難民の教会の扉を外から鍵をかけて……見殺しにした……!?」
「自分名誉のために……村人を全員……魔物に食べさせた……!?」
ヒソヒソという呟きが、波のように広場全体へ広がっていく。
バルコニーの上に立つレオンハルトの顔から、すべての血の気が引き、土気色へと変わっていた。
「な……ななな……何だこれはぁぁぁぁぁっ!?」
レオンハルトは激昂し、顔を真っ赤にして叫んだ。
「嘘だ! 偽物だ! 捏造だ! こんなものはどこかの不敬分子が作った悪質な幻影魔法だ! 騙されるな民衆ども! 俺は……俺は光の勇者レオンハルトだぞ!!」
レオンハルトは狂ったように叫び、聖剣『ルミナス』を抜いて空中の映像を切り裂こうとした。
しかし、空間に定着された光波刻印は、実体のない光の像だ。剣を振るっても、映像は何のダメージも受けずに再生を続ける。
それどころか――。
クラウスの『等価倍加』の拡張回路が動いた。
映像が、次の「最悪の場面」へと切り替わったのだ。
次に投影されたのは――奈落の最深部『祭壇の間』での、あの裏切りの凄惨な現場であった。
レオンハルトが、無防備なクラウスの右腕を『ルミナス』で冷酷に切断する瞬間。
カイが、倒れ伏すクラウスの両脚を『熱収縮の魔炎』で炭化させ、肉が焦げる音とクラウスの悲絶な悲鳴。
そして何よりも――。
可憐な聖女セレスティアが、可哀想な顔をしながら『超感覚祝福』をかけ、クラウスの激痛を百倍に増幅させて「あははっ! もっと惨めに鳴いてくださいな!」と狂気的に高笑いする、決定的な拷問の瞬間であった。
『神髄のコアを手に入れるための極上の魂の贄……。最初からお前を肥やしとして利用するためにパーティに入れてやったんだよ!』
レオンハルトの醜悪な怒号が、王都中に轟き渡る。
セレスティアがクラウスの顔を踏みつけ、虐待を楽しむサディスティックな歓喜の顔面アップ。
すべてが。
隠してきたすべての狂気と醜悪が、王都の数十万の民衆の目の前で、隠しようのない「真実」として暴露されたのだ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
バルコニーの上で、聖女セレスティアが耳を塞ぎ、髪を振り乱して発狂したような悲鳴を上げた。
「消して! 誰かあれを消しなさい!! 私じゃないわ! 私は慈愛の聖女セレスティアよ! あんな悪魔みたいな顔をするはずがないわぁぁぁっ!」
セレスティアは惨めに床へ崩れ落ち、涙と鼻水で顔をグチャグチャにして叫んだ。
しかし、手遅れだった。
民衆の視線が変わっていた。
先ほどまでの崇拝と感動の瞳は消え去り、そこにあったのは――激しい狂悪と、軽蔑と、怒りの色であった。
「あの女……聖女なんかじゃない……! 本物の悪魔だ……!」
「自分たちのために、仲間を拷問して奈落へ捨てただと!?」
「騙していたのか……! 俺たちを……ずっと騙していたのかぁぁぁっ!」
怒号。
民衆から巻き起こったのは、地鳴りのような憎悪の嵐であった。
広場に集まった数十万人の民衆が、石コロや泥、腐った果物を手にして、バルコニーのレオンハルトとセレスティアに向かって投げつけ始めた。
バラバラバキッ!
「ひいっ!? やめろ! 投げるな無能ども! 俺は英雄だぞ! お前たちを守ってやってきた勇者様だぞ!!」
レオンハルトは迫り来る石の雨を剣で払おうとしたが、その姿はあまりにも惨めであり、かつて彼が築き上げた「完璧な英雄像」は、跡形もなく砕け散っていた。
その地獄絵図を。
時計塔の上から、クラウスはただ冷ややかに見下ろしていた。
彼の感情は、微動だにしない。
怒りも、復讐の達成感すらもない。ただ予定された工程が、計算通りに進行したという「客観的な事実」だけがそこにあった。
「第一段階、完了だ」
クラウスは低く呟いた。
「レオンハルト。お前が何よりも愛した『社会的栄誉』と『民衆からの愛』は、たった今完全に死んだ。……お前はもう、ただの醜い殺人者だ」
隣に立つエレノアが、静かにクラウスの黒銀の右手に自分の手を重ねた。
「マスター……。レオンハルトの心が……激しく崩壊していくのが見えます……」
「ああ。だが、これだけでは終わらせない」
クラウスの胸の『共鳴・等価倍加の刻印』が、黒と金の不吉な光を放つ。
「社会的破滅の次は……肉体の徹底解体だ。……あいつが最も誇る聖剣『ルミナス』の威力を……二倍の絶望にして叩き返してやる」
淡々とした狂気を宿したクラウスの瞳が、狂乱する勇者レオンハルトを捉えていた。
「嘘だ……! 嘘だと言ってくれ、レオンハルト様ぁぁぁっ!」
王都中央大広場を満たすのは、信仰を打ち砕かれた民衆の怒りと絶望の悲鳴であった。
空中に投影された巨大な光波映像は、なおも過去の凄惨な真実を映し出し続けていた。
避難民が立て籠もる教会の扉を外側から施錠し、村人百五十人が魔物に生きたまま喰い散らかされる悲鳴を背に、冷笑を浮かべながら爪を整える勇者レオンハルト。
迷宮の最深部で、命を賭けて仲間を守り抜いた刻印術士クラウスの右腕を躊躇なく切り落とし、両脚を焼き溶かし、激痛を百倍に増幅させて歓喜の高笑いを上げる聖女セレスティア。
帝国が長年にわたって民衆に植え付けてきた「清廉潔白なる光の英雄伝承」は、その映像の一コマ一コマによって、徹底的に泥塗れの虚飾へと変えられていった。
民衆の手から、次々と石コロ、腐った野菜、泥の塊が投げつけられる。
――バキッ! ゴツッ!
「あぐっ!?」
バルコニーの上に立つレオンハルトの白銀の神聖鎧に、投げつけられた腐ったトマトが直撃し、赤黒い汁が胸元の美しく輝く紋章を汚した。
さらには、民衆が投げつけた尖った石片が彼の額を掠め、一筋の朱色の血が、あの神々しかった金髪を濡らして頬を伝い落ちる。
「や、やめろ……! 投げるな無能ども! この汚い手で俺に触るなッ!」
レオンハルトは顔を血と泥で濡らし、狂ったように金管の声を張り上げた。
彼の周囲を固めていたはずの『聖導近衛騎士団』の兵士たちすらも、顔を見合わせ、ガタガタと震えながらレオンハルトからじりじりと距離を取り始めていた。
「き、騎士団長……! あの映像は……本当なのですか!?」
「我々は……市民を守るために剣を捧げたはずだ! なのに……勇者様が避難民を見殺しにし、仲間の命を肥やしにしていたなど……!」
「黙れ黙れ黙れぇぇぇっ!」
レオンハルトは振り向き、味方であるはずの近衛兵の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らした。
「兵士の分際で俺に意見する気か!? 俺は英雄だぞ! 教皇庁から『神の愛し子』と認められた絶対の存在なんだ! お前たち雑魚どもがどれだけ死のうが、俺の栄光のための犠牲になれたことを光栄に思えぇッ!」
その一言が、決定打となった。
近衛兵たちは失望と嫌悪に満ちた目でレオンハルトを見つめると、静かに剣を鞘へと収め、彼から背を向けた。
英雄を守るべき盾すらも、彼を見捨てたのだ。
「ひ……ひぃぃぃぃっ! レオンハルト様! どうにかしてくださいませ!」
その足元で、ドレスを泥と涙でドロドロにした聖女セレスティアが、レオンハルトの脚にしがみついて狂乱していた。
かつて「美しき聖母」と称えられた彼女の顔からは化粧が崩れ落ち、恐怖で鼻水を垂らし、過呼吸で「ヒュー、ヒュー」と無惨な呼吸を繰り返している。
「あの映像を消してください! 民衆を殺してください! 私の……私の『清純な聖女』としての名誉が……王都での私の地位が、すべて台無しになってしまいますわぁぁぁっ!」
「鬱陶しいんだよ、この悪名塗れの女がぁッ!」
――ドガッ!
レオンハルトは、脚にしがみつくセレスティアの腹を、容赦なく甲冑の靴で蹴り飛ばした。
「きゃあぁぁぁっ!?」
セレスティアは惨めな悲鳴を上げてバルコニーの床を転がり、腹を押さえて血反吐を吐き出した。
「お前が……お前がノコノコとクラウスの通信なんぞを受け取るからだ! お前の間抜けな人体実験の手記を奪われたせいで、こんな大惨事になったんだろうが! 全部お前の責任だ! この役立たずのサディスト女が!!」
「な……なんですって……!?」
セレスティアは血に塗れた顔を上げ、嫉妬と憎悪に満ちた目でレオンハルトを睨み返した。
「よくも……よくも私を蹴りましたわねレオンハルト! 忘れたとは言わせませんわよ! 開拓村の民を見殺しにしようと言い出したのはあなたです! クラウスを祭壇に捧げて『極上の魂』にしようと提案したのも、あなたの強欲さゆえでしょうに! すべての主犯はあなたですわぁぁっ!」
「黙れぇぇぇっ! この豚女がぁッ!」
バルコニーの上で繰り広げられる、英雄と聖女の泥沼の罪のなすりつけ合い。
民衆の前で露わになったのは、神聖な光の指導者たちの、醜悪極まりない本性の全貌であった。
広場を埋め尽くす民衆からの石の雨は、さらに激しさを増していった。
「降りてこい悪魔ども!」
「偽りの勇者を吊るせ!」
「嘘つきの聖女を地獄へ叩き落とせーッ!」
かつて彼らに向けられていた狂信的な歓声は、今や一刻も早く彼らを八裂きにせんとする、殺意の暴風へと完全に反転していた。
その大混乱と暴動の真ん中に。
キーーーン……ッ、と。
再び、王都全域の空間を震わせる、重厚な魔導拡声の振動音が響き渡った。
民衆の怒号が、一瞬にしてピタリと収まる。
空中に投影されていた映像が静かに消失し、代わりに、王都中央大広場の真上に聳え立つ『時計塔』の頂上から、ひとりの男の声が降ってきた。
「……見苦しいな、レオンハルト。セレスティア」
その声は、どこまでも平坦で、どこまでも冷たい、氷の刃のような声であった。
感情の欠片すらない。怒りも、憎しみすらも削ぎ落とされた、ただ「作業」をこなす解体業者のような、死神のトーン。
バルコニーの上で血を吐いていたセレスティアと、剣を振り回していたレオンハルトが、弾かれたように頭上の時計塔を見上げた。
民衆の数十万の視線もまた、一斉に天空へと向けられる。
時計塔の針の先。
朝焼けの赤い光を背に受け、黒い防寒コートを羽織った男が、静かに欄干の上に立ち上がっていた。
彼の右腕は、漆黒の光沢を放つ魔導義手。
両脚もまた、金属骨格と無数の刻印回路がむき出しになった、異形の義足。
そしてその傍らには、銀髪を夜風になびかせ、背中から四本の白銀の魔導アームを静かに揺らす、異形の少女エレノアが控えていた。
「ク……クラウス……ッ!!」
レオンハルトが、血走った目で叫んだ。
その声には、狂気と、激痛と、信じたくない現実への拒絶が混ざり合っていた。
「生き……生きてやがったのか……! あの奈落の底から……四肢を潰されたお前が……どうやって生き延びたぁぁぁっ!?」
クラウスは、レオンハルトの狂乱を前にしても、眉一つ動かさなかった。
彼はゆっくりと、黒銀の右義手をポケットから引き抜いた。義手の表面に刻まれた『共鳴・等価倍加の刻印』が、黒と金の二色で、静かに脈動を始める。
「言ったはずだぞ、レオンハルト」
クラウスの声が、広場全体に、そして王都全域の魔導スピーカーを通じて響き渡る。
「お前たちが俺に与えた『過酷な激痛』と『絶対の絶望』……そのすべては、この刻印に完璧なエネルギーとして保存されている。……俺はただ、お前たちが俺から奪った負債を、規則通りに取り立てに来ただけだ」
「ふ……ふざけるな! ふざけるな不具者がぁっ!」
レオンハルトは聖剣『ルミナス』を叩きつけるように振り回した。
「お前のような裏方の雑魚が……俺の……俺の完璧な『英雄としての人生』を壊していいはずがないんだ! 俺は神に選ばれた男だ! 民衆に愛され、歴史に名を残す『光の勇者』なんだよぉぉぉっ!」
「お前の『英雄像』など、最初から存在していない」
クラウスの言葉は、容赦なくレオンハルトの自尊心を砕き割っていった。
「お前が愛したのは民衆でも、正義でもない。……『英雄として崇められている自分自身の虚栄心』だけだ。……お前が積み上げてきた栄光は、他人の血と嘘で塗り固められた張り子の虎に過ぎない」
クラウスは黒銀の義足を一歩前へ踏み出し、時計塔の端へと立った。
「今、この瞬間にお前の『社会的価値』は完全に死亡した。……お前はもう、民衆から愛される勇者ではない。ただの醜い殺人鬼であり、保身のために仲間を売った詐欺師だ」
「黙れぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
レオンハルトの口から、血管が切れんばかりの絶叫が上がった。
己の人生の全否定。
彼が全存在を賭けて守ってきた「社会的プライド」が、このクラウスの言葉によって、王都の数十万の民衆の前で完全に、二度と修復不可能なレベルで打ち砕かれたのだ。
レオンハルトの瞳から、人間としての理性が完全に吹き飛んだ。
残されたのは、プライドを傷つけられた猛獣の如き、凶暴で惨めな殺意だけであった。
「殺してやる……! 殺してやるぞクラウスぅぅぅっ! お前を……お前のその生意気な面を、今度こそ二度と肉片すら残らんように細切れにしてやるぇぇぇっ!」
レオンハルトの全身から、爆発的な聖導魔力が噴き出した。
狂乱した彼の魔力が、腰の聖剣『ルミナス』へと流れ込み、純白だった刃が、ドス黒い黄金色の殺戮の光へと変貌していく。
一撃で城門をも打ち砕く、勇者としての全開の攻撃魔力。
レオンハルトは周囲の制止も聞かず、バルコニーの欄干を蹴って、空へと飛び跳ねた。
爆風がバルコニーを吹き飛ばし、彼は聖剣『ルミナス』を上段に構え、時計塔の上のクラウス目がけて、突進を開始したのだ。
「死ねぇぇぇぇぇッ! 『聖剣・絶対神威斬』ぁぁぁぁっ!!」
天空を裂く黄金の斬撃。
それは、レオンハルトが持つ最大の物理破壊力と、聖導魔術の融合攻撃であった。
しかし――。
迫り来るその神速の斬撃を前にしても、クラウスの表情には、何の動揺も生じなかった。
彼の黒い瞳の中で、レオンハルトの動き、剣の起動速度、魔力放出量、そして『ルミナス』の構造パラメータが、超高速の計算式となって処理されていく。
(レオンハルトの突進速度――秒速三十二メートル)
(『ルミナス』から放出される聖導魔力量――二万四千ユニット)
(対価設定――三年前に迷宮最深部で、俺の右腕を切断した際の物理質量および切断エネルギー)
クラウスの頭脳は、完璧な冷徹さで、次なる自滅の仕掛け(アルゴリズム)を完成させていた。
怒りではない。試行錯誤でもない。
あの日、右腕を切断された時から彼の中で計算され続けてきた「二倍の返却」という回答。
「エレノア」
クラウスが呟く。
「はい、マスター」
エレノアの背中から伸ばされた四本の魔導アームが、クラウスの身体をそっと抱え上げた。
ふたりは、迫り来るレオンハルトの斬撃を直接受け止めるのではなく――広場の中央、壊れた噴水広場の大地へと向かって、吸い込まれるように跳躍・降下した。
――ズドンッ!!
黒銀の義足と、エレノアの魔導アームが、王都中央大広場の石畳を豪快に踏み砕いて着地する。
煙幕が立ち込める中、遅れて空から追撃してきたレオンハルトが、大地を抉りながら大広場の真ん中へと着地した。
ドガァァァンッ!
石畳が四散し、王都の広場の中心に、巨大なクレーターが穿たれる。
民衆たちが悲鳴を上げて散り散りに逃げ惑う中、煙の中から、聖剣『ルミナス』をギラつかせたレオンハルトが姿を現した。
彼の顔は血と泥で塗れ、金髪は振り乱され、かつての神々しい勇者の面影はどこにもなかった。そこにいるのは、プライドを破滅させられた、ただの発狂した殺人鬼であった。
「逃がさんぞ……! 逃がさんぞクラウスぅぅぅっ! ここで……この大広場で、お前を刻んでやる!」
レオンハルトは両手で『ルミナス』を構え直し、クラウスとの距離を十メートルに詰めた。
その周囲を、無数の民衆が遠巻きに取り囲み、恐怖と憎悪の視線で見つめている。
おあつらえ向きの、舞台であった。
かつてレオンハルトが「英雄」として称賛を受け続けてきたこの中央広場こそが、彼自身の物理的破滅を迎える『決闘場』となったのだ。
煙の向こうから、クラウスが静かに歩み出てきた。
彼の黒銀の右義手は、胸の『共鳴・等価倍加の刻印』と直結され、黒と金の不吉な稲妻をバチバチと放っていた。
隣に立つエレノアの背中の魔導アームもまた、青白い魔力光を溜め込み、レオンハルトの全方位の逃げ道を完全に塞いでいる。
「逃げはしないぞ、レオンハルト」
クラウスの冷ややかな声が、広場に響く。
「社会的名誉の死の次は……お前が誇るその肉体と、その聖剣『ルミナス』の解体だ」
クラウスは黒銀の右手を開き、レオンハルトに向かって構えた。
「お前が俺に与えた『右腕切断の激痛』と『裏切りの絶望』……。すべてを『二倍の威力』にして、その手足と魂へ叩き返してやる」
「黙れぇぇぇッ! 俺が……俺こそが絶対の正義だぁぁぁっ!」
レオンハルトが咆哮し、聖剣『ルミナス』を掲げて死の突撃を開始した。
第一の裏切り者・カイの自滅に続く、第二の標的――勇者レオンハルトとの、最終決戦の火蓋が切って落とされた。
クラウスの計算は、すでに『解』へと到達していた。
ご都合主義の無双などではない。相手の攻撃力そのものを二倍にして相手の肉体へ送還する、緻密で過酷な『等価倍加』の惨劇が、今まさに始まろうとしていた。




