第3話:『死の計算尺』
神聖帝国アスタルゴの首都、王都アスタロト。
その華やかな白亜の街並みの真下に広がるのは、日の光を知らぬ巨大な地下スラム――『煤の街』であった。上層の貴族街や聖導院から流れてくる生活排水と、魔導工房から吐き出される重金属混じりの廃煙が立ち込め、貧民と犯罪者が泥に塗れて蠢いている。
その暗がりを、二つの黒い影が静かに歩いていた。
黒い防寒コートのフードを深く被った男、クラウス。その隣には、大きめの黒ローブで全身を包み込んだ少女、エレノア。
二人の足音は対照的だった。エレノアの歩みが猫のように無音であるのに対し、クラウスの歩調には、重厚な金属音が伴っていた。黒銀の魔導義手と義足。皮肉にも、教皇庁処分部隊から奪い取った昇降機と、エレノアの莫大な魔力循環によって、クラウスの義体は肉体以上の精密さと質量を手に入れていた。
「マスター……。ここが、地上の『下』ですか」
ローブの隙間から銀色の瞳を覗かせ、エレノアが小さく呟いた。彼女の背中に格納された四本の魔導アームは、ローブの下で静かに息を潜めている。
「そうだ。上が『光の国』で、ここがそのゴミ捨て場だ」
クラウスは冷たく吐き捨てた。
義手の指先をかすかに動かす。皮膚と金属の接合部に、時折ピリリとした不快な痛みが走るが、胸の『共鳴・等価倍加の刻印』を通じて、その痛みの半分はエレノアへと流れていた。
エレノアは痛みが伝わるたび、密かに息を呑み、どこか心地よさそうな表情を浮かべる。二人の共鳴回路は完全に安定しており、魔力の循環効率は以前の数倍に跳ね上がっていた。
「見上げてみろ、エレノア。あの天井の向こうに、俺たちを奈落へ捨てた者たちが暮らす世界がある」
クラウスの視線の先――『煤の街』の頭上を覆う巨大な石造りの基盤構造のさらに上には、王都の象徴たる『大聖堂』と、帝国内で最高の威容を誇る魔導研究塔『蒼穹の理』が聳え立っていた。
その最上階の窓から漏れる青白い光。
そここそが、勇者パーティの第一の標的――天才魔導師カイ・フォン・ローゼンバーグの執務室であった。
カイ・フォン・ローゼンバーグ。
弱冠二十三歳にして、帝国魔導院の最若手教授に昇進し、現在は王都防衛結界の構築・維持を任される『大魔導師』の称号を得た男。
彼は自他ともに認める「論理と効率の信奉者」であった。彼の展開する魔術は、一ミリの無駄もなく計算され尽くした美しい理論構造を持ち、その破壊力と精密さは帝国内でも群を抜いていた。
しかし、その実態は恐ろしいまでに傲慢な自我の塊であった。
彼にとって、自分以外の人間はすべて「無知で愚かな計算資源」に過ぎない。とりわけ、才能を持たない補助職や支援術士を激しく見下していた。
かつてパーティを組んでいたクラウスに対しても、カイは陰で「ただの歩く電卓」「計算しか能のない雑用係」と嘲笑し続けていたのだ。クラウスが命を削って味方の魔力消費を抑え、戦闘の構築を行っていた事実すら、カイにとっては「天才である私の足を引っ張らないための最低限の義務」としか認識していなかった。
迷宮の最深部でクラウスの両脚を熱収縮の魔炎で焼き溶かした時も、カイの顔には一切の悪びれる色はなかった。むしろ、「不必要な変数を排除した」と言わんばかりの、冷酷な満足感すら漂わせていたのだ。
「……カイ。お前は自分の頭脳と、自分の構築した魔法理論を、何よりも誇りに思っているな」
暗闇の中で、クラウスの口元が惨惨しく歪んだ。
「お前を殺すのは簡単だ。夜陰に紛れ、背後から首を跳ねれば済む。……だが、そんな死に方でお前が『絶望』を味わうと思うか? ……絶対に思わない。お前は自分が死ぬ瞬間まで『不運な事故だ』『他人の無能のせいだ』と自分を正当化して死んでいくだろう」
クラウスは黒銀の右手で、己の胸を強く叩いた。
「だからこそ……お前が心から信奉しているその『完璧な魔法理論』そのものを手仕込みで破壊する。お前が愛する計算式が、お前自身の誇りと精神を二倍の威力で解体していく恐怖を……じっくりと味わわせてやる」
その夜。『蒼穹の理』の塔の周囲には、カイが手掛けた誇り高き「絶対不可侵結界」が張られていた。
それは、五層に重なる立体的な魔力干渉膜であり、外部からの物理攻撃、魔術攻撃、さらには毒ガスや不可視の精霊侵入すらも一〇〇パーセント遮断する、帝国屈指の防壁であった。結界の核心部には、カイ自らが設計した『自動調律の計算結界式』が組み込まれており、外部から干渉を受けたと同時に、その干渉エネルギーを解析・相殺するシステムが動いている。
「完璧だ……。実に美しい構造だ」
結界の外縁、暗い路地裏の影から、クラウスは『解析の刻印』を目に宿して結界を観察していた。
クラウスの視界の中では、結界を構成する数十万の魔術数式が、青い光の幾何学模様となって空間を覆い尽くしているのが見えていた。普通の人間に見えばただの光の壁だが、卓越した刻印術士であるクラウスにとっては、そこにあるのは「文章」であり「計算式」だった。
「カイの性格がよく出ている。すべての数式が極限まで効率化され、余白が一切削られている。……遊びがないんだ。自分の計算が完璧だと過信しているからこそ、想定外の入力に対する安全装置が欠落している」
「マスター……。どうやって突破しますか?」
エレノアが低く訊ねた。背中の魔導アームが、結界を力任せに打ち破ろうかと微かに動く。
「壊さない」
クラウスはエレノアの手をそっと制した。
「壊せば警戒される。……俺たちがするのは『寄生』だ」
クラウスはポケットから、奈落の実験棟で手に入れた高純度の魔導金属片と、自らの血を取り出した。
血を金属片になすりつけ、黒銀の義手の指先で、超精密な刻印を彫り込んでいく。
彫り込んだのは――『等価倍加の不具合刻印』。
これは、結界そのものを破壊する術式ではない。結界が「外部からの魔力変化を相殺しようと計算するプロセス」に対して、ほんの微小な『数値のズレ』を注入するプログラムであった。
具体的には、結界がエネルギーを相殺・消費する際、本来なら「1の入力に対して1の相殺」を行うところを、この刻印が干渉することで「1の入力に対して2の過剰相殺」を行わせる。
一見すると、防御力が二倍になったように見える。
しかし、理屈のわかる人間ならば、それがどれほど恐ろしい惨劇を生むかが理解できるはずだ。
防御力が二倍になるということは、結界が消費する内部魔力も『二倍』になるということだ。そして、余剰となったエネルギーは逃げ場を失い、結界の維持者――すなわちカイ自身の脳と魔力回路へと直接「跳ね返る(フィードバックする)」。
「カイの誇る完璧な計算式に、二倍の過剰負荷を与える毒を流し込む。……奴が結界を強力に保とうとすればするほど、奴自身の魔力回路が内側から自滅していく仕組みだ」
クラウスは完成した刻印金属片を、結界の基盤が地上に接している隠されたノード(結節点)へとそっと押し当てた。
チリ……ッ。
かすかな火花が散り、金属片が結界の幾何学模様の中へと溶け込んでいく。
結界の青い光が一瞬だけ、どす黒い赤に明滅し――すぐに元の美しい青色へと戻った。
カイが誇る自動監視システムは、この微小な変化を「ノイズ」として処理し、検知することすらできなかった。完璧を自負するシステムほど、最初から組み込まれたロジックの裏をかかれると脆弱なのだ。
「仕込みは終わった」
クラウスは冷たく笑った。
「さあ……第一幕の始まりだ」
翌朝。『蒼穹の理』の最上階、豪華な調度品で飾られた執務室。
朝の光が差し込む大きな窓際で、大魔導師カイ・フォン・ローゼンバーグは、優雅に最高級の紅茶を口に含んでいた。
銀色の髪を綺麗に整え、完璧にアイロンが掛けられた魔術師用の礼服を纏うカイ。その顔には、若くして権力を手に入れた者特有の、隠しきれない優越感が満ちていた。
彼の右手には、彼の代名詞でもある最高級の魔導杖『プロメテウスの骨』が握られていた。
白銀の金属と、伝説の古代竜の骨を削り出して作られたその杖は、莫大な魔力を一瞬で増幅・収縮させることができる、国宝級の魔導具であった。
「……ふむ。今日の王都の魔力波動も、極めて安定しているな」
カイは卓上に浮かぶホログラムの魔力グラフを眺めながら、満足げに頷いた。
「やはり、あの無能なクラウスを排除して正解だった。奴がパーティにいた頃は、無駄な安全策ばかり提案して私の計算の美しさを損なっていたからな。……英雄レオンハルト様と聖女セレスティア様、そしてこの私。才能ある完璧な人間だけが揃ってこそ、真の威術が完成するのだ」
カイは昨夜の出来事――聖女セレスティアから緊急で入った「クラウスが生きて奈落から戻ってきたかもしれない」という通信のことを思い出していた。
セレスティアは酷く狼狽していたが、カイはまったく鼻で笑っていたのだ。
(愚かなセレスティア様だ。いくら何でも、あの奈落から手足を失った無能が生きて生還するなど、物理的・魔法学的に絶対にあり得ない。仮に生きていたとしても、虫ケラが一匹這い上がってきたところで、私の計算し尽くされた魔術の前には瞬殺されるだけだというのに)
カイは冷笑し、手元の『プロメテウスの骨』を軽く一振りした。
日常の点検として、王都防衛結界の動作確認を行うためである。
「『結界同期・感度上昇』」
カイが杖を通じて、微量の魔力を結界の基盤へと流し込んだ。
本来ならば、この程度の魔力入力であれば、結界は「異常なし」の信号を返し、カイの脳には心地よい魔力の同調感が戻ってくるはずであった。
――しかし。
ズキンッ……!
「……ッ!?」
カイは突如、こめかみを極太の針で刺されたような、鋭い痛みに襲われた。
手に持っていた紅茶のカップがカタカタと揺れ、茶葉が白い絨毯へ数滴こぼれ落ちる。
「な……んだ……今のは……?」
カイは眉をひそめ、己の手元を見た。
脳の奥底で、キーンという不快な高周波の耳鳴りが響いている。
まるで……自分が放出した魔力が、意図した数値の「二倍」の重さになって、自分自身の脳神経へと跳ね返ってきたかのような、異様な抵抗感。
「バカな……。私の魔力計算に誤差があるはずがない」
カイはすぐに不快感を振り払い、眼鏡の位置を直した。
「疲れか……? いや、最近の連続実験で少し神経が過敏になっているだけだ。私の構築した数式に狂いなど存在するはずがない」
カイは自らの傲慢さゆえに、この最初の異変を「己の体調不良」として片付けてしまった。
彼にとって、自分の手掛けた理論に欠陥が存在するという可能性は、思考の選択肢から完全に除外されていたのだ。
しかし――違和感は、それだけでは終わらなかった。
数時間後。昼下がりの魔導院・大講義堂。
カイは数百人の若き魔導士候補生や研究者たちを前に、講義を行っていた。
「諸君。魔術とは感情で使うものではない。純粋なる『数学』であり『論理』だ」
カイは壇上で滔々と語り、手にした『プロメテウスの骨』を優雅に掲げた。
「例えば、この圧縮火炎魔術『熱収縮の魔炎』。愚者は威力を出そうとして魔力量を増やそうとするが、それは無能の極みだ。正解は、魔力の分子密度を極限まで『収縮』させ、熱エネルギーの逃げ場を無くすことにある」
カイはドヤ顔で、受講生たちの前で実演してみせることにした。
かつて、迷宮最深部でクラウスの両脚を焼失させた、あの冷酷で残忍な拷問魔術である。
「見よ。これが完璧な収縮理論だ――『熱収縮の魔炎』」
カイが杖の先端に、ほんのわずかな魔力を込め、小さな炎の球体を空中に出現させようとした。
予定では、指先ほどの大きさの超高熱の赤い炎が、静かに浮かび上がるはずだった。
――しかし。
シュゥゥゥ……ボォオッ!!
杖の先端で発生したのは、予定の「二倍」の密度にまで異常圧縮された、不気味な黒紫色の炎であった。
そして、その炎が発生した瞬間。
ドサッ! という鈍い衝撃が、カイ自身の右腕と脳髄を直撃した。
「ぐっ……あ……っ!?」
カイは壇上で大きく体勢を崩し、教卓に激しく手をついた。
顔面から、大量の冷や汗が噴き出す。
(何だ……!? なぜ魔力がここまで過剰に圧縮される!? それどころか……反動の熱量と物理衝撃が、私の手首を通じて脳へ跳ね返ってきている……!?)
講義堂がざわめいた。
「か、カイ教授……? お怪我ですか……?」
「あの炎……いつもの教授の魔術と、何か雰囲気が違いますが……」
受講生たちの不審そうな視線が、カイに集まる。
プライドを極限まで肥大化させたカイにとって、大勢の生徒の前で無様を晒すことは、死に等しい屈辱であった。
「だ……黙れ! 静かにしろ!」
カイは必死で青ざめた顔を隠し、声を荒らげた。
「今のは……あえて過剰圧縮の危険性を示すための『わざと』の失敗例だ! 無能どもが! 私の深い意図も理解できないのか!」
カイは吐き捨てるように言い放つと、実演を途中で切り上げ、逃げるように講義堂を後にした。
廊下を歩くカイの足取りは、わずかに乱れていた。
右手がガタガタと震えている。
『プロメテウスの骨』を握る掌が、内側から焼け焦げるような、謎の熱感に包まれていた。
(おかしい……。絶対におかしい……! 私の計算式は完璧だ! 魔力回路の伝達効率も、術式の展開速度も、すべて過去のデータ通りだ! なのに……なぜだ!? なぜ魔術を行使するたびに、予期せぬ『二倍の過剰負荷』が私自身に跳ね返ってくるんだ……!?)
カイの頭の中で、完璧であったはずの理論の城が、不気味な音を立ててきしみ始めていた。
彼が気付いていない伏線――彼が愛用する最高の魔導杖『プロメテウスの骨』の「真の構造」と、クラウスが結界に仕込んだ「倍加の不具合」が、最悪の形で噛み合い始めていたのだ。
『プロメテウスの骨』は、魔力を超高効率で伝達・増幅する素晴らしい杖である。しかし、その内部構造は「一方向への伝達」に特化しており、外部や術式からの「逆流」に対する耐性が、常人の使う粗悪な杖よりも遥かに低かったのだ。
効率を追求しすぎるあまり、遊びを排除した完璧な杖。
それが、クラウスの仕掛けた「二倍の過剰反動」を受け止めるたび、カイ自身の魔力回路へダイレクトに毒を流し込む「自家中毒の増幅器」と化していた。
「くそっ……くそっ……! 何が起きている……!?」
自室へと駆け戻り、カイは幾何学の計算用紙を何枚も机に広げ、狂ったようにペンを走らせ始めた。
数式の検証。魔力回路の再計算。
だが、いくら計算しても、彼の理論の上に「エラー」は見つからない。
なぜなら、エラーは彼の計算式の中ではなく、彼が絶対の安全地帯と信じ込んでいる「王都防衛結界」と「愛用の杖」の接続部分に、すでに侵入していたからだ。
自分の正しさを証明しようと計算を重ねれば重ねるほど、カイは自ら構築した論理の迷宮へと深くハマり込んでいく。
その様子を――。
研究塔の向かいにある暗いビル影から、クラウスとエレノアが冷ややかに見下ろしていた。
クラウスの『解析の刻印』には、カイの研究室の中で乱れ狂う魔力の不協和音が、はっきりと見えていた。
「くく……。はじまったぞ、エレノア」
クラウスは暗闇の中で、黒銀の義手を愛おしそうに撫でた。
「カイのプライドが、奴自身の首を絞めている。……己の計算が間違っていると認められない天才ほど、扱いやすい壊れ物はない」
「マスター……。次の仕掛けは?」
エレノアが静かに訊ねる。
「今夜だ」
クラウスは空を見上げた。
「今夜、王都の結界に『最大の負荷』が掛かるイベントがある。……カイが誇る防衛結界を、奴自身の過剰な魔力で、内側から完璧に破裂させてやる」
狂気のカウントダウンが、静かに進んでいた。
夜の帳が落ち、王都アスタロトの白亜の街並みは、静寂と冷気に包まれていた。
しかし、その上空に広がる透明なドーム状の防壁――王都防衛結界だけは、幾重もの光の帯となって怪しく脈動していた。
今夜は、年に一度行われる『神聖防壁定期一斉点検』の夜であった。
この儀式では、結界の基盤に王都全域から高純度の魔力を一気に注ぎ込み、全層の出力を最大まで引き上げることで、あらゆる外敵や不調和を完全に弾き返す強固さを実証する。
市民たちにとっては「聖なる光のショー」であり、教皇庁と英雄たちにとっては帝国の威信を示す絶好の喧伝の場であった。
そして――この大事業を取り仕切る総責任者こそが、大魔導師カイ・フォン・ローゼンバーグであった。
『蒼穹の理』の最上階、全方位を見渡せる『結界制御の間』。
室内の中心には、直径五メートルに及ぶ巨大な水晶状の魔術触媒『アニマ・レンズ』が置かれ、その周囲を数百の制御ルーンが環をなして高速回転していた。
カイは、白銀の礼服に身を包み、右手に国宝級の魔導杖『プロメテウスの骨』を握りしめていた。
昼間の不気味な体調不良と、講義堂での「不調」は、彼の中に深い苛立ちと恐怖の影を落としていた。だからこそ、カイは今夜の一斉点検で、己の構築した結界が完璧であることを証明しなければならなかったのだ。
「フ……フフ。何を怯えていたのだ、私は」
カイは鏡に映る自分の顔を見つめ、不敵な笑みを浮かべようと努めた。
右手の手首には、湿布のように冷やした魔導布が巻かれている。昼間の『熱収縮の魔炎』の逆流によって傷んだ神経が、今も尚、微かな針で刺されるような疼きを主張していた。
「昼間の現象は、単なる魔力の局所的対流による偶発的なノイズに過ぎない。この『アニマ・レンズ』と私の『プロメテウスの骨』が直接同期すれば、あらゆるノイズなど一瞬で相殺・消滅する。私のアナリシスに隙などあるはずがないのだ」
カイは胸を張り、周囲に控える数十人の弟子や補助魔導士たちを見回した。
「諸君、これより『王都防衛結界・最大出力点検』を開始する! 私の指示通りに術式を起動しろ! 一ミリの計算誤差も許さんぞ!」
「はい、カイ教授!」
弟子たちが一斉に制御盤につき、魔力注入の操作を開始した。
ゴオオオオオオオオッ……!
巨大な水晶『アニマ・レンズ』が青白い光を増し、王都全体を覆う結界のラインが、夜空に眩いばかりの幾何学模様となって浮かび上がっていく。
カイは高揚感に満たされ、右手の『プロメテウスの骨』を高く掲げた。
「見よ! これが私、カイ・フォン・ローゼンバーグが組み上げた、神をも凌駕する絶対の論理だ!」
その頃。
『蒼穹の理』の塔から数百メートル離れた、薄暗い時計塔の屋根の上。
冷たい夜風が吹き抜ける中で、ふたつの黒い影が静かに佇んでいた。
黒銀の義手を防寒コートのポケットに突っ込み、眼下に広がる光の網目を見下ろすクラウス。その隣で、黒ローブの裾をなびかせ、銀髪を揺らすエレノア。
クラウスの『解析の刻印』を宿した黒い瞳には、結界の内部を駆け巡る莫大なエネルギーの奔流が、色鮮やかな「数値と構造式」として映し出されていた。
「始まったな……。カイの自尊心を満たすための、無意味な誇示が」
「マスター……。結界の魔力密度が……通常の三百パーセントまで上昇しています」
エレノアが静かな声で告げる。彼女の背中に隠された四本の魔導アームが、空気中の過剰な魔力振動を感知して、敏感に反応していた。
「ああ。カイの癖だ。奴はいつも、安全基準の限界ギリギリまで出力を引き上げて『自分の計算の精緻さ』を誇りたがる。……遊びを持たせない、余裕のない愚者の極みだ」
クラウスは、昨夜自らが結界の基盤ノードに仕込んだ『等価倍加の不具合刻印』の反応を指先で探った。
刻印は、結界の増大するエネルギーを吸い上げ、静かに、しかし確実に芽を伸ばしていた。
「エレノア。カイが持っているあの杖……『プロメテウスの骨』の真の構造を教えてやろう」
「あの杖の……構造ですか?」
「そうだ。あの杖は、古代竜の『単方向魔導神経』をそのまま加工して作られている。つまり、持ち手から先端への魔力伝達効率は一〇〇パーセント近くに達するが……逆に『先端から持ち手への逆流』に対する防御回路が、構造上完全に欠落しているんだ」
クラウスは冷酷に解説を続けた。
「効率だけを極限まで追求した結果、反動の逃げ場を排除してしまった『欠陥品』。それが奴の自慢の国宝だ。……カイは知らんのだろうな。自分が握り締めている最高峰の武具が、自分自身の脳髄を破壊するための『完璧な導火線』になっていることに」
「……マスターの仕掛けたバグが……あの杖を通じて、彼の身体へ逆流するのですね」
「そうだ。結界が威力を増せば増すほど、バグは『二倍の相殺負荷』を弾き出す。そして、その逃げ場を失った過剰負荷は、世界で最も伝達効率のいい『プロメテウスの骨』を通って……カイの神経回路へとダイレクトに流れ込む」
クラウスの口元に、悪魔のような薄笑いが浮かんだ。
「カイが自分の理論を信じれば信じるほど、杖を強く握り締めれば締め付けるほど……奴の脳と肉体は、二倍の自家中毒で完膚なきまでに自滅していく」
『結界制御の間』。
結界の出力は、目標値である二四〇パーセントに達しようとしていた。
中央の『アニマ・レンズ』は、太陽のような眩い光を放ち、室内は昼間のような明るさに包まれている。
「素晴らしい……! 完璧だ! 私の計算通り、結界の位相偏差はゼロ! 完璧な収束だ!」
カイは歓喜の声を上げ、手に持った『プロメテウスの骨』にさらに魔力を込め、最終段階である「二五〇パーセント最大負荷固定」のコマンドを打ち込もうとした。
――その、瞬間であった。
チリ……ッ。
『アニマ・レンズ』の表面に、目に見えないほど極小の、黒い幾何学模様が一瞬だけ明滅した。
クラウスの仕掛けた『等価倍加の不具合』が、結界の過剰なエネルギーと共鳴し、本格的に牙を剥いたのだ。
結界の自動制御システムが、突如として誤作動を起こした。
『警告――外部からの微小干渉を検知。自動相殺シークエンスを開始』
システムは、内部の過剰魔力を「外部からの攻撃ノイズ」と誤認識し、それを打ち消すために相殺魔力を生成し始めた。
本来ならば、1のノイズに対して1の相殺魔力を出せばいい。
だが、クラウスのバグは、その出力を「2の過剰相殺」へと強制書き換えした。
『相殺出力――二百パーセント(二倍)に固定』
――ドクンッ!!
部屋全体を、重低音の衝撃波が駆け抜けた。
「な……んだ!? 何が起きた!?」
弟子たちが悲鳴を上げた。制御盤のメーターが一瞬で限界値を突破し、バチバチと激しい青い火花が部屋中に散り始める。
「落ち着け! うろたえるな無能ども!」
カイは叫んだ。だが、彼の顔からは急速に血の気が引いていた。
卓上のホログラムグラフが、見たこともない異常な「二重螺旋状の過剰フィードバック」を描いて暴走し始めていたからだ。
(な……なぜだ!? 相殺プログラムが……通常の二倍の出力で暴走している!? 出力が落ちるどころか、二倍の速度でエネルギーが跳ね上がっているだと!?)
「い、カイ教授! 結界の内部圧力が二倍に急上昇しています! このままでは基盤回路が焼き切れます! 一度、緊急停止を――」
「バカ者!!」
カイは叫び、弟子を突っぱねた。
「ここで緊急停止などしてみろ! 王都全域に私の失態が晒されるのだぞ!? 私が……この大魔導師カイ・フォン・ローゼンバーグが、計算ミスなど犯すはずがない! 制御のブレなど、私が直接魔力を叩き込んで強制的に押さえ込んでやる!!」
プライド。
彼を支配する巨大なプライドが、撤退という唯一の正解を拒絶させた。
カイは両手で『プロメテウスの骨』を強く握り締め、己の全魔力を込めて、暴走する結界を力任せに押さえつけようと術式を介入させた。
これこそが、クラウスの描いた「最悪の自滅ロジック」の罠であった。
伝達効率一〇〇パーセントを誇る『プロメテウスの骨』。
カイが莫大な魔力を流し込んだ瞬間、結界側で二倍に膨れ上がった「過剰相殺の反動エネルギー」が、逃げ場を求めて、引き寄せられるように『プロメテウスの骨』の中へと一気に逆流してきたのだ。
逆流を防ぐ安全装置は、その杖には存在しない。
――ズガァァァァァァンッ!!!!
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!????」
カイの口から、人間とは思えぬ凄惨な悲鳴が上がった。
目、鼻、口、耳――彼の顔面のあらゆる器官から、血が勢いよく吹き出した。
二倍に膨れ上がった過剰反動の魔力が、『プロメテウスの骨』を通じて、カイの右腕の神経回路へとダイレクトに流れ込んだのだ。
パキバキバキバキッ! という不気味な音が、彼の右腕の中で響き渡る。
カイの右腕の皮膚の下で、主立った血管と魔力経路が、過剰な圧力に耐えかねて次々と内側から破裂していった。白銀の礼服の袖が瞬時に赤黒く染まり、黄色い脂と血汁がボタボタと床へ滴り落ちる。
「ヒッ……!? カ、カイ教授ーッ!?」
「教授の腕が……皮膚が破けて血が……!!」
弟子たちがパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように部屋から逃げ出し始めた。
だが、カイは杖から手を離すことすらできなかった。
逆流する莫大な魔力が、彼の右手の筋肉を強硬硬直させ、吸盤のように杖へ死着(接着)させてしまったからだ。
「あ……あがっ……! 止め……ろ……! 離れ……ろ……っ! 私の……私の完璧な計算が……なぜ……っ!?」
激痛。
だが、肉体の激痛以上に、カイの精神を叩き潰したのは「理由のわからない敗北」であった。
彼の脳内で、彼が人生をかけて積み上げてきた完璧な魔法理論、数式の体系が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
計算通りに動かない。
自分の正しさを証明しようと魔力を込めれば込めるほど、二倍の激痛と破壊となって自分自身へ跳ね返ってくる。
(なぜだ……? なぜだなぜだなぜだ!? 私の数式は正しい! 私は天才だ! 私は間違うはずがない! なのに……なぜこの世界は、私の計算の『二倍の異常』で私を壊そうとするんだ……!?)
カイの瞳から、知性の光が消え、狂気と混乱の色が急速に広がっていく。
ドサッ……!
カイは膝から崩れ落ち、血塗られた右手を床に押し付けながら、泡を吹いて悶絶した。
脳の神経回路が過剰負荷によって部分的に焼失し、彼の視界は歪み、耳の奥では何万頭もの獣が咆哮するような幻聴が荒れ狂っていた。
カツン……カツン……。
その暴走と破滅の渦中で。
カイの耳に、あり得ないはずの「足音」が届いた。
重厚な、黒銀の金属が石畳を踏みしめる音。
逃げ惑う弟子たちの悲鳴が遠ざかる中で、その足音だけが、まっすぐに、死神のようにカイへ向かって近づいてくる。
「……あ……?」
カイは血に塗れた顔を、必死の思いで上げた。
歪んだ視界の向こう。
煙と火花が散る『結界制御の間』の入口に、二つの影が立っていた。
黒い防寒コートを羽織り、右腕と両脚に黒銀の魔導義肢を装着した男。
そして、その傍らで銀髪を揺らし、背中に白銀の魔導アームを従えた少女。
男の胸元には、黒と金の二色で描かれた、不気味な幾何学模様――『共鳴・等価倍加の刻印』が、嘲笑うように明滅していた。
カイの思考が、一瞬停止した。
その男の顔に、見覚えがありすぎたからだ。
「ク……クラ……ウス……!?」
カイの口から、掠れた悲鳴が漏れた。
「そんな……バカな……! お前は……お前は迷宮の最深部で……四肢を砕かれ……奈落の底へ落ちて……死んだはずだ……!!」
クラウスは、冷たく、どこまでも静かな足取りでカイに歩み寄った。
黒銀の義足が床を踏みしめるたび、ズン……とカイの胸に重い圧迫感が走る。
「言ったはずだぞ、カイ」
クラウスはカイの眼前に立ち止まり、冷酷な見下しの視線を投げかけた。
「『戦闘のたびに効率だの魔力配分だのうるさい』……とお前は俺を笑ったな。才能のない補助職の分際で、天才と同格のつもりでいるのが不快だと」
「ひ……ヒィッ……!?」
「どうだ? お前が命より大切にしていた『完璧な計算式』の使い心地は。……自分が信奉する理論によって、自分自身の腕と脳が解体されていく気分は……どんな味だ?」
その言葉を聞いた瞬間、カイの頭の中で、すべての謎のピースが完璧に噛み合った。
昼間の異変。
過剰圧縮される炎。
そして今夜の、二倍になって跳ね返ってくる結界の過剰相殺。
すべては――この目の前に立つ「無能な刻印術士」クラウスが仕掛けた、緻密で悪魔的な自滅の罠だったのだ。
「お……お前が……お前がやったのか……!? 私の結界に……私の術式に何をした……!!」
カイは血を吐きながら、左手でクラウスのコートの裾を掴もうと叫んだ。
「答えは簡単だ」
クラウスは黒銀の義足で、カイの血塗られた右手を、容赦なく踏みつけた。
ブチチチッ! という音と共に、焼き切れたカイの右腕の血管がさらに破裂する。
「ギャアアアアアアアアアアッ!!!!」
「お前の大好きな『論理』に従っただけだよ。……お前が俺に与えた苦痛、お前が俺から奪った尊厳。それらをアルゴリズムに変換し、お前の結界と杖へ『二倍の過剰負荷』として組み込んだ」
クラウスはかがみ込み、カイの発狂寸前の顔を至近距離でのぞき込んだ。
「お前は他人の能力を嘲笑い、自分の計算だけが正しいと過信した。……だからこそ、己の術式が暴走した時、撤退も停止もできずに自爆したんだ。お前を殺したのは俺の攻撃ではない。お前自身の傲慢な『誇り』だ」
「あ……あぁぁ……あぁぁぁぁ……っ……!」
カイの目から、血と涙が溢れ出た。
否定できない。
自分の手で組み上げた完璧な結界。自分が愛用した最高の魔導杖。それらがすべて、自分を破壊するための器となって自分に襲いかかってきたのだ。
彼が積み上げてきた「天才魔導師カイ」としての人生とプライドが、完全に、手遅れな形で崩壊した。
「さあ……仕掛けの『前菜』はここまでだ」
クラウスは立ち上がり、黒銀の右義手をカイの顔面の上へと掲げた。
義手の表面に刻まれた『等価倍加の刻印』が、禍々しい黒金の光を解き放つ。
「これからが本番だぞ、カイ。お前が迷宮で俺の両脚を熱収縮の魔炎で溶かした、あの『二倍の激痛』を……今からお前の肉体と魂へ、直接叩き返してやる」
隣に立つエレノアが、静かに胸の刻印を押さえ、どこか甘やかな息を吐いた。
「マスター……。準備はできています……。あなたの激痛の半分を……私に与えてください……」
ふたりの狂気と、逃げ場のない惨劇の予感が、破滅した『結界制御の間』を完全に支配した。
カイは床に這いつくばり、ただガタガタと打ち震えながら、これから始まる「二倍の絶望」の宣告に、白目を剥いて怯えることしかできなかった。




