第2話:『奈落の廃棄物』
黒銀の魔導義肢が、濡れた石畳を踏みしめるたびに、冷たく重厚な金属音が響く。
ズン、……ズン、と。
クラウスの左肩から右胸にかけて走る縫合痕が、心臓の鼓動と連動してうずいていた。無機物の魔導金属を、自らの生の肉体と神経に直接接続した反動だ。人体の免疫系は、異物を排除しようと烈しい炎症反応を起こす。白血球が血管内で暴走し、熱を持った患部が脈打つたび、脳髄を焼き切るような排斥痛が襲いかかっていた。
「……ハッ……ツ……っ」
クラウスは壁に黒銀の右義手を押し付け、崩れそうになる体を支えた。
義手の指先が石壁に食い込み、不気味な軋み声を上げる。視界の端が真っ赤に明滅していた。体温は四十度を超えているだろう。皮膚の隙間から、黄色いリンパ液と混ざり合った血がじわじわと滲み出ていた。
「マスター……」
背後から、静かな声が降ってくる。
銀髪をなびかせた少女、エレノアだった。彼女の背中から伸びる四本の白銀の魔導アームが、生き物のように滑らかに蠢き、クラウスの身体をそっと後ろから支える。アームの先端から放たれる微かな温もりが、クラウスの炎症を起こした神経を一時的に麻痺させた。
「無理は……危険です。あなたの肉体は、物理的にも魔導的にも……限界を超えています」
「わかっている……。だが、立ち止まる時間はない」
クラウスは荒い息を吐き出しながら、冷徹に己の体内に意識を向けた。
問題は、肉体の排斥反応だけではなかった。先ほどエレノアを縛っていた『減殺の術式』を書き換え、彼女の体内に眠る膨大な魔力を解放したことによる「魔力酔い」と「過剰負荷」だ。
エレノアの体内に内蔵されていた古代魔力炉は、一国の城塞を一つ丸ごと蒸発させられるほどの莫大なエネルギーを生成している。その余剰魔力が、彼女と魔力線で繋がったクラウスの『等価倍加の刻印』へとなだれ込んでいた。
クラウスの本来の魔力容量は、一般的な術士のそれに過ぎない。そこに巨大な滝のようなエネルギーが注ぎ込まれれば、当然ながらクラウスの魔力回路は焼き切れ、血管が内側から破裂する。
(ご都合主義の統合などあり得ない……。異なる二つの魂と魔力回路を接合すれば、必ず拒絶反応が起きる。……このままでは、あいつらに報復を果たす前に、俺の肉体が崩壊する)
クラウスは血混じりの唾を床に吐き捨てた。
ふたりが今足を踏み入れているのは、第百階層のさらに下に隠されていた、『帝国聖導第二人体改変実験棟』の跡地であった。
頭上の天井からは、何十本もの分厚い魔導パイプが垂れ下がり、緑色の変性液がポタポタと水滴となって落ちていた。空気は饐えた薬品と、肉が腐敗した病的な臭気で充満している。足元に転がっているのは、ただの鉄屑ではない。人骨だ。それも、成長途中の幼い子供たちの骨が、山のように堆積していた。
「エレノア……。お前が入れられていたカプセル以外の……他の『被体』はどうなった?」
クラウスの問いに、エレノアは感情の失われた銀色の瞳を足元へ落とした。
「……私より前に造られた……『零一号』から『零六号』までは……すべて破棄されました。魔力炉の出力に……耐え切れず……肉体が肉塊となって溶けたか……精神が崩壊して発狂したためです」
「そうか」
クラウスの瞳に、極低温の殺意が揺らめく。
この場所こそが、あの「聖女」セレスティアの真の顔であった。
世間では、親を失った孤児たちを救い、優しく微笑みかける「聖母の再来」と絶賛されていたセレスティア。しかし彼女は、引き取った孤児たちをこの暗黒の地下実験棟へ連れ込み、自らの魔法威力を底上げするための「生きている魔力増幅器」へと改造していたのだ。
クラウスは黒銀の義足を突き出し、奥へと続く鉄重門に向かって歩き出した。
重門は半ば破壊されており、その隙間から重々しい魔術の残留磁気が漏れ出ていた。ドアの表面には、聖導術式研究所の紋章――白百合と十字架をあしらった刻印が、虚しく残されている。
「行くぞ、エレノア。ここに、あいつの『恥部』がすべて眠っているはずだ」
「はい……マスター」
鉄重門を押し開き、ふたりは実験棟の中央管理室へと足を踏み入れた。
そこは、まさに惨劇の標本室だった。
部屋の両脇には、高さ数メートルにおよぶ大型のガラス円筒がずらりと並んでいた。その内部は緑色のホルマリン溶液で満たされ、浮かべられていたのは――人間の一部だった。
摘出された人間の脳髄に直接魔導ケーブルが刺し込まれたもの。
過剰な魔力によって肥大化し、血管が破裂した心臓。
そして、痛みに耐えかねて自らの顔をかきむしったまま固定された、子供たちの顔面組織。
壁一面には、羊皮紙や魔導羊皮紙のファイルが大量に棚へ詰め込まれ、机の上には書きかけの実験手記が放置されていた。
クラウスは残された左手の、血に塗れた指先で、机の上の手記を拾い上げた。
表紙には、見覚えのある優美な筆跡で、こう記されていた。
『聖導術式応用における生体バッテリーの最適化および耐久試験記録――セレスティア・エル・アスタルゴ』
「……見つけたぞ」
クラウスは冷たく呟き、ページをめくった。
そこに書かれていたのは、人間が書いたとは思えぬ、悪魔の理屈であった。
『○月×日:被体零三号(九歳・女児)に聖導魔力炉『アニマ・コア』の初期型を移植。術後三時間で全身の血脈が黄金色に変色。激しい嘔吐と全皮膚の剥離を確認。被体は「痛い、お母さん」と泣き叫び続けるが、痛覚の発生は神経活性化の証拠であるため、あえて鎮痛術式は不使用。むしろ『超感覚祝福』を投与し、痛覚伝達を三倍に増幅。結果、魔力生成効率が12パーセント上昇。痛みの絶望こそが、聖なる魔力を精製する最良の触媒であると証明された』
『○月×日:被体零五号(十一歳・男児)の精神が壊死。叫び声がうるさいため、音波による魔法陣の乱れを防ぐ目的で声帯を切除。さらに自傷行為を防止するため、四肢の運動神経を塩酸で焼却。……なお、本日の王都での街頭募金活動は非常に盛況であった。愚民どもは私の手をとって涙を流し、「聖女様」と崇めてくる。失笑を禁じ得ない。この者たちの寄付金が、明日には零六号の脳髄を漬ける薬液に変わるというのに』
『○月×日:勇者レオンハルト様との密談。迷宮最深部の「神髄のコア」を起動するための『極上の魂の贄』について。候補として刻印術士クラウスを選定。彼は誠実で、私に淡い恋心を抱いている。扱いやすい豚だ。彼を極限まで信じさせ、その頂点で裏切ることで発生する絶望の魔力は、被体零七号の魔力炉の安定化にも利用できるだろう。彼の苦悶の表情を思い浮かべると、今から子宮が疼くように愛おしい』
「……ふ……」
手記を読み進めるクラウスの口から、掠れた笑いが漏れた。
怒りで震えているのではない。あまりの醜悪さに、笑いがこみ上げてきたのだ。
彼らが口にしていた「正義」も、「英雄の使命」も、「神の加護」も、すべてはこの狂気の上に成り立っていた偽物だった。クラウス自身もまた、この緻密で吐き気を催す実験計画の一部分として、長期間にわたって飼育されていたに過ぎなかったのだ。
「マスター……」
エレノアが、クラウスの手から漏れ出す殺気を感じ取り、心配そうにその顔を覗き込む。
「これらは……地上に持ち帰るのですか?」
「ああ」
クラウスは手記を丁寧に破り取り、内ポケットへと収めた。
「これは、ただの証拠ではない。あの女の『自尊心』と『清純な聖女のメッキ』を、民衆の目の前で徹底的に剥ぎ取り、社会的に抹殺するための極上の毒薬だ。……だが、その前に問題がある」
クラウスの膝が、ガクリと折れた。
「ガハッ……!?」
大量の血が、クラウスの口と、黒銀の義手の接合部から吹き出した。
激痛。視界が急速に暗転していく。
手記を読んだことで高揚した殺意が、体内の魔力循環を暴走させたのだ。エレノアから流入する莫大な魔力が、クラウスの狭い魔力回路の中で渦を巻き、彼の内臓を内側から破裂させようとしていた。
「マスター!?」
エレノアが素早くクラウスの体を抱き留めた。
しかし、彼女が触れた瞬間、彼女自身の体にも青い放電が走り、激しい激痛が襲いかかった。
「くっ……あ……っ!」
エレノアの顔が苦痛に歪む。
クラウスの『等価倍加の刻印』と、エレノアの『魔力炉』が、互いに過剰なエネルギーを押し付け合い、共倒れを起こしかけていた。
物理的な義肢の拒絶反応と、魔力の不適合。
この二つの問題を解決しなければ、クラウスはあと数分で体内の魔力が暴走し、爆発して肉塊となる。
(考えろ……! 生き残るための……ロジックを……!)
クラウスの脳が、激痛の渦中で超高速演算を開始する。
偶然の奇跡など頼らない。自分の持つ刻印術の知識と、今判明したエレノアの身体構造、そしてこの部屋にある実験資料のすべてを繋ぎ合わせ、解を導き出す。
(なぜ、魔力が暴走する? それは、回路が『単一』だからだ。俺の肉体だけに負荷が集中しているからだ)
(ならば……回路を『二つの肉体』で共有すればどうなる?)
(エレノアの過剰な魔力を俺が受け取り、俺の肉体が受ける激痛と物理的負荷の半分を、エレノアの頑丈な魔力兵器としての肉体に分散させる……!)
クラウスは血塗られた眼光で、エレノアを見つめた。
「エレノア……聞け……!」
「はい……マスター……! 何でも……指示を……!」
「お前に……復讐の『本当の対価』を提示する」
クラウスは、歪んだ声で冷酷に告げた。
「俺はこれから、お前と『痛覚共有・共鳴刻印』を結ぶ。……これは、ただの魔力供給の契約ではない。俺が受けた『激痛』、そしてこれから復讐の過程で『等価倍加』を発動するたびに俺の魂に押し寄せる二倍の激痛の……半分を、お前にも直接引き受けてもらう契約だ」
エレノアの瞳がかすかに揺れた。
「俺の苦しみがお前に流れ込み、お前の命が俺の肉体を繋ぎ止める。……お前は、俺の復讐が終わるその瞬間まで、俺と同じ激痛に苛まれ、永遠に血を流し続けることになる。……これが、俺からお前に与える……絶望の共有だ。……拒絶しても、構わない」
それは、あまりにも残酷で、理不尽な契約だった。
救われたはずのエレノアに、さらなる地獄の激痛を背負わせるという提案。
しかし、クラウスは一切の欺瞞を排し、真実のリスクだけを彼女に突きつけた。ご都合主義な優しい嘘で彼女を騙すつもりは毛頭なかった。
だが――。
エレノアの反応は、クラウスの想像を遥かに超えていた。
彼女の白く美しい顔に、初めて「笑み」が浮かんだのだ。
それは、儚く、そして妖しいまでに美しい、狂気の微笑みだった。
「……マスター」
エレノアは、クラウスの血塗られた頬に、自分の冷たい手を優しく添えた。
「拒絶など……するはずがありません……」
「なに……?」
「私に……痛みを与えてください。あなたの激痛を……私に分け与えてください……」
彼女の銀色の瞳に、熱っぽい依存の光が宿る。
「痛みがなければ……私は自分が生きていることを、実感できませんでした……。あの暗いカプセルの中で……私はただの『物』でした。……でも、あなたから与えられる痛みだけが……私を『人間』にしてくれます……。あなたの苦しみを……私にも背負わせていただけるなら……それ以上の喜びはありません……!」
彼女の心もまた、すでに狂っていたのだ。
セレスティアによる長年の過酷な拷問と実験によって、彼女の精神は「痛み」と「存在価値」が異常な形で結合してしまっていた。
クラウスから与えられる激痛こそが、彼女にとっての唯一の絆であり、愛であった。
「……そうか。お前も……同類だったな」
クラウスは惨死した猛獣のような笑みを漏らした。
「よし……契約を始めるぞ」
クラウスは残された左手の爪で、自らの胸の『等価倍加の刻印』の直上の肉を、容赦なく引き裂いた。
どくどくと流れ出る、濃密な黒赤の血。
そして、エレノアもまた、自身の白く細い胸元を、白銀の魔導アームの鋭利な爪で躊躇なく引き裂いた。
彼女の傷口からは、黄金の魔力が混ざり合った、神秘的な血が溢れ出る。
二人は、互いの傷口と傷口を、胸と胸を、強く押し当て合った。
――ジュウウウウウウウウウウウウッ!!
肉と肉が焼き合わさる、悍ましい音が部屋中に響き渡る。
「「あ、ガアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」」
ふたりの絶叫が交差した。
クラウスの『等価倍加の刻印』から伸びた黒い呪術回路が、エレノアの胸の傷口から体内へと侵入し、彼女の心臓と魔力炉に直接巻き付いていく。
同時に、エレノアの黄金の魔力回路が、クラウスの全身の血管と、黒銀の魔導義手・義足へと根を張るように拡張されていった。
激痛。
星が爆発し、全身の肉をミキサーでかき混ぜられるような、言語を絶する痛みがふたりを同時に貫いた。
クラウスが受けた「四肢切断の記憶」「全身焼失の記憶」「神経百倍増幅の記憶」のすべてが、津波となってエレノアの脳髄へと流れ込む。
「はっ……ぁ……っ、マスター……! あぁぁ……すごい……これが……あなたの……痛み……!」
エレノアは白目を剥き、全身を痙攣させながらも、クラウスの体を狂おしいほど強く抱きしめ返した。
彼女の背中の魔導アームが激しく暴れ、周囲の実験器具やガラス容器を粉々に打ち砕いていく。ホルマリンと血の海の中で、ふたりは互いの血を混ぜ合わせ、痛みを分け合いながら、魂をひとつに結びつけていった。
やがて――。
光が収まった。
クラウスの胸と、エレノアの胸に、まったく同じ幾何学模様――『共鳴・等価倍加の刻印』が、黒と金の二色で深く刻み込まれていた。
クラウスの全身を包んでいた激しい炎症と排斥痛が、嘘のように引き引いていく。
エレノアの莫大な魔力が、共有された回路を通じてスムーズに分散され、クラウスの魔導義肢を、まるで本物の肉体以上に精密に動かすエネルギーへと変換されていた。
義手の指を曲げる。
すんなりと、寸分の狂いもなく動いた。
義足で地面を蹴る。
圧倒的な質量と推進力が、何のリスクもなく生み出された。
ふたりの肉体と魔力は、完璧な「共生関係」へと進化を遂げたのだ。
「……ふぅ……ふぅ……」
胸の傷口を押さえながら、エレノアが息を整える。
彼女の銀色の瞳は、以前よりも強く、怪しい輝きを放っていた。彼女の頬には、クラウスの痛みを共有した証である、薄い黒の紋様が浮き上がっている。
「マスター……。感じます……。あなたの心臓の鼓動も……あなたの殺意も……すべて、私の中に流れています……」
「ああ……。俺もだ。お前の魔力が……手足のように伝わってくる」
クラウスは黒銀の義手を力強く握りしめた。
これで、基盤は整った。
もはや自分は、ただの破滅を待つ手負いの復讐者ではない。
自らの激痛を二倍にして送り返す『等価倍加』の力と、一国の魔導兵器を凌駕するエレノアの『魔力炉』、そして二人の痛みを分散し耐え抜く『共鳴回路』。
ご都合主義の覚醒などではない。
痛痛しい代償と、緻密な術式構築によって手に入れた、理詰めの殺戮機構。
「よし……」
クラウスは壁に掛かっていた、実験用の黒い防寒コートを引き剥がすと、それを羽織った。
エレノアにも、破れかけた服の上に黒いローブを纏わせる。
「行くぞ、エレノア。まずは……この奈落の廃棄場を脱出する」
「はい、マスター」
その時だった。
天井の彼方から、重々しい金属の駆動音と、複数の靴音が響いてきた。
カツン、カツン、カツン。
それは、上層から降りてくるエレベーターの音だった。
セレスティアの手記に書かれていた「定期破棄作業」の執務員――すなわち、教皇庁の極秘処分部隊が、新たな廃棄物を捨てるために、最下層へと降りてきたのだ。
クラウスは暗闇の中で、口元を醜く歪めた。
「くく……。あいつらへ届ける『最初の挨拶』の相手が、あちらから出向いてきてくれたようだ」
「排除しますか……?」
エレノアの背中の魔導アームが、青い殺戮の光を宿して静かに展開する。
「ああ。徹底的にだ。……奴らに、俺たちの帰還を教えてやれ」
暗闇の中で、二人の復讐者の目が、ギラりと赤く光った。
グラグラと地響きを立てながら、天井の闇を穿つ巨大な穴から、重厚な鉄籠式の昇降機がゆっくりと降下してきた。
キーキーと錆びついた金属摩擦音が空間に不気味に反響する。昇降機の周囲に張り巡らされた魔導灯が、暗赤色の光を放ち、ゴミ捨て場の凄惨な景観を斑らに照らし出した。
昇降機が底に到達し、ズドンと重い音を立てて接地する。
鉄格子の扉が重々しく開き、中から踏み出してきたのは、純白の外套の上に黒漆塗りの半身鎧を纏った六人の男たちだった。胸元には、教皇庁直属の裏処刑部隊――『聖裁の黒犬』の狂犬を模した紋章が刻まれている。
「ふぅ……相変わらずここは、ヘドロと肉の腐った最悪の臭いがしやがるな」
先頭に立つ巨漢の男が、鼻を覆いながら唾を吐き捨てた。
男の名はバルト。聖導騎士団の小隊長であり、聖女セレスティアの秘密裏の命を受けて「不都合な廃棄物」の処理を長年請け負ってきた、冷酷無比な処刑人であった。その背には巨大な両手剣が背負われ、腰のポーチからは薬品や拷問用の器具が覗いている。
「文句を言うな、バルト隊長。セレスティア様からの言いつけだ。今回は特別だからな」
後続の小柄な魔導弓兵が、不気味な笑みを浮かべながら背中の昇降機を指さした。昇降機の床には、麻袋に詰められた不恰好な「肉の塊」が数個、無造作に転がっていた。
「上層で教皇庁に反旗を翻そうとした不敬分子どもだ。生きながら四肢を砕いてここに放り込め、との仰せだ。……ん? おい、バルト隊長。あそこを見ろ」
魔導弓兵が指し示した先――ホルマリンと血の海が広がる実験棟の門前に、二つの影が立っていた。
「……あ?」
バルトは眼を細め、魔導灯の光をそちらへ向けた。
暗赤色の光の中に浮かび上がったのは、黒い防寒コートを羽織った男と、その傍らに寄り添う銀髪の少女だった。
男の右腕は、異様な漆黒の光沢を放つ魔導金属の義手。両脚もまた、廃材の金属と無数の微細な刻印回路で補強された、骨組みむき出しの義足となっていた。そして、その胸元には黒と金の二色で描かれた禍々しい幾何学模様が、不気味な心拍のように明滅している。
バルトの目が、徐々に驚愕と愉悦へと変わっていった。
「おいおいおい……見間違いか? あそこにいるのは……勇者レオンハルト様に四肢を潰され、奈落へ叩き落とされたはずの刻印術士……クラウスじゃないか!」
「なんだと!? あの高さから落ちて、生きていただと!?」
「しかも見ろ! あいつの横にいるガキ……『零七号』だ! 廃棄されたはずの失敗作のカプセルを叩き割りやがったのか!」
処刑部隊の男たちが、どっと下品な爆笑を上げた。
バルトは肩を揺らし、腰の巨大な両手剣をゆっくりと引き抜いた。ズリズリと重い刀身が石畳を擦り、不快な高音を奏でる。
「くははははっ! 傑作だ! 死に損ないの無能術士が、廃棄された出来損ないの実験体と手を組んで、地獄の底で怪獣ごっこか! どうやってその足を作ったかは知らんが、見苦しい悪あがきにも程があるぞ、クラウス!」
バルトは剣先をクラウスの顔面に向け、嘲笑を深めた。
「レオンハルト様からは『落ちたら即死するから確認の必要もない』と聞いていたが……まさかこんなお土産が残っているとはな。なぁ、お前ら。こいつの残った左手と首をチョン切って、セレスティア様へ持って帰ったら、どれだけの褒美がもらえると思う?」
「へへっ、セレスティア様は大喜びでしょうね! 『あら、まだ生き虫のように蠢いていたの?』って、あの可愛らしいお顔で踏み潰してくださいますよ!」
「よし、決まりだ。殺すなよ? 生かさず殺さず、残った皮膚を全部剥いで、肉塊にして上へ連れて行くぞ!」
男たちの醜悪な欲望と虐殺の意図が、密閉された地下空間に満ちていく。
しかし、クラウスの表情には一切の動揺も、恐怖も、怒りすら浮かんでいなかった。
彼の黒い瞳は、ただ冷たく、精密な機械のようにバルトたちの装備、立ち位置、魔力の流動をスキャンしていた。
(敵は六人。前衛に重装鎧の騎士がバルトを含めて三人。中衛に魔導弓兵が二人。後衛に補助術士が一人)
(バルトの着ている黒漆の半身鎧……聖導魔法による衝撃吸収術式が二重に付与されている。武器は重量四十五キロの鋼鉄製ツヴァイハンダー。振りの初速は遅いが、打撃力は一千五百ニュートンに達する)
(弓兵の矢には『爆裂の刻印』。発射から着弾までのタイムラグは〇・四秒。……全て、計算の範囲内だ)
クラウスは低く、感情の篭もらない声で呟いた。
「エレノア」
「はい、マスター」
エレノアの背中から、四本の白銀の魔導アームがゆらりと立ち上がった。アームの関節部に組み込まれた古代魔力回路が、キィンと高い励起音を鳴らし始める。
「右の弓兵二人と、後衛の術士の脚を奪え。殺すな。動けなくするだけでいい」
「了解しました」
「バルトと残りの前衛は……俺が『解体』する」
クラウスが黒銀の義足を一歩前へ踏み出した。
ガコン、と重い機械音が響く。
「ハッ! ハタリとも動けないくせに格好つけやがって! 死ねや、ゴミクズがぁっ!」
バルトの両脇にいた二人の重装兵が、身の丈ほどもある大剣を構え、クラウスに向かって突進してきた。
靴底が血の海を跳ね上げ、迫り来る二振りの大剣。重装兵たちの全身からは、聖導魔法による強化魔力が赤く立ち上っていた。一撃で岩石をも粉砕する、圧倒的な物理質量攻撃。
だが、クラウスは避けない。防御の構えすら取らない。
ただ、黒銀の右義手を無造作に前へと突き出した。
「死ねぇッ!」
二人の重装兵の刃が、同時にクラウスの右義手へと叩きつけられた。
――ガギィィィィィンッ!!!!
耳を劈く金属打撃音が炸裂する。普通ならば、衝撃だけで腕骨が粉砕され、後ろの壁まで吹き飛ばされるはずの威力。
しかし、クラウスの体は微動だにしなかった。
彼の右義手の表面に刻まれた幾何学模様が、一瞬にして黒く激しく発光した。
発動――『共鳴・等価倍加の刻印』。
(入力エネルギー受容:両手剣による打撃力、計三千ニュートン。聖導属性の物理強化魔力、約二千ユニット)
(対価設定:過去に俺が勇者レオンハルトの剣によって右腕を切断された際の切断衝撃力および激痛)
(変換――エネルギー保存法則を完全無視。二倍のベクトルへ反転再構築)
「……な……に……!?」
重装兵たちの顔が、驚愕に凍りついた。自分たちの全力の剣撃が、まるで巨大な鋼鉄の城壁にぶつかったかのように完全に網羅され、停止したのだ。
そして、次の瞬間。
入力された三千ニュートンの物理衝撃と二千ユニットの魔力が、その瞬間に「二倍」――すなわち『六千ニュートンの破壊力』と『四千ユニットの暴走魔力』へと膨れ上がり、攻撃を仕掛けた重装兵たちの剣の刃を伝って、彼ら自身の腕へと逆流した。
物理法則の惨劇。
――バギィィィィィィィィッッッ!!!!
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!???」
悍ましい肉と骨の破砕音が響いた。
二人の重装兵の腕が、肩関節から肘、手首に至るまで、内側から風船のように膨れ上がり、そしてドロドロの肉片となって弾け飛んだのだ。
彼らが着用していた頑強な鋼鉄の腕甲は、二倍になった自らの威力を防ぎきれず、鋭利な破片となって彼ら自身の顔面や首筋に突き刺さった。
さらに、二倍に跳ね返った魔力が彼らの体内の魔力回路を逆流し、肺と心臓を激しく破壊する。
「カハッ……あ……がっ……!?」
二人の重装兵は、血と内臓の欠片を大量に吐き散らしながら、目と耳から噴血して床へと崩れ落ちた。ピクピクと身体を痙攣させるだけで、二度と立ち上がることはできない。自らが放った攻撃の「二倍の絶望」に叩き潰されたのだ。
「ヒッ……!? な、なんだ!? 何が起きた!?」
後方で構えていた魔導弓兵たちが、あまりの異常事態に腰を抜かしかけた。
攻撃したはずの味方が、接触した一瞬で両腕を爆破され、瀕死になったのだ。魔法の詠唱も、予備動作すら見えなかった。
「動くなと言ったはずだ」
冷ややかな声。
直後、透明な風を切る音が四つ、同時に重なった。
――シュパッ! シュパッ!
「ギャッ……あぁぁぁぁぁっ!?」
弓兵ふたりと補助術士の絶叫が重なる。
エレノアの背中から射出された四本の白銀の魔導アームが、精密機械のような正確さで空を切り、彼らのアキレス腱と膝関節の靱帯だけを正確に切断したのだ。
血の飛沫が舞い、弓兵たちは弓を落として床に転がり、足を抱えて悶絶した。
エレノアは、冷酷な銀色の瞳で彼らを見下ろしながら、背中のアームをゆっくりと回収した。彼女の動作には一切の迷いがない。クラウスの「殺すな、脚を奪え」という命令を、寸分の狂いもなく完遂したのだ。
わずか数秒。
『聖裁の黒犬』の小隊は、隊長のバルト一人を残して、完全に無力化された。
「ひ……ひぃ……っ……!」
バルトはガタガタと膝を震わせ、後退った。
圧倒的な恐怖。
自分が「無能な豚」と見下していた男が、手足を失い、奈落に落ちてなお、化け物となって帰ってきたのだ。
「な、なんだその能力は……!? 何をしたクラウス! どんなインチキ魔法を使いやがった!!」
「インチキ……?」
クラウスは黒銀の義足を静かに進め、バルトとの距離を詰めた。
ズン……ズン……と、死の足音が近づく。
「ご都合主義の奇跡など、この世には存在しないと言ったはずだ。これは純然たる『計算』だよ、バルト」
クラウスは己の胸を指さした。
「入力された物理量と魔術量を保存し、過去の受領対価と同期させ、二倍のベクトルで返却する。……お前の部下たちは、自らが放った身の程知らずな攻撃の威力によって、自らの肉体を粉砕したに過ぎない」
「ふ、ふざけるな……! そんな術式が存在してまるか! 悪魔の呪いだ! お前は悪魔に魂を売ったんだ!」
バルトは狂乱し、巨大な両手剣を両手で固く握り直した。
彼の全身から、限界を超えた聖導魔力が噴き出す。不気味な黄金の輝きが刃を包み込み、空間の空気が熱で揺らぎ始めた。
「死ね! 死ね死ね死ねぇぇぇッ! 『聖導・一刀両断』ぉぉぉッ!」
バルトの全魔力を込めた、最高位の聖導剣技。
音速を超えた刃が、空気を切り裂き、クラウスの首元を目がけて振り下ろされた。
バルトの顔には、自暴自棄と「これで死ね」という祈りが混ざり合った狂相が張り付いていた。
だが――クラウスは嘲笑った。
「対価の計算、完了だ」
クラウスは左手の、砕けて繋ぎ合わされた指先を軽く滑らせ、バルトの剣の側面に『触れた』。
――ズドォォォォォォォォォンッ!!!!
空間が歪んだ。
バルトが放った一刀両断の威力が、クラウスの『等価倍加の刻印』を経由し、その瞬間に「二倍の質量と二倍の魔力爆発」となって、バルト自身の全身へと叩き返された。
ドガァッ! ボガァンッ!
「グガアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
バルトの履いていた鋼鉄の半身鎧が、内側からの圧力に耐えかねて、缶詰のように弾け飛んだ。
胸骨がすべて逆方向に砕け折れ、皮膚の毛穴という毛穴から血液が霧となって噴き出す。彼が自慢としていた強力な聖導魔力が、二倍のエネルギーとなって自身の神経回路を駆け巡り、脳髄と内臓をズタズタに焼き尽くしていく。
ドサッ……!
バルトの巨体が、血の海の中に崩れ落ちた。
両腕の骨は砕け、全身の肉が裂け、目からは血の涙が流れていた。生きてはいる。だが、彼の肉体はもはや、呼吸することすら地獄の激痛を伴う「壊れた肉塊」へと成り果てていた。
「ガハッ……あ……あ……っ……」
バルトは濁った瞳で、見下ろしてくるクラウスを見上げた。
その時、クラウスの隣にいたエレノアが、かすかに胸を押さえて「はぁっ……」と甘い息を漏らした。
彼女の白く美しい肌から、血の混じった汗がポタポタと落ちる。
バルトへ『二倍の返却』を行った反動――クラウスの魂に跳ね返ってきた過酷な激痛と魔力負荷が、共鳴契約を通じて、エレノアの肉体へも半分分散されていたのだ。
しかし、エレノアの顔に苦痛の色はなかった。
彼女は自分の胸の『共鳴刻印』を愛おしそうに撫で、銀色の瞳を恍惚に潤わせていた。
「あぁ……マスター……。感じます……。あなたの激痛……敵を破滅させた対価の痛みが……私の中に充満しています……。……素晴らしいです……!」
狂気。
互いの激痛を分け合い、それを存在の糧とする二人の姿に、バルトは全身の毛穴が逆立つような恐怖を感じた。
「ひ……ヒィィィッ……化け物……! お前たちは……化け物だ……!」
クラウスはバルトの胸元に黒銀の義足を乗せ、じわじわと体重をかけた。
バキッ、と砕けた胸骨がさらにきしみ、バルトが「アガッ!?」と悲鳴を上げる。
「化け物……? 違うな」
クラウスは冷たく言い放ち、バルトの腰から『昇降機の鍵』と、教皇庁が使用する高純度の『古代魔導通信端末』を奪い取った。
「俺たちを作ったのは……お前たちが崇める『聖女セレスティア』であり、『勇者レオンハルト』だ。俺たちはただ、奴らが撒いた毒の種が結んだ、正当な『果実』に過ぎない」
クラウスは手に入れた通信端末の操作パネルに、黒銀の義手の指先を差し込んだ。
微小な魔力刻印を端末内部の回路に直接流し込み、アクセス制限を強制解除する。
ピピッ、と澄んだ電子音が鳴り、端末のホログラム画面が空間に投影された。
通信先一覧の最上部に刻まれた名前――『聖女セレスティア・私邸回線』。
クラウスは迷わず、その回線を接続した。
数秒のコール音の後。
画面の向こうから、甘く、鈴を転がすような、あどけない少女の声が聞こえてきた。
『はい、セレスティアです。……バルト小隊長ですか? 処理は無事に終わりましたか? もう、こんな遅い時間に連絡してくるなんて……明日の朝の街頭演説に響いてしまいますわ』
セレスティアの声だ。
何事もなかったかのように、聖女の皮を被り、可憐に振る舞う裏切り者の声。
バルトは必死に声を上げようとした。
「せ、セレスティ……様……! 逃げ……っ……!」
だが、クラウスが義足に力を込め、バルトの喉仏を容赦なく踏み潰した。
ゴキッ、という音と共にバルトの声が途絶える。
クラウスは通信端末を口元へ寄せ、極低温の殺意を込めて、静かに語りかけた。
「……久しぶりだな、セレスティア」
通信の向こう側で、ピタリと息を呑む気配がした。
『……え……?』
「俺の声だ。忘れたとは言わせないぞ。……お前たちが『極上の絶望』と共に奈落へ蹴り落とした、刻印術士のクラウスだ」
『な……っ!? ク、クラウス……!? そんな……嘘よ! あなたがあの高さから生きて……ううん、そんなことより、なぜバルトの端末を……!?』
セレスティアの可憐な声が、一瞬で狼狽と不快感に満ちた素の声へと剥がれ落ちる。
クラウスは薄く笑った。
「お前が送り込んできた『黒犬』どもなら、全員ここで倒れているよ。……お前が作ったあの無惨な手記と、子供たちの残骸の目の前でな」
『ッ……!?』
「セレスティア。お前が隠してきたすべての欺瞞、すべての狂気……そして、俺に与えた過酷な激痛のすべてを、俺は忘れていない」
クラウスの言葉に、隣に立つエレノアが寄り添い、通信端末に向かって透き通るような声を重ねた。
「セレスティア様……。『零七号』です。……マスターと一緒に……あなたに会いに行きます……」
『零七号……!? バカな……あの失敗作が喋った……!? あなたたち……一体、地獄で何をしたの……!?』
セレスティアの声に、隠しきれない真実の「恐怖」が混ざり始める。
クラウスは冷酷に、そして告げた。
「首を洗って待っていろ、セレスティア。レオンハルトにも伝えておけ。『二倍の対価』を取り立てる回収人が、地上へ戻るとな」
『待ちなさい! クラウス! 待ちな――』
ガチャリ、とクラウスは通信を一方的に切断した。
ホログラムの光が消え、静寂が戻ってくる。
地上では今頃、あの気取った聖女が発狂せんばかりに苛立ち、警戒網を跳ね上げていることだろう。それでいい。恐怖させ、疑心暗鬼に陥らせ、彼らが築き上げた完璧な社会を、内側から崩壊させていくのだ。
「行きましょう、マスター」
エレノアが、奪い取った昇降機の鍵を制御盤に差し込んだ。
ガコンッ! と重い駆動音が鳴り、昇降機の鉄格子がゆっくりと閉まっていく。
倒れ伏すバルトたち処刑部隊の絶望に満ちた視線を後に、昇降機は上層――光に満ちた、しかし腐敗しきった『神聖帝国アスタルゴ』の王都を目指して、ゆっくりと上昇を開始した。
暗闇の中から、光の中へ。
絶望の奈落を破り捨てた二人の復讐者が、いよいよ地上の舞台へと攻め込む。
受けた傷の数だけ、失った肉体の分だけ、彼らは「二倍」の激痛と絶望を叩き返す。
その苛烈なる報復の第一歩が、今、踏み出されたのだった。




