第1話:『引き裂かれた刻印』
神聖帝国アスタルゴの地下深くに広がる、底知れぬ暗黒の領域――『奈落の王冠』。その迷宮の最深部である第百階層の空気は、焼け焦げた獣の脂の臭いと、濃密な魔力の残滓であるオゾンのような刺激臭で満ちていた。
数分前まで空間全体を揺るがしていた咆哮はすでにない。巨大な祭壇の間の中央には、迷宮の主である『獄炎のキメラ』が、四つの首すべてを斬り落とされて沈黙していた。どくどくと流れる赤黒い血が、床に刻まれた幾何学的な古代の溝を伝って広がっていく。
「はぁ……はぁ……っ」
パーティの支援役である刻印術士のクラウスは、ひんやりとした石の床に膝をつき、荒い息を吐いていた。全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、視界の端が酸欠で明滅している。無理もない。この最深部での死闘において、彼はパーティの誰よりも魔力を消費し、神経をすり減らしていた。
クラウスの職業である『刻印術士』は、直接的な攻撃力を持たない。しかし、対象の肉体や武具、あるいは空間そのものに魔力の回路(刻印)を直接書き込むことで、物理法則を一時的に書き換えることができる。
先ほどの戦闘において、クラウスは勇者レオンハルトの剣に『絶対切断の刻印』を付与し、魔導師カイの杖には『詠唱省略の刻印』を、聖女セレスティアの周囲には『致死ダメージ変換の刻印』を絶え間なく展開し続けていた。味方の動きを完全に予測し、一瞬の隙もなく最適な刻印を最適なタイミングで起動させる。それは、常人ならば数分で脳の血管が焼き切れるほどの情報処理と集中力を要求される作業だった。
しかし、クラウスは自身の限界を超えてその役目を全うした。自らの魔力回路が焼け焦げるような激痛に耐えながら、彼は仲間たちを無傷で守り抜いたのだ。
(終わった……。これでついに、俺たちは迷宮を制覇したんだ)
クラウスは震える手で汗を拭い、顔を上げた。視線の先には、キメラの返り血を浴びてなお神々しい輝きを放つ勇者、レオンハルトの背中があった。金色の髪と、白銀の神聖鎧。誰よりも強く、誰よりも気高い、クラウスが心から信頼し、背中を預けてきた無二の親友である。
その後方には、冷徹に魔力残量を計算している銀髪の魔導師カイと、慈愛の祈りを捧げている美しい聖女セレスティアの姿があった。誰も欠けることなく、この死地を乗り越えられた。その事実が、クラウスの胸に熱い達成感と仲間への深い愛情を湧き上がらせていた。
「レオンハルト、カイ、セレスティア! 怪我はないか?」
クラウスは立ち上がり、腰のポーチから最高級の回復ポーションを取り出した。迷宮の最深部での戦闘は終わった。もはや敵はいない。そう判断したクラウスは、仲間たちに展開していた『防御の刻印』を解除し、自らの魔力障壁も解いた。気を許した仲間たちの前で、無駄に魔力を消費する必要はない。
「レオンハルト、さっきのキメラの爪撃で左脇腹の装甲が歪んでいた。念のため、このポーションを飲んで――」
笑顔で歩み寄り、ポーションの小瓶を差し出した、その瞬間だった。
――ヒュンッ、と。
風を切るような、ひどく軽快で、場違いな音が鳴った。
クラウスは最初、何が起きたのか理解できなかった。ポーションを差し出していたはずの自分の右腕が、視界の中でくるくると回転しながら宙を舞い、石の床に力なく落ちたのだ。
パリン、と澄んだ音を立ててポーションの瓶が砕け、青い液体と、どす黒い赤が混ざり合って床に広がっていく。
「……え?」
間抜けな声が漏れた。痛みはない。ただ、右肩の先から何かが決定的に欠落したという強烈な違和感だけがあった。視線を下ろすと、自分の右肩の断面から、心臓の鼓動に合わせて勢いよく血液が噴き出しているのが見えた。白い骨の断面と、蠢く赤い筋肉の繊維が、現実離れした鮮明さで目に飛び込んでくる。
その直後、脳髄をハンマーで殴られたような、言語を絶する激痛が全身を駆け抜けた。
「あ、アアアアアアアアアアッ!?」
クラウスは悲鳴を上げ、血を噴き出す右肩を押さえながら床に転げ回った。何が起きた? 未知の罠か? それとも、まだ魔物が生き残っていたのか?
混乱する思考の中で、クラウスは敵を探して顔を上げた。しかし、そこにいたのは魔物ではなかった。
神聖なる勇者の剣『ルミナス』を振り抜いた姿勢のまま、冷ややかな目で見下ろしてくるレオンハルトの姿だった。純白の刃からは、クラウスの血がポタポタと滴り落ちている。
「レオン……ハルト……? お前、何を……」
信じられない光景に、クラウスは痛みを一瞬忘れて呆然と呟いた。操られているのか? 幻覚か? しかし、レオンハルトの瞳には一切の濁りがなかった。そこにあったのは、路傍の汚物を眺めるような、純粋な『見下し』の色だった。
「ご苦労だったな、クラウス。お前の刻印術には、本当に助けられたよ」
レオンハルトは血塗られた剣をゆっくりと引き戻しながら、薄く笑った。
「だが、お前の役目はここまでだ。英雄の叙事詩に、後ろでコソコソと計算ばかりしている小賢しい裏方は必要ないんだよ」
「な……にを、言って……」
「わからないのか? お前はもう用済みだと言っているんだ、底辺の刻印術士」
背後から、魔導師カイが眼鏡を押し上げながら歩み寄ってきた。彼の足元では、すでに魔力が高密度に圧縮され、赤黒い炎が渦を巻いている。
「本当に目障りな男でしたよ、あなたは」カイは氷のような声で吐き捨てた。「戦闘のたびに『効率』だの『魔力配分』だのと偉そうに指示を出して。才能のない補助職の分際で、我々天才と同格のつもりでいたその思い上がりが、吐き気を催すほど不快でした」
「カ、イ……? 待ってくれ、俺はただ、みんなが安全に戦えるように……!」
「黙れ」
カイが杖を軽く振るうと、圧縮された超高熱の炎『熱収縮の魔炎』が、床に倒れ伏すクラウスの両脚に撃ち込まれた。
「ガアアアアアアアアアアッ!?」
それは単なる炎ではなかった。カイの魔術は極めて論理的かつ残忍だった。クラウスがショック死しないよう、また失血死してしまわないように、血管を瞬時に焼き固めながら、運動神経と筋肉組織だけをドロドロに溶かしていく緻密な拷問魔術だったのだ。
ジュウウウウッ、という肉の焦げる悍ましい音が密室に響き渡る。自身の脚の肉が沸騰し、黄色い脂が泡立ち、皮膚が黒く炭化して剥がれ落ちていく。鼻腔を突く強烈な肉の焼ける臭いに、クラウスは胃液を逆流させ、血と嘔吐物を床に撒き散らした。
「あ、あ、あああっ……あぎぃぃっ……!」
両脚の膝から下が完全に炭化し、使い物にならなくなった。逃げることも、立つこともできない。激痛で意識が飛びそうになる中、クラウスは最後の希望にすがるように、聖女セレスティアに視線を向けた。
「セ、レスティ……ア……助け……」
美しい金糸の髪を揺らし、セレスティアが優雅な足取りで近づいてくる。彼女は慈愛に満ちた、聖母のような微笑みを浮かべていた。彼女だけは、狂っていない。そう信じたかった。
「可哀想なクラウス……。こんなに酷い怪我をして……。今、私が癒してあげますからね」
彼女の白く細い手が、クラウスの焼け焦げた脚にかざされる。黄金の聖なる光が降り注いだ。クラウスは一瞬、安堵の息を漏らした。
――しかし、次の瞬間、先ほどの炎を遥かに凌駕する、星が爆発したかのような激痛がクラウスの脳髄を貫いた。
「ギィッ、アッ、アギャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!??」
体が海老のように反り返り、白目を剥いて泡を吹く。痛みが引くどころか、神経の末端から脳の芯まで、何万本もの灼熱の針で直接かき回されているような絶望的な苦痛だった。
「ふふっ、あははははっ!」
セレスティアは、鈴を転がすような声で無邪気に笑った。その顔には、隠しきれないサディスティックな歓喜が浮かんでいた。
「どうですか、私の『超感覚祝福』は? これはね、昏睡状態の患者の神経を強制的に叩き起こすための奇跡の術式なんです。これを重傷者に使うと……神経の伝達効率が通常の百倍になって、そよ風が触れただけでも発狂するほどの痛みを感じるようになるんですよぉ。あはっ、いい顔! もっと、もっと惨めに鳴いてくださいな!」
ご都合主義の奇跡などない。彼女が使ったのは純然たる回復魔法の応用であり、人体構造の理を悪用した完璧な拷問だった。焼け焦げた肉と、切断された右腕の断面から伝わる激痛が百倍に増幅され、クラウスの自我を粉々に砕いていく。
「なんで……なんで、こんな……!」
血反吐を吐きながら、クラウスは涙と鼻水に塗れた顔で問うた。裏切られる理由がない。俺は全てを捧げてきた。命を削って、彼らを守ってきたのに。
レオンハルトがクラウスの髪を無造作に掴み、無惨な身体を床の上で引きずり始めた。激痛が百倍になった肉体が床の凹凸に擦れるたび、クラウスは声にならない絶叫を上げる。
「教えてやろう、クラウス。なぜ俺たちがお前のような無能な術士を、ここまで連れてきてやったのかを」
引きずり込まれた先は、迷宮の中央に位置する巨大な石の祭壇だった。そこには不気味な魔法陣が刻まれており、中央には心臓を捧げるための窪みがある。
「この『奈落の王冠』の最深部には、神の奇跡である『神髄のコア』が眠っている。だが、それを手に入れるためには、この祭壇を起動しなければならない。その鍵が何か、知っているか?」
レオンハルトはクラウスの顔を祭壇の冷たい石に押し付けた。
「『極上の魂の贄』だよ。それも、ただ殺すだけじゃダメだ。この祭壇は、強い信頼と愛情の絆で結ばれた仲間を、その信頼の絶頂で裏切り、最も深い絶望と憎悪に染め上げた瞬間に捧げられる魂のエネルギーを要求しているんだ。絶対的な信頼からの、絶対的な絶望。その落差が生み出す位相変化の魔力だけが、神髄のコアを呼び覚ます」
その言葉の意味を理解した瞬間、クラウスの心の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
「俺たちは最初から、この時のためだけにお前をパーティに入れたんだよ。お前が俺たちを信じれば信じるほど、お前が自己犠牲を払って俺たちに尽くせば尽くすほど、贄としての価値が高まる。……いやぁ、滑稽だったぜ? 裏で俺たちが嘲笑っているとも知らずに、必死に『俺がみんなを守るんだ』って徹夜で刻印の設計図を描いていたお前の姿はよ!」
「……あ……あ……」
クラウスの口から、空気が漏れるような音がこぼれた。全ては仕組まれていた。出会いも、共に乗り越えた数々の死線も、夜営の火を囲んで語り合った夢も。彼らは最初から、クラウスを『よく肥えた豚』として育て、この祭壇の上で屠る日を待ち望んでいたのだ。
「さあ、極上の絶望を見せてくれ。お前の無価値な人生の集大成だ」
レオンハルトが靴の裏で、クラウスの残された左手を踏み潰した。バキィッ、という無惨な音と共に、指の骨が粉砕される。
激痛。だが、クラウスの心は、もはや痛みに支配されてはいなかった。
絶望の底の底を突き抜けた時、感情は反転する。激しい悲しみと怒りは、瞬時にして極低温の、静かで純粋な『殺意』へと結晶化した。
(許さない)
涙は枯れた。声はもう出ない。クラウスの瞳から光が消え、底知れぬ暗黒の淵のような虚無が宿る。
(許さない。許さない。許さない。俺の命も、尊厳も、誇りも、何もかもを弄んだお前らを、絶対に許さない)
クラウスの体から流れ出た血が、祭壇の溝を埋めていく。本来ならば、その血と絶望の魔力が祭壇に吸収され、儀式は完了するはずだった。だが、クラウスの血は異常な反応を示していた。
天賦の才を持つ刻印術士の血には、極小の魔力回路が宿っている。クラウスの純度100パーセントの殺意と憎悪が、流れる自らの血そのものをインクとし、無意識のうちに祭壇の古代術式を強制的に書き換え始めていたのだ。
(俺が受けた痛み、俺が受けた絶望、俺が奪われた全てを……。等価じゃない。そんなものでは足りない)
祭壇の溝を流れる血が、黒く変色し、禍々しい幾何学模様――『等価倍加の刻印』を形成していく。それは、入力された事象のエネルギーを完璧に保存し、二倍の威力となって対象に強制送還する、神の理すら冒涜する禁忌の呪いだった。
(倍だ。お前たちの誇りも、肉体も、精神も、術式も。全てを緻密に解体し、俺が味わった以上の激痛を、二倍にして叩き返してやる)
クラウスの虚ろで真っ黒な瞳が、レオンハルトを見上げた。その異常なまでの冷たさと、呪詛のような視線に、勇者は一瞬背筋を凍らせた。
「……チッ、薄気味悪い目で見やがって。もういい、とっとと落ちろ」
レオンハルトは舌打ちをすると、祭壇の端に横たわるクラウスの体を強く蹴り飛ばした。
祭壇の背後には、迷宮の最下層へと続く、底なしの奈落の縦穴が口を開けている。
クラウスの体は宙に浮き、そして、永遠にも思える深い闇の中へと真っ逆さまに落下していった。
落下していく最中、クラウスの胸の中心に、祭壇で書き換えられた真っ黒な『倍加の刻印』が、ジュウウッと音を立てて肉に焼き付き、魂の奥底へと定着していく。
それは、世界で最も冷酷で、最も論理的な、復讐のシステムの産声であった。
クラウスの意識は、暗黒の底へと沈んでいった。
闇の中を落下しながら、クラウスの思考は驚くべきほどに澄み渡っていた。痛みすらも、今は遠い出来事のように感じられる。脳の回路が、生存本能ではなく『復讐』という単一の目的のために、すべてのリソースを最適化し始めたのだ。
(レオンハルトの剣撃速度は秒速七メートル。斬撃の瞬間の魔力放出量は約三千ユニット。俺の右腕を切断するのに使われたエネルギー。そのすべてを、いずれ奴の利き腕にそっくりそのまま、二倍にして返却する)
(カイの熱収縮魔炎。温度は推定千二百度。焼却された筋繊維の数、溶解した血管の長さ。俺の脚を奪った理屈っぽい魔術の理論ごと、奴の魔力回路を暴走させ、内側から二倍の熱量で破裂させる)
(セレスティア。俺の神経伝達を百倍に増幅させた術式。あの『超感覚祝福』のアルゴリズムは理解した。奴が他者に与えてきた苦痛、そして俺に与えた絶望の悲鳴。すべてを奴自身の脳髄に、二倍の知覚過敏として直接叩き込み、永遠に狂い続ける肉塊に変えてやる)
風が耳元で轟音を立てて通り過ぎていく。血を流しすぎたことで、体温は急速に奪われ、視界は完全に真っ黒に塗りつぶされていた。普通であれば、奈落の底に激突する前にショック死しているところだ。
しかし、胸に焼き付いた『等価倍加の刻印』が、かすかな黒い脈動を打ち、クラウスの命を強引に繋ぎ止めていた。この呪いは、対価を取り立てるまでは宿主を死なせない。復讐という名の借金取りが、債務者を地獄の果てまで追い詰めるための、呪われたライセンス。
(俺は死なない。絶対に死なない。あいつらを一人残らず、この手で解体するまでは)
ご都合主義の奇跡は起きない。空を飛ぶ能力が目覚めることもない。落下による物理的な衝撃は、確実にクラウスの肉体を破壊するだろう。だが、たとえ全身の骨が砕け散ろうとも、この呪いがある限り、泥を啜ってでも這い上がり、必ず彼らの前に姿を現す。
やがて、クラウスの意識は、落下先の最下層から漂ってくる、冷たく、異質で、それでいてひどく孤独な魔力の気配を捉えた。
それは、彼と同じように世界から廃棄され、光の届かない場所で鎖に繋がれた『何か』の気配だった。
――ズドンッ!!
直後、クラウスの肉体は奈落の底の廃棄施設、冷たい鉄屑の山に激突し、残された全身の骨という骨が凄惨な音を立てて砕け散った。激しい衝撃と共に、彼の意識はついに完全な暗闇へと溶け込んでいった。
だが、彼の胸の奥で、どす黒い刻印だけが、静かに、そして確実に、復讐の炎を燃やし続けていた。
無音だった。
あらゆる音が失われた世界の中で、ただ一つ、規則的な「水滴の音」だけが脳髄の奥底で響いていた。
ポタリ、ポタリ。
それは、クラウスの右肩の断面から漏れ出す血液が、冷たく錆びついた鉄板を叩く音だった。
(……俺は、生きているのか?)
深淵の闇の中で、クラウスの意識がゆっくりと浮上してくる。
本来ならば、即死だったはずだ。高所からの落下による物理的な衝撃力は、物体の質量と運動速度に比例する。第百階層からの落下の末、鉄屑と廃魔導器具が積もった床へ叩きつけられたクラウスの肉体は、内臓が破裂し、頸椎が砕け、全身の骨組織が粉々に粉砕されていた。生理学的に見ても、生命活動を維持できる数値など何一つ残っていない。
だが――彼は死ねなかった。
ジュウウウッ、と。
胸の中心が、灼熱の鉄を押し当てられたように熱い。
クラウスの肋骨が砕け、皮膚が裂けた胸の上で、黒い幾何学模様――『等価倍加の刻印』が、不気味に明滅していた。
この刻印は、甘美な奇跡や祝福などでは断じてない。それは、厳密な「対価の計算」によってのみ動く呪縛の回路だった。
刻印が起動するための原則。それは『入力された損害と激痛の保存』である。
クラウスがレオンハルトに右腕を切断され、カイに両脚を灼き溶かされ、セレスティアによって神経の伝達効率を百倍に引き上げられた際の「総損害量」と「激痛の閾値」。それらがエネルギーとして魂に記録されている。
もしクラウスがここでショック死、あるいは激突死してしまえば、記録されたエネルギーの回収――つまり、対象への「二倍の返却」という計算式が完了しない。
ゆえに、刻印は強行採決を行った。
クラウスの魂に貯蔵された「激痛」そのものを生体魔力へと逆変換し、心臓の筋肉を強制的に痙攣させて血液を巡らせ、砕けた骨と壊死した筋肉を「死滅したままの状態で繋ぎ止める」という、狂気の延命処置を開始したのだ。
「ぐっ……あ……っ、カはッ……!」
クラウスは口から黒い血の塊を吐き出した。
全身を襲うのは、死を超越した激痛だった。砕けた骨の破片が筋肉と神経を刺し穿ち、失われた右腕と両脚の幻肢が、セレスティアの『超感覚祝福』によって百倍に増幅された痛みの記憶を何度も何度もリフレインさせる。
息を吸うだけで、肺胞が砕けた肋骨の尖端に触れ、激痛で視界が真っ白に染まる。
しかし、クラウスの瞳から光は失われていなかった。涙も流れない。彼の思考は、氷のように冷たく、異常なまでの冴えを見せていた。
(右腕消失。肩関節から先が欠損。出血量は約一・二リットル……刻印による血栓形成で止血完了)
(両脚……膝下三センチより先が炭化、および不完全粉砕。運動機能は完全に喪失)
(左手……五本の指の骨がすべて粉砕。だが、関節の可動域を無視して締め上げれば、爪先と肘を使って体を牽引することは可能)
自分の壊れた体を、まるで他人事のように冷徹に分析する。
かつて、パーティの安全のために敵の攻撃パターンや魔力配分を計算していた彼の頭脳は、今や「この肉体を如何にして動かし、仇どもを殺すか」という一点のためだけにフル回転していた。
「あいつらを……逃がさない……」
声帯が潰れ、擦れたガラガラ声が漏れる。
クラウスは動かない両脚を引きずり、唯一残された左腕の肘と、砕けた顎を床に押し当てて、前へと這い出し始めた。
ズリッ、ズリッ。
鉄屑と石畳が、クラウスの胸の肉を削り取る。血の尾が、闇の中に太く描かれていく。
痛みなど、もはやどうでもよかった。痛みは彼にとって、自分が生きている証であり、レオンハルトたちから回収すべき「債権の領収書」に過ぎない。
周囲の光景が、わずかに視界に映り始める。
そこは、神聖帝国アスタルゴが歴史の裏側で隠蔽し続けてきた『絶対廃棄区域』だった。
迷宮の最下層に位置するこの広大な空間には、使い古された魔導兵器の残骸、禁忌の実験によって腐敗した人造人間の体組織、そして教皇庁の思想に合致しなかったために「処理」された人間の遺骨が、山のように堆積していた。
帝国は「神の加護を受けた光の国」を謳っている。だが、その光の足元には、このように目を覆うばかりの醜悪な汚物が捨てるように積み上げられていたのだ。
(ふ……ふはっ、おあつらえ向きじゃないか)
クラウスは血を吐きながら、冷酷に嗤った。
(光の英雄たちが……俺を捨てる場所としては、これ以上ない最高の一等地だ)
ズリッ、ズリッ、と這い進むこと数十分。
どれほどの血を流しただろうか。普通ならば三度死んでいるはずの血流量だが、胸の『等価倍加の刻印』が黒く光るたび、彼の血小板と魔力が異常結合し、傷口を無理やり塞いでいく。
やがて、クラウスの指先が、ひんやりとした何かに触れた。
それは、周囲の錆びついた鉄屑とは明らかに異質の、透き通るような純度を持つ「古代魔導ガラス」の破片だった。
ふと視線を上げると、暗闇の奥深く、鉄屑の山に埋もれるようにして、一つの中空構造の巨大な培養槽が座礁していた。
培養槽は半ば叩き割られており、中から溢れ出た粘度の高い緑色の培養液が、床に池を作っている。
そして、その液体の中に――「それ」は横たわっていた。
「…………」
クラウスの動きが止まる。
そこにいたのは、ひとりの少女だった。
年齢は十六、七ほどに見える。肌は透き通るように白く、月光を切り取ったかのような美しい銀髪が、汚れた培養液の中に広がっていた。
だが、その身体は「人間」と呼ぶにはあまりにも歪で、あまりにも残酷な改変が施されていた。
彼女の背中からは、筋肉と皮膚を突き破るようにして、白銀の魔導結晶で形成された四本の「人工骨格」が生え出ていた。それらは痛々しく折れ曲がり、かつて強力な兵器として接続されていたであろう太い魔導ケーブルが、彼女の頚椎と腰椎に直接打ち込まれている。
さらに、彼女の喉元には、声帯を物理的に破壊し、魔力の暴走を防ぐための「沈黙の刻印」が、焼き印のように黒々と刻まれていた。
彼女の四肢は、太い不活性化の魔法鎖で拘束され、胸元には『被体番号・零七号:不適合につき破棄』という、血塗られた金属プレートが打ち付けられている。
少女は、死んではいなかった。
クラウスが這い寄る気配を感じ取ったのか、彼女の長いまつ毛がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
そこに現れたのは、異形としか言いようのない、神秘的で、どこか恐ろしい「銀色の瞳」だった。
少女の瞳には、感情というものが存在しなかった。
絶望も、悲しみも、恐怖すらもない。ただ、ただ平坦な虚無。長年の拷問と人体実験によって、心の底から自我を押し潰され、生きる意思そのものを剥ぎ取られた人間の瞳だった。
クラウスと、少女の視線が交錯する。
血塗られ、四肢を奪われ、化け物のような怨念を宿した男。
背中に人工の器官を植え付けられ、声を奪われ、廃棄された少女。
二人の「捨てられた者」が、地獄の底で静かに対峙していた。
(……セレスティアだ)
クラウスは、少女の首筋に刻まれた術式の精度と、魔導ケーブルの結合パターンを見て、即座に悟った。
この少女を造り上げ、そして失敗作としてここに投げ捨てたのは、教皇庁の内務特務機関――すなわち、聖女セレスティアとその実家である「聖導術式研究所」の手によるものだ。
セレスティアは表向き、病に苦しむ孤児たちを救う慈愛の聖女として知られていた。しかし、その裏で彼女は、孤児たちを集めて生体実験を繰り返し、自らの聖導魔法を高めるための「生きた魔力バッテリー」を開発していたのだ。
この少女は、その実験の過酷さに耐えかねて肉体が変異し、不要物として処分された末路だった。
「……お前も……か」
クラウスの喉から、掠れた声が漏れる。
「お前も……あいつらの……欺瞞の犠牲者か……」
少女は応えない。声帯がないのだから当たり前だ。
だが、彼女の銀色の瞳が、クラウスの胸に刻まれた『等価倍加の刻印』の脈動をじっと見つめていた。
彼女の背中から生えた折れた魔導アームが、ピクりと微かに震える。彼女自身の中に眠る、膨大な魔力炉が、クラウスの放射する極低温の殺意に反応していた。
二人の間に、目に見えない魔力の干渉波が走り、バチバチと青い火花が散る。
クラウスは察した。
この少女の体内に組み込まれている魔力炉は、あまりにも巨大すぎる。その容量に少女の精神が耐えきれず、結果として身体が異形化し、制御不能となったのだ。
そして今、彼女の拘束鎖には、彼女の魔力を絶え間なく外部へ放電させ、緩やかに衰弱死させるための『減殺の術式』が掛けられている。
このまま放置すれば、彼女はあと数日で、自らの魔力に焼き尽くされて死ぬ。
(ご都合主義の奇跡など、この世にはない)
クラウスは思考する。
(俺がこいつを『可哀想だから』と救う理由もない。俺にはもう、他人に分け与える優しさなど一滴も残っていない)
クラウスは残された左手の、砕けた指先を無理やり曲げた。激痛が走るが、無視する。
指先から流れる自らの血を、砕けたガラスの破片になすりつけ、それをナイフのように握りしめた。
「おい……聞こえるか、欠陥品」
クラウスは少女の至近距離まで這い寄り、彼女の顔を覗き込んだ。
「俺は、地上へ戻る。そして……俺の手足を奪い、俺の尊厳を踏みにじった奴らを、一人残らず解体する」
少女の銀色の瞳が、瞬きもせずにクラウスを見る。
「だが……今の俺の肉体では、圧倒的に魔力が足りない。あいつらを『二倍』にして殺すための……演算用の魔力基盤がな」
クラウスは、ガラス片を握る手を、少女の胸元――拘束鎖の核心部へと向けた。
「お前の中に眠るその不吉な魔力……俺に貸せ。お前を縛るその『減殺の術式』を、俺の刻印で上書きして破壊してやる。その代わり……お前の命も、その異形の力も、すべて俺の復讐の道具として使わせてもらう」
それは、救済の差し伸べではない。
地獄の底で交わされる、悪魔との契約だ。
利害の一致。復讐者と、破棄された兵器の、血塗られた同盟。
少女の顔に、初めて変化が現れた。
彼女の虚無だった瞳の奥底に、小さな、しかし消えることのない「一筋の光」が灯ったのだ。
それは、生きる希望などではない。
自分を言葉の出ない道具として扱い、虫ケラのように捨てた世界に対する――静かなる「拒絶」の意思だった。
少女は、喋れない口を僅かに開くと、首を縦に振り……クラウスに向かって、その傷だらけの細い右手を、静かに伸ばした。
言葉はいらなかった。
二人を繋いでいるのは、愛でも絆でもない。自分たちを奈落へと突き落とした光の世界への、絶対的な怒りだった。
「契約成立だ」
クラウスは少女の手に、血塗られた自らの左手を重ね合わせた。
――ジュウウウウウウウウッ!!
クラウスの胸の『等価倍加の刻印』から、黒い稲妻のような魔力が噴き出し、少女の身体へと流れ込んでいく。
クラウスが流した血が、少女の首元にある「沈黙の刻印」と、全身を縛る「減殺の拘束鎖」の上に、新たな回路を描き出していく。
クラウスの持つ知識。それは神聖帝国アスタルゴにおいて、最高の精密さを誇る刻印術士としての技術だった。
彼は、少女の体内で暴走している巨大な魔力を排除しようとするのではない。
少女の体内の魔力回路を『二倍の容量』に拡張し、暴走するエネルギーをそのまま「出力」として固定する、破天荒な術式変換を行ったのだ。
ガキンッ! ボカンッ!
少女を縛っていた太い魔法鎖が、耐え切れずに内側から弾け飛び、砕け散った。
「ア……っ……!」
少女の口から、掠れた声が漏れた。
首元に刻まれていた「沈黙の刻印」が、クラウスの血によって侵食され、完膚なきまでに書き換えられたのだ。
それだけではない。
少女の背中から生えていた白銀の魔導アームが、クラウスの魔力と同期し、力強い音を立てて展開された。
アームの先端から放たれる青白い魔力光が、暗闇の廃棄場を鮮やかに照らし出す。
少女はゆっくりと身体を起こした。
拘束から解き放たれた彼女の体内で、これまで彼女を苦しめていた膨大な魔力が、完璧な秩序を持って循環し始めていた。
少女は自らの手を見つめ、それから……倒れ伏すクラウスを見下ろした。
彼女の瞳からは虚無が消え、そこにはクラウスに対する、絶対的な「服従」と「依存」の色が宿っていた。
彼女にとって、自分を道具として弄んだセレスティアたちは憎悪の対象であり、自分に「復讐のための役割」を与えてくれたクラウスこそが、この暗闇の中で唯一の存在となったのだ。
「……私の、マスター……」
声帯が再構築され、少女の口から、鈴を転がすような美しくも冷ややかな声が溢れ出た。
まだ拙い発声だが、そこには明確な意思があった。
「私には……名前がありません……。『零七号』……それが、私でした……」
「名前か……」
クラウスは息を荒くしながら、血の混じった笑みを浮かべた。
「俺の妹の名から取ろう……エレノアだ。今日から、お前はエレノアだ」
「エレノア……」
少女――エレノアは、その名を舌の上で確かめるように呟くと、深く、愛おしそうに目を閉じた。
「はい……マスター・クラウス。私は……あなたの刃となります……」
エレノアは膝をつくと、背中の魔導アームを器用に動かし、クラウスの崩壊した肉体を優しく抱き上げた。
彼女の体から放出される澄み渡った魔力が、クラウスの胸の『等価倍加の刻印』に供給されていく。
その膨大な魔力を得て、クラウスの刻印術が次の段階へと移行した。
ジュウッ……ガガガガッ!
周囲に転がっていた高品質の廃魔導金属、破損した神聖鎧の断片、そして高密度の魔導回路が、磁石に引き寄せられるようにしてクラウスの体に集まり始めた。
クラウスは自身の血を触媒とし、それらの金属廃材を、失われた自らの肉体の「代替品」として組み上げていく。
切断された右腕の断面に、強固な黒銀の魔導義手(刻印義肢)が接合される。
炭化し、砕け散った両脚の骨格に、高硬度の魔導合金が打ち込まれ、精密な関節駆動回路が構築されていく。
ご都合主義の生体再生ではない。
これは、無機物の廃材を自らの肉体に直接ボルト止めし、魔力回路で強制駆動させるという、凄惨きわまりない「機械化治療」だった。
「ガっ……あ、アアアアアッ!」
金属が肉と骨に食い込む激痛に、クラウスは歯を食いしばる。
だが、痛みが強ければ強いほど、胸の刻印は鋭く光り輝き、彼の精神を冷徹な殺戮マシンへと研ぎ澄ませていく。
数十分後。
そこに立っていたのは、もはやかつての穏やかな支援術士・クラウスではなかった。
右腕は禍々しい黒銀の魔導義手。
両脚は廃金属と刻印回路で補強された、異形の脚部。
胸元には、禍々しく脈動する『等価倍加の刻印』。
そしてその傍らには、銀髪をなびかせ、背中に殺戮の魔導アームを従えた異形の少女・エレノア。
二人の復讐者が、地獄の底で完全なる誕生を果たした。
クラウスは新しく接合された右の魔導義手を握り込み、指関節が軋む音を響かせた。
ズン……ズン……。
新しい脚で、大地を踏みしめる。
重厚な金属音が、廃棄場の静寂を切り裂いた。
「レオンハルト……カイ……セレスティア……」
クラウスは顔を上げた。
頭上遥か彼方、かすかに見やす光の刺す地上――『神聖帝国アスタルゴ』の王都が存在する方角を見つめる。
彼の瞳には、地獄の業火よりも暗く、深い殺意が渦巻いていた。
「待っていろ。お前たちが築き上げた偽りの栄光、英雄の誇り、聖女の微笑み……そのすべてを、俺たちが『二倍の激痛』に変えて回収してやる」
クラウスの計算は、すでに始まっていた。
敵の防衛網の弱点、帝国の魔力供給システムの構造、そして元仲間たちの心理的隙。
すべてを理詰めで破滅へと導く、緻密な自滅のシナリオ。
「行きましょう……マスター」
エレノアがクラウスの隣に並び、静かに、しかし決意を込めて告げた。
「あなたを害するすべてを……砕くために」
ふたりは、光の届かない奈落の暗闇を抜け出し、地上へと続く長い長い復讐の階段を歩み始めた。
神聖帝国アスタルゴの崩壊と、裏切り者たちへの過酷なる解体劇の幕が、今、静かに切って落とされたのだった。




