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9話 ~契約~

 

「俺は、今を変えたいんだ。そのためには、どうしても力が要る。……それに」


 餓狼は一度言葉を切ると、少し気まずそうに、けれど真っ直ぐに黒龍を見上げた。


「……俺、子供の頃から、ずっとドラゴンが好きだったんだ。だから、お前が人間にそんな姿にさせられて生殺しにされてるの、見ていられない」


『――ワシを、哀れむというのか?』


「……駄目か?」


 厳めしい顔をしていたリイルの表情が一瞬で崩れた。


 不安そうに問いかけてきた餓狼の表情が、生まれたばかりの赤子のような、純粋無垢な顔をしていたからだ。


「俺はさ、寝る前によく思い描いているんだ。ドラゴンの背中に乗って、大空を好きなように飛び回る。そうすれば、夢の中でその続きが見られるんじゃないかって、ずっと思ってた……」


 ベッドの中で小さな手を伸ばしていた少年時代の記憶。リイルは黄金の眼眸を優しく細め、チェロのように低い声を静かに響かせた。


『クク……。ワシの背は、人間の乗り物ではないわ、餓狼』

「そうか、やっぱり駄目なのか!?」



 目に見えてガッカリと肩を落とす餓狼に、黒龍はどこか悪戯っぽく含み笑いをもらす。


『……まぁ、絶対に無い、とは言い切れんがな』


「えっ!?」


『確約はせん。だが、いつの日かワシが気の迷いを起こして

「乗っても良いぞ」などと言い出す時が来ないとも限らん。世の中に「絶対」などという言葉は存在せぬのだからな』


 龍としての矜持を保ちながらも、傷ついた少年の夢を優しく包み込み、未来への希望を持たせる言葉。


 厳格な父親のようであり、包容力のある母親のようでもあるリイルの言葉が、餓狼の背中を強く、強く押し上げた。


「……契約、したい」


 もう、恐怖も迷いもなかった。


『後悔することになるかもしれんぞ?』


「そんなの、後から考える」


 15歳ならではの自分勝手で、一切の計算がない真っ白な決意。

 それを聞いたリイルの獰猛な口の端が、にゅっと、嬉しそうに釣り上がった。


『――そうか。ならば、もっとこっちへ来い』


 餓狼は深く息を吸い込むと、吸い寄せられるように、自らの足でドラゴンへと近づいていった。


 間近で感じる、圧倒的な熱気と巨躯の威圧感。


 餓狼は震える右手をゆっくりと伸ばし――その鈍い漆黒の光を放つリイルの鱗に、そっと、手のひらを触れた。


 ひんやりとした龍の体温が、手のひらを通じて伝わってくる。


『――それと、言い忘れていたことがあったな』


 ふいに、リイルの大きな黄金の眼眸が、すっと下を向いた。

 餓狼がその視線に奇妙な違和感を覚えたのは、本当に、ほんの一瞬のこと。


 次の瞬間、リイルは信じられないほどの速度で巨大な首を振った。


 ――ぶちッ。


 暗闇の洞窟に、生々しい肉繊維が引きちぎれる音が、不快なほど鮮明に響き渡った。


 餓狼の背筋が、一瞬で凍りつく。


「なっ…………」


 声にならなかった。


 自分の右腕が、肘の先から消失していた。漆黒の龍の牙に、今まさに自分の肉と骨が噛み砕かれ、真っ赤な鮮血が噴き出していく光景が、まるでスローモーションのように餓狼の目に映った。


『……悪く思うなよ?』


 黒い喉からゴクリという音が聞こえた。


 餓狼はただ、信じられないというように大きく目を見開いたまま――ゆっくりと、赤茶けた地面へと崩れ落ちていった。







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