10話 ~目覚め~
目を覚ますと、視界の真正面に、不気味なほど巨大な黄金の月が浮かんでいた。
「……ん?」
間の抜けた声を出しながら、餓狼は上半身を起こして周囲を見渡した。
肌を撫でる夜の冷気。あたりを囲む鬱蒼とした木々と、湿った土の匂い。そこは東京タワーの地下66階などではなく、どこか見知らぬ深い森の中だった。
「痛たた……」
腰を摩っているうちに、脳の奥から濁流のように記憶が蘇ってくる。
東京タワーの地下、黒龍リイル、対等な対話、そして――『言い忘れていたことがあったな』という言葉の直後、自分の右腕を容赦なく食いちぎった、あの悍ましい牙の感触。
「ええと……だとしても、辻褄が合わないだろ」
混乱する餓狼の耳に、聞き覚えのあるチェロのような重低音が届いた。
『ようやくお目覚めか、餓狼』
どこかユーモラスな響きを含んだ声音。
そちらに目を向けると、夜の闇に同化するようにして、巨大な黒いドラゴンが静かに地面に寝そべっていた。
「あ――!」
餓狼はハッとして、慌てて自分の右腕に目を落とした。
「……ある!」
夢じゃなかった。あの時、確かに肘の先から綺麗に食いちぎられたはずの右腕が、そこにはちゃんと存在していた。恐る恐る五本の指をグーパーと動かしてみても、神経の繋がりになんの違和感もない。
「けど、何だこれ………」
大きさも、動かしやすさも元の腕と全く同じ。しかし、皮膚の色が明らかに違っていた。
肘の境界線から先が、まるで深夜の闇を切り取って貼り付けたかのような、禍々しくも美しい「漆黒」に変色している。それは紛れもなく、リイルの鱗と同じ色彩だった。
「……どういうことだよ、これ!」
餓狼は立ち上がり、寝そべっているリイルへと大股で近づいて問い詰めた。
不思議と、もう恐怖は一切なかった。それよりも、騙し討ちのような形で腕を食いちぎられたことへの「怒り」が勝っていた。
『仕方がなかろう。契約を交わすためには、等価の代償が必要なのだ』
「代償?」
『本来、交わるはずのない別々の魂を一つに繋ぎ合わせるのだ。かなり高度で強引な呪法だからな。……それに、代償を払ったのはお主だけではないぞ』
「え……?」
リイルは巨大な首を少しだけ揺らし、自身の身体を見下ろした。
『ワシも、少なくない量の『血』を失った。そのお陰でお主の右手は戻ってきた。……まぁ、ワシの鱗と同じ、漆黒の色に染まってはしまったがな』
「そうだったのか……」
ただ奪われたわけではなかった。リイルもまた、その身を削っていたのだ。
『これがもし、現世に実体を持たぬ通常の精霊を相手にした契約だとしたら、一度失った右腕は二度と戻ってこん。実体を持たぬ霊には、お主に差し出せる肉など無いからな』
「……」
餓狼は口をパクパクと動かしたが言葉は出なかった。初めて聞く情報ばかりで、脳が処理しきれなかったのだ。
『先人たちの記録を見よ。未熟な契約の末に両手両足、目や耳、果ては命そのものを吸い尽くされた人間のなんと多いことか。それに比べれば、お主の払った代償など軽いものだ。無いに等しいと言っても良い』
「……そうだったのか。ごめん、何も知らずに、勝手に怒ったりして」
『――気にするな』
さっきまで大声を上げて怒っていた餓狼が、いまは昔話を聞く子供のような、純粋な目で自分の話に耳を傾けている。リイルはその現金な少年性を、喉の奥で優しく微笑んだ。
「……ところで、ここはどこなんだ?」
ようやく状況に納得したらしい餓狼は、改めて周囲の深い森を見回した。
『わからん』
「はあ!? どうして分からない場所にわざわざ連れてきたんだよ!」
『この山は、周辺の土地に比べて純度の高い霊力が満ちている。ワシの負った傷を癒やすのに、丁度いい環境だったのだ』
「そうか……。リイルの身体、あちこちにあのエグい銛が刺さったままだもんな」
まだ完全に抜けきっていない封印の残骸を思い出し、餓狼が痛ましそうに呟く。するとリイルは、どこかからかいを含んだチェロのような声を響かせた。
『ワシの心配をするよりも、まずは自分の心配をした方が良いぞ』
「何が?」
『お主がワシと契約を交わし、意識を失ったあの夜から、すでに三日が経っている』
「……ふぇ!?」
餓狼はマヌケな声を上げて、その場で思いきり跳び上がった。
『いきなり三日も姿を消せば、お主の家族が心配するのではないかと思ってな。……ワシの余計なお世話であれば良いのだが――』
リイルがその言葉をすべて言い終わるよりも早く、餓狼の身体は弾かれたように走り出していた。
「向日葵……っ!!」
即座に妹の顔が思い浮かんだ。
あの日「アイス買いにいってくる」と言ったまま、三日間も音信不通。あの心配性の妹がどんな顔をしているのか、想像しているだけで堪らなかった。
「一旦家に帰る!」
『ワシはしばらくここにいるから、何かあったら来い』
「分かった!」
漆黒に染まった右腕を強く握り締めながら、餓狼は夜の森を、我が家へと向かってがむしゃらに駆け抜けていった――。
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