8話 ~悪戯心~
恐ろしい。あまりにも恐ろしい。
自分はどうしてこんな所に来てしまったのか。黒きドラゴンを目の前にした餓狼の顔は、絶望と恐怖で無様に引きつっていた。
『おお、なんと情けない』
上を向くドラゴンの鼻から、フンと勢いよく空気が漏れた。それだけで突風のような風圧が餓狼を襲う。
『それが、偉大なる陰陽師を祖先に持つ者の姿か? そのように生まれたての子鹿のごとく足を震わせて……。おまけにそれを隠そうともせんとは、お前にはプライドというものが無いのか?自分が恐れていることを他者に悟られることが恥ずかしいという概念は無いのか?』
嘲笑されている。
その事実を理解した瞬間、恐怖に縛られていた脳味噌がゆっくりと回転を始めた。からからに乾いた喉に唾を呑み込ませる。
『おお、しかも小便まで漏らしているじゃないか。臭くてたまらん、あっちに行け、あっちにいけ小童』
「……っ!?」
慌てて自分の股間をまさぐった。しかし、そこに触れたのは、ユニクロのセールで買ったいつものチノパン。当然だが、どこも濡れてなどいない。サラサラのままだ。
「も、漏らしてなんかいないだろ……っ!」
『おお、そうか。スマンスマン、どうやらワシの見間違いだったようだ。足は情けなく震えてはいるが、漏らしてまではいなかったか』
「くそっ……!」
大きく笑うドラゴンの喉を見ながら、餓狼は自分が完全に揶揄われていたのだと気がついた。
「すー……、はー……」
餓狼はゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。
正体不明の熱い蒸気と、立ち込める濃厚な血の臭い。お世辞にも澄んだ空気とは言えなかったが、繰り返し深呼吸をすることで、心が落ち着いてくる。
「……お前が、リイルか?」
顔を上げた餓狼は、目の前にいる黒龍から目を逸らすことなく、問いかけた。
『そうだ』
「どうして、俺に声をかけてきたんだ?」
『ワシがこの悍ましき牢獄から脱するには、現世を生きる『契約者』が必要だ。そして餓狼、お前こそが最もそれに相応しいと感じ取ったのだ』
相応しい器。その言葉に、餓狼は自嘲気味に口元を歪めた。
「……買い被りすぎだ。俺は陰陽師の家系の中じゃ、誰もが認める『落ちこぼれ』なんだぞ」
『落ちこぼれ、だと?』
「そうだ。俺は普通の陰陽師なら持っていて当然の『身体強化術』を、自分で生み出すことも使うこともできない。空っぽの出来損ないなんだ」
吐き捨てるような告白。しかし、黒龍は怒るどころか、フンと鼻を鳴らして笑い飛ばした。
『ふん! それくらいのことが何だ。いまの陰陽師どもは、そんな些末な技術の優劣に囚われているのか。笑わせるな、陰陽師の真の強さはそこには無いわ』
「真の強さ……?」
『陰陽師という存在は、人ならざる高位の霊をその身に宿し、従えることにこそ真価がある。術者自身の細小な力など、さしたる意味を持たん。むしろ邪魔になることすらある』
リイルの言葉の意味を、餓狼は頭の中で必死に噛み砕こうとした。
そうだ、伝承に残る歴史上最高峰の陰陽師――安倍晴明は、自らの力ではなく、十二神将をはじめとする強力な式神たちを意のままに操ったとされている。
「だけど、いまの陰陽師の社会じゃ、式神を自分の身体に降ろして使うことは『禁忌』とされてるんだ」
『ほう? なぜだ』
「聞いた話だが、それによって過去に様々な事故が起きたせいらしい。操るはずの式神に精神を破壊されて死んだりとか」
『ふん! それは術者が未熟なせいだろう! そのような者達に基準に合わせていては、何ひとつ為すことなどできんではないか』
「俺は強くなれるんだな?」
『ワシの目に狂いはない。お主こそが、ワシの力を受け止めるに足る器だ』
「そうか……」
餓狼の胸の奥で、ドクンと熱い塊が跳ねた。
天から一筋降りてきた『救いの蜘蛛の糸』。
これを辿って行けば、窮屈で屈辱に満ちた泥沼から這い上がれるかもしれない。
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