33話
ロンドンは、この戦いを心から楽しんでいた。
対戦相手である三河屋は、思った以上に優れた魔法使いだった。息は上がり、困り果てたような顔をしてはいるが、その瞳の奥には確固たる勝利への意志が宿っている。
実は戦いが始まった当初、ロンドンには一つの不安があった。三河屋が少年(餓狼)を見捨てて、自分一人だけで逃げ出すのではないか、という懸念だ。
事前情報によれば、三河屋と餓狼は今日が初対面のはず。そんな見ず知らずのガキのために、命の危険を冒す義理などあるはずがない。だが、それはどうやら杞憂だったようだ。
「んぎぃぃーーーっ!」
三河屋の容赦のない一撃を喰らい、またしても一匹の蟻が見当違いの方向へとフラフラ走り去っていく。
(なるほど……。魔力に特別な『性質』を持たせるタイプの魔法使いですか。具体的に言えば、触れた対象の感覚を狂わせる類の術式ですね)
攻撃を喰らった蟻も、しばらく時間が経てば正気を取り戻して戻ってくる。つまり、あの効果には一定の時間制限があるということだ。
外殻が強靭な蟻であれば一時的に無力化されても問題はないが、もしロンドン自身が生身でアレを喰らってしまえば、その時点で敗北に等しかった。
感覚正常に戻るまでのわずかな間に百発は殴られるだろう。
相手は蟻の猛攻を躱しながら、一瞬の隙を突いてロンドン本体に攻撃を叩き込もうとしてくる。対するこちらは、それを絶対にやらせないよう距離を保つ。
戦術は実にシンプルだった。
――だがその時、ロンドンにとって完全に予想外の事態が発生した。
燕尾服のポケットの中で、彼の携帯電話が、耳をつんざくような大音量で突然鳴り響き始めたのだ。
ロンドンはピタリと足を止め、ある種の予感に導かれるようにして、とある方向へ目をやった。
視線の先には、自分の携帯電話を耳に当てたまま、じっとこちらを見つめている少年の姿があった。
「なるほど……」
ロンドンは、思わず笑みをこぼした。
少年が自分の連絡先を知っているはずがない。そんなあり得ない現象を引き起こす奇跡こそが『魔法』だ。つまりこの少年は、この状況で魔法使いとして覚醒したのだ。
「三河屋さん、本日は楽しい時間をありがとうございました。さすがの腕前、感服いたしました」
ロンドンは手をポンと一つ叩き、まだ状況を飲み込めず「一体何が起きたんだ」と訳の分からない表情をしている三河屋へ向かって礼儀正しく頭を下げた。
「というわけで……本日はこの辺りでお開きにいたしましょうか」
人間ほどもあった銀色の巨大な蟻たちはたちまち縮んでいき、ただの小さな蟻へと戻った。
「See you later」
二人へ向けて最後にもう一度にこりと微笑みかけると、ロンドンはそのまま優雅に向きを変え、富士の山を下りていった。
胸中には確かな満足感があった。
霧の向こうへ消え去っていくその後ろ姿を、三河屋も餓狼も、ただ無言で見送るだけで、追いかけることはなかった。
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