29話 ~蟻~
「と、いうわけで私はこれで失礼しましょうかね」
三河屋はそう言って、リュックを再び背負い直した。
「え、もう帰るのか?」
あまりの引き際の早さに、餓狼は意外そうな声を上げる。
「私の役目はもう終わりましたのでねぇ。ああ、アドバイスとしては……とりあえず魔力だけは完璧に扱えるようにしておいた方が良いでしょうな。まぁ、それに関しては心配ないでしょう。なにせ、素晴らしいお師匠さんもいらっしゃるみたいですからねぇ」
三河屋は寝そべる黒龍へチラリと視線を向け、へらりと笑う。
「それじゃあ、お元気で」
ひらひらと手を振り、そのまま下山しようとした三河屋の足が、ピタリと止まった。
「……どうした?」
不審に思った餓狼が問いかける。三河屋はちょび髭を指でなぞりながら、霧の奥をじっと見つめていた。
「何者かが、こっちに向かって急ペースで登ってきているねぇ」
「登山者か?」
「……いや。この独特の嫌な気配は……恐らく『契約者』だ」
「えっ!?」
三河屋の表情からさっきまでのふざけた調子が消え、一変して鋭く引き締まる。対する餓狼は、驚愕に目を見開いた。
『契約者』――それは、人間以外の超常の存在と血の契約を結んだ者のこと。現在の陰陽師の社会においては、異端であり絶対の禁忌とされている存在だ。
「おいリイル! どうして教えてくれなかったんだよ。気づいてただろ!?」
『ふん。お主もそろそろ、これくらいの気配には自分で気づけるようになった方が良いからな。教育の一環よ』
「なんだよそれ……っ!」
餓狼が不満げに口を尖らせた、その時だった。白く煙る濃霧の向こうから、一人の人影がゆっくりと姿を現した。
「グッドイブニング。ご機嫌いかがでしょうか、皆さま」
霧の中から歩み出てきたのは、あまりにも富士山の山頂に不釣り合いな『紳士』だった。
頭には黒いシルクハット、身体には仕立ての良い燕尾服。足元はピカピカに磨かれた革靴を履き、綺麗に整えられた口髭を蓄えている。一本のステッキを手に、優雅な笑みを浮かべてこちらへ歩いてくるその姿は、まるで古いイギリス映画の登場人物そのものだった。
「私のことは、どうぞ『ロンドン』とお呼びください。本日は、とある御方の高貴なご依頼により、ここまでやって参りました」
「依頼……!? 誰の依頼だ!」
「おっと、それは秘密です。――というわけで、さっそくですが我が可愛い魔物たちを、けしかけさせていただきますね」
ロンドンがステッキを軽く振ると、彼の背後の霧の中からそれは姿を現した。
カチカチと顎を鳴らす銀色の蟻。
それが普通の蟻と違うのは色だけではなく、その大きさ。成人男性ほどの体長がある。
「契約者同士の戦いというものがどういうものであるか……特等席でお見せいたしましょう。――行け!」
ロンドンが餓狼に向けてにこりと紳士的な微笑みを浮かべた瞬間、銀色の蟻たちは凄まじい速度で、なぜか三河屋に向かって一斉に突進を開始した。
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