26話 ~来訪者~
富士山の山頂には、今日も濃い霧が立ち込めている。
この異常な濃霧はここ二、三週間ずっと続いており、気象の専門家たちも「過去に類を見ない現象だ」と首をひねっていた。もちろん、その原因がここにいる黒龍の魔力だとは誰も知らない。
そんな霧に包まれた山頂で、全身びしょ濡れのまま地面に四つん這いになっているのが芦屋餓狼だ。彼の目の前には、相変わらず高速で渦巻く、50メートルプールほどもある巨大な水滴が浮いている。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
荒い呼吸とともに、時折嗚咽を漏らす。荒れ狂う水流に逆らって泳ぐ――この地獄の特訓に幾度となく挑戦してきたが、未だに一度として満足な結果を残せたことはなかった。
『悪くないぞ。着実に成長してきているではないか』
地面に寝そべりながら、気楽な声で言ったのは黒龍リイルだ。その大きな懐には、母猫から逃げ延びたのか、また戻ってきたらしい三匹の子猫たちがいて、今日もリイルの身体をアスレチック代わりに激しく暴れ回っている。
「……俺には、とてもそうは思えないけどな」
餓狼は、水に濡れて張り付いた前髪の隙間から、恨みがましい目をリイルに向けた。
『そんな目でワシを見るな。上手くいかないとしても、それはワシのせいではないわ』
「それはそうなんだけどさ……。なぁ、なんかもうちょっと、分かりやすいコツとかないわけ?」
『何度も教えているだろう。筋肉の力に頼るのではない。己の体内に巡る魔力に、明確な『意思』を通わせるのだ』
「無理!!」
餓狼はその場に大の字に寝そべり、まるで幼子のように顔を顰めた。
『おい、餓狼』
「なに……?」
『誰か来たぞ』
「……登山者か?」
餓狼は即座に体を起こしていった。
『いや、そうではない。これは……』
リイルの言葉に応じるように、白く立ち込める濃霧の向こうから、うっすらと黒い人影が浮かび上がってきた。その影は、こちらへ近づくにつれて徐々に濃くなっていく。
この数週間、山頂に異様な濃霧が発生してからは、一般の人間がここまで登ってきたことなど一度もなかった。
「いやー、参った参った……。まさかこんな場所にいるとはねぇ」
どこか軽い口調とともに霧を割って姿を現したのは、黒ぶちメガネにちょび髭を生やした、一見すると冴えない中年のオジサンだった。
「餓狼君、スマホの電源をずっと落としてるでしょ? そのせいで見つけるのが本当に難しいのなんのって。いやはや、参っちゃったよ」
まるで親しい親戚のように親しげに近づいてくるその人物に、餓狼は一瞬にして警戒心を強めた。
半袖のポロシャツに黒のスラックスという、街中ならどこにでもいるようなサラリーマンの休日スタイル。だが、ここは標高三千メートルを超える富士山の山頂だ。
普通のオジサンがそんな軽装で息一つ切らさずに上がってこれるはずがなかった。
「……誰だ?」
「私? 私のことは『三河屋』って呼んでくれよ。裏の業界じゃ、その名前で通ってるからさ」
「それ以上、近づくな」
餓狼が低く鋭い声を浴びせるが、三河屋はへらへらとした笑みを崩さない。
「おっと、そう警戒しなくていいよ。私はね、餓狼君のお父さんに頼まれて君を迎えにやってきたんだからさ。――つまり、君の『味方』ってこと」
(親父の……頼み……?)
予想外の言葉に、餓狼がわずかに警戒の糸を緩めかけた、その時だった。
『油断するなよ、餓狼』
脳内に直接、リイルの険しい警告の声が飛んだ。
『その者はなかなかの使い手だ。……気を引き締めよ。今のお主よりも、確実に『上』かもしれんぞ』
世界の王である黒龍にそこまで言わしめる男。餓狼の全身の肌に、目に見えないピリピリとした圧迫感が突き刺さる。
「ひょー! なんて迫力だい。やっぱり本物の、生のドラゴンは格が違うねぇ!」
三河屋と名乗る男が、感心したようにリイルの巨体へと視線を向けた。
餓狼はその一瞬の隙を逃さず、深く、大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「ブックマーク」と「いいね」を頂ければ大層喜びます。
評価を頂ければさらに喜びます。
☆5なら踊ります。




