物憑きの過去
今日もアイリス様が眠りにつくのを見守りながら、優しく微笑む。
健やかな寝顔を見つめながら、触れると壊れてしまわないか心配するかのようにそっと頬にかかる髪を梳かす。
「おやすみ、愛しい人…我が主」
その寝顔を見つめながら、思い出すのは過去のこと。
あの彼女には冷たすぎる家で過ごした日々。
そう。
あの家の中で私はアイリス様の“心の支え”であり、同時に“目撃者”だったーーー。
そこは特筆することもないくらい平凡な家庭だった。
特別に貧しいわけでもなく、特別に裕福なわけでもない。
ただ屋敷の住人が生活するには何も困らない。
父親がいて、母親がいて、可愛らしい子どもがいてーーー。
ただそんな中に一人、透明な少女がいた。
それがアイリス様だ。
本当に透明なわけではない。
何故なのかはわからない。
この特筆することもないくらい平凡な父親と母親はアイリスのことを“いないもの”として扱っている。
同じ顔の双子の姉のことは可愛がっているのに。
例えば、朝の食卓に彼女はあえて呼ばれない。
彼女は名前を呼ばれる姉と違い、いつものことのように朝食の時間になると自ら食卓へ向かう。
彼女は声もかけない。
父親と母親に挨拶をしても、その言葉は霧のように消えてしまうことを知っているからだ。
彼女に声をかけるのは唯一、彼女の双子の姉だけ。
父親と母親と姉の三人の笑い声が響くリビングで、アイリスだけがモノクロの影のように音もなく、ただそこに存在だけしている。
私だけが知っている。
アイリス様の瞳は本当は綺麗なのに。
いつもこの場所にいるときの瞳はまるでひび割れたガラス玉のよう。
絶望に慣れすぎて、涙の流し方さえ忘れてしまったような…そんな瞳。
一人ぼっちの部屋に戻って、彼女はやっと話し始める。
誰にも聞いてもらえない今日あったことを。
私は彼女に抱きしめられながら、彼女の声で語られる出来事を聞くのがとても好きだった。
許されるのなら、私が彼女を抱き返したい程に。
「今日はね、庭の隅に小さな青い花が咲いていたの。珍しいよね!」
ーーーええ。青は自然界でも珍しいですからね。それが分かる貴女はなんて賢い。
「お姉ちゃんのドレス、とっても素敵だった。お姉ちゃんは何を着ても似合うの。…私にも似合えば良いのにな」
ーーー貴女に似合わない訳がありません。どんな服を着ても、貴女は魅力的です。
「…お腹、ちょっとだけ空いちゃった。笑わないでね?」
ーーーおやつの時間ですからね。私が貴女の好きな甘いお菓子と美味しい紅茶を用意できれば、貴女にそんな思いはさせないのに。
彼女の体温はこの家の誰よりも人間らしくて、優しく温かい。
彼女はこんなに一生懸命にここで生きている。
でも。
私は動けないから、彼女を抱きしめることも彼女をここから連れ出すこともできない。
私は喋ることができないから、貴女を慰めることも他愛ないことを話すこともできない。
私にできるのは、彼女が涙を流したときにこの柔らかな身体で吸い取ることだけ。
彼女が眠るまで、その細い腕の中に収まって、彼女の心臓の音を聴き続けることだけ。
ただ、それだけ。
もし、私が人間みたいに身体が動いて、口が開いて、彼女に私の温もりを与えることができるのならーーー。
「んん…ヴィンセント…」
あの頃より大人になったアイリス様が寝言で私の名前を呼ぶ。
私は彼女の手を握った。
「…私は貴女の側にいますよ」
その体温と声で私の存在を感じた彼女はまた健やかに夢の世界へと戻ったようだ。
もう彼女はあの頃の彼女ではない。
私もあの頃の彼女の側で抱きしめられるだけだったぬいぐるみではない。
「…愛しています。貴女は私に愛されるためだけに、私は貴女のためだけにここにいるのですから…」
彼女の額にそっと口付ける。
私以上に彼女を愛している者なんていないだろう。
それは彼女の姉や忌まわしいあの死神だって例外ではない。
…でも、彼女はそうではないのかもしれない。
だから、何だと言うのか。
彼女の存在意義も私の存在意義も変わりはしない。
彼女の気持ちは彼女だけのものだ。
例え、その気持ちが自分だけに向いていなくても彼女が私に愛されるためだけに存在していることは変わりない。
どんな彼女でも私は彼女を愛している。
しかし、世界の安定のためにはあの死神が必要だった。
例え、それが諸刃の剣であったとしてもーーー。
…彼女が彼を拒絶するならば願ったり叶ったりだが。
高望みはしない。
本当に望んだものは手に入ったのだから。
私はそんなことを考えながら、また彼女の寝顔をしばらく眺めることにした。




