第八章 新しいスーツと、変わらない想い
内々定を承諾した六月から、健人の生活が急に軽くなったわけではなかった。
応募先の締切や面接はなくなったが、卒業研究の準備が本格的に始まった。残りの単位を確実に取るための講義もあり、夏まで続けると決めたカフェのアルバイトもある。
来年の春から働く会社からは、入社までに読んでおく資料と、内定者向けの学習案内が届いた。
情報技術の基礎用語。システムが作られる工程。情報を扱う際の決まり。文系の健人には、初めて見る言葉が多かった。
六月最後の日曜日、健人は美咲の部屋で、薄い入門書を開いていた。
美咲はリビングの反対側で、翌週の会議資料を確認している。
二人とも仕事や大学の作業を持ち込み、終わったら夕食を作る約束だった。
「要件定義って、何を定義するんですか」
健人が尋ねると、美咲は画面から顔を上げた。
「私に聞いてる?」
「ほかに誰もいません」
「私も詳しくないよ。使う人が何を必要としているか決めることじゃない?」
「たぶん、そうです」
「本に書いてあるでしょう」
「書いてある言葉の意味が分からないんです」
美咲は笑い、ノートパソコンを閉じた。
「会社へ質問してみたら?」
「入社前から、こんなことも知らないのかと思われませんか」
「知らないから研修があるんでしょう」
「そうですけど」
健人は本へ目を戻した。
内々定をもらった時は、自分の考えを見てもらえたことが嬉しかった。ところが、働くために必要な知識へ触れるほど、選ばれたことが間違いだったのではないかという不安が湧いた。
会社が期待した人間と、実際の自分が違うと気づかれるのが怖かった。
「健人くん」
「はい」
「質問しないで分かったふりをする方が、入社してから困ると思う」
「分かってます」
「分かってるけど、怖い?」
「はい」
美咲はそれ以上説得せず、資料を開き直した。
「私は、分からないまま会議に出した資料があって、先輩に全部やり直されたことがあるよ」
「何年目の時ですか」
「一年目」
「やっぱり一年目じゃないですか」
「今でもある」
「今も?」
「全部やり直しは減った。でも、自分が分かっていないことに、あとで気づくのはあるよ」
健人は少し安心した。
美咲が仕事について迷いなく話す姿しか見ていなかった頃は、彼女が何でも知っているように思えた。今は、その自信が失敗しないことから生まれたのではなく、失敗したあとに戻る方法をいくつも覚えたからだと分かる。
健人は会社から届いた連絡先を開いた。
質問の文章を何度も書き直し、送信した。
翌朝、採用担当者から返事が届いた。
健人の理解で大きくは違わないこと。入社前の資料は、すべて理解するためではなく、研修で聞いた時に一度見た言葉だと思える程度でよいこと。質問はいつでも送ってほしいこと。
最後に、分からない点を具体的に質問できているので心配はいらない、と添えられていた。
健人は美咲へ画面を見せた。
「聞いてよかったです」
「でしょう」
「美咲さんが正しかった」
「次も私が正しいとは限らないよ」
「今くらい、得意になってもいいのに」
「それをすると、健人くんが次から何でも私に聞くでしょう」
見抜かれ、健人は本を閉じた。
「夕食、作ります」
「逃げたね」
「今日は俺の担当です」
健人は台所へ立った。
内々定は、社会人として完成した証明ではなかった。
分からないことがある自分のまま、次の場所へ入る許可をもらっただけだった。
*
七月、健人は卒業研究の対象を、商店街にある休憩場所から、地域で使われる情報の伝わり方へ広げた。
昨年の聞き取りで、店先の椅子を必要とする人の中には、商店街へ来る前に催しや営業日の情報を得られず、外出を諦める人がいると知ったからだった。
インターネットで情報を出しても、誰もが見られるわけではない。紙の案内は手元に残るが、変更がすぐには届かない。店主は複数の方法で知らせたいと思っても、更新する時間がない。
健人はゼミの担当教員へ相談した。
「就職先に寄せすぎていないか」
研究計画を読んだ教員は、最初にそう尋ねた。
「情報技術の会社へ入るから、情報の研究にしたようにも見える」
健人は言葉に詰まった。
内々定を得た会社で働くことを意識したのは事実だった。将来に役立つ研究をしたいと思った。
「悪いとは言っていない」
教員は続けた。
「ただし、会社で評価される答えを先に置いたら、研究ではなくなる。技術を使えば解決できると決めずに、必要としない人の声も聞くこと」
「はい」
「昨年と同じだ。きれいにまとめようとするな」
健人は研究計画を持ち帰り、調査の質問を作り直した。
情報が届かず困った経験だけではなく、情報が多すぎて見なくなった経験も聞く。スマートフォンを使う人だけでなく、使わない人にも話を聞く。店主だけでなく、行政の広報を担当する人にも協力を依頼する。
夏の間、健人は商店街や地域の集会所へ通った。
美咲と会える日は減った。
美咲も秋に始まる新しい企画を担当し、取材や会議が続いていた。
二人は、会えないことを関係の不調と結びつけないようにした。予定が合わない週は、十五分だけ電話をした。疲れて話せない時は、無理に会話を続けず、おやすみと一言送った。
それでも、寂しくないわけではなかった。
八月半ば、美咲は休日に健人の調査が終わるのを、近くのカフェで待っていた。
予定では四時に終わるはずだった。
四時十五分、健人から連絡が来る。
『聞き取りが長くなっています。五時ごろになりそうです』
十二月に待ち合わせですれ違った経験から、遅れると分かった時点で連絡する約束を守っていた。
『分かりました。店で本を読んでいます』
美咲はそう返した。
五時前、健人は汗を流しながら店へ入ってきた。
「お待たせしました」
「走ってきた?」
「少しだけ」
「急がなくていいって送ったでしょう」
「待たせてると思うと、ゆっくり歩けません」
広瀬川で会った日にも、同じことを言っていた。
美咲はハンカチを渡した。
「今日は、何を聞いたの?」
「町内会の人に、災害情報について聞きました。スマートフォンの通知は早いけど、音が多いから切っている人もいました」
「必要なものまで届かなくなるね」
「はい。全部知らせればいいわけじゃないみたいです」
健人は水を一気に飲み、調査で聞いた話を続けた。
約束の時間を過ぎても、相手の話を途中で切れなかったこと。けれど美咲を待たせることが気になり、最後の方は時計ばかり見てしまったこと。
「私のせいで、調査に集中できなかった?」
「美咲さんのせいじゃないです。自分で約束を入れたから」
「次から、調査の日は会う約束をしない方がいいかな」
「会いたくないわけじゃありません」
「分かってるよ。でも、終わる時間が読めない日に、何時と決めると二人とも気になるでしょう。終わったら連絡して、まだ私が近くにいたら会う、くらいでもいいと思う」
健人は少し考えた。
「それだと、美咲さんが予定を決められません」
「私も自分の予定を入れるよ。合わなければ、別の日にする」
「会うことを、最初から諦めるみたいで嫌です」
「諦めるんじゃなくて、会えない可能性も入れておくの」
健人は納得しきれない顔をした。
美咲は、自分が同じことを言われた時の気持ちを想像した。仕事が終わる時刻が読めないから、最初から約束しない。合理的ではあるが、相手にとっては、自分との時間を最初に外されたように感じるかもしれない。
「じゃあ、こうしよう」
美咲は言った。
「調査のあとは、遅れても大丈夫な予定にする。店を予約するとか、時間が決まった映画は避ける。私も本を持ってくる。待てなくなったら先に帰るって連絡する」
「それなら、いいです」
「待ってる時間を、健人くんの借りにしない」
「俺も、急いで調査を終わらせません」
二人は、以前に決めた約束を、今の生活に合わせて直した。
最初に決めたことを守り続けるだけでは、変わる時間についていけない。
変わるたびに言い直すことも、二人が一緒にいるための方法だった。
*
十月、健人は内定式へ出席した。
会社から、紺色か黒の落ち着いたスーツで来るよう案内があった。
就職活動で着たスーツは、夜行バスや面接で何度も使い、袖口が少し傷んでいた。入社後にも着られるものを用意しようと考え、健人は休日に店を見に行った。
美咲へ相談すると、一緒に行こうかと言われた。
「選んでほしいわけじゃないです」
「分かってる。似合うか見るだけ」
「高いものを勧めませんか」
「予算はいくら?」
健人が金額を伝えると、美咲はうなずいた。
「その範囲で探そう」
店では、濃紺と灰色の二着を試した。
美咲は最初、濃紺の方が顔色が明るく見えると言った。店員も、入社後に使いやすいと勧めた。
健人は鏡の前で何度も向きを変えた。
「灰色の方が好きです」
「じゃあ、灰色にしたら」
「濃紺が似合うって言ったでしょう」
「似合うと思うのは濃紺。でも、着るのは健人くんだから」
「すぐ意見を変えますね」
「変えてないよ。似合う方と、選ぶ方は別」
健人は灰色をもう一度見た。
落ち着いた色だが、就職活動の学生らしさが少し薄く見えた。
「灰色にします」
「うん」
代金は健人が払った。
裾直しをしたスーツを受け取る日、美咲は仕事で来られなかった。健人は一人で受け取り、自宅のハンガーへかけた。
自分の部屋に、新しい生活の形が一つ増えた。
内定式では、来春に同期となる十二人と初めて顔を合わせた。
情報技術を学んだ人もいれば、健人と同じ文系出身者もいた。大学院で地域交通を研究した人、営業職を希望する人、何を担当するかまだ分からない人。
懇談の時間、隣に座った男性が話しかけてきた。
「相葉さんは、どうしてこの会社を選んだんですか」
健人は、就職活動で何度も話した志望動機を口にしかけ、やめた。
「利用する人と長く話しながら、作ったものを直していく仕事がしたいと思ったからです」
「入る前から、はっきりしてますね」
「面接を受けながら、やっと分かりました」
「俺は、地元で転勤が少ない会社を探していて」
「それも、大事な理由だと思います」
健人はそう答えた。
美咲の近くにいたいという気持ちを、就職先を選ぶ理由の一つにした自分を思い出した。仕事の内容だけで会社を選ばなければ、不真面目なのではないかと迷った時期もあった。
けれど働く場所は、仕事だけをする場所ではない。
住む街、会いたい人、使いたい時間も、自分の生活を形作る条件だった。
内定式を終え、会社の玄関を出ると、美咲へ写真を送った。
受付前で同期に撮ってもらった一枚だった。
『新しいスーツ、どうですか』
『似合ってる。灰色にしてよかったね』
『濃紺が似合うと言ってませんでしたか』
『自分で選んだ顔をしてるから、今は灰色の方が似合ってる』
健人は写真を見直した。
緊張して、笑顔は少し硬い。
それでも、就職活動を始めた冬より、自分が立つ場所を知っている顔に見えた。
*
十二月、美咲は二十八歳になった。
誕生日は平日だったため、二人は前の日曜日に会った。
健人は学生でも払える店を探し、昼の予約を取った。高価なコースではない。けれど、窓から広瀬川の見える落ち着いた店だった。
「無理してない?」
席へ着くなり美咲が尋ねる。
「してません。今月はバイトを多く入れました」
「それを無理って言うんじゃない?」
「大学の課題を減らしたわけではありません」
「休む時間を減らしたでしょう」
「少しだけ」
美咲は困ったように笑った。
「高いものじゃなくていいって、前から言ってるよね」
「知ってます。でも、俺がここへ来たかったんです」
「どうして?」
「広瀬川が見えるから」
窓の向こうを、冬の川が静かに流れている。
告白し、傷つけ合った場所とは離れていたが、同じ川だった。
「あの日を思い出す?」
「思い出します」
「後悔してる?」
「告白したことは、してません。言い方は、もっと考えればよかったと思います」
「私は、言ったことを後悔してる」
「忘れてはいないです」
「うん」
「でも、今も怒っているわけでもありません」
健人は水の入ったグラスへ触れた。
「あの日がなかったら、俺は年齢なんて関係ないって言い続けてたと思います。今は、関係はあるけど、それだけで決めないって思える」
「私も」
「二十八歳になって、何か変わりましたか」
「昨日と同じ」
「ですよね」
「でも、健人くんが二十二歳になるころには、私はまだ二十八歳だね」
「半年くらいだけです」
「その間は、六歳差じゃなくて五歳差?」
「数え方によっては」
「少し得した気分」
「何も変わってません」
二人は笑った。
年齢は、誕生日を迎えるたび一つ増える。どちらかが先に増えれば、数字の差は一時的に変わって見える。
けれど、二人が過ごした時間は同じだけ増えていた。
食事の終わりに、健人は小さな封筒を渡した。
中には、展覧会の前売り券が二枚入っていた。
「これ、見たかったやつ」
「前に、美咲さんが広告を見てました」
「覚えてたんだ」
「来月なら、卒業研究の提出後です。美咲さんの予定が合えば」
「行きたい」
「よかった」
高価な品ではなかった。
それでも、自分の欲しかった時間を覚え、二人で過ごす日に変えてくれたことが嬉しかった。
「ありがとう」
美咲は封筒を大切に鞄へ入れた。
「来年は、初任給で何か買います」
「今、約束しなくていいよ」
「買いたいんです」
「じゃあ、無理のないものにして」
「分かりました」
健人は返事をしたが、その時にはまだ、何を贈るか決めていなかった。
*
一月の終わり、健人は卒業研究を提出した。
調査で集めた記録を整理し、情報を届ける方法を増やすだけでは、必要な人へ届くとは限らないことを書いた。更新する側の負担、受け取る側の選び方、伝わらなかった時に戻せる仕組みまで考える必要がある。
提出の前夜は、大学の研究室に遅くまで残った。
三浦も別の机で、自分の論文を直していた。
「終わると思う?」
三浦が画面を見たまま聞く。
「終わらせる」
「そういう答えじゃなくて」
「終わるかは分からない」
健人は笑った。
午前零時を過ぎる前に、美咲からメッセージが届いた。
『返事はいらないです。出せるところまで頑張って、帰る時は気をつけて』
健人は短く返した。
『ありがとうございます。終わったら連絡します』
提出できたのは、翌日の午後だった。
受付で確認を受け、研究題目と名前のある表紙へ受領印が押された。
健人は、その場で写真を撮った。
『提出しました』
美咲から、拍手する手の印と、『本当にお疲れさま』という言葉が届いた。
健人は研究室へ戻り、三浦たちと紙コップの飲み物で乾杯した。
卒業できるかは、まだ最終的に決まっていない。口頭発表も残っている。
それでも、大学へ入ってから積み重ねてきたものに、一つの区切りがついた。
二月の発表を終え、三月に卒業が正式に決まった。
健人は四年間働いたカフェの店主へ、卒業と退職の日を伝えた。
「三月末まで入れます」
「入社前に休まなくていいのか」
「少しは休みます。最後の週は、予定を減らします」
「最初の給料が出るまで、金は足りるか」
「大丈夫です」
「ならいい」
店主はいつもどおり、喜びを大きく見せなかった。
「長い間、ありがとうございました」
健人が頭を下げると、店主はコーヒー豆の袋を棚へ並べながら言った。
「まだ終わってない。最後の勤務で皿を割るかもしれない」
「割りません」
「そう思ってる時が危ない」
健人は笑った。
この店で、美咲と初めてゆっくり話した。告白を断られたあと、店主から待つことについて教えられた。付き合い始めた時も、最初に報告した。
働く場所を離れても、ここで覚えた距離の取り方は残るだろう。
「会社で困ったら、来てもいいですか」
「客としてなら」
「相談しても?」
「コーヒー一杯分は聞く」
「二杯頼みます」
「長くなるならな」
店主はようやく、少し笑った。
*
三月下旬、健人の卒業式が行われた。
大学の構内には、式を終えた学生と家族があふれていた。スーツ姿の学生、袴を着た学生、花束を抱える人。四年間を一緒に過ごした友人たちは、写真を撮り、連絡先を確かめ、また会おうと言い合っている。
健人の両親は朝から仙台へ来ていた。
美咲は、式には行かなかった。
家族と過ごす日に、自分が加わるのはまだ早いと二人で決めたからだった。健人の両親には、親しくしている女性がいることだけ伝えている。六歳年上で、すでに働いていることも、健人は隠さなかった。
母は驚いたが、卒業後の生活が落ち着いたら話を聞かせてほしいと言った。父は、仕事も恋愛も一度に答えを出すな、とだけ言った。
卒業式の夕方、家族を駅まで送ったあと、健人は美咲と会った。
美咲は駅前で、小さな花束を持って待っていた。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
白と淡い青の花だった。
「花をもらうの、慣れません」
「今日くらい、受け取って」
「持って帰る花瓶がありません」
「最初に言うことが、それ?」
「どう飾ろうかと思って」
「空いた瓶でもいいよ」
「じゃあ、瓶を買います」
「花瓶より高くならないようにね」
二人は、以前に展覧会を見た帰りに入った店で夕食を取った。
健人は卒業証書を美咲へ見せた。
「本当に卒業したんだね」
「疑ってました?」
「研究の提出前、顔がひどかったから」
「美咲さんも、プレゼン前は同じです」
「そうだね」
学生として会うのは、残り十日ほどだった。
「来月から、呼び方を変えますか」
健人が尋ねた。
「どうして?」
「もう大学生じゃないので」
「健人くんは、健人くんでしょう」
「俺は、ずっと美咲さんです」
「変えたい?」
「今は、これでいいです」
「じゃあ、そのまま」
社会人になることは、別の人間になることではなかった。
呼び方を変えなくても、二人の間にあるものは、時間とともに少しずつ形を変えていく。
食事のあと、健人は美咲を駅まで送った。
「入社したら、最初は連絡が減ると思います」
「うん」
「疲れて、何も話せない日もあるかもしれない」
「おやすみだけでもいいよ。送れない日は、翌日に元気だって分かれば大丈夫」
「会う日も、毎週は難しくなるかもしれません」
「私も仕事があるから。同じだよ」
「同じですか」
「立場は違っても、会うために予定を合わせるのは同じ」
健人はうなずいた。
社会人になれば、六歳の差が消えるわけではない。
けれど、学生と社会人という大きな境目はなくなる。
そのことを嬉しいと思う一方で、今まで年齢や立場の違いへ預けていた問題が、別の形で見えてくるのかもしれないとも感じた。
*
四月一日、健人は新しい灰色のスーツを着た。
二十二歳になったばかりだった。
鏡の前でネクタイを結び、何度も長さを直す。就職活動で覚えたはずなのに、指が思うように動かなかった。
入社式は午前九時からだった。
美咲から、六時半にメッセージが届いていた。
『おはよう。行ってらっしゃい。今日は返事を気にしないでね』
健人は玄関を出る前に、自分の姿を鏡で撮った。
『行ってきます』
会社へ着くと、内定式で会った同期たちが受付前に集まっていた。
全員が同じようなスーツを着ていても、表情は違った。緊張して黙る人、積極的に話しかける人、配られた資料を何度も読む人。
健人は、隣にいた同期へ挨拶した。
入社式では社長の話を聞き、辞令を受け取った。配属は研修後に決まる。最初の一か月は、会社の事業、情報の扱い、仕事の進め方、技術の基礎を学ぶ。
学生時代のように、分からなければ次の講義まで考える時間があるとは限らない。仕事には相手がいて、期限がある。けれど、分からないまま進めるより、早く尋ねることを大切にしてほしい。
研修担当者の言葉を、健人は手帳へ書いた。
夕方、会社を出た時には、何も重い物を運んでいないのに肩が凝っていた。
美咲へ電話をしたかった。
しかし、言葉がまとまらなかった。
『終わりました。今から帰ります』
短い文だけを送った。
『お疲れさま。今日はゆっくり休んで』
美咲は詳しく聞かなかった。
健人は帰宅し、スーツをハンガーへかけた。新しかったはずの上着には、一日着ただけで細かな皺がついている。
翌日から、研修が始まった。
社内で使う連絡方法。情報を外へ持ち出さないための決まり。顧客との契約。仕事の進み具合を報告する方法。
大学で聞いたことのない言葉が、一日ごとに増えた。
健人は帰宅すると、研修で理解できなかった部分を調べた。最初の週は、それでも美咲へ電話をする余裕があった。
「今日は何をしたの?」
「情報の扱いについてです。メールの送り先を間違えないように、送る前に確認する手順が決まってました」
「私も、宛先は何度も見るよ」
「美咲さんでも?」
「その言い方、久しぶりだね」
「すみません」
「慣れてる人ほど、思い込みで間違えることもあるから」
健人は、自分だけが注意されているのではないと知ると安心した。
二週目、研修で小さな課題が出た。
架空の顧客から相談を受け、必要な機能と確認すべき点を班で整理する。
健人は、利用者に何を聞くべきかを積極的に提案した。商店街の調査で学んだことを生かせると思った。
ところが発表後、研修担当者から指摘された。
「聞く項目は多いですが、この予算と期間で何を優先するかが見えません」
すべての要望を聞くことへ集中し、実現できる範囲を決めていなかった。
班のメンバーからも、話し合いの途中で健人が質問を増やしたため、まとめる時間が足りなくなったと言われた。
「ごめん。自分のやり方に引っ張った」
健人は謝った。
同期の一人は、責めるのではなく言った。
「聞くことは必要だったよ。でも、全部を今決めようとしたのが大変だった。次に聞くことを分けてもよかったかも」
大学の研究では、時間をかけて声を集めることに意味があった。仕事では、限られた時間と費用の中で、今必要なものを選ばなければならない。
分かっていたつもりの違いを、健人は初めて身体で知った。
その夜、美咲へ電話をした。
「仕事って、難しいですね」
「急にどうしたの?」
健人は研修の失敗を話した。
「俺、聞けばいいと思ってました。でも、聞いたあと、何を選ぶかまで考えてなかった」
「私も、取材で聞いたことを全部企画へ入れようとして、何を伝えたいのか分からなくなったことがある」
「また一年目?」
「三年目」
「少し安心しました」
「私の失敗で安心しないで」
「でも、学生の頃は、美咲さんのことを何でもできる人だと思ってました」
「今は?」
「失敗しても、次にどうするか考えられる人だと思ってます」
「それなら、前よりいいかな」
健人はベッドへ座り、ネクタイを緩めた。
「美咲さんが仕事の話をしていた時、すごいなと思うだけでした。今は、少しだけ分かる気がします」
「何が?」
「仕事で疲れるって、身体だけじゃないんですね。自分が決めたことで、誰かの時間や仕事が変わるのが怖い」
「うん」
「それでも、決めないと進まない」
「そうだね」
美咲の相づちは、答えを教えるものではなかった。
ただ、同じ種類の迷いを知っている人がいることが、健人には心強かった。
*
四月後半、健人は初めて寝坊した。
目覚ましを止めた記憶がなく、目を開けると、家を出る予定の十分前だった。
顔を洗い、シャツを着て、朝食を取らずに駅へ走った。始業には間に合ったが、研修室へ着いた時には息が切れていた。
午前中は集中できず、説明を書き留める手が何度も止まった。
昼休み、美咲から届いていたメッセージを開いた。
『今週末、どうする? 疲れていたら、会うのは来週でもいいよ』
健人は、延期した方がいいと思った。
同時に、二週間会っていない寂しさもあった。
『会いたいです。でも、遠くへ出かけるのは難しいかもしれません』
『じゃあ、家でご飯を食べよう。私の部屋でいい?』
『はい』
土曜日、健人は昼近くまで眠った。
夕方、美咲の部屋へ行く。手土産を買おうとしたが、店を選ぶ気力がなく、駅前で果物だけ買った。
美咲は、野菜の入ったスープとパンを用意していた。
「豪華なものじゃなくてごめんね」
「これがいいです」
健人は食事をしながら、何度もあくびをした。
美咲は仕事の話をほとんど聞かなかった。食器を片づけると、ソファに薄い毛布を置いた。
「少し寝たら?」
「せっかく会ったのに」
「会ってるでしょう」
「話してません」
「起きてから話せばいいよ」
健人は横になり、目を閉じた。
眠るつもりはなかったが、次に目を開けた時、部屋は暗くなっていた。
時計は八時を過ぎている。
美咲はダイニングテーブルで、本を読んでいた。
「起きた?」
「二時間も寝ました?」
「二時間半くらい」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「会いに来たのに、寝ただけです」
「疲れてる時に眠れる場所になるのも、会うことだと思うよ」
健人は毛布を握った。
恋人には、楽しい時間を渡さなければならないと思っていた。会うなら話し、出かけ、相手を喜ばせる。疲れた姿を見せるだけでは、時間を使わせている気がした。
「美咲さんは、つまらなくなかったですか」
「本を読めたから大丈夫」
「それは、俺がいなくてもできるでしょう」
「健人くんが安心して寝てるのを見ながら読むのは、今日しかできない」
美咲は少し笑った。
「ただ、毎回寝るなら、会う日を変えるけどね」
「気をつけます」
「気をつけて眠らないようにするんじゃなくて、疲れてるって言って」
「はい」
健人は温め直してもらったスープを飲んだ。
学生の頃は、美咲の仕事が忙しい時、待つ側になることが多かった。今は二人とも、仕事の都合で時間を失う。
同じ社会人になれば、すべてが対等になると思っていた。
けれど、経験も責任も、使えるお金も違う。健人は研修中で、美咲は企画を任されている。立場の差は、学生という名前が消えても残っていた。
対等とは、同じになることではなかった。
疲れている側が休み、余裕のある側が待つ。次は、その役割が入れ替わる。違う状態のまま、相手の時間を軽くしないことだった。
*
四月最後の金曜日、初めての給与が振り込まれた。
健人は朝、口座の画面を開いた。
記載された金額は、採用案内で見た月額より少なかった。税金や保険料などが引かれている。仕組みは研修で説明されたが、実際に数字を見ると、働いて得る金と生活に使える金が同じではないことを実感した。
家賃。光熱費。通信費。食費。奨学金の返済は秋から始まる。学生時代より収入は増えたが、自由に使える額が急に大きくなったわけではなかった。
健人は給料日前から、簡単な予算を書いていた。
両親へ、就職まで支えてくれた礼を贈る。カフェの店主にも小さな品を渡す。残りは生活費と貯金。美咲へも、何か贈りたかった。
学生の頃から、初任給で買うと口にしてきた。
高価なものを選ぶことが、社会人になった証明のように思えた時期もあった。
けれど、実際の給料を見て、無理に高い品を買えば、翌月の生活を美咲に心配させるだけだと分かった。
翌日の午後、健人は街の店を歩いた。
最初にアクセサリー売り場へ入った。
細い鎖のネックレスをいくつか見せてもらう。手の届く価格のものもあったが、美咲が普段どんな金属を身につけるか、健人は思い出せなかった。
仕事の日は小さな耳飾りをしている。休日は何もつけない時も多い。ネックレスをしていたかと考えると、自信がなかった。
社会人の恋人なら、アクセサリーを喜ぶ。
そんな決め方は、美咲を年齢や立場で見ていた頃と変わらない。
健人は店を出た。
書店へ行き、文房具店へ行き、雑貨店も見た。
何を見ても、贈り物を探す自分の満足のために選んでいる気がした。
最後に、傘を扱う店へ入った。
入口に、軽い折り畳み傘が並んでいる。
美咲は以前より歩きやすい靴を選ぶようになったが、傘を忘れることは多かった。天気予報を見ていても、朝に降っていなければ持たずに出る。会社へ置き傘はあると言うが、取材先から直帰する日に限って使えない。
健人は、鞄へ入れても重くない傘を探した。
店員から、骨の強さや畳みやすさについて説明を聞く。
色は紺ではなく、深い緑を選んだ。美咲が仕事で持っても目立ちすぎず、黒い鞄の中でも見つけやすい色だった。
高価な宝飾品ではない。
それでも、美咲と出会った日から続くものを、今の二人に合う形で渡せると思った。
五月最初の日曜日、二人は定禅寺通りで会った。
ケヤキは若葉を広げ、冬の光の時期とは違う影を歩道へ落としていた。
健人は美咲を、カフェのテラス席へ連れていった。
「今日は、初任給のお祝いですか」
美咲が尋ねる。
「自分で祝うものですか」
「私がごちそうする」
「給料が出た俺が払います」
「じゃあ、コーヒーだけお願いする」
「食事でも大丈夫です」
「最初から使いすぎないの」
注文を終えたあと、健人は紙袋を渡した。
「初任給で買いました」
「本当に買ったの?」
「前から言ってたでしょう」
美咲は困ったように笑い、袋を開けた。
中から、深い緑の折り畳み傘を取り出す。
「傘?」
「美咲さん、よく忘れるので」
「贈り物を渡しながら注意する人、初めて見た」
「鞄へ入れたままでも重くないものです。開きやすくて、風にも少し強いと聞きました」
美咲は傘を両手で持ち、布の色を確かめた。
「どうして、この色?」
「紺色だと、俺の傘と同じになりすぎるから。美咲さんには、美咲さんの傘を持ってほしくて」
健人は少し照れながら続けた。
「一本の傘に入るのも好きです。でも、いつも俺が隣にいるわけじゃない。仕事の日も、一人で歩く日も、濡れないようにできるものがいいと思いました」
美咲は傘を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「気に入りませんでしたか」
「違う」
顔を上げた美咲の目に、涙がにじんでいた。
「嬉しいの」
「泣くほどですか」
「高いものを贈られたからじゃないよ」
「分かってます」
「健人くんが、一人で歩く私のことまで考えてくれたから」
美咲は傘を丁寧に畳み直した。
「ありがとう。大切に使う」
「大切にしすぎて、家へ置かないでください」
「鞄に入れます」
「重くないですか」
「さっき軽いって自分で言ったでしょう」
二人は笑った。
学生だった健人が、自分で働いて得た金で選んだ最初の贈り物。
けれど、その価値は、彼が美咲と同じ社会人になった証明にはなかった。
初任給を得ても、知らないことは多い。失敗もする。疲れて会話ができない日もあり、生活に使える金には限りがある。
変わったのは、健人が大人として完成したことではない。
自分の生活を引き受けながら、その中で誰かのことを考え、無理のない形を選んだことだった。
「初任給、ほかには何に使ったの?」
「両親へ食事券を送りました。店長にはコーヒーの道具を」
「自分には?」
「まだです」
「じゃあ、今日の夕食は私が出す。健人くんの初任給祝い」
「それだと、俺が得してませんか」
「最初の給料が出るまで働いた人を祝う日だから」
「美咲さんの初任給の時は、誰かに祝ってもらいましたか」
「両親が食事へ連れていってくれた」
「じゃあ、俺も祝ってもらいます」
「素直でよろしい」
美咲は紙袋を自分の鞄へ入れた。
健人は、少し大きくなった鞄を見て笑った。
「本当に、明日から持ってください」
「持つよ」
「忘れないで」
「健人くん、傘のことになると厳しいね」
「出会った理由なので」
定禅寺通りを、二人で歩いた。
新しいスーツを着るようになっても、健人の歩き方は変わらなかった。美咲より少し前へ出れば速度を落とし、段差があれば振り返る。
美咲も、守られるだけではなくなった。健人の顔に疲れを見つければ、無理に予定を続けず、休める場所を探す。何も話せない日は、答えを求めず隣に座る。
働き始めたことで、二人の時間は増えなかった。
むしろ、会える日は減り、予定を合わせるのは難しくなった。
それでも、限られた時間の中で、何を相手へ渡すかを考えるようになった。
六月の雨宿りから、間もなく二年になる。
あの日の健人は、壊れた靴で立ち尽くす美咲へ傘を差し出した。
今の二人は、それぞれの傘を持っている。
晴れた日は並んで歩き、雨が降れば一つへ入ることもできる。別々の場所にいるなら、自分の傘で濡れずに進み、また会えるところまで歩けばいい。
ケヤキの葉の間から、五月の光が落ちていた。
健人は新しいスーツの上着を腕にかけ、美咲は深い緑の傘を鞄へ入れていた。
二人は以前と同じように、互いの歩幅を確かめながら歩いた。
変わらないのは、気持ちの形ではなかった。
変わるたびに、相手を知ろうとすることだった。




