↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ただ、雨宿りがしたかった  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/10

第八章 新しいスーツと、変わらない想い

内々定を承諾した六月から、健人の生活が急に軽くなったわけではなかった。

応募先の締切や面接はなくなったが、卒業研究の準備が本格的に始まった。残りの単位を確実に取るための講義もあり、夏まで続けると決めたカフェのアルバイトもある。

来年の春から働く会社からは、入社までに読んでおく資料と、内定者向けの学習案内が届いた。

情報技術の基礎用語。システムが作られる工程。情報を扱う際の決まり。文系の健人には、初めて見る言葉が多かった。

六月最後の日曜日、健人は美咲の部屋で、薄い入門書を開いていた。

美咲はリビングの反対側で、翌週の会議資料を確認している。

二人とも仕事や大学の作業を持ち込み、終わったら夕食を作る約束だった。

「要件定義って、何を定義するんですか」

健人が尋ねると、美咲は画面から顔を上げた。

「私に聞いてる?」

「ほかに誰もいません」

「私も詳しくないよ。使う人が何を必要としているか決めることじゃない?」

「たぶん、そうです」

「本に書いてあるでしょう」

「書いてある言葉の意味が分からないんです」

美咲は笑い、ノートパソコンを閉じた。

「会社へ質問してみたら?」

「入社前から、こんなことも知らないのかと思われませんか」

「知らないから研修があるんでしょう」

「そうですけど」

健人は本へ目を戻した。

内々定をもらった時は、自分の考えを見てもらえたことが嬉しかった。ところが、働くために必要な知識へ触れるほど、選ばれたことが間違いだったのではないかという不安が湧いた。

会社が期待した人間と、実際の自分が違うと気づかれるのが怖かった。

「健人くん」

「はい」

「質問しないで分かったふりをする方が、入社してから困ると思う」

「分かってます」

「分かってるけど、怖い?」

「はい」

美咲はそれ以上説得せず、資料を開き直した。

「私は、分からないまま会議に出した資料があって、先輩に全部やり直されたことがあるよ」

「何年目の時ですか」

「一年目」

「やっぱり一年目じゃないですか」

「今でもある」

「今も?」

「全部やり直しは減った。でも、自分が分かっていないことに、あとで気づくのはあるよ」

健人は少し安心した。

美咲が仕事について迷いなく話す姿しか見ていなかった頃は、彼女が何でも知っているように思えた。今は、その自信が失敗しないことから生まれたのではなく、失敗したあとに戻る方法をいくつも覚えたからだと分かる。

健人は会社から届いた連絡先を開いた。

質問の文章を何度も書き直し、送信した。

翌朝、採用担当者から返事が届いた。

健人の理解で大きくは違わないこと。入社前の資料は、すべて理解するためではなく、研修で聞いた時に一度見た言葉だと思える程度でよいこと。質問はいつでも送ってほしいこと。

最後に、分からない点を具体的に質問できているので心配はいらない、と添えられていた。

健人は美咲へ画面を見せた。

「聞いてよかったです」

「でしょう」

「美咲さんが正しかった」

「次も私が正しいとは限らないよ」

「今くらい、得意になってもいいのに」

「それをすると、健人くんが次から何でも私に聞くでしょう」

見抜かれ、健人は本を閉じた。

「夕食、作ります」

「逃げたね」

「今日は俺の担当です」

健人は台所へ立った。

内々定は、社会人として完成した証明ではなかった。

分からないことがある自分のまま、次の場所へ入る許可をもらっただけだった。

*

七月、健人は卒業研究の対象を、商店街にある休憩場所から、地域で使われる情報の伝わり方へ広げた。

昨年の聞き取りで、店先の椅子を必要とする人の中には、商店街へ来る前に催しや営業日の情報を得られず、外出を諦める人がいると知ったからだった。

インターネットで情報を出しても、誰もが見られるわけではない。紙の案内は手元に残るが、変更がすぐには届かない。店主は複数の方法で知らせたいと思っても、更新する時間がない。

健人はゼミの担当教員へ相談した。

「就職先に寄せすぎていないか」

研究計画を読んだ教員は、最初にそう尋ねた。

「情報技術の会社へ入るから、情報の研究にしたようにも見える」

健人は言葉に詰まった。

内々定を得た会社で働くことを意識したのは事実だった。将来に役立つ研究をしたいと思った。

「悪いとは言っていない」

教員は続けた。

「ただし、会社で評価される答えを先に置いたら、研究ではなくなる。技術を使えば解決できると決めずに、必要としない人の声も聞くこと」

「はい」

「昨年と同じだ。きれいにまとめようとするな」

健人は研究計画を持ち帰り、調査の質問を作り直した。

情報が届かず困った経験だけではなく、情報が多すぎて見なくなった経験も聞く。スマートフォンを使う人だけでなく、使わない人にも話を聞く。店主だけでなく、行政の広報を担当する人にも協力を依頼する。

夏の間、健人は商店街や地域の集会所へ通った。

美咲と会える日は減った。

美咲も秋に始まる新しい企画を担当し、取材や会議が続いていた。

二人は、会えないことを関係の不調と結びつけないようにした。予定が合わない週は、十五分だけ電話をした。疲れて話せない時は、無理に会話を続けず、おやすみと一言送った。

それでも、寂しくないわけではなかった。

八月半ば、美咲は休日に健人の調査が終わるのを、近くのカフェで待っていた。

予定では四時に終わるはずだった。

四時十五分、健人から連絡が来る。

『聞き取りが長くなっています。五時ごろになりそうです』

十二月に待ち合わせですれ違った経験から、遅れると分かった時点で連絡する約束を守っていた。

『分かりました。店で本を読んでいます』

美咲はそう返した。

五時前、健人は汗を流しながら店へ入ってきた。

「お待たせしました」

「走ってきた?」

「少しだけ」

「急がなくていいって送ったでしょう」

「待たせてると思うと、ゆっくり歩けません」

広瀬川で会った日にも、同じことを言っていた。

美咲はハンカチを渡した。

「今日は、何を聞いたの?」

「町内会の人に、災害情報について聞きました。スマートフォンの通知は早いけど、音が多いから切っている人もいました」

「必要なものまで届かなくなるね」

「はい。全部知らせればいいわけじゃないみたいです」

健人は水を一気に飲み、調査で聞いた話を続けた。

約束の時間を過ぎても、相手の話を途中で切れなかったこと。けれど美咲を待たせることが気になり、最後の方は時計ばかり見てしまったこと。

「私のせいで、調査に集中できなかった?」

「美咲さんのせいじゃないです。自分で約束を入れたから」

「次から、調査の日は会う約束をしない方がいいかな」

「会いたくないわけじゃありません」

「分かってるよ。でも、終わる時間が読めない日に、何時と決めると二人とも気になるでしょう。終わったら連絡して、まだ私が近くにいたら会う、くらいでもいいと思う」

健人は少し考えた。

「それだと、美咲さんが予定を決められません」

「私も自分の予定を入れるよ。合わなければ、別の日にする」

「会うことを、最初から諦めるみたいで嫌です」

「諦めるんじゃなくて、会えない可能性も入れておくの」

健人は納得しきれない顔をした。

美咲は、自分が同じことを言われた時の気持ちを想像した。仕事が終わる時刻が読めないから、最初から約束しない。合理的ではあるが、相手にとっては、自分との時間を最初に外されたように感じるかもしれない。

「じゃあ、こうしよう」

美咲は言った。

「調査のあとは、遅れても大丈夫な予定にする。店を予約するとか、時間が決まった映画は避ける。私も本を持ってくる。待てなくなったら先に帰るって連絡する」

「それなら、いいです」

「待ってる時間を、健人くんの借りにしない」

「俺も、急いで調査を終わらせません」

二人は、以前に決めた約束を、今の生活に合わせて直した。

最初に決めたことを守り続けるだけでは、変わる時間についていけない。

変わるたびに言い直すことも、二人が一緒にいるための方法だった。

*

十月、健人は内定式へ出席した。

会社から、紺色か黒の落ち着いたスーツで来るよう案内があった。

就職活動で着たスーツは、夜行バスや面接で何度も使い、袖口が少し傷んでいた。入社後にも着られるものを用意しようと考え、健人は休日に店を見に行った。

美咲へ相談すると、一緒に行こうかと言われた。

「選んでほしいわけじゃないです」

「分かってる。似合うか見るだけ」

「高いものを勧めませんか」

「予算はいくら?」

健人が金額を伝えると、美咲はうなずいた。

「その範囲で探そう」

店では、濃紺と灰色の二着を試した。

美咲は最初、濃紺の方が顔色が明るく見えると言った。店員も、入社後に使いやすいと勧めた。

健人は鏡の前で何度も向きを変えた。

「灰色の方が好きです」

「じゃあ、灰色にしたら」

「濃紺が似合うって言ったでしょう」

「似合うと思うのは濃紺。でも、着るのは健人くんだから」

「すぐ意見を変えますね」

「変えてないよ。似合う方と、選ぶ方は別」

健人は灰色をもう一度見た。

落ち着いた色だが、就職活動の学生らしさが少し薄く見えた。

「灰色にします」

「うん」

代金は健人が払った。

裾直しをしたスーツを受け取る日、美咲は仕事で来られなかった。健人は一人で受け取り、自宅のハンガーへかけた。

自分の部屋に、新しい生活の形が一つ増えた。

内定式では、来春に同期となる十二人と初めて顔を合わせた。

情報技術を学んだ人もいれば、健人と同じ文系出身者もいた。大学院で地域交通を研究した人、営業職を希望する人、何を担当するかまだ分からない人。

懇談の時間、隣に座った男性が話しかけてきた。

「相葉さんは、どうしてこの会社を選んだんですか」

健人は、就職活動で何度も話した志望動機を口にしかけ、やめた。

「利用する人と長く話しながら、作ったものを直していく仕事がしたいと思ったからです」

「入る前から、はっきりしてますね」

「面接を受けながら、やっと分かりました」

「俺は、地元で転勤が少ない会社を探していて」

「それも、大事な理由だと思います」

健人はそう答えた。

美咲の近くにいたいという気持ちを、就職先を選ぶ理由の一つにした自分を思い出した。仕事の内容だけで会社を選ばなければ、不真面目なのではないかと迷った時期もあった。

けれど働く場所は、仕事だけをする場所ではない。

住む街、会いたい人、使いたい時間も、自分の生活を形作る条件だった。

内定式を終え、会社の玄関を出ると、美咲へ写真を送った。

受付前で同期に撮ってもらった一枚だった。

『新しいスーツ、どうですか』

『似合ってる。灰色にしてよかったね』

『濃紺が似合うと言ってませんでしたか』

『自分で選んだ顔をしてるから、今は灰色の方が似合ってる』

健人は写真を見直した。

緊張して、笑顔は少し硬い。

それでも、就職活動を始めた冬より、自分が立つ場所を知っている顔に見えた。

*

十二月、美咲は二十八歳になった。

誕生日は平日だったため、二人は前の日曜日に会った。

健人は学生でも払える店を探し、昼の予約を取った。高価なコースではない。けれど、窓から広瀬川の見える落ち着いた店だった。

「無理してない?」

席へ着くなり美咲が尋ねる。

「してません。今月はバイトを多く入れました」

「それを無理って言うんじゃない?」

「大学の課題を減らしたわけではありません」

「休む時間を減らしたでしょう」

「少しだけ」

美咲は困ったように笑った。

「高いものじゃなくていいって、前から言ってるよね」

「知ってます。でも、俺がここへ来たかったんです」

「どうして?」

「広瀬川が見えるから」

窓の向こうを、冬の川が静かに流れている。

告白し、傷つけ合った場所とは離れていたが、同じ川だった。

「あの日を思い出す?」

「思い出します」

「後悔してる?」

「告白したことは、してません。言い方は、もっと考えればよかったと思います」

「私は、言ったことを後悔してる」

「忘れてはいないです」

「うん」

「でも、今も怒っているわけでもありません」

健人は水の入ったグラスへ触れた。

「あの日がなかったら、俺は年齢なんて関係ないって言い続けてたと思います。今は、関係はあるけど、それだけで決めないって思える」

「私も」

「二十八歳になって、何か変わりましたか」

「昨日と同じ」

「ですよね」

「でも、健人くんが二十二歳になるころには、私はまだ二十八歳だね」

「半年くらいだけです」

「その間は、六歳差じゃなくて五歳差?」

「数え方によっては」

「少し得した気分」

「何も変わってません」

二人は笑った。

年齢は、誕生日を迎えるたび一つ増える。どちらかが先に増えれば、数字の差は一時的に変わって見える。

けれど、二人が過ごした時間は同じだけ増えていた。

食事の終わりに、健人は小さな封筒を渡した。

中には、展覧会の前売り券が二枚入っていた。

「これ、見たかったやつ」

「前に、美咲さんが広告を見てました」

「覚えてたんだ」

「来月なら、卒業研究の提出後です。美咲さんの予定が合えば」

「行きたい」

「よかった」

高価な品ではなかった。

それでも、自分の欲しかった時間を覚え、二人で過ごす日に変えてくれたことが嬉しかった。

「ありがとう」

美咲は封筒を大切に鞄へ入れた。

「来年は、初任給で何か買います」

「今、約束しなくていいよ」

「買いたいんです」

「じゃあ、無理のないものにして」

「分かりました」

健人は返事をしたが、その時にはまだ、何を贈るか決めていなかった。

*

一月の終わり、健人は卒業研究を提出した。

調査で集めた記録を整理し、情報を届ける方法を増やすだけでは、必要な人へ届くとは限らないことを書いた。更新する側の負担、受け取る側の選び方、伝わらなかった時に戻せる仕組みまで考える必要がある。

提出の前夜は、大学の研究室に遅くまで残った。

三浦も別の机で、自分の論文を直していた。

「終わると思う?」

三浦が画面を見たまま聞く。

「終わらせる」

「そういう答えじゃなくて」

「終わるかは分からない」

健人は笑った。

午前零時を過ぎる前に、美咲からメッセージが届いた。

『返事はいらないです。出せるところまで頑張って、帰る時は気をつけて』

健人は短く返した。

『ありがとうございます。終わったら連絡します』

提出できたのは、翌日の午後だった。

受付で確認を受け、研究題目と名前のある表紙へ受領印が押された。

健人は、その場で写真を撮った。

『提出しました』

美咲から、拍手する手の印と、『本当にお疲れさま』という言葉が届いた。

健人は研究室へ戻り、三浦たちと紙コップの飲み物で乾杯した。

卒業できるかは、まだ最終的に決まっていない。口頭発表も残っている。

それでも、大学へ入ってから積み重ねてきたものに、一つの区切りがついた。

二月の発表を終え、三月に卒業が正式に決まった。

健人は四年間働いたカフェの店主へ、卒業と退職の日を伝えた。

「三月末まで入れます」

「入社前に休まなくていいのか」

「少しは休みます。最後の週は、予定を減らします」

「最初の給料が出るまで、金は足りるか」

「大丈夫です」

「ならいい」

店主はいつもどおり、喜びを大きく見せなかった。

「長い間、ありがとうございました」

健人が頭を下げると、店主はコーヒー豆の袋を棚へ並べながら言った。

「まだ終わってない。最後の勤務で皿を割るかもしれない」

「割りません」

「そう思ってる時が危ない」

健人は笑った。

この店で、美咲と初めてゆっくり話した。告白を断られたあと、店主から待つことについて教えられた。付き合い始めた時も、最初に報告した。

働く場所を離れても、ここで覚えた距離の取り方は残るだろう。

「会社で困ったら、来てもいいですか」

「客としてなら」

「相談しても?」

「コーヒー一杯分は聞く」

「二杯頼みます」

「長くなるならな」

店主はようやく、少し笑った。

*

三月下旬、健人の卒業式が行われた。

大学の構内には、式を終えた学生と家族があふれていた。スーツ姿の学生、袴を着た学生、花束を抱える人。四年間を一緒に過ごした友人たちは、写真を撮り、連絡先を確かめ、また会おうと言い合っている。

健人の両親は朝から仙台へ来ていた。

美咲は、式には行かなかった。

家族と過ごす日に、自分が加わるのはまだ早いと二人で決めたからだった。健人の両親には、親しくしている女性がいることだけ伝えている。六歳年上で、すでに働いていることも、健人は隠さなかった。

母は驚いたが、卒業後の生活が落ち着いたら話を聞かせてほしいと言った。父は、仕事も恋愛も一度に答えを出すな、とだけ言った。

卒業式の夕方、家族を駅まで送ったあと、健人は美咲と会った。

美咲は駅前で、小さな花束を持って待っていた。

「卒業、おめでとう」

「ありがとうございます」

白と淡い青の花だった。

「花をもらうの、慣れません」

「今日くらい、受け取って」

「持って帰る花瓶がありません」

「最初に言うことが、それ?」

「どう飾ろうかと思って」

「空いた瓶でもいいよ」

「じゃあ、瓶を買います」

「花瓶より高くならないようにね」

二人は、以前に展覧会を見た帰りに入った店で夕食を取った。

健人は卒業証書を美咲へ見せた。

「本当に卒業したんだね」

「疑ってました?」

「研究の提出前、顔がひどかったから」

「美咲さんも、プレゼン前は同じです」

「そうだね」

学生として会うのは、残り十日ほどだった。

「来月から、呼び方を変えますか」

健人が尋ねた。

「どうして?」

「もう大学生じゃないので」

「健人くんは、健人くんでしょう」

「俺は、ずっと美咲さんです」

「変えたい?」

「今は、これでいいです」

「じゃあ、そのまま」

社会人になることは、別の人間になることではなかった。

呼び方を変えなくても、二人の間にあるものは、時間とともに少しずつ形を変えていく。

食事のあと、健人は美咲を駅まで送った。

「入社したら、最初は連絡が減ると思います」

「うん」

「疲れて、何も話せない日もあるかもしれない」

「おやすみだけでもいいよ。送れない日は、翌日に元気だって分かれば大丈夫」

「会う日も、毎週は難しくなるかもしれません」

「私も仕事があるから。同じだよ」

「同じですか」

「立場は違っても、会うために予定を合わせるのは同じ」

健人はうなずいた。

社会人になれば、六歳の差が消えるわけではない。

けれど、学生と社会人という大きな境目はなくなる。

そのことを嬉しいと思う一方で、今まで年齢や立場の違いへ預けていた問題が、別の形で見えてくるのかもしれないとも感じた。

*

四月一日、健人は新しい灰色のスーツを着た。

二十二歳になったばかりだった。

鏡の前でネクタイを結び、何度も長さを直す。就職活動で覚えたはずなのに、指が思うように動かなかった。

入社式は午前九時からだった。

美咲から、六時半にメッセージが届いていた。

『おはよう。行ってらっしゃい。今日は返事を気にしないでね』

健人は玄関を出る前に、自分の姿を鏡で撮った。

『行ってきます』

会社へ着くと、内定式で会った同期たちが受付前に集まっていた。

全員が同じようなスーツを着ていても、表情は違った。緊張して黙る人、積極的に話しかける人、配られた資料を何度も読む人。

健人は、隣にいた同期へ挨拶した。

入社式では社長の話を聞き、辞令を受け取った。配属は研修後に決まる。最初の一か月は、会社の事業、情報の扱い、仕事の進め方、技術の基礎を学ぶ。

学生時代のように、分からなければ次の講義まで考える時間があるとは限らない。仕事には相手がいて、期限がある。けれど、分からないまま進めるより、早く尋ねることを大切にしてほしい。

研修担当者の言葉を、健人は手帳へ書いた。

夕方、会社を出た時には、何も重い物を運んでいないのに肩が凝っていた。

美咲へ電話をしたかった。

しかし、言葉がまとまらなかった。

『終わりました。今から帰ります』

短い文だけを送った。

『お疲れさま。今日はゆっくり休んで』

美咲は詳しく聞かなかった。

健人は帰宅し、スーツをハンガーへかけた。新しかったはずの上着には、一日着ただけで細かな皺がついている。

翌日から、研修が始まった。

社内で使う連絡方法。情報を外へ持ち出さないための決まり。顧客との契約。仕事の進み具合を報告する方法。

大学で聞いたことのない言葉が、一日ごとに増えた。

健人は帰宅すると、研修で理解できなかった部分を調べた。最初の週は、それでも美咲へ電話をする余裕があった。

「今日は何をしたの?」

「情報の扱いについてです。メールの送り先を間違えないように、送る前に確認する手順が決まってました」

「私も、宛先は何度も見るよ」

「美咲さんでも?」

「その言い方、久しぶりだね」

「すみません」

「慣れてる人ほど、思い込みで間違えることもあるから」

健人は、自分だけが注意されているのではないと知ると安心した。

二週目、研修で小さな課題が出た。

架空の顧客から相談を受け、必要な機能と確認すべき点を班で整理する。

健人は、利用者に何を聞くべきかを積極的に提案した。商店街の調査で学んだことを生かせると思った。

ところが発表後、研修担当者から指摘された。

「聞く項目は多いですが、この予算と期間で何を優先するかが見えません」

すべての要望を聞くことへ集中し、実現できる範囲を決めていなかった。

班のメンバーからも、話し合いの途中で健人が質問を増やしたため、まとめる時間が足りなくなったと言われた。

「ごめん。自分のやり方に引っ張った」

健人は謝った。

同期の一人は、責めるのではなく言った。

「聞くことは必要だったよ。でも、全部を今決めようとしたのが大変だった。次に聞くことを分けてもよかったかも」

大学の研究では、時間をかけて声を集めることに意味があった。仕事では、限られた時間と費用の中で、今必要なものを選ばなければならない。

分かっていたつもりの違いを、健人は初めて身体で知った。

その夜、美咲へ電話をした。

「仕事って、難しいですね」

「急にどうしたの?」

健人は研修の失敗を話した。

「俺、聞けばいいと思ってました。でも、聞いたあと、何を選ぶかまで考えてなかった」

「私も、取材で聞いたことを全部企画へ入れようとして、何を伝えたいのか分からなくなったことがある」

「また一年目?」

「三年目」

「少し安心しました」

「私の失敗で安心しないで」

「でも、学生の頃は、美咲さんのことを何でもできる人だと思ってました」

「今は?」

「失敗しても、次にどうするか考えられる人だと思ってます」

「それなら、前よりいいかな」

健人はベッドへ座り、ネクタイを緩めた。

「美咲さんが仕事の話をしていた時、すごいなと思うだけでした。今は、少しだけ分かる気がします」

「何が?」

「仕事で疲れるって、身体だけじゃないんですね。自分が決めたことで、誰かの時間や仕事が変わるのが怖い」

「うん」

「それでも、決めないと進まない」

「そうだね」

美咲の相づちは、答えを教えるものではなかった。

ただ、同じ種類の迷いを知っている人がいることが、健人には心強かった。

*

四月後半、健人は初めて寝坊した。

目覚ましを止めた記憶がなく、目を開けると、家を出る予定の十分前だった。

顔を洗い、シャツを着て、朝食を取らずに駅へ走った。始業には間に合ったが、研修室へ着いた時には息が切れていた。

午前中は集中できず、説明を書き留める手が何度も止まった。

昼休み、美咲から届いていたメッセージを開いた。

『今週末、どうする? 疲れていたら、会うのは来週でもいいよ』

健人は、延期した方がいいと思った。

同時に、二週間会っていない寂しさもあった。

『会いたいです。でも、遠くへ出かけるのは難しいかもしれません』

『じゃあ、家でご飯を食べよう。私の部屋でいい?』

『はい』

土曜日、健人は昼近くまで眠った。

夕方、美咲の部屋へ行く。手土産を買おうとしたが、店を選ぶ気力がなく、駅前で果物だけ買った。

美咲は、野菜の入ったスープとパンを用意していた。

「豪華なものじゃなくてごめんね」

「これがいいです」

健人は食事をしながら、何度もあくびをした。

美咲は仕事の話をほとんど聞かなかった。食器を片づけると、ソファに薄い毛布を置いた。

「少し寝たら?」

「せっかく会ったのに」

「会ってるでしょう」

「話してません」

「起きてから話せばいいよ」

健人は横になり、目を閉じた。

眠るつもりはなかったが、次に目を開けた時、部屋は暗くなっていた。

時計は八時を過ぎている。

美咲はダイニングテーブルで、本を読んでいた。

「起きた?」

「二時間も寝ました?」

「二時間半くらい」

「ごめんなさい」

「どうして謝るの」

「会いに来たのに、寝ただけです」

「疲れてる時に眠れる場所になるのも、会うことだと思うよ」

健人は毛布を握った。

恋人には、楽しい時間を渡さなければならないと思っていた。会うなら話し、出かけ、相手を喜ばせる。疲れた姿を見せるだけでは、時間を使わせている気がした。

「美咲さんは、つまらなくなかったですか」

「本を読めたから大丈夫」

「それは、俺がいなくてもできるでしょう」

「健人くんが安心して寝てるのを見ながら読むのは、今日しかできない」

美咲は少し笑った。

「ただ、毎回寝るなら、会う日を変えるけどね」

「気をつけます」

「気をつけて眠らないようにするんじゃなくて、疲れてるって言って」

「はい」

健人は温め直してもらったスープを飲んだ。

学生の頃は、美咲の仕事が忙しい時、待つ側になることが多かった。今は二人とも、仕事の都合で時間を失う。

同じ社会人になれば、すべてが対等になると思っていた。

けれど、経験も責任も、使えるお金も違う。健人は研修中で、美咲は企画を任されている。立場の差は、学生という名前が消えても残っていた。

対等とは、同じになることではなかった。

疲れている側が休み、余裕のある側が待つ。次は、その役割が入れ替わる。違う状態のまま、相手の時間を軽くしないことだった。

*

四月最後の金曜日、初めての給与が振り込まれた。

健人は朝、口座の画面を開いた。

記載された金額は、採用案内で見た月額より少なかった。税金や保険料などが引かれている。仕組みは研修で説明されたが、実際に数字を見ると、働いて得る金と生活に使える金が同じではないことを実感した。

家賃。光熱費。通信費。食費。奨学金の返済は秋から始まる。学生時代より収入は増えたが、自由に使える額が急に大きくなったわけではなかった。

健人は給料日前から、簡単な予算を書いていた。

両親へ、就職まで支えてくれた礼を贈る。カフェの店主にも小さな品を渡す。残りは生活費と貯金。美咲へも、何か贈りたかった。

学生の頃から、初任給で買うと口にしてきた。

高価なものを選ぶことが、社会人になった証明のように思えた時期もあった。

けれど、実際の給料を見て、無理に高い品を買えば、翌月の生活を美咲に心配させるだけだと分かった。

翌日の午後、健人は街の店を歩いた。

最初にアクセサリー売り場へ入った。

細い鎖のネックレスをいくつか見せてもらう。手の届く価格のものもあったが、美咲が普段どんな金属を身につけるか、健人は思い出せなかった。

仕事の日は小さな耳飾りをしている。休日は何もつけない時も多い。ネックレスをしていたかと考えると、自信がなかった。

社会人の恋人なら、アクセサリーを喜ぶ。

そんな決め方は、美咲を年齢や立場で見ていた頃と変わらない。

健人は店を出た。

書店へ行き、文房具店へ行き、雑貨店も見た。

何を見ても、贈り物を探す自分の満足のために選んでいる気がした。

最後に、傘を扱う店へ入った。

入口に、軽い折り畳み傘が並んでいる。

美咲は以前より歩きやすい靴を選ぶようになったが、傘を忘れることは多かった。天気予報を見ていても、朝に降っていなければ持たずに出る。会社へ置き傘はあると言うが、取材先から直帰する日に限って使えない。

健人は、鞄へ入れても重くない傘を探した。

店員から、骨の強さや畳みやすさについて説明を聞く。

色は紺ではなく、深い緑を選んだ。美咲が仕事で持っても目立ちすぎず、黒い鞄の中でも見つけやすい色だった。

高価な宝飾品ではない。

それでも、美咲と出会った日から続くものを、今の二人に合う形で渡せると思った。

五月最初の日曜日、二人は定禅寺通りで会った。

ケヤキは若葉を広げ、冬の光の時期とは違う影を歩道へ落としていた。

健人は美咲を、カフェのテラス席へ連れていった。

「今日は、初任給のお祝いですか」

美咲が尋ねる。

「自分で祝うものですか」

「私がごちそうする」

「給料が出た俺が払います」

「じゃあ、コーヒーだけお願いする」

「食事でも大丈夫です」

「最初から使いすぎないの」

注文を終えたあと、健人は紙袋を渡した。

「初任給で買いました」

「本当に買ったの?」

「前から言ってたでしょう」

美咲は困ったように笑い、袋を開けた。

中から、深い緑の折り畳み傘を取り出す。

「傘?」

「美咲さん、よく忘れるので」

「贈り物を渡しながら注意する人、初めて見た」

「鞄へ入れたままでも重くないものです。開きやすくて、風にも少し強いと聞きました」

美咲は傘を両手で持ち、布の色を確かめた。

「どうして、この色?」

「紺色だと、俺の傘と同じになりすぎるから。美咲さんには、美咲さんの傘を持ってほしくて」

健人は少し照れながら続けた。

「一本の傘に入るのも好きです。でも、いつも俺が隣にいるわけじゃない。仕事の日も、一人で歩く日も、濡れないようにできるものがいいと思いました」

美咲は傘を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

「気に入りませんでしたか」

「違う」

顔を上げた美咲の目に、涙がにじんでいた。

「嬉しいの」

「泣くほどですか」

「高いものを贈られたからじゃないよ」

「分かってます」

「健人くんが、一人で歩く私のことまで考えてくれたから」

美咲は傘を丁寧に畳み直した。

「ありがとう。大切に使う」

「大切にしすぎて、家へ置かないでください」

「鞄に入れます」

「重くないですか」

「さっき軽いって自分で言ったでしょう」

二人は笑った。

学生だった健人が、自分で働いて得た金で選んだ最初の贈り物。

けれど、その価値は、彼が美咲と同じ社会人になった証明にはなかった。

初任給を得ても、知らないことは多い。失敗もする。疲れて会話ができない日もあり、生活に使える金には限りがある。

変わったのは、健人が大人として完成したことではない。

自分の生活を引き受けながら、その中で誰かのことを考え、無理のない形を選んだことだった。

「初任給、ほかには何に使ったの?」

「両親へ食事券を送りました。店長にはコーヒーの道具を」

「自分には?」

「まだです」

「じゃあ、今日の夕食は私が出す。健人くんの初任給祝い」

「それだと、俺が得してませんか」

「最初の給料が出るまで働いた人を祝う日だから」

「美咲さんの初任給の時は、誰かに祝ってもらいましたか」

「両親が食事へ連れていってくれた」

「じゃあ、俺も祝ってもらいます」

「素直でよろしい」

美咲は紙袋を自分の鞄へ入れた。

健人は、少し大きくなった鞄を見て笑った。

「本当に、明日から持ってください」

「持つよ」

「忘れないで」

「健人くん、傘のことになると厳しいね」

「出会った理由なので」

定禅寺通りを、二人で歩いた。

新しいスーツを着るようになっても、健人の歩き方は変わらなかった。美咲より少し前へ出れば速度を落とし、段差があれば振り返る。

美咲も、守られるだけではなくなった。健人の顔に疲れを見つければ、無理に予定を続けず、休める場所を探す。何も話せない日は、答えを求めず隣に座る。

働き始めたことで、二人の時間は増えなかった。

むしろ、会える日は減り、予定を合わせるのは難しくなった。

それでも、限られた時間の中で、何を相手へ渡すかを考えるようになった。

六月の雨宿りから、間もなく二年になる。

あの日の健人は、壊れた靴で立ち尽くす美咲へ傘を差し出した。

今の二人は、それぞれの傘を持っている。

晴れた日は並んで歩き、雨が降れば一つへ入ることもできる。別々の場所にいるなら、自分の傘で濡れずに進み、また会えるところまで歩けばいい。

ケヤキの葉の間から、五月の光が落ちていた。

健人は新しいスーツの上着を腕にかけ、美咲は深い緑の傘を鞄へ入れていた。

二人は以前と同じように、互いの歩幅を確かめながら歩いた。

変わらないのは、気持ちの形ではなかった。

変わるたびに、相手を知ろうとすることだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。