終章 青葉城址から見る未来
健人が社会人になって初めて迎えた六月、仙台には朝から細かな雨が降っていた。
入社して二か月半。研修を終えた健人は、自治体向けの情報システムを担当する部署へ配属されていた。
希望した部門だった。
それでも、希望どおりの仕事が、そのまま自分にできる仕事になるわけではなかった。
最初に任されたのは、先輩の打ち合わせへ同行し、議事録を作ることだった。誰が何を言ったかを書くだけではない。決まったこと、決まらなかったこと、次に確認することを分け、会議に出ていない人が読んでも分かる形にする。
健人は発言をできるだけ多く残そうとした。
提出すると、先輩から戻された。
「これだと、会話の記録だな」
「詳しい方がいいと思いました」
「詳しく書くことと、必要なことが分かることは別だよ」
研修でも似た指摘を受けた。
人の声を消さないことを大切にするあまり、すべてを同じ重さで並べてしまう。研究なら、違いを残すことに意味があった。仕事では、その違いを残しながらも、次に誰が何をするかを決めなければならない。
健人は先輩の議事録を見せてもらい、書き直した。
午後には、顧客へ送る資料の数字を間違えた。送信前に先輩が気づいたため、社外へは出なかった。けれど、自分の確認不足で先輩の時間を使わせた。
「申し訳ありません」
健人が頭を下げると、先輩は画面を指した。
「謝るのはあとでいい。どこで間違えたか確認しよう」
一つ前の資料から数字を写した時、年度の違いを見落としていた。
「次から、数字の出所と日付を一緒に確認して」
「はい」
「俺も見落とすから、提出前に声をかけてくれ」
責められなかったことが、かえって苦しかった。
帰宅するころには、雨脚が強くなっていた。
健人は折り畳み傘を開き、駅へ向かった。六月の雨は、二年前の夜を思い出させた。
壊れたパンプスで立ち尽くす美咲へ声をかけた時、健人は自分が彼女の人生にこれほど長く関わるとは考えていなかった。
あの頃は、困っている人へ傘を差し出すだけでよかった。
今は、相手が本当に必要としているものを考え、間違えれば説明し、次の方法を探さなければならない。
地下鉄へ乗る前に、美咲へメッセージを送った。
『今日は、議事録を全部書き直しました。数字も間違えました』
少しして、返事が届いた。
『大変だったね。今、帰り?』
『はい』
『私も、まだ会社です。帰ったら電話できる?』
『できます』
その夜、二人は二十分だけ話した。
美咲は、後輩が作った資料を厳しく直しすぎて、話しかけにくいと言われたことを打ち明けた。
「由香里さんに、正しい指示だけでは人は動けないって言われた」
「美咲さんでも、後輩との接し方で迷うんですね」
「また言った」
「すみません。でも、今のは少し安心しました」
「私の失敗で安心しないで」
「前にも言われました」
二人で笑った。
同じ社会人になっても、健人の仕事と美咲の仕事は違う。任されている責任も、経験も違う。
それでも、帰り道で今日の失敗を話せる相手がいることは、二人にとって同じだった。
「今週末、会える?」
美咲が尋ねた。
「土曜は、午前中に勉強会があります。午後なら」
「私も午後がいい」
「何をしますか」
「雨なら、AERへ行かない?」
「展望テラスですか」
「久しぶりに」
「行きましょう」
六月の雨に始まった二人は、二年目の同じ季節を迎えていた。
*
土曜日、雨は昼前に上がった。
AERの展望テラスから見える仙台の街は、薄い雲の下で濡れていた。建物の屋上や道路が淡く光り、遠くの山は霞んでいる。
二人が最初にここへ来た夜は、街の明かりが窓へ映っていた。美咲は仕事で評価されても満たされないこと、友人たちの結婚や出産と自分を比べてしまうことを話した。
今は昼だった。
同じ場所でも、見えるものは違っている。
「あの時、健人くんに話しすぎたと思った」
美咲が窓の外を見ながら言った。
「話したあとで?」
「帰ってから。ほとんど知らない大学生に、どうしてあんなことまで言ったんだろうって」
「大学生は余計です」
「当時は大学生だったでしょう」
「今も、知らない人に話しすぎたでいいじゃないですか」
「そうだね」
「俺は、話してくれて嬉しかったです」
「どうして?」
「美咲さんが、何でもできる人ではないって分かったから」
「今なら、少し失礼だよ」
「すみません」
健人は笑った。
「でも、あの時は、弱いところを見せてもらえた気がしたんです。俺の前では、仕事で評価されている人じゃなくて、美咲さんでいてくれた」
「健人くんは、最初から健人くんだったね」
「どういう意味ですか」
「年下に見られたくないとか、大人だと思われたいとか、あとでいろいろ言ってたけど、私の前でよく失敗してた」
「靴の店へ走って、戻る道を間違えたことですか」
「遊園地で、乗り物に酔ったことも」
「あれは、寝不足だったからです」
「そういうところ」
二人は窓際の椅子へ座った。
美咲の鞄には、初任給で健人が贈った深い緑の傘が入っている。朝は雨が降っていたから、今日は忘れなかった。
「仕事、続けられそう?」
美咲が尋ねた。
健人はすぐに答えなかった。
「続けたいです」
「続けられる、じゃなくて?」
「まだ、分かりません。毎日、知らないことが増えます。向いてないと思う日もあります」
「うん」
「でも、顧客の担当者が困っていることを話してくれた時は、もっと聞きたいと思いました。先輩が、健人がいると質問が増えるって言ってくれたんです」
「褒められたの?」
「半分は注意だと思います。会議が長くなるので」
「半分は褒められてるね」
「そう思うことにします」
美咲は、自分の仕事についても話した。
後輩へ任せる範囲が増え、自分でやった方が早いと思うことが多いこと。けれど、すべて抱えれば後輩は経験できず、自分も新しい仕事へ進めないこと。
「任せたいのに、間違えるのが怖い」
「俺の先輩も、そう思ってるかもしれません」
「それでも、間違えた数字を一緒に見てくれたんでしょう」
「はい」
「私も、直すだけじゃなく、一緒に見るようにする」
健人はうなずいた。
二年前、美咲はこの場所で、正解を選べないことを怖がっていた。
今も、怖さはなくなっていない。
ただ、正解を一人で出さなくてもいいと思えるようになった。
窓の外では、雲の切れ間から光が差し、濡れた街を一部だけ明るくしていた。
*
八月、健人は初めて顧客との打ち合わせで説明を任された。
市内の公共施設で使われている予約システムの変更について、利用する職員へ案を説明する。健人が担当するのは、入力画面の項目と、予約を確定するまでの流れだった。
先輩と何度も資料を見直した。
専門用語を減らし、画面の例を入れ、変更した理由を書いた。
当日、説明は予定どおりに進んだ。
ところが、窓口で働く女性から尋ねられた。
「急いでいる時に、今より押す場所が増えるんですか」
健人は画面を見た。
入力間違いを防ぐため、確認する手順を一つ増やしている。説明資料では、安全になる点を強調した。
「増えます」
「一人で何件も受ける時間は、これだと困ります」
健人は、間違いが減るので必要だと答えかけた。
隣の先輩は口を挟まなかった。
「どの時間が、一番忙しいですか」
健人は尋ねた。
女性は、午前の受付開始直後と、催しの申込が始まる日だと答えた。電話を受けながら入力することも多いという。
「確認を増やさずに間違いを減らす方法があるか、持ち帰って考えます」
「変えられるんですか」
「今は約束できません。でも、使い方を聞かずに決めることはしません」
会社へ戻ると、先輩から聞かれた。
「どうする?」
「確認画面を増やす以外の方法を考えます。入力した内容が見えやすければ、押す回数を増やさなくてもいいかもしれません」
「期限は?」
「来週の打ち合わせまでです」
「一人で抱えないで、設計の担当に相談して」
「はい」
その夜、健人は美咲へ電話をした。
「今日、初めて顧客の前で説明しました」
「どうだった?」
「作った案を、困ると言われました」
「そうなんだ」
「でも、聞けました。どうして困るのか」
「うん」
「すぐに直せるかは分かりません。でも、大学の調査でやってきたことが、少し仕事につながった気がします」
「よかったね」
「まだ、よかったかは分かりません。来週までに案を作らないと」
「じゃあ、来週、結果も聞かせて」
健人は電話を切ったあと、机へ向かった。
仕事のための案は会社で考える。自宅で資料を開くことはできない。それでも、今日聞いた言葉が何を意味するのかを、自分のノートへ書くことはできた。
使う人に合わせることと、言われたとおりに作ることは同じではない。
安全を守りながら、手間を増やさない方法を探す。
まだ答えはなかった。
翌週、設計担当者と相談し、確認画面を増やす代わりに、入力欄の横へ内容を常に表示する案ができた。試してもらうと、窓口の女性から、前より見やすいと言われた。
すべての問題が解決したわけではない。別の職員からは、文字が小さいという指摘も出た。
健人は、その意見も記録した。
仕事は、完成という言葉で閉じないことがある。
使われるたびに、新しい不便が見つかる。
それを失敗と呼ぶか、続きと呼ぶかで、立つ場所は少し変わった。
*
九月、美咲は健人の両親と初めて会った。
健人の母が仙台で用事を済ませる日に、三人で昼食を取ることになった。父は仕事の都合で来られなかった。
約束が決まってから、美咲は何度も服を選び直した。
派手すぎず、仕事の面接のようにも見えないもの。年上だから落ち着いて見せようとすると、かえって不自然な気がした。
前日の夜、健人へ電話をした。
「お母さん、何を聞くと思う?」
「分かりません」
「私のこと、どう話したの?」
「広報の仕事をしていて、二十八歳で、仙台に住んでる」
「それだけ?」
「付き合い始めた時に、雨の日に出会ったことも話しました」
「どこまで?」
「靴が壊れていたこと」
「それ、必要だった?」
「出会った理由なので」
「お母さん、私を靴が壊れた人だと思ってるよ」
「ほかにも話しました。仕事を続けたい人で、俺の就職先を自分で決めさせてくれたって」
「決めさせてくれた、って変じゃない?」
「俺が選んだことを応援してくれた、です」
「それならいいけど」
健人は笑った。
「美咲さん、緊張しすぎです」
「するよ。六歳上の恋人を連れてきたら、お母さんは心配するでしょう」
「心配はすると思います」
「否定しないんだね」
「しない方がいいでしょう」
「そうだけど」
「母にも、心配なら本人に会ってから話してほしいと言いました」
「健人くんが?」
「はい」
翌日、三人は駅近くの和食店で会った。
健人の母は、息子と目元の似た人だった。
挨拶を交わし、席へ着く。最初は、仕事や仙台の暮らしについて話した。母は美咲の仕事に興味を持ち、観光の企画でどのような場所へ行ったのか尋ねた。
食事の半ば、母が箸を置いた。
「失礼だったら、ごめんなさい」
美咲は背筋を伸ばした。
「健人との年齢のこと、気になりませんでしたか」
「気になりました」
正直に答えた。
「一度は、それが理由で健人くんを傷つけました」
健人がわずかに顔を動かした。
美咲は、そこを隠したくなかった。
「将来のことを一人で考えて、好きではないと嘘をついて断りました。でも、あとで謝って、今は、不安になった時に二人で話すようにしています」
母はすぐに何も言わなかった。
「結婚は、考えているんですか」
予想していた問いだった。
「今すぐではありません。ただ、考えないまま付き合っているわけでもありません」
「健人は?」
「俺も同じです」
健人が答えた。
「まだ働き始めたばかりで、いつとは言えない。でも、いつか考えることから逃げるつもりはない」
母は息子を見た。
「美咲さんを待たせることになるかもしれないでしょう」
「それも、二人で話してる」
「子どものことは?」
美咲の胸が一瞬、固くなった。
母は責める声ではなかった。ただ、息子の将来を心配する人として尋ねている。
「まだ決めていません」
美咲は答えた。
「私自身、欲しいのか、今もはっきりしていません。年齢を考えれば、ずっと先に延ばせる問題ではないと思っています。でも、そのためだけに結婚を急ぐこともしたくありません」
母はうなずいた。
「率直に話してくれて、ありがとうございます」
それで、すべてを受け入れてもらえたわけではなかった。
食事のあと、母は健人に、帰宅したら連絡するよう言った。美咲には、また仙台へ来た時に会ってほしいと伝えた。
店を出て母を駅へ送ったあと、美咲は大きく息を吐いた。
「緊張した」
「途中から、顔が仕事の会議みたいでした」
「質問が、会議より難しかった」
「ごめんなさい」
「健人くんが謝ることじゃないよ」
「母の聞き方が、少し急だったから」
「でも、いつかは話すことだった」
美咲は駅の構内を歩く人々を見た。
「お母さん、私のことを認めてくれたのかな」
「今すぐ、全部安心したわけではないと思います」
「うん」
「でも、また会ってほしいと言いました」
「そうだね」
「俺は、それで十分です。今日一日で答えを出してもらおうとは思いません」
美咲はうなずいた。
自分たちも、一度の話し合いで未来を決めなかった。
家族にも、時間が必要だった。
*
十一月、美咲は健人を自分の実家へ連れていった。
父の誕生日が近く、昼食を一緒に取ることになった。
母には、付き合っている人が二十二歳で、春から仙台で働いていることをすでに伝えていた。父には、母から話してもらった。
玄関で挨拶した健人は、普段より声が硬かった。
父は健人を居間へ通し、仕事について尋ねた。
「情報システムの会社です」
「何を作ってるんだ」
「今は、公共施設で使う予約の仕組みに関わっています。まだ先輩の補助が中心です」
「残業は?」
「多い時期はあります。今は、研修が終わって少しずつ増えました」
「給料は」
「お父さん」
美咲が止めると、父は湯飲みを置いた。
「生活できるか聞いてるだけだ」
健人は答えようとしたが、美咲が先に言った。
「私たちは、まだ一緒に暮らしてないし、健人くんに養ってもらうつもりもないよ」
「結婚したら、そうはいかないだろう」
「結婚するかも、いつするかも決めてない」
「決めてないのに、連れてきたのか」
空気が固くなった。
母が料理を運ぶ手を止める。
美咲は父を見た。
「決まってから紹介したら、決める前に会いたかったって言うでしょう」
「それは」
「私が選んで付き合ってる人として、会ってほしかったの」
健人が、静かに口を開いた。
「心配されるのは当然だと思います」
父の視線が移る。
「俺は、まだ働き始めたばかりです。美咲さんより収入も少ないし、経験もありません。結婚の時期も約束できません」
「なら、なぜ付き合ってる」
「好きだからです」
健人は逃げずに答えた。
「それだけで生活できるとは思ってません。でも、生活の問題を話せない相手なら、好きでも続けられないと思っています。俺たちは、お金や仕事、子どものことも、決まっていないまま話しています」
「決まっていない話をして、何になる」
「相手が何を怖がっているかは分かります」
父は黙った。
「俺が美咲さんの将来を保証できるとは言いません。美咲さんも、俺の将来を保証できません。でも、変わった時に話さず逃げないことは約束しています」
美咲は健人の横顔を見た。
広瀬川で告白した頃の彼なら、好きなら年齢は関係ないと言ったかもしれない。
今は、関係する現実を知った上で、それでも一緒にいたいと伝えている。
父はすぐに納得しなかった。
昼食の間も、会話は何度か途切れた。
それでも、食後に健人が持参した日本酒の箱を開け、どこで選んだのか尋ねた。健人が、以前美咲から父の好みを聞いたと答えると、父は短く礼を言った。
帰り際、父は玄関まで出てきた。
「次は、仕事で困ったことも聞かせてくれ」
健人は驚いた顔をした。
「はい」
「うまくいってる話だけされても、分からないからな」
「分かりました」
実家を出たあと、二人は駅まで歩いた。
「お父さん、怖かったです」
「私も、あんな聞き方をすると思わなかった」
「でも、次があるみたいです」
「うん」
「認めてもらえたんでしょうか」
「全部ではないと思う」
「美咲さんも、母の時と同じこと言いますね」
「今日一日で答えを出してもらわなくていいんでしょう」
「そうでした」
健人は笑った。
二人の関係を、家族の承認だけで正しいものにはできない。
けれど、理解されなくても構わないと閉じるのではなく、何度でも会い、話す道を残しておきたかった。
*
十二月、二人は光のページェントを一緒に歩いた。
前年、美咲は一人で定禅寺通りへ来て、再点灯の光の中に健人を見つけた。あれから一年が過ぎていた。
今年は待ち合わせをした。
美咲の仕事が終わる時刻は読めなかったため、健人は近くの書店にいると伝えた。美咲は会社を出る時に連絡し、二人は勾当台公園駅の改札前で会った。
「待った?」
「十分だけです」
「本当?」
「書店では、四十分いました。でも、自分の時間です」
「なら、よかった」
二人は光の下を歩いた。
昨年と同じように、恋人や家族が並木を見上げている。子どもが光へ手を伸ばし、写真を撮る人が立ち止まる。
「去年、ここで見つけた時、何を思った?」
美咲が尋ねた。
「美咲さんがいる、と思いました」
「それだけ?」
「メッセージを読んだ直後だったので、どこかで見てるのかと思いました」
「怖いよ、それ」
「でも、本当に目の前にいた」
「私は、もう逃げないって思った」
「俺は、逃げたいと少し思いました」
美咲は足を止めた。
「初めて聞いた」
「好きじゃないと言われた顔を思い出したので。また断られるなら、話したくないと思いました」
「それでも、カフェへ来てくれた」
「美咲さんが、見つける前にメッセージを送ったと言ったからです」
「あれがなかったら?」
「少し考える時間をもらったかもしれません」
美咲は、あの夜を違う側から初めて見た。
自分が勇気を出して呼び止めた時、健人も同じ場所へ戻るために勇気を使っていた。
どちらか一人が関係を救ったわけではない。
「話してくれて、ありがとう」
「一年もあとになりました」
「今だから言えたんでしょう」
「そうかもしれません」
二人は再び歩いた。
途中で光が消え、通りが暗くなった。
周囲から、昨年と同じように小さなどよめきが上がる。
健人は暗闇の中で、美咲の手を握った。
「いますか」
「いるよ」
「見えません」
「私も」
「でも、手は分かります」
「うん」
光が戻る。
歓声とともに、健人の顔が見えた。
再点灯は、暗さがなかったことにするものではない。
一度見えなくなったあとで、同じ場所に相手がいると確かめる時間だった。
*
年が明け、健人が働き始めて十か月が過ぎた。
二人は、住む場所について初めて具体的に話した。
きっかけは、健人の部屋の更新案内だった。
大学時代から住んでいる部屋は、会社へ通えない距離ではない。けれど狭く、冬は寒い。更新するなら、このまま二年住むのか、別の部屋へ移るのかを考える必要があった。
「一緒に住む?」
健人が尋ねたのは、美咲の部屋で夕食を終えたあとだった。
美咲の手が止まった。
「今?」
「今すぐではなくて、更新までに」
「どうして一緒に住みたいの?」
「会いやすくなるし、家賃や生活費も二人で分けられます」
「それだけ?」
健人は考えた。
「朝、同じ家から仕事へ行って、帰ってきたら今日のことを話したいです」
「うん」
「結婚を考える前に、一緒に暮らして分かることもあると思います」
美咲は食器を重ねた。
「私は、一緒に住むなら、その先を考えたい」
「結婚ですか」
「うん。同居してみて、合わなければ戻る、という始め方をしたくないわけじゃない。でも、いつまでに何を考えるか分からないまま住むのは嫌」
「期限を決めたい?」
「話す時期は決めたい」
健人は、すぐに返事をしなかった。
「俺は、まだ結婚する時期を決められません」
「そうだと思う」
「一緒に住みたいと言ったのに、無責任ですか」
「無責任だとは言わない。でも、私は二十九になる。結婚も、子どものことも、考えないまま二年過ごすのは怖い」
健人は目を伏せた。
広瀬川で美咲が口にした恐れが、同じ形ではないにしても戻ってきた。
今度は、どちらも逃げなかった。
「子ども、欲しいですか」
「分からない」
「前と同じ?」
「前より、欲しいかもしれないと思う時は増えた。友達の子どもと会って、家族を持つことを考える。でも、仕事をどうするか、身体のこと、育てる責任を考えると、怖くもなる」
「俺は、まだ自分が親になることを想像できません」
「うん」
「それを、待ってほしいと言うのは勝手ですか」
「待つかどうかは、私が決める。でも、いつまででも待てるとは言えない」
健人は美咲を見た。
「今、別れることも考えてますか」
美咲はすぐには答えなかった。
その沈黙を隠さず、言葉を選んだ。
「考えないとは言えない。私が子どもを望むと決めて、健人くんが望まないと決めたら、好きでも一緒にいられない可能性はあると思う」
健人の顔が強ばった。
「でも、今はどちらも決めていない。決めていないことを、別れる理由に先回りさせたくもない」
「俺もです」
「だから、同居を急がずに、半年後にもう一度話さない?」
「更新はどうしますか」
「健人くんは、今の部屋を更新したくないんでしょう」
「寒いので」
「一人で暮らす部屋を探してもいいと思う。私の部屋に近いところなら、今より会いやすくなる」
「一緒には住まない?」
「今は」
健人は残念そうだった。
美咲はその表情を見て、胸が痛んだ。
「嫌だからじゃないよ」
「分かってます」
「分かってても、寂しい?」
「はい」
「私も、一緒に暮らしたい気持ちはある」
「それなら」
「気持ちがあるからこそ、曖昧に始めたくないの」
健人はしばらく黙り、やがてうなずいた。
「半年後に、もう一度話しましょう」
「うん」
「その前に考えが変わったら?」
「その時に話す」
「俺もそうします」
同じ家に住まないという結論は、前へ進まないことではなかった。
今の二人が同じ速さで進めないと認め、次に話す場所を決めた。
健人は美咲の部屋から地下鉄で二駅の場所へ引っ越した。
前より少し広く、会社へも近い部屋だった。
引っ越しの日、美咲は荷物を運ぶのを手伝った。台所の棚へ皿を並べ、窓際に小さなテーブルを置いた。
「一人暮らしの部屋なのに、美咲さんのカップがあります」
「来た時に使うから」
「歯ブラシも置きますか」
「今日は置かない」
「厳しいですね」
「少しずつ」
健人は笑った。
*
三月の終わり、健人が社会人になって一年が過ぎようとしていた。
二人は、夜明け前の青葉城址を訪れた。
早朝に行こうと言い出したのは健人だった。前年は卒業と入社の準備で余裕がなく、一年を振り返る時間を持てなかった。今度の週末、天気がよければ街を高い場所から見たいと考えた。
美咲は、朝が早すぎると一度断った。
それでも、日の出の時刻を調べ、前日の夜は早く眠り、結局一緒に来た。
空はまだ暗かった。
街の明かりが眼下に広がり、遠くの山の輪郭は夜に溶けている。冷たい風が吹き、美咲はマフラーへ顎を埋めた。
「寒い」
「来る前から分かってました」
「言ってもいいでしょう」
「言っていいです」
健人は持ってきた温かい飲み物を渡した。
「用意がいいね」
「一年働いたので」
「それ、関係ある?」
「少しは」
二人は街を見下ろした。
AERの展望テラスより高く、広い範囲が見えた。仙台駅の周辺、街を横切る道路、暗い中に浮かぶ建物の窓。定禅寺通りの場所は、ここからでは光の帯に紛れていた。
「あそこが仙台駅かな」
美咲が指した。
「たぶん」
「自信ないの?」
「高いところからだと、道の形が違って見えます」
「二年前、AERから見た時も、似たことを言ってたね」
「美咲さんが、街の明かりを見ながら、自分だけ止まってる気がするって言いました」
「よく覚えてるね」
「忘れません」
あの夜、美咲は友人たちに比べて、自分だけ同じ場所を走っているように感じると話した。
今、結婚しているわけではない。子どももいない。周囲から見れば、二年前と変わっていないものもある。
けれど、美咲はもう、自分が止まっているとは思わなかった。
健人と出会い、好きになり、怖くなって離れた。自分から戻り、何度も話し合った。彼の就職活動を見守り、家族へ紹介し、同居を急がない選択もした。
目に見える形が変わらなくても、選んだことは積み重なっている。
「ここに来ると、あの日のことを思い出すね」
美咲が言った。
「AERの日?」
「それも。雨の日も、広瀬川も、ページェントも」
「全部ですか」
「この街を歩くと、いろいろ残ってる」
健人は美咲の隣に立った。
「俺は、今日のことも残したいです」
「何か、言おうとしてる?」
「結婚を申し込むと思いましたか」
美咲は健人を見た。
「少しだけ」
「すみません。今日は、しません」
「謝らなくていいよ」
「がっかりしました?」
「少しだけ」
美咲は正直に言い、笑った。
「でも、今はしないって話したでしょう」
「はい」
「じゃあ、何を残したいの?」
健人は街へ目を戻した。
「一年働いて、前よりできることは増えました。でも、将来のことを決められるほど、何でも分かるようにはなりませんでした」
「うん」
「学生の頃は、社会人になれば美咲さんの隣に立てると思ってました。給料が出て、仕事を覚えれば、六歳の差を越えられるって」
「今は?」
「越える場所は、なかったです」
美咲は黙って聞いた。
「六歳違うことは変わらない。俺が二十三になっても、美咲さんは二十九になる。経験も、考える時間も違う。その差をなくそうとすると、俺は無理に大人のふりをするし、美咲さんは待たなきゃいけない人になる」
「そうだね」
「だから、越えなくていいと思います」
健人は美咲の手を取った。
「違う場所にいるまま、話したいです」
「結婚のことも?」
「はい。子どものことも、住む場所も。今の俺は、まだ時期を決められない。でも、考えるのを先延ばしにしたくはないです」
「どうする?」
「半年後と言ったけど、三か月ごとに話しませんか」
「多くない?」
「決めるための会議じゃなくて、考えが変わったかを話すだけです」
「仕事みたい」
「仕事で、決まらないことも確認日を作ると覚えました」
「そこは社会人になった成果なんだ」
「はい」
美咲は笑い、健人の手を握り返した。
「三か月に一度じゃなくてもいい。でも、どちらかが考えた時に、先延ばしにせず話そう」
「分かりました」
「私は、結婚したいと思ってる」
健人の表情が変わった。
「今すぐではない。でも、健人くんとなら、一緒に暮らしてみたい。子どものことは、まだ決められない」
「俺は、美咲さんと結婚したくないわけではありません」
「その言い方、あまり嬉しくない」
「すみません」
健人は言い直した。
「美咲さんと結婚したいです。ただ、今すぐ約束して、準備できないまま始めるのが怖いです」
「うん」
「仕事をもう少し覚えたい。生活費も、実際に一緒に暮らすならどれくらい必要か考えたい。親にも、また話したいです」
「分かった」
「待ってもらえますか」
美咲はすぐに、いつまでもとは答えなかった。
「今は、待ちたいと思ってる」
「今は?」
「気持ちが変わらないと約束はできないから。でも、変わったら言う」
「俺も言います」
「それでいい?」
「それがいいです」
空の端が、少しずつ明るくなってきた。
山の輪郭が見え、街の明かりが夜の中で薄くなる。朝を迎えるからといって、すべての窓が同時に消えるわけではない。まだ灯っている場所もあり、暗い道も残っている。
「ここも、昔から同じ景色だったわけじゃないんだよね」
健人が言った。
「急にどうしたの?」
「大学で、街の変化を調べた時に、同じ道でも使う人や建物が変われば意味が変わるって習いました」
「うん」
「俺たちも、変わらない約束をするより、変わった時に話す約束の方が合ってると思います」
美咲は眼下の街を見た。
二年前なら、変わることは失うことだと思っていた。
健人の気持ちが変わること。自分の望みが変わること。仕事や家族の事情が変わり、選んだ道から外れること。
だから、変わる前に終わらせようとした。
今は、変わらないものだけを信じようとは思わなかった。
仕事を始めた健人は、学生の頃とは違う。美咲も、後輩を持ち、家族へ自分の選択を話せるようになった。二人の気持ちも、出会った時のままではない。
変わったからこそ、今ここにいる。
「健人くん」
「はい」
「私、あの日、雨宿りがしたかっただけだったの」
「知ってます」
「傘に入れてもらって、靴の店まで行けたら、それで終わると思ってた」
「俺も、店へ送ったら終わると思ってました」
「でも、終わらなかったね」
「はい」
「これからも、終わらないって言える?」
健人は、美咲の問いから目をそらさなかった。
「ずっと同じ形で続くとは言えません」
「うん」
「でも、続けたいと思っています。変わった時に、勝手に相手の答えを決めないで話します」
「私も」
東の空から朝日が昇った。
街の屋根が一つずつ光を受け、広瀬川の水面が遠くで明るくなる。
二人は手をつないだまま、その光を見た。
永遠を約束する言葉はなかった。
結婚の日も、住む家も、子どもを持つかも決まっていない。
それでも、決まっていないことを隠さず、決めるために相手を急かさず、自分の望みを黙って捨てないことはできる。
「帰ったら、朝ご飯どうする?」
美咲が尋ねた。
「何か食べて帰りましょう」
「お店、開いてるかな」
「駅の近くなら」
「また調べてないの?」
「来ることだけで精いっぱいでした」
「社会人になっても、そこは変わらないね」
「今、探します」
健人は片手でスマートフォンを取り出した。
美咲の手は離さなかった。
「歩きながら見ないで」
「まだ歩いてません」
「先に言ったの」
「分かりました」
二人は朝の街へ戻る道を歩き出した。
坂道では、健人が少し先へ出た。美咲が遅れると、立ち止まらずに歩幅を小さくした。
美咲も、自分から少し速く歩いた。
どちらか一方だけが合わせるのではなく、二人の間にある速さを探しながら進んだ。
空はもう明るい。
雨は降っていなかった。
それでも、美咲の鞄には深い緑の傘があり、健人の鞄には紺色の折り畳み傘があった。
雨が来ても、立ち止まる場所は選べる。
一人で差すことも、二人で入ることもできる。
ただ雨宿りをするために始まった道を、二人はそれぞれの傘を持って歩いていった。




