第七章 就活という現実
一月の終わり、健人は大学の就職支援室で、初めて自分の名前が印刷された応募書類を受け取った。
氏名、住所、学歴、志望動機、学生時代に力を入れたこと。
空欄の多い一枚を前にすると、これまで過ごしてきた三年間が、限られた文字数で評価されるものへ変わったように見えた。
説明を担当する職員は、書類を早めに用意すること、興味のある業界を絞りすぎないこと、面接では自分の経験を具体的に話すことを伝えた。
「企業に選ばれるだけでなく、自分も企業を選ぶ立場です」
最後にそう言われたが、健人にはまだ実感がなかった。
会社について知っていることも、自分が何を仕事にしたいのかも少ない。その状態で何を基準に選べばよいのか分からなかった。
説明会のあと、三浦と学生食堂へ行った。
二人は窓際の席に資料を広げ、学内の合同説明会へ参加する企業一覧を見た。
「知ってる会社、いくつある?」
三浦に聞かれ、健人は一覧を上から下まで確かめた。
「名前だけなら、十社くらい」
「俺も同じ。業界地図を読めって言われても、載ってる会社が多すぎる」
「三浦は、何をしたいの?」
「それが分かれば困ってないよ」
三浦は笑い、資料の端を指でたたいた。
「地元へ戻るなら金融か役所も考える。東京なら人材とか商社も見る。お前は広告?」
「興味はある。でも、広告だけに決めたわけじゃない」
「彼女と同じ仕事をしたいんじゃないの」
「美咲さんの仕事を見て、面白いとは思った。でも、同じ仕事をすれば近づけるって考えるのは違う気がする」
「何が違う?」
「美咲さんが広報を選んだ理由と、俺が選ぶ理由は同じじゃないから」
口にしながら、健人は自分の中にある小さな違和感の正体を見つけた。
美咲が企画について話す時、その表情は生き生きとしている。けれど、健人が好きなのは彼女が働く姿であって、職種の名前ではなかった。
同じ広告会社へ入り、同じような企画を担当すれば対等になれるわけではない。
「俺は、地域の人に話を聞くのが好きだった」
健人は言った。
「商店街の調査?」
「うん。話を聞いて、困っていることを整理して、違う立場の人が一緒に使える方法を考える。ああいうことを仕事にできたらと思う」
「自治体向けの仕事とか?」
「そういう会社も調べてみる」
三浦は自分の資料へ目を戻した。
「少なくとも、俺よりは決まってるじゃん」
「今、言葉になっただけだよ」
健人は企業一覧の中から、地域情報、公共サービス、システム開発、広告と書かれた会社へ印をつけた。
仙台に本社がある会社だけではない。東京や盛岡、福島に拠点を持つ会社もあった。
勤務地を見た瞬間、美咲の顔が浮かぶ。
それを消そうとはしなかった。
ただ、彼女のいる場所だけを先に丸で囲むこともしなかった。
*
二月最初の日曜日、美咲と健人は沙織を交え、仙台駅近くの食堂で昼食を取った。
沙織が選んだのは、定食と丼を手頃な値段で食べられる店だった。美咲が店の候補を送った時、健人が無理をしなくてよいところにしようと提案したのだという。
「それ、美咲から聞いてなかった」
席へ着いてから健人が言うと、美咲は水の入ったグラスを持ち上げた。
「わざわざ言うことじゃないでしょう」
「言ってくれたら、お礼を言えたのに」
「今、言えばいいじゃない」
沙織が笑った。
「こちらこそ、会ってくれてありがとう。最初に美咲から聞いた時、かなり失礼なことを言ったから」
「どんなことですか」
「沙織」
美咲が止めたが、沙織は隠さなかった。
「大学生なら、将来を真剣に考えていないかもしれないって。会ったこともないのに決めつけた」
健人は少し考えた。
「俺も、先のことを全部決めているわけではありません」
「それは、二十一歳なら普通だと思う」
「でも、分からないから考えていない、ということではないです」
「うん。美咲にもそう言われた」
沙織は健人の目を見て、素直に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「いえ。心配するのは分かります」
「健人くん、理解があるね」
「すぐには、いい気持ちはしませんでした」
沙織が一瞬黙り、美咲は隣で息をのみかけた。
健人は続けた。
「でも、美咲さんの大事な友達なら、心配することもあると思います。今日、会って話せばいいと思って来ました」
沙織の表情が緩んだ。
「美咲が好きになるの、少し分かる」
「少しだけ?」
美咲が口を挟む。
「全部分かったら怖いでしょう」
三人の前へ料理が運ばれてきた。
食事をしながら、健人は大学で学んでいることや、商店街の調査について話した。沙織は仕事で関わった地域イベントの失敗を話し、住民へ説明する前に計画を決めたため反発を受けたことを打ち明けた。
「だから、健人くんの研究は仕事にもつながりそう」
「俺も、そういう仕事を調べ始めています」
「就職活動、もう始まってるんだね」
「今は企業研究と、書類の準備です。三月から説明会が増えます」
「東京も見るの?」
「見ます」
健人は、美咲の前でも言葉を濁さなかった。
「仙台だけに絞ると、知らないまま選択肢を狭めることになるので」
沙織は美咲を見た。
「寂しくない?」
「寂しいよ」
美咲も、迷わず答えた。
「でも、私が寂しいことと、健人くんが会社を見ることは別だから」
「強いね」
「強くはない。電話を切ったあと、しばらく落ち込んだ」
「それ、初めて聞きました」
健人が美咲を見る。
「言ったでしょう。寂しいって」
「しばらく落ち込んだとは聞いてません」
「そこまで報告する必要ある?」
「あります」
「二人とも、真面目だね」
沙織は笑った。
「でも、それなら少し安心した。どちらかが我慢して相手に合わせてるわけじゃなさそうだから」
会う前に抱いていた警戒が、すべて消えたわけではないだろう。それでも沙織は、健人を年齢の数字だけではなく、話をする相手として見ていた。
店を出たあと、沙織は別の約束があると言って駅へ向かった。
二人きりになると、健人が尋ねた。
「落ち込んだんですか」
「少しね」
「どうして言わなかったんですか」
「東京を見ないでって言ってるように聞こえたら嫌だったから」
「聞こえません」
「健人くんはそうでも、私が自分の言葉を気にしたの」
「じゃあ、今度は言ってください。俺は、寂しいって言われたから選択肢を変えるんじゃなくて、言われたことも含めて自分で考えます」
「分かった」
「俺も、東京へ行くかもしれないって言う時、本当は美咲さんがどう思うか怖かったです」
「それも初めて聞いた」
「言えないことが、まだありますね」
「少しずつ減らそう」
二人は駅前の人混みを避け、青葉通りを歩いた。
就職活動は健人一人の問題だった。
同時に、二人のこれからへ確実につながる問題でもあった。
どちらか一方のものに決めず、二人はその曖昧さの中で話し続けるしかなかった。
*
二月の後半、健人は初めて志望動機を書いた。
仙台市内に本社を置く広告会社だった。観光や自治体の広報を多く扱い、説明会の案内には、地域の魅力を発見し、全国へ届ける仕事と書かれている。
健人は大学の図書館で、会社の実績や採用情報を調べた。
地域の声を聞き、必要な情報を分かりやすく届ける仕事がしたい。
そう書いてみたが、どこかで読んだ言葉を並べただけに見えた。
商店街の調査について加える。店先の椅子をめぐって異なる意見があったこと。どちらかを正しいと決めず、利用する人の声を聞く必要があると学んだこと。
文字数を超えた。
削ると、何を経験したのか分からなくなった。
三時間かけても一段落しか書けず、健人はノートパソコンを閉じた。
その夜、美咲と電話をした。
「志望動機が書けません」
「最初から、うまく書ける人はいないよ」
「美咲さんは、就職活動の時どうしてましたか」
「大学の就職課で見てもらった。友達とも読み合ったよ」
「読んでもらってもいいですか」
「いいよ。でも、私が書き直すのは違うと思うから、気になったところだけ伝えるね」
「お願いします」
健人は書類を送った。
翌日の夜、美咲から返事が来た。
『経験は具体的でいいと思う。ただ、「地域の魅力を届けたい」が、会社の案内と同じ言葉になっているのが気になりました。健人くんが届けたいのは魅力だけ?』
その問いを読み、健人は書いた文章を見直した。
商店街で聞いたのは、魅力的な話ばかりではなかった。後継者がいない店。椅子を置く余裕がない細い歩道。休める場所がなく、買い物へ行けない人。
見栄えのよいものだけを切り取り、魅力として伝えるなら、聞き取りで知った現実の半分を捨てることになる。
『魅力だけではありません。困っていることも、そこで暮らす人の言葉として伝えたいです』
『それなら、そっちを書いた方が健人くんらしいと思う』
健人は文章を書き直した。
地域を一方的に紹介するのではなく、そこに暮らす人の声から課題と価値の両方を見つけ、伝える仕事に関わりたい。
今度は、自分が考えた言葉に見えた。
美咲へ送り直すと、電話がかかってきた。
「よくなったと思う」
「ありがとうございます」
「ただ、一つ心配」
「何ですか」
「この会社で、本当にそれができるかは確かめた方がいい。会社の実績を見ると、観光広告が中心でしょう。課題を伝えるより、来てもらうための魅力を見せる仕事が多いかもしれない」
「広告会社だから、仕方ないんじゃないですか」
「仕方ないと納得できるならいい。でも、自分がやりたいことと会社の仕事を、言葉だけで同じにしない方がいいよ」
健人は会社の制作事例をもう一度開いた。
美咲の指摘は正しかった。
同時に、少し悔しかった。
「美咲さんは、すぐ分かるんですね」
「仕事で会社の広報を見ることが多いから」
「俺は、三時間考えても分からなかった」
「初めてなんだから当然でしょう」
「そういう言い方、嫌です」
口から出てから、自分でも驚いた。
「初めてだからとか、学生だから当然って言われると、結局、俺は何も分かってないって言われてる気がします」
電話の向こうで、美咲が黙った。
「ごめん。そういう意味ではなかった」
「分かってます」
「分かってるけど、嫌だった?」
「はい」
健人は正直に答えた。
美咲は少し間を置いてから言った。
「私、添削する側になりすぎたね」
「頼んだのは俺です」
「それでも、健人くんが選ぶための文章なのに、私が正しい方向へ直すみたいになってた」
「正しいことを言われたと思います」
「正しいことと、言い方がいいことは別でしょう」
健人は椅子の背にもたれた。
「これからも、見てもらっていいですか」
「もちろん。でも、先に自分で何が気になるか教えて。文章の分かりやすさなのか、会社との合い方なのか」
「今回は、両方聞こうとしたから苦しくなったのかもしれません」
「私も、仕事のつもりで見すぎた」
「仕事なら、もっと厳しいですか」
「もっと赤くなる」
「それは嫌です」
二人は笑った。
健人は、書類を誰かに見せることと、誰かの答えを書くことは違うのだと知った。
美咲の経験は助けになる。けれど、借りた言葉で選考を通っても、その先で働くのは自分だった。
*
三月に入ると、企業説明会が続いた。
仙台駅近くの会場で、一日に四社の話を聞く日もあった。画面に映る理念、事業内容、研修制度。若手社員は仕事のやりがいを話し、採用担当者は求める人物像を説明した。
どの会社も、自ら考えて行動できる人、変化へ挑戦できる人、周囲と協力できる人を求めていた。
同じ言葉が続くほど、会社ごとの違いが分からなくなった。
健人は説明会のあと、質問するようにした。
若手社員が最初に任された仕事。失敗した時の支援。地域に関わる案件で、住民の意見が対立した時にどうしたか。
具体的な問いを向けると、答え方には違いが出た。
失敗も含めて話す社員がいる会社。制度の説明へ戻る会社。住民との調整は自治体の役割だと線を引く会社。
健人は会場を出るたび、感じたことを記録した。
三月半ばには、東京の合同説明会へ参加した。
交通費を抑えるため、夜行バスを使った。
金曜の夜、仙台駅東口の乗り場で美咲と会った。出発まで二十分だけ話すため、美咲が仕事帰りに来てくれた。
「眠れる?」
「たぶん」
「首、痛くなるよ」
「三浦に枕を借りました」
「自分で買いなさいよ」
「一回使ってから、必要なら買います」
健人はリュックの中を確かめた。
応募書類、会社案内、筆記用具、着替え。何度見ても、忘れ物があるような気がした。
「緊張してる?」
「してます」
「説明を聞くだけでしょう」
「東京の会場は、会社も学生も多いので。自分だけ遅れてる気がしそうです」
美咲は、すぐに大丈夫とは言わなかった。
「そう感じたら、何を知らないと思ったか書いておくといいよ。知らないことが分かれば、帰ってから調べられるから」
「はい」
バスへの乗車が始まった。
健人は美咲の手を握った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「東京の会社を見て、行きたいと思うかもしれません」
「うん」
「今、それを言う必要はなかったですか」
「必要だったんでしょう?」
「隠したくなかったので」
美咲は握った手に力を込めた。
「私も、平気なふりはしない。寂しいけど、ちゃんと見てきてほしい」
「見てきます」
健人はバスへ乗った。
窓際の席から外を見ると、美咲が小さく手を振っている。
夜の高速道路を走り始めて一時間もすると、腰が痛くなった。前の席が倒れ、足を動かす場所も狭い。目を閉じても眠れず、途中の休憩場所で温かい飲み物を買った。
東京へ着いたのは、空が白み始めるころだった。
駅の洗面所で顔を洗い、スーツへ着替える。同じような服装の学生が何人もいて、鏡の前で髪を整え、書類を確認していた。
会場には、仙台の合同説明会とは比べものにならない数の企業が並んでいた。
大手広告会社の関連企業。全国の自治体へシステムを提供する会社。位置情報を使い、観光や防災のサービスを作る会社。名前も知らなかった事業がいくつもあった。
健人は五社の説明を聞いた。
中でも、自治体向けの情報サービスを作る会社に惹かれた。住民から寄せられた意見を整理し、地域ごとの課題を見えるようにする仕組みを開発している。
説明をした社員は、技術だけでなく、現場で使う人へ聞き取りを重ねることが重要だと話した。
「使う人が必要としていないものを、高い技術で作っても意味がありません」
その言葉に、健人は商店街の店主たちを思い出した。
説明会が終わったあと、社員へ質問した。
「文系でも、利用者への聞き取りや企画に関われますか」
「関われます。ただ、技術を知らなくてよいわけではありません。入社後に学び続ける必要があります」
「プログラムを勉強した経験がなくてもですか」
「最初からできる人ばかりではありません。何のための仕組みかを考えられることも大切です」
健人は会社案内を受け取った。
勤務地は東京が中心で、全国転勤の可能性もあった。
その一文を見た時、美咲との距離が現実の数字になった。
それでも、応募しない理由にはしなかった。
帰りのバスで、美咲へ電話した。
「どうだった?」
「知らない仕事がたくさんありました」
「行ってよかったね」
「はい。応募したい会社も見つけました」
「東京?」
「東京です。全国転勤もあります」
美咲が息を吸う音がした。
「どんな会社?」
距離の話より先に、仕事について尋ねてくれた。
健人は、自治体向けの情報サービスと、現場での聞き取りについて説明した。
「健人くんが調査でやってきたことと、つながってるね」
「俺もそう思いました」
「応募してみたら」
「いいんですか」
「私の許可はいらないでしょう」
「そうでした」
「ただ、寂しい」
「はい」
「受かってから考えることも多いと思う。でも、受けなかったことを私のせいにしてほしくない」
「しません」
「なら、受けて」
バスの窓の外には、夜の道路が続いていた。
離れる可能性を口にしながら、それでも相手の選択を狭めないことは、二人が思っていた以上に苦しかった。
それでも、言わないまま選択肢を消すよりは、ずっと誠実だった。
*
四月になり、健人は大学四年生になった。
構内の桜が咲き始め、新入生が案内図を手に講義棟を探していた。
一年前の健人は、就職活動を遠い先のことだと思っていた。今は、予定表のほとんどが説明会、応募締切、面接で埋まっている。
仙台の広告会社。東京で知った情報サービス会社。地域の交通を支援する会社。自治体向けのシステムを作る仙台の企業。
十社以上へ書類を出し、返事を待った。
最初の不採用通知は、提出から四日後に届いた。
『慎重に検討した結果、今回はご希望に添いかねる結果となりました』
何度読んでも、理由は書かれていない。
翌日、別の会社からも同じような連絡が届いた。
三社目は、適性検査のあとで不採用になった。
健人は自分の何が足りなかったのか分からないまま、次の書類を書いた。
大学の就職支援室へ相談すると、職員は提出した書類を読み、経験は伝わるが、入社後に何をしたいのかが広すぎると指摘した。
「地域に関わりたいだけでは、役所でも民間でも、別の会社でもいいことになります。この会社の仕事の中で、何をしたいかまで考えましょう」
健人は会社ごとに事業を調べ直した。
同じ自治体向けでも、広告を作る会社、業務を効率化する会社、交通や防災の情報を扱う会社では役割が違う。
応募先を増やすほど、自分の言葉を使い回せなくなった。
四月半ば、東京の情報サービス会社から一次面接の案内が届いた。
オンラインでの面接だった。
健人は大学の個室を借り、開始の一時間前から接続を確かめた。スーツの襟を直し、画面に映る背景を確認する。
面接官は二人いた。
志望した理由。学生時代の調査。意見の違う相手と協力した経験。転勤への考え。
「全国の地域に関われることは魅力だと思います」
そう答えたあと、面接官から尋ねられた。
「では、特定の地域に長く関わることと、全国の案件を短期間で経験することなら、どちらを選びますか」
健人は答えに詰まった。
どちらにも魅力を感じていた。
「今は、選べません」
正直に言うと、面接官は表情を変えず、理由を尋ねた。
「地域の人と関係を作るには、長い時間が必要だと思います。一方で、違う地域の事例を知ることで解決できることもあると思うからです」
「当社で働くなら、どちらが多いと思いますか」
会社案内に書かれていた内容を思い出し、全国の案件を移動しながら担当する方だと答えた。
「それを、自分がやりたいこととして選べますか」
「まだ、考えたいです」
面接が終わると、健人は椅子へ深く座り込んだ。
準備していた言葉の外へ出た途端、何も決められていない自分が見えた。
結果は、三日後に届いた。
一次面接通過だった。
嬉しいはずなのに、不安の方が大きかった。
通過したことで、東京で働く可能性が想像ではなくなったからだった。
美咲へ報告すると、仕事帰りに会おうと言われた。
二人は仙台駅の東口にあるベンチへ座った。桜は満開を少し過ぎ、風が吹くたび花びらが歩道を流れていく。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「嬉しくない?」
「嬉しいです。でも、面接で聞かれたことに答えられませんでした」
健人は、長く一つの地域に関わることと、全国の案件を経験することのどちらを選ぶか尋ねられたと話した。
「美咲さんなら、どちらを選びますか」
「私の仕事なら、今は一つの地域へ長く関わりたい。でも、健人くんの答えにはならないよ」
「分かってます」
「何が怖いの?」
「選んだあとで、違ったと思うことです」
「思うかもしれないね」
美咲は否定しなかった。
「私も、今の会社へ入った時、ずっと広報をするとは決めてなかった。営業へ異動したいと思ったこともあるし、辞めようとしたこともある」
「初めて聞きました」
「入社した時の選択が、何年先まで正しいかなんて分からないよ。選んだあとに、違うと思えばまた考えるしかない」
「就職先を変えることになっても?」
「簡単ではないけど、変えられないわけじゃない」
美咲は、花びらがついた健人の肩を指で払った。
「最初の会社を、人生の最終回答みたいに考えなくていいと思う」
「でも、美咲さんとのこともあります」
「あるね」
「東京へ行けば、会える回数は減ります」
「うん」
「それでも、仕事だけで決めた方がいいですか」
美咲は少し考えた。
「仕事だけで決めなくていい。私のことも、家族のことも、住みたい場所も、全部、健人くんの人生にあるものでしょう」
「じゃあ、美咲さんを理由に仙台へ残ってもいい?」
「理由の一つなら。でも、私だけを理由にしないで」
「どうして?」
「仕事が苦しくなった時、私のために残ったからだと思ってほしくない。それに、私がずっと同じ会社、同じ街にいるとも限らないから」
健人は美咲を見た。
「仙台を離れたいんですか」
「今は考えてない。でも、何年先も変わらないとは約束できない」
二人の未来は、片方を固定すれば整うものではなかった。
健人が仙台へ残っても、美咲が転勤するかもしれない。東京へ行っても、数年後に戻るかもしれない。
「動かない人を中心にして決めるんじゃなくて、お互い動くかもしれないと思って話すしかないね」
「難しいです」
「難しいよ」
健人は足元を流れる花びらを見た。
冬に始まった就職活動は、桜の季節になっても答えが出ていない。
それで遅いわけではなかった。
*
五月、健人は初めて東京で面接を受けた。
情報サービス会社の二次面接だった。
今度は新幹線を使った。面接時刻が午前中で、夜行バスでは間に合っても十分に眠れないと判断したからだった。
往復の交通費は支給されたが、一度自分で支払い、後日振り込まれる。口座の残高を確認し、今月は外食を減らすことにした。
美咲には、それを隠さなかった。
『今月は面接の立て替えがあるので、次に会う時はお金のかからないところがいいです』
『了解。お弁当を作って公園に行こうか』
『俺も作ります』
『二人分ずつ持ってきたら多いよ』
『担当を決めましょう』
二人は、おにぎりを健人、おかずを美咲が用意することにした。
以前なら、経済的な余裕がないことを恥ずかしいと思っただろう。今も平気ではなかったが、隠して高い店へ行き、あとで苦しくなるよりよかった。
東京の面接では、現場担当の社員から、商店街の調査を仕事にどう生かすか聞かれた。
健人は、聞き取った内容をそのまま使うのではなく、声を上げにくい人がいることを前提に調査したいと答えた。
「声を上げにくい人とは、誰ですか」
「店へ来られなくなった高齢者や、通り過ぎるだけで会議へ参加しない人です」
「会えない人の声を、どうやって聞きますか」
健人は考えた。
大学の調査では、商店街にいる人へ話を聞いた。来られない人を対象にはできていない。
「今の調査では、できていませんでした」
「では、仕事ならどうしますか」
「地域の福祉施設や、配達をする店へ協力をお願いする方法を考えます。ただ、本人の同意や情報の扱いもあるので、簡単には進められないと思います」
面接官は、短くうなずいた。
答えとして十分だったか分からない。
面接の帰り、健人は東京駅の構内で、美咲へ短いメッセージを送った。
『終わりました。答えられなかったこともありました。帰ってから話したいです』
『お疲れさま。待ってるね』
仙台へ戻った日曜日、二人は西公園へ行った。
若葉の下のベンチで、持ち寄った弁当を広げる。健人のおにぎりは大きさがそろわず、美咲の卵焼きは少し焦げていた。
「美咲さんでも、焦がすんですね」
「朝、仕事の連絡が来たの」
「言い訳です」
「食べなくていいよ」
「食べます」
健人は焦げた部分ごと口へ入れた。
面接で聞かれたことを話すと、美咲は興味深そうに聞いた。
「会えない人の声か。難しいね」
「大学の調査で、見えている人だけを地域の人だと思ってました」
「面接で気づけたなら、意味があったんじゃない?」
「受かっていればいいですけど」
「受からなくても、次の調査や別の仕事で使えるよ」
「そう思えるまで、少し時間がかかります」
「かかっていいよ」
二次面接の結果は、一週間後に届いた。
不採用だった。
通知を見た時、健人は大学の図書館にいた。
画面には、応募への礼と、今後の活躍を祈る言葉が並んでいた。
一次面接を通り、東京まで行った。担当者と仕事について話し、自分の考えも少し伝えられたと思っていた。
それでも、選ばれなかった。
理由は書かれていない。
健人はパソコンを閉じ、その日は次の応募書類を書けなかった。
美咲へ連絡する気にもなれなかった。
夕方、大学を出て、広瀬川まで歩いた。
告白した場所とは少し離れた河川敷へ下り、流れを見た。春の水は冬より明るく、夕日を細かく反射していた。
周囲には犬を散歩させる人や、走っている学生がいる。
自分だけが止まっているように感じた。
スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『今日は連絡がないけど、大丈夫? 返事は急がなくていいよ』
健人は画面を閉じた。
大丈夫ではなかった。
それを伝えるのが、恥ずかしかった。
美咲は仕事で結果を出している。大きなプレゼンを任され、取材先と交渉し、企画を形にしている。その隣に立ちたいと思っているのに、自分は採用される前の面接さえ通れない。
電話をかけたのは、夜になってからだった。
「不採用でした」
健人が言うと、美咲はすぐに慰めなかった。
「そっか」
「東京まで行ったのに、駄目でした」
「うん」
「何が足りなかったのかも分かりません」
「苦しいね」
大丈夫だよ、次があるよと言われるより、その言葉が胸へ届いた。
「俺、何がしたいんでしょう」
「あの会社へ入りたかったんじゃないの?」
「入りたかったです。でも、落ちたら、自分が話したことまで全部間違ってた気がして」
「会社が選ばなかったことと、健人くんの考えが間違っていることは同じじゃないよ」
「でも、必要とは思われなかった」
「その会社の、その採用で選ばれなかった。それ以上のことは、通知からは分からない」
美咲の声は静かだった。
「私は採用する側ではないから、健人くんが次は受かるとも言えない。向いている仕事を知っているとも言えない」
「はい」
「でも、商店街の話をする時の健人くんが、自分の目で見たものを大切にしていることは知ってる。面接で答えられなかったことを、帰ってから考え続ける人だってことも」
健人は川沿いの暗い道を歩いた。
「今日は、次の書類を書けませんでした」
「書かなくていいんじゃない」
「締切が近いです」
「今日一日休んだら、明日書けなくなる?」
「分かりません」
「じゃあ、今日は休んで、明日の自分に聞けばいい」
健人は足を止めた。
「美咲さんは、落ち込んだ時も仕事をしますよね」
「する。仕事に逃げる癖があるから」
「そうでした」
「同じことをしなくていいよ」
少しだけ、息が楽になった。
「今、どこにいるの?」
「広瀬川です」
「暗いでしょう。足元に気をつけて帰って」
「雨は降ってません」
「雨じゃなくても、気をつけるの」
「分かりました」
「帰ったら、一言送って」
「はい」
その夜、健人は応募書類を開かなかった。
風呂へ入り、夕食を食べ、早く眠った。
翌朝、机へ向かうと、不採用の痛みは消えていなかった。それでも、次の会社について調べることはできた。
休んだから立ち直ったのではない。
落ち込んだままでも、少し動けることを知った。
*
五月の終わり、仙台市内の情報技術会社から、最終面接の案内が届いた。
その会社は、自治体や地域企業向けのシステムを開発していた。規模は大きくないが、利用者への聞き取りから導入後の支援まで、同じ担当者が長く関わることを特徴としている。
最初に会社を知ったのは、三月の合同説明会だった。
派手な映像も、全国規模の事例もなかった。説明を担当した社員は、地域のバス会社へ運行情報の仕組みを導入した時、運転手や窓口担当者から何度も使いにくいと言われ、作り直した経験を話した。
「完成したものを納めるのではなく、使われながら完成していくものだと思っています」
その言葉が、健人の中に残った。
一次面接では、なぜ情報技術なのかを問われた。
「技術そのものを学んできたわけではありません。でも、地域の課題を聞くだけで終わらせず、使える形にする方法の一つだと思いました」
「技術を学ぶことに抵抗はありませんか」
「不安はあります。分からないことを、分からないと言って学びたいです」
二次面接では、若手社員と話す時間があった。
入社後の研修についてだけでなく、残業が続く時期、顧客の要望を断らなければならない時、文系出身者が苦労したことを聞いた。
社員は、最初の一年は用語を覚えるだけでも大変だったと答えた。
「でも、分からないからこそ、利用者の疑問に気づけることもあります」
よい話だけではなかった。
納期前には帰宅が遅くなる。希望した分野へすぐ配属されるとは限らない。顧客の予算で実現できない提案もある。
それでも健人は、働く自分を具体的に想像できた。
最終面接の前日、美咲とは会わなかった。
電話も短くした。
「明日、終わったら連絡します」
「うん。何を聞かれても、知らないことまで知ってるふりをしないでね」
「前にも言われました」
「大事だから」
「美咲さんは、緊張してませんか」
「どうして私が?」
「声が、いつもより硬いです」
電話の向こうで、美咲が息を吐いた。
「緊張してる。受かってほしいと思ってるから」
「言ってくれて、ありがとうございます」
「でも、私のために受けるんじゃないでしょう」
「はい。自分が働きたい会社です」
「それなら、行ってらっしゃい」
最終面接は、会社の小さな会議室で行われた。
社長と部門責任者、人事担当者の三人が並んでいた。
志望動機や大学での経験を一通り聞かれたあと、社長が尋ねた。
「あなたは、地域の声を聞くことを大切にしたいと書いています。仕事では、聞いても実現できない要望が多くあります。その時、どうしますか」
健人は、すぐに答えなかった。
「できない理由を説明します」
「説明すれば、納得してもらえますか」
「納得してもらえないこともあると思います」
「では、どうする?」
「何を一番必要としているのかを、もう一度聞きます。最初に求められた方法ができなくても、目的に近づく別の方法がないか考えます。それでもできない時は、できないと伝えます」
「相手を怒らせても?」
「はい。できるふりをして、あとで使えないものを渡す方が、長くは信頼されないと思います」
社長は表情を変えなかった。
「あなた自身が、顧客の要望は正しくないと考えた時は?」
「正しくないと決める前に、なぜ必要なのかを聞きます。俺には見えていない事情があるかもしれないので」
言ってから、面接で俺という言葉を使ったことに気づいた。
「失礼しました。私には、です」
人事担当者の口元が少し緩んだ。
面接を終え、会社の外へ出る。
空は明るく、街路樹の葉が風に揺れていた。
うまく答えられたかは分からない。それでも、用意した言葉を再現したのではなく、その場で考えて答えた。
美咲へ連絡する前に、健人は近くのベンチへ座った。
面接で聞かれたことと、自分が答えたことを手帳へ書いた。
結果にかかわらず、忘れたくなかった。
*
六月最初の月曜日、健人は大学の講義を終え、図書館へ向かっていた。
階段の途中で、スマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
廊下の端へ移動し、電話に出る。
「先日は、最終面接へお越しいただき、ありがとうございました」
仙台の情報技術会社の採用担当者だった。
健人は手帳を開こうとして、手を止めた。
「選考の結果、相葉さんに内々定をお出ししたいと考えております」
言葉の意味が、すぐには頭へ入らなかった。
「ありがとうございます」
声が上ずった。
採用担当者は、書類を郵送すること、承諾までに考える期間があること、分からない点があれば連絡してほしいことを説明した。
健人は一つずつ返事をし、電話を切った。
廊下の窓から、初夏の構内が見えた。
学生たちは講義へ向かい、木々の緑は春より濃くなっている。
内々定。
就職先が正式に決まったわけではない。卒業までには、まだ九か月ほどある。単位を取り、卒業研究を仕上げ、翌年の春に大学を卒業して、初めて社会人になる。
それでも、冬から続いてきた長い道の先に、一つの場所が現れた。
最初に連絡したい相手は美咲だった。
画面を開き、通話ボタンへ指を置く。
けれど、美咲は仕事中だった。
『報告したいことがあります。終わったら電話できますか』
そう送ると、五分後に返事が来た。
『六時半ならできます』
健人は図書館へ入った。
浮き立つ気持ちを抑え、今週提出するレポートを開いた。内々定が出ても、大学生活が終わるわけではない。目の前の課題を一つずつ終えなければ、翌春には進めない。
六時半、美咲から電話がかかってきた。
「お待たせ。どうしたの?」
「内々定をもらいました」
一瞬の沈黙のあと、息をのむ音がした。
「本当に?」
「はい。仙台の情報技術会社です」
「おめでとう」
美咲の声が震えていた。
「ありがとう」
「よかった。健人くんが行きたいって言ってた会社でしょう」
「はい」
「今、どこ?」
「大学です」
「会える?」
「会いたいです」
二人は仙台駅で待ち合わせた。
美咲が改札から出てくると、健人は人の流れを避けて近づいた。美咲は笑っていたが、目が少し赤かった。
「泣きました?」
「泣いてない」
「赤いです」
「仕事で画面を見すぎたの」
「そういうことにしておきます」
駅の外へ出て、二人は歩いた。
すぐに承諾すると決めたわけではなかった。東京で選考が続いている会社もある。仙台の会社についても、給与や配属、研修をもう一度確認する必要がある。
「美咲さんは、仙台だから嬉しいですか」
健人は尋ねた。
「嬉しい」
美咲は隠さなかった。
「近くにいられる可能性が高いから。でも、それだけじゃないよ」
「分かってます」
「会社の話をする時の健人くんが、選考を受ける前より具体的になってた。技術を知らない不安も、忙しい時期があることも知った上で、それでも働きたいと言ってたでしょう」
「はい」
「だから、そこから必要だと言われたことが嬉しい」
健人はうなずいた。
「俺も、仙台にあるから応募したわけではありません」
「うん」
「でも、美咲さんがいることも、選ぶ理由の一つです」
「それでいいと思う」
「もし仕事が苦しくなっても、美咲さんのせいにはしません」
「今、約束しなくていいよ」
美咲は足を止めた。
「苦しくなった時、本当にそう思わないかは分からない。私のために残ったのに、って思う日が来るかもしれない」
「そんなこと」
「来ないと言い切らないで。もし思ったら、隠さずに言って。私も、健人くんが仙台を選んだことで安心して、あなたの仕事を軽く扱わないようにする」
健人は少し考え、うなずいた。
「その時に話します」
「私も話す」
二人は駅前の小さな洋食店へ向かった。
十二月に、仕事が長引いて行けなかった店だった。
店の前には数人が並んでいたが、今日は待つ時間も苦にならなかった。
「内々定のお祝いだから、私が出すよ」
「今日は俺が」
「まだ初任給は出てないでしょう」
「バイト代があります」
「交通費の立て替えで厳しいって言ってたよね」
「戻ってきました」
「それでも、今日は私に祝わせて」
健人は少し迷い、うなずいた。
「じゃあ、卒業した時は俺が払います」
「来年の春だよ。忘れないでね」
「忘れません」
席へ案内されると、健人は会社から聞いた内容を一つずつ話した。
承諾の期限。研修。配属の決まり方。卒業までに勉強しておきたいこと。
美咲は質問したが、答えを決めようとはしなかった。
食事のあと、二人は駅まで歩いた。
「すぐに承諾する?」
「もう一度、会社へ質問してから決めます。東京の会社の選考も、受けるところまでは受けたいです」
美咲の表情に、一瞬だけ寂しさが浮かんだ。
「うん。そうした方がいい」
「嫌ですか」
「少し。でも、比べて選んだ方が、健人くん自身の決断になると思う」
「俺もそう思います」
数日後、健人は仙台の会社へ質問を送り、若手社員ともう一度話す機会をもらった。
配属は必ずしも自治体部門ではないこと。最初は民間企業の業務システムを担当する可能性があること。研修後も、自分で学ぶ時間が必要になること。
希望どおりにならない可能性を知っても、働きたい気持ちは変わらなかった。
東京で選考が進んでいた会社にも参加した。
その会社には全国の仕事があり、研修制度も整っていた。面接官の話も魅力的だった。
けれど健人は、短期間で多くの地域を移るより、一つの顧客と長く話し、使われ方を見ながら直していく仕事をしたいと気づいた。
仙台に残れるからではない。
美咲の近くにいられるからだけでもない。
自分が働きたい方法として、仙台の会社を選んだ。
六月半ば、健人は内々定を承諾した。
美咲へは、承諾を送ったあとで連絡した。
『決めました。来年の春から、仙台で働きます』
返事はすぐに届いた。
『おめでとう。健人くんが自分で選んだことが、一番嬉しいです』
健人は画面を見つめた。
大学三年生の冬に就職活動の準備を始め、春に四年生となり、初夏にようやく進む会社を決めた。
社会人になるのは、翌年の春だった。
それまでには、卒業研究があり、残りの単位があり、学生として過ごす季節がまだ残っている。
内々定は終着点ではなかった。
それでも、自分で選んだ道の入口には立てた。
健人は窓を開けた。
初夏の風が、机の上の会社案内を揺らした。
その横には、卒業研究の資料が積まれている。
来年の春まで続く時間を、急いで飛び越えることはできない。
健人は一番上の資料を開いた。
次の季節へ進むために、今日やるべきことから始めた。




