第六章 それぞれの世界で
付き合い始めて最初の一週間、美咲と健人の間に起きた最も大きな変化は、連絡の回数が増えたことではなかった。
言えないことが、減った。
『今日は取材先から直帰します』
『ゼミの発表で先生にかなり直されました。少し落ち込んでます』
『明日の昼まで返事が遅くなるかも』
『了解です。俺もバイトなので、終わったら連絡します』
以前なら相手を心配させまいとして隠した疲れも、気持ちの沈みも、今は短い言葉にできた。
毎朝と毎晩、必ず連絡するという決まりは作らなかった。美咲は早朝から取材へ出る日があり、健人は閉店作業で帰宅が遅くなる。相手の生活へ無理に自分を入れるのではなく、話したいことがある時に話し、返せない時はあとで返す。
それでも、美咲は一日に何度かスマートフォンを見るようになった。
通知があれば嬉しかった。なくても、以前のように不安にはならない。健人が大学の講義を受け、図書館で調べものをし、カフェで働いている姿を思い浮かべられるからだった。
十二月半ばの水曜日、健人から一枚の写真が届いた。
大学の机に広げられた、書き込みだらけの発表資料だった。
『先生に、結論がきれいすぎると言われました』
『きれいすぎる?』
『聞き取りで出た矛盾を、説明しやすい方へ整理しすぎたみたいです。前に、両方を書けと言われたのに』
美咲は移動中のタクシーで、その文を読んだ。
『広告の仕事だと、伝えるために整理することも必要だけど、調査では消しちゃいけない違いがあるんだね』
少しして、健人から返事が届いた。
『そうだと思います。美咲さんに話したら、直す方向が見えました』
『私は何も答えてないよ』
『話すために説明したら、自分で気づきました』
美咲は画面を見ながら笑った。
恋人になったからといって、急に互いの問題を解決できるようになったわけではない。ただ、考えている途中の言葉を置ける場所ができた。
それだけで、一人で抱えていた時とは景色が違って見えた。
*
健人が大学の友人へ美咲のことを話したのは、その翌日だった。
昼休みの学生食堂は、空いている席を探すのが難しいほど混んでいた。健人はゼミ仲間の三浦と、同じサークルの雄介と一緒に、窓際の四人掛けへ座った。
三浦は大盛りのカレーを運び、雄介は麺と丼を載せたトレーを両手で抱えている。
「それ、一人分?」
健人が聞くと、雄介は当然のように答えた。
「午後、体育館だから。先に使う分を入れとく」
「食べた直後に動いたら苦しくなるだろ」
「若さで何とかする」
三浦がスプーンを持ったまま、健人を見た。
「その言い方、今のお前には危険じゃない?」
「何が」
「最近、年齢に敏感そうだから」
健人は眉を寄せた。
「どういう意味?」
「図書館でスマホ見ながら笑ってるし、バイトがない日はすぐ帰るし。あの人と何かあったんだろ」
「あの人って?」
雄介が箸を止めた。
三浦は声を少し落とした。
「前に話してた、社会人の人」
「誰だよ。初めて聞いた」
「俺も詳しくは知らない」
二人の視線が健人へ集まる。
隠すつもりはなかった。けれど、付き合い始めたばかりの関係を、どこまで話してよいのか迷っていた。
美咲のことを、面白い話題として扱われたくない。年上の社会人と付き合ったという事実だけが先に歩けば、美咲が一人の人間ではなく、自慢するための肩書きに変わってしまう気がした。
「付き合うことになった」
健人が言うと、三浦は小さく目を見開いた。
雄介は声を上げかけ、周囲を見てから身を乗り出した。
「本当に? どんな人?」
「広報の仕事をしてる。二十七歳」
「二十七?」
今度は声を抑えられなかった。
隣の席にいた学生が振り向く。
「大きい声を出すなよ」
「だって、六歳上だろ。どこで知り合うんだよ」
「雨の日に、駅の近くで」
「それだけじゃ何も分からない」
「全部話すつもりはない」
健人がはっきり言うと、雄介は口を閉じた。
「悪い。からかうつもりじゃなかった」
「分かってる」
三浦はカレーを食べながら、しばらく考えていた。
「相手の人は、お前が学生でもいいって?」
「いいとか悪いとかじゃない。そこも含めて、二人で話した」
「就職のことも?」
「話した。まだ何も決まってないことも」
「そっか」
三浦はそれ以上追及しなかった。
代わりに、雄介が慎重な声で尋ねた。
「会う時、金とかどうしてる?」
「店による。割り勘の時もあるし、誘った方が多めに出す時もある」
「相手、働いてるんだろ。行きたい店とか違わない?」
「違う時は言う」
「俺なら、毎回緊張するな」
「俺もするよ」
健人は水を飲んだ。
「でも、隠して格好をつける方が、あとで苦しくなるから」
「お前、変わったな」
雄介が言った。
「前なら、払えないって言うくらいなら無理して払ってた」
「今も、できれば払いたい」
「同じじゃん」
「でも、払えない店なら先に言う」
三浦が笑った。
「少しだけ変わったな」
午後の講義を知らせる予鈴が鳴った。
三人は急いで残りを食べた。雄介は立ち上がる時、健人の肩を軽く叩いた。
「今度、会わせろとは言わない。でも、お前が無理してないならいい」
「無理をしたら言う」
「俺たちにも?」
「たぶん」
「そこは言い切れよ」
友人たちの反応は、健人が身構えていたほど大げさではなかった。
驚かれた。心配もされた。けれど、二十一歳の健人が二十七歳の美咲を選んだことは、それだけで笑われるような出来事ではなかった。
食堂を出たあと、三浦が隣を歩きながら言った。
「一つだけ、気をつけた方がいいと思う」
「何?」
「相手が大人だから何でも分かってくれる、って思わないこと」
健人は足を止めかけた。
「思ってない」
「ならいい。俺、姉がいるから。社会人でも、言わなきゃ分からないことは同じだって、いつも怒られてる」
「それは、お前が言わなさすぎるんじゃない?」
「たぶんね」
三浦は笑い、講義棟へ向かった。
健人はその背中を見送りながら、言葉を胸に残した。
相手が大人だから、分かってくれる。
自分は、どこかでそう期待していないだろうか。
*
美咲が沙織へ打ち明けたのは、会社近くの定食屋で昼食を取っている時だった。
観光キャンペーンの撮影準備が本格化し、二人とも午前中から取材先との連絡に追われていた。ようやく席へ着くと、沙織は湯気の立つ味噌汁を一口飲み、大きく息を吐いた。
「年内に決めること、多すぎない?」
「年明けすぐに撮影だから、仕方ないよ」
「美咲、最近その言葉ばっかり。仕方ない、間に合わせる、大丈夫」
「大丈夫だから」
「ほら」
沙織は箸で美咲を指した。
「でも、前より顔色はいいんだよね。寝てないのに」
「寝てるよ」
「五時間?」
「六時間くらい」
「一時間増えた」
美咲は焼き魚の身をほぐしながら、言う時を探した。
由香里には相談の過程から知られている。けれど、同期で最も長く一緒に働いてきた沙織には、まだ何も話していなかった。
沙織は心配するだろう。
驚くだろう。
広瀬川で健人を断った時の美咲なら、その反応を想像しただけで口を閉ざしていた。
「沙織」
「何?」
「私、付き合い始めた人がいるの」
沙織の箸が止まった。
「いつから?」
「先週」
「先週? どうして今まで言わなかったの」
「付き合ったばかりだし、仕事も忙しかったから」
「どんな人? この前、紹介された人?」
「違う」
美咲は一度、水を飲んだ。
「六歳年下で、大学三年生」
沙織は何も言わなかった。
その沈黙が長く感じられた。
「大学生?」
「うん。二十一歳」
「美咲、本気で言ってる?」
「本気だよ」
沙織は箸を置いた。
「ごめん。責めたいわけじゃない。でも、少し待って。出会いは? 相手は本当に独身? 変な勧誘とかじゃないよね」
「大丈夫。六月から知ってる人。カフェで働きながら大学へ通ってる」
「半年近く知ってるんだ」
「うん」
「それで、どういうつもりなの?」
美咲は沙織を見た。
「どういうつもり、って?」
「美咲は結婚とか、子どもとか考えるでしょう。相手はまだ学生で、これから就職でしょう。今が楽しいだけならいいけど、その先で困るのは美咲じゃないの」
胸の奥が固くなった。
予想していた言葉だった。
少し前まで、美咲自身が同じ問いを健人へ向けていた。それでも、他人の口から言われると、二人で話した時間まで軽く扱われたように感じた。
「今が楽しいだけじゃないよ」
「相手はそうかもしれないでしょう」
「どうして、会ったこともないのに決めるの?」
声が強くなった。
沙織が目を見開く。
美咲は自分の箸を置いた。
「私たちは、進路のことも、結婚や子どものことも話した。答えが決まっていないことも含めて話したの。何も考えずに付き合ったわけじゃない」
「でも、二十一歳の人が言う将来と、二十七歳の美咲が考える将来は、同じ重さじゃないかもしれない」
「年齢が違うから、考え方が違うことはある。でも、健人くんの言葉が軽いって、年齢だけで決めたくない」
名前を口にしてから、美咲は少し呼吸を整えた。
「不安がないとは言わない。だから、変わった時は話すと決めた。私のために心配してくれるのは分かる。でも、会う前から相手の気持ちを決めないでほしい」
沙織は視線を落とした。
「ごめん。言い方が悪かった」
すぐに理解してもらえるとは、美咲も思っていなかった。
「私も、強く言ってごめん」
「ううん。私、美咲が前に紹介された人と食事へ行ったって聞いてたから、その人と何かあったのかと思ってた」
「岡田さんとは、一度食事をしただけ」
「その時には、健人くんのことが好きだったの?」
「好きだった」
「それで別の人と会ったの?」
「自分の気持ちが、条件に合う人なら変わるのか確かめたかった」
沙織は少し苦い顔をした。
「それは、岡田さんが気の毒」
「そうだね。だから、その場で断った」
美咲は言い訳をしなかった。
沙織はしばらく味噌汁を見つめたあと、顔を上げた。
「美咲が、そこまではっきり人を好きだって言うの、初めて聞いたかもしれない」
「そう?」
「前に付き合ってた人の時も、条件はいいし一緒にいて楽だから、みたいな言い方だった」
「そんな言い方してた?」
「してた。悪いとは思わなかったけど、今とは違う」
昼休みの終わりが近づき、店内の客が少しずつ減っていた。
沙織は伝票を手に取った。
「会わせてとは言わない。まだ早いでしょうし」
「うん」
「でも、いつか話を聞かせて。会ってもいない人を決めつけたくないから」
「ありがとう」
「その代わり、美咲が無理してたら言うからね」
「言って」
「聞きたくないことでも?」
「聞く。最後に決めるのは私だけど」
「分かってる」
会社へ戻る道で、沙織は小さく笑った。
「それにしても、大学生か」
「まだ言う?」
「驚く時間はちょうだい」
「今日だけね」
「短い」
二人は並んで歩いた。
周囲へ話すことは、認めてもらうための試験ではなかった。驚きや心配をすべて封じることでもない。
ただ、健人の存在を隠さず、自分が選んだ人として話す。
美咲にとっては、それが最初の小さな覚悟だった。
*
十二月最後の土曜日、二人は夕方から会う約束をしていた。
健人は大学の図書館で午前中にレポートを仕上げ、午後はカフェの店主に教えてもらった古書店を見に行くつもりだった。美咲の仕事が終わる六時に仙台駅で待ち合わせ、以前から話していた小さな洋食店で食事をする。
予約はできない店だったが、七時までなら混みすぎないと聞いていた。
昼過ぎ、美咲から連絡が来た。
『撮影先で確認が長引いています。六時半に変えてもらってもいい?』
健人はすぐに返した。
『大丈夫です。図書館にいるので、急がなくていいです』
五時四十分、もう一度連絡が届いた。
『ごめんなさい。会社へ戻ることになりました。七時半になるかもしれません』
『分かりました。仙台駅へ着いたら連絡してください』
健人は図書館を出て、駅近くの書店へ移動した。
本を眺めていれば一時間は過ごせると思った。けれど、手に取った本の文字は頭へ入らなかった。
今日は美咲から誘った日だった。
付き合い始めてから、仕事帰りに短い時間だけ会ったことはある。それでも、夕食を約束してゆっくり過ごすのは、カフェで気持ちを確かめた日以来だった。
健人は楽しみにしていた。
それを言えば、美咲が責められたと感じるかもしれない。仕事なのだから仕方がないと、自分へ言い聞かせた。
七時半を過ぎても、連絡はなかった。
書店を出ると、駅前の風が冷たかった。人の流れは途切れず、買い物袋を持つ家族や、忘年会へ向かう会社員が足早に通り過ぎていく。
八時一分、美咲から電話がかかってきた。
「健人くん、ごめんなさい」
背後で人の声とドアの開閉音が聞こえた。
「今、会社を出たところ?」
「うん。データの差し替えが終わらなくて。今から駅へ行く」
「洋食店、もう閉店に間に合わないと思います」
「そうだよね。本当にごめん。別の店を探すから」
美咲の声は急いでいた。
「何か食べたいものある? 駅の近くなら、まだ開いてるところがあると思う」
「今日は、やめませんか」
言ってから、健人は自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
電話の向こうで、美咲が黙った。
「怒ってる?」
「少し」
仕方がないと言おうとして、やめた。
傷ついたことは言うと、二人で決めた。
「会えないことより、何時になるか分からないまま待っていたことに、怒ってます」
「連絡しようと思ったんだけど、先方から電話が続いて」
「一分も無理でしたか」
「それは……ごめん」
「俺が時間を持ってるから、待てると思いました?」
美咲はすぐに答えなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
「健人くん、違うの」
「何が違うんですか」
「大学生だから時間があると思ったわけじゃない。ただ、図書館にいるって聞いたから」
「図書館は七時で閉まりました」
「そうだよね」
「俺にも、今日やろうと思ってたことがあります。会えると思ったから、レポートも早く終わらせた」
言葉にすると、怒りの下にあった寂しさが見えた。
「楽しみにしてたんです」
電話の向こうが静かになった。
「私も、楽しみにしてた」
「だったら、もっと早く教えてほしかったです」
「うん。ごめんなさい」
美咲は今度、理由を足さなかった。
「今日は帰る?」
「帰ります」
「分かった。気をつけてね」
「美咲さんも」
電話を切ったあと、健人は駅へ向かった。
正しいことを言ったはずなのに、気持ちは晴れなかった。
改札を通る前に、美咲からメッセージが届いた。
『待たせたことだけじゃなく、健人くんの時間を私より軽く扱ってしまったこと、ごめんなさい。今日は帰ります。落ち着いてから、もう一度話したいです』
健人はすぐに返せなかった。
ホームへ下り、電車を待つ間に何度も読んだ。
『分かりました。俺も言い方が強くなってごめんなさい』
送ったあと、健人は息を吐いた。
喧嘩をしたかったわけではない。
美咲に仕事を投げ出してほしいわけでもない。ただ、自分が待つ側でいることを当然にされたくなかった。
電車の窓に、暗い街が流れた。
相手が大人だから、分かってくれると思わないこと。
三浦の言葉が浮かんだ。
同じように、自分が学生だから大目に見てもらえると思ってはいけない。怒りをぶつけたあとで、美咲がすべて整えてくれるのを待つだけでは、対等とは言えなかった。
健人は帰宅すると、翌日の予定を確認した。
午前中なら、二人とも空いているはずだった。
『明日の朝、電話できますか。今日のことを話したいです』
送ると、すぐに返事が来た。
『できます。九時で大丈夫?』
『はい』
*
翌朝、美咲は九時になる前から、リビングのテーブルに座っていた。
昨夜、帰宅しても仕事のことは考えられなかった。
健人の声が何度もよみがえった。
俺にも、今日やろうと思っていたことがあります。
美咲は、健人が図書館にいると聞いて安心した。待たせても、彼なら本を読んで過ごせる。自分ほど忙しくはない。口にはしなかったが、そんな考えがなかったとは言えない。
交際を始めた夜、年齢を喧嘩に勝つために使わないと約束した。
けれど、言葉にしなくても、行動の中には出る。
社会人の予定は動かせない。学生の時間は調整できる。そう決めつければ、美咲の仕事が、健人の大学生活より重要なものになってしまう。
九時ちょうどに、健人から着信があった。
「おはようございます」
「おはよう。昨日はごめんなさい」
「俺も、言い方がきつくなりました」
「怒っていいことだったよ」
「怒っても、何を言ってもいいわけじゃないです」
健人の声は、昨夜より落ち着いていた。
「美咲さんが仕事をしてたことは分かっています。俺、待ってる間に勝手に期待を大きくして、連絡が来るたびにがっかりしてました。それを最後にまとめてぶつけた」
「最初に時間が変わった時、嫌だった?」
「嫌ではなかったです。仕事なら仕方ないと思いました。でも、七時半を過ぎた時は、今日会えるのか分からなくて嫌でした」
「その時に言ってほしかった」
「言ったら、仕事中の美咲さんを困らせると思って」
「黙って待って、あとで怒る方が困るよ」
「そうですね」
二人とも少し笑った。
「今度から、三十分以上遅れそうな時は、分かった時点で連絡する」
美咲は言った。
「連絡できない仕事に入る時も、その前に一度送る。何時になるか分からなければ、待ってもらう前に約束を延期する」
「俺も、待つのがつらくなったら言います」
「大学やバイトの予定を、私に合わせて勝手に変えないでね」
「どうして分かったんですか」
「昨日、レポートを早く終わらせたって言ったでしょう」
「それは、自分で決めたことです」
「うん。でも、無理をして変えた時は教えて。あとで、これだけしたのにって思わないために」
健人は少し黙った。
「店長みたいなこと言いますね」
「前に聞いたから」
「そうでした」
「今日、会える?」
美咲が尋ねると、健人は予定を確認するように少し間を置いた。
「午後からバイトです。十一時までなら」
「無理に来なくていいよ」
「会いたいから行きます。これは、自分で決めます」
「分かりました」
二人は十時に、仙台駅の東口で会うことにした。
昨日行くはずだった洋食店は開いていない。駅の中でコーヒーを買い、近くの広場を少し歩いた。
顔を合わせると、電話だけでは残っていた気まずさがあった。
健人はいつものように車道側へ行きかけ、途中で美咲を見た。
「こっちでいいですか」
「いちいち聞かなくていいよ」
「昨日のあとだから、一応」
「そこは、いつもどおりで大丈夫」
美咲が笑うと、健人も笑った。
広場のベンチへ座り、紙カップの蓋を開ける。
「仕事、昨日で終わりましたか」
「差し替えは終わった。でも、月曜に先方が確認して、また直すかもしれない」
「大変ですね」
「大変。でも、それで健人くんを待たせていい理由にはならない」
「仕事を優先する日があるのは、分かっています」
「ありがとう」
「俺も、発表前なら大学を優先します」
「優先して」
「その時、美咲さんが会いたいと言っても?」
「寂しいとは言うかもしれない」
「言ってください」
「でも、発表へ行かないでとは言わない」
「はい」
健人はコーヒーを一口飲んだ。
「別々の生活があるって、こういうことなんですね」
「付き合う前から分かってたつもりだったけどね」
「分かるのと、実際に待つのは違いました」
「私も。時間が違うって話したのに、自分の仕事を基準にしてた」
美咲は、健人の手へ自分の手を重ねた。
「昨日、怒ってくれてよかった」
「怒られたい人みたいです」
「そうじゃなくて、我慢したまま離れないでくれてよかった」
健人は手のひらを返し、美咲の指を握った。
「美咲さんも、仕事で会えないことを責められたと思って、先に離れないでください」
「うん」
約束は、不安を起こさないためにするものではなかった。
起きた時に、戻る場所を見失わないためにするものだった。
*
年が明けると、美咲の観光キャンペーンは撮影期間に入った。
雪の残る温泉街、朝市、夕暮れの商店街。美咲は撮影スタッフと県内を移動し、取材先との調整に走り回った。
健人も、学期末の発表とレポートに追われていた。
二人が会えるのは、一週間に一度とは限らなくなった。十日空くこともあった。それでも、会えない理由を相手への気持ちと結びつけないようになった。
『今日は撮影が延びました。電話は難しそう』
『分かりました。俺も発表資料を直します』
『終わったら、一言だけ送るね』
『無理なら明日で大丈夫です』
言葉は短くても、予定の向こうに相手がいることを忘れなかった。
一月半ばの日曜日、美咲は健人の大学で開かれる地域調査の報告会へ行った。
一般の人も入れる小さな発表会で、商店街の店主や地域の住民も招かれていた。健人のゼミは、店先の椅子や休憩場所が、人の移動と交流にどう影響するかを報告する。
会場の後ろの席へ座ると、健人は前方で資料を配っていた。
美咲に気づき、一瞬だけ表情を緩めたが、すぐに作業へ戻った。
発表が始まる。
健人は普段より低い声で、ゆっくり話した。店先の長椅子を邪魔だと感じる人もいること。座る場所があるから買い物へ来られる高齢者がいること。店主にとっては、売上へ直接つながらなくても、通りに人がいること自体に意味があること。
一つの結論へ急がず、異なる声を並べていた。
質疑応答で、商店街の男性から尋ねられた。
「結局、椅子は置いた方がいいのか、置かない方がいいのか。そこを学生さんは、どう考えてるの」
健人は少し考えてから答えた。
「一律に決めない方がいいと考えています。道幅や利用する人が違うので、置く場所と管理する人を、通りごとに話し合う必要があります」
「それでは、答えになってないんじゃない?」
「すぐ実施できる一つの答えではありません。でも、どちらかの声を消して決めるより、時間がかかっても、使う人が話し続けられる方法を作る方が大切だと思います」
健人は逃げずに言った。
美咲は、広瀬川を歩いた日のことを思い出していた。
一つの正解を出そうとすると、誰かの都合が見えなくなる。
あの時の健人は、先生から教わった言葉として話していた。今は、自分で聞いた声を根拠に、自分の考えとして答えている。
発表後、廊下で待っていると、健人が三人の学生と一緒に出てきた。
「美咲さん」
健人が駆け寄る。
「来てくれて、ありがとうございました」
「よかったよ。質問にも、ちゃんと答えてた」
「途中、頭が真っ白になりました」
「そうは見えなかった」
後ろにいた三浦が、健人の肩越しに美咲を見た。
健人は一度迷ったあと、彼らを紹介した。
「ゼミの三浦と、サークルの雄介です。こっちは同じゼミの佐々木」
「初めまして。桐谷美咲です」
三人の視線に、驚きと好奇心が混じった。
雄介が最初に頭を下げた。
「初めまして。話は、少しだけ聞いてます」
「余計なことは話してないよね」
美咲が健人へ尋ねると、彼は慌てて首を振った。
「年齢と仕事だけです」
「それだけで、十分余計じゃない?」
「付き合ってることを説明するのに必要だったので」
三浦が笑った。
「健人、ずっとこんな感じです」
「知ってます」
美咲が答えると、場の緊張が少しほどけた。
佐々木は発表の片づけへ戻り、雄介もサークルの約束があると言って去った。最後に残った三浦は、美咲へ軽く頭を下げた。
「健人、発表の前に何度も資料を直してました。今日、美咲さんに見てもらいたかったみたいです」
「三浦、言わなくていい」
「大事なことだろ」
三浦が去ると、健人は耳を赤くしていた。
「見てもらいたかったの?」
「はい」
「どうして言わなかったの」
「来てくださいって言いました」
「そうじゃなくて、楽しみにしてるって」
「言わなくても分かるかと」
美咲は三浦の言葉を思い出し、笑った。
「社会人でも、言わなきゃ分からないよ」
「それ、三浦にも言われました」
「いい友達だね」
「時々、余計なことも言います」
大学の構内を、二人で歩いた。
美咲にとって、そこは健人が毎日過ごす場所だった。講義室。図書館。学生食堂。ゼミの仲間。美咲と会っていない時間にも、健人はここで学び、悩み、自分の考えを育てている。
彼を大学生という一言で見た時には、見えなかった世界だった。
「健人くん」
「はい」
「今日、来てよかった」
「俺も、来てもらえてよかったです」
「次は、私の仕事も見てもらいたいな」
「見られるんですか」
「一般公開する催しが、来月あるの。私が作った映像や写真も使われる」
「行きます」
「まだ日程を言ってないよ」
「空けます」
「自分の予定を確認してから」
健人はスマートフォンの予定表を開いた。
「確認します」
二人は顔を見合わせ、笑った。
*
報告会の翌週、由香里が美咲の机へ資料を持ってきた。
「撮影先から、確認の返事が来たよ」
「ありがとうございます」
「それと、例の人とはどうなった?」
声を落として尋ねられ、美咲は周囲を見た。
沙織は外出中で、近くの席にも人はいなかった。
「付き合い始めました」
由香里は、驚くより先にうなずいた。
「そう」
「それだけですか」
「おめでとう、が必要?」
「同じことを言う人がいました」
「誰?」
「彼のアルバイト先の店長です」
由香里は笑った。
「始めるより、続ける方が難しいからね」
「もう一度、すれ違いました」
美咲は、待ち合わせに遅れた日のことを話した。
健人の時間を軽く扱ってしまったこと。健人も、嫌だと言えないまま待ち、最後に怒りをまとめてぶつけたこと。翌朝に話し合い、遅れる時の連絡を決めたこと。
「いい喧嘩をしたね」
「いい喧嘩って、あるんですか」
「終わったあと、相手のことが前より分かる喧嘩なら」
「傷つけない方がいいと思いますけど」
「もちろん。でも、傷つけないことだけを目標にすると、本音を隠すようになる。大事なのは、傷つけたと気づいた時にどうするかでしょう」
由香里は資料の修正箇所を指で示した。
「仕事も同じ。間違えない人はいない。報告せずに隠す人の方が困る」
「何でも仕事にしますね」
「仕事中だから」
由香里は自分の席へ戻っていった。
その日の昼、沙織が外出から戻ると、美咲の机に小さな菓子袋を置いた。
「何?」
「この前、言い方が悪かったお詫び」
「そこまでしなくていいよ」
「私が食べたいから買っただけ。半分あげる」
沙織は椅子へ座り、声を落とした。
「それで、最近はどう?」
「この前、彼の大学へ行ってきた」
「大学へ?」
「ゼミの報告会。地域の商店街について発表してた」
「ちゃんと大学生なんだね」
「どういう意味?」
「ごめん。今のも変だった」
沙織は自分で額を押さえた。
「私の中で、六歳下の恋人っていう情報だけが先に大きくなってた。でも、美咲には、私が知らない半年分があるんだよね」
「うん」
「少しずつ聞かせて。私も、その人のことを知りたい」
「今度、三人で食事する?」
「いいの?」
「健人くんにも聞いてからね」
美咲はすぐに決めず、スマートフォンを手に取った。
健人の予定を、自分のもののように扱わない。
小さなことでも、その積み重ねが二人の距離を作る。
*
一月の終わり、健人の大学では就職支援の説明会が開かれた。
三年生向けの会場は満席で、後ろには立って聞く学生もいた。スクリーンには、企業説明会、応募書類、面接、適性検査という言葉が並んでいる。
健人は資料へ書き込みながら、自分の進路が急に近づいてきたように感じた。
仙台で働くのか。
東京や別の街へ出るのか。
広告に関わる仕事を選ぶのか、地域調査で学んだことを生かせる仕事を探すのか。
以前は、選択肢が多いことを自由だと思っていた。今は、一つを選べば、別の可能性を手放すことになると知っている。
説明会が終わったあと、三浦と廊下を歩いた。
「東京も受ける?」
三浦に聞かれ、健人はすぐに答えられなかった。
「まだ分からない」
「彼女が仙台にいるから?」
「それだけじゃない」
「それだけじゃないなら、理由の一つではあるんだ」
「あるよ」
健人は認めた。
美咲のいる街で働きたいと思う。
同時に、美咲のためだけに仙台へ残ると決めたくないとも思っていた。二人で話した夜、自分の進路を相手へ背負わせないと決めたからだった。
「三浦は?」
「地元も東京も受ける。受かったところを見て考える」
「それが普通かな」
「普通かどうかで決めるの?」
「決めない」
三浦はうなずいた。
「じゃあ、まず調べれば。受けるかどうかは、そのあと決めてもいいだろ」
健人は手にした資料を見た。
会社名が並んでいる。その中には、仙台に本社を置く企業も、東京を中心に事業を行う企業もあった。
その夜、美咲へ電話をかけた。
「今日、就職の説明会がありました」
「もう、そういう時期なんだね」
「はい。これから業界を調べて、説明会へ行きます」
「どんな仕事を考えてるの?」
「広告や地域に関わる仕事には興味があります。でも、まだ広く見たいです」
「いいと思う」
「東京も、受けるかもしれません」
電話の向こうで、美咲が一瞬黙った。
その間を、健人は以前なら拒絶の前触れだと思ったかもしれない。
今は待った。
「寂しい」
美咲は言った。
「うん」
「まだ受けると決まっただけでもないのに、そう思った」
「言ってくれて、ありがとうございます」
「でも、仙台だけにしてとは言わない。健人くんが興味を持った会社を、まず見てきて」
「はい」
「私も、自分がどうしたいか考える。遠距離は無理だって、話す前から決めたくないから」
「俺も、東京へ行ったら終わるとは思ってません」
健人は窓を開けた。
冷たい夜気が部屋へ入り、遠くを走る車の音が聞こえた。
「美咲さん」
「何?」
「就職先を、美咲さんに選んでほしくないです」
「選ばないよ」
「でも、相談はしたいです」
「うん。聞く。でも、最後は健人くんが決めて」
「そのつもりです」
二人は、同じ答えを持っていなかった。
健人には健人の世界があり、美咲には美咲の世界がある。友人も、仕事も、使える時間も、これから立つ場所も違っていた。
恋人になることは、その二つを一つにすることではなかった。
片方の世界へ、もう片方を閉じ込めることでもない。
それぞれの場所で迷い、選び、必要な時に相手へ言葉を渡す。その言葉を受け取ったら、自分の都合だけで形を変えずに返す。
「今度、会社の同僚と三人で食事しない?」
美咲が尋ねた。
「先輩?」
「同期の沙織。健人くんのことを話したの」
「何て言ってましたか」
「最初は心配された。でも、会う前に決めつけたくないって」
「会います」
「予定を確認してから」
「そうでした」
健人は説明会でもらった資料の横に、予定表を開いた。
「来月の最初の日曜なら空いています」
「私も確認するね」
「美咲さんも空いてたら、会いましょう」
「うん」
電話を切ったあと、健人は資料の最初のページをもう一度開いた。
選ぶべき道は、まだ白紙だった。
そこへ美咲の名前を書き、ほかの可能性を消すつもりはなかった。
けれど、美咲がいることをなかったことにして、進路を考えるつもりもなかった。
自分の未来として選び、その選択を彼女へ伝える。
それが、今の健人にできる向き合い方だった。
机の外では、仙台の冬の夜が静かに更けていた。
春はまだ遠い。
それでも、次の季節へ進む準備は、もう始まっていた。




