第五章 歳の差の向こう側
カフェの奥には、二人掛けのテーブルが三つ並んでいた。
閉店まで一時間ほどしかないせいか、客は窓際で本を読む女性と、手帳へ何かを書き込んでいる男性だけだった。外の華やかな光はここまで届かず、曇った窓に店内の照明が淡く映っている。
健人は一番奥の席を選び、美咲がコートを脱ぐのを待ってから向かいへ座った。
店員が水とメニューを運んでくる。
「温かいものにしますか」
健人に尋ねられ、美咲はうなずいた。
「カフェラテにする」
「俺はブレンドで」
注文を終えると、テーブルの上には二つの水だけが残った。
何度も頭の中で言葉を組み立てたはずなのに、健人を前にすると、最初の一文さえ出てこなかった。
彼は急かさなかった。
水へ手を伸ばすこともなく、黙って待っている。その沈黙は以前と同じように穏やかだったが、今は美咲を守るためだけのものではなかった。健人自身も、何を聞かされるのか分からず、身構えている。
美咲は膝の上で両手を握った。
「あの日、広瀬川で言ったことから話させて」
健人の目を見た。
「私、嘘をつきました」
健人の表情がわずかに動いた。
「どの言葉ですか」
聞き返す声は静かだった。
美咲は逃げずに答えた。
「健人くんを好きになったことはないって言ったこと」
彼の視線が、テーブルへ落ちた。
「あれは、嘘だったの」
店員が二人の飲み物を運んできた。白いカップから湯気が立ち、コーヒーの香りが二人の間へ広がる。
ありがとうございます、と美咲は言ったが、自分の声が遠く聞こえた。
店員が離れても、健人は顔を上げなかった。
「いつからですか」
「え?」
「いつから、俺を好きだったんですか」
美咲は考えた。
雨の夜、一本の傘の下を歩いた時から、特別だったのかもしれない。AERの展望テラスで、本音を見つけてもらった時。定禅寺通りを並んで歩く速さが心地よいと気づいた時。遊園地で無邪気に笑う健人を見て、自分も同じように笑えた時。
どこからが親しさで、どこからが恋だったのか、一つの瞬間には決められなかった。
「はっきり分からない。でも、広瀬川へ行く前には、もう好きだった」
「告白されるかもしれないと思っていましたか」
「少しは」
「それでも、会いに来た」
「うん」
「俺が言ったら、断るつもりで?」
「そこまでは決めてなかった」
美咲は正直に答えた。
「健人くんと会いたかった。でも、告白されたら、急に今まで考えないようにしていたことが全部、目の前に出てきたの」
「年齢のことですか」
「年齢も。仕事も、結婚も、子どもも、親のことも。健人くんはまだ大学生で、私は二十七で、同じ時間を見ているつもりでも、本当は全然違う場所にいるんじゃないかって思った」
健人は黙って聞いていた。
「あなたに惹かれているって認めたら、今まで自分が正しいと思ってきた道から外れる気がした。友達は結婚して、子どもが生まれて、親も私の将来を気にしている。そんな中で、六歳年下の大学生を好きになったと言えば、どう見られるんだろうって」
口にするほど、自分の恐れが形になった。
「誰かに何か言われたわけじゃない。健人くんに将来がないと分かったわけでもない。私は何も確かめないまま、悪い未来ばかりを並べた。それで怖くなって、全部を年齢のせいにした」
「俺のためだとも思いましたか」
由香里にも指摘されたことだった。
「思った。今の気持ちで健人くんの進路を縛ったらいけないって。いつか同い年くらいの人を好きになった時に、私と過ごした時間を後悔するかもしれないって」
「やっぱり」
健人は小さく息を吐いた。
「あの時、一番腹が立ったのは、それでした」
美咲は言葉を止めた。
健人が顔を上げる。
「年齢を気にするなって言いたいわけじゃないです。美咲さんが不安になるのも、分かろうとはしていました。でも、俺が将来どう思うかを、美咲さんが先に決めたでしょう」
「うん」
「若いから、今の気持ちは続かない。学生だから、現実が分かっていない。いつか別の人を選んだ方が幸せになる。あの日、美咲さんが言った言葉の中には、そういう決めつけが全部入っていた」
声が少し強くなった。
「俺は、何も約束できない自分が悔しかった。でも、今すぐ十年先を保証できないのは、美咲さんだって同じじゃないですか」
「同じだと思う」
「なのに、俺だけが試験を受けているみたいだった。就職先はどこか、結婚する気はあるか、子どもはどうするか。答えられなければ、好きだと言う資格がないみたいに」
美咲は唇を結んだ。
岡田との食事で感じた息苦しさを思い出した。未来を真剣に考える問いそのものが悪いのではない。けれど、答えを出せることだけが相手の誠実さだと決めれば、人は互いを条件の表でしか見られなくなる。
「ごめんなさい」
美咲は頭を下げた。
「私、自分が傷つかないために、健人くんの気持ちを子どものものみたいに扱った」
健人は何も言わなかった。
「私が一番謝りたかったのは、好きじゃないって嘘をついたことだけじゃない。健人くんが自分で選ぶ権利まで、私が勝手に取り上げたこと。あなたのためだと思ったのも、本当は自分が責任を負いたくなかったからだった」
「責任?」
「周りにどう見られても、私がこの人を選びたいって言う責任。うまくいかなかった時に、自分が選んだんだって認める責任」
美咲は膝の上の手をほどき、テーブルへ置いた。
「許してもらえると思って来たんじゃないの。もう遅いって言われても、受け止めるつもりで来た。ただ、嘘を本当のことにしたまま、健人くんの前からいなくなりたくなかった」
健人はカップへ手を伸ばした。
もう湯気の薄くなったコーヒーを一口飲み、しばらく木目を見つめた。
「メッセージを送ったこと、迷惑でしたか」
「違う」
美咲はすぐに否定した。
「返せなかったのは、嫌だったからじゃない。嬉しかったから、返したらまた甘えてしまうと思ったの」
「俺は、甘えてほしくて送ったわけじゃないです」
「分かってる」
「返事をもらうためでもなかった」
「それも、分かってた」
健人の眉が寄った。
「分かってたなら、どうして何も言わなかったんですか」
責めるというより、確かめようとする問いだった。
「何を返しても、自分の都合になる気がした。ありがとうだけなら、傷つけたことをなかったことにするみたいで。謝ったら、今度は健人くんに許すかどうかを考えさせる。だから、ちゃんと話す覚悟ができるまで返せなかった」
「覚悟ができたのは、今日ですか」
「少しずつだった」
美咲は、岡田との食事について話した。
条件の釣り合う人と会えば安心できると思ったこと。会話の中で、自分が健人へ未来の答えを迫った時のことを思い出したこと。岡田は何も悪くなく、だからこそ、条件だけでは人を好きになれないと知ったこと。
実家で母と話したことも伝えた。
親の期待を確認せず、自分の中で大きくしていたこと。母から、親の言葉を自分の答えにしなくていいと言われたこと。
由香里の名前は出さず、年の離れた相手と結婚した先輩に相談したことも話した。
「その人に、不安を一人で結論にしたら、相手は私の人生に参加できないって言われたの」
「それで、俺に会おうと思った?」
「その言葉だけで決めたわけじゃないよ」
美咲は健人を見た。
「プレゼンが終わった時、一番に伝えたいと思ったのが健人くんだった。企画の中にも、健人くんと歩いた時に気づいたことが入ってた。返事をしなかった間も、仕事をしている時も、誰かと食事をしている時も、ずっとあなたの言葉を思い出してた」
声が震えそうになり、一度息を整えた。
「寂しいから戻ってきたんじゃない。ほかの人とうまくいかなかったからでもない。私は、健人くんが好きです」
今度は、はっきり言えた。
「話している時の、言葉を急がないところが好き。私が仕事の話をしても、結果だけじゃなく、迷ったことまで聞いてくれるところが好き。街を歩きながら、誰も気に留めない椅子や道の広さを見ているところも、困っている人を放っておけないところも好き」
健人の目を見たまま続けた。
「若いから好きなんじゃない。若いのにしっかりしているからでもない。健人くんだから、好きになった」
健人は唇を少し開いたが、すぐには声を出さなかった。
美咲は答えを待った。
店内に、小さくピアノの曲が流れている。窓際の女性が本を閉じ、コートを着た。手帳を書いていた男性も会計を済ませ、店を出ていく。
残った客は、二人だけになった。
「あの日のあと」
健人が、ようやく口を開いた。
「俺も、もう会わない方がいいと思いました」
美咲はうなずいた。
「美咲さんの答えを尊重したいというのもあった。でも、それだけじゃないです。また会ったら、自分が惨めになる気がした」
健人は自嘲するように笑った。
「俺は、美咲さんの前で大人に見られたかった。バイトも大学も頑張って、自分の考えを持ってるところを見せれば、年齢なんて関係ないと思ってもらえる気がしてた。でも、最後に大学生だから無理だと言われて、やっぱり何をしても六歳下でしかないんだと思った」
「そう思わせたのは、私だね」
「はい」
美咲は、その返事から逃げなかった。
「メッセージを送ったのは、諦めさせないためじゃありません。雨が降ったら、美咲さんの靴を思い出した。映画を観たら、話してくれた時の顔を思い出した。言わずにいるより、短くても渡したいと思ったから送った。でも、送るたびに、迷惑だったかもしれないって思ってました」
「迷惑じゃなかった」
「返事が来ないことに、傷つかなかったわけでもないです」
「うん」
「だから今日、メッセージが来た時、嬉しかった。でも、すぐに前と同じには戻れないとも思った」
美咲は胸の前で指を組んだ。
「分かってる」
「本当に?」
「私が本心を言ったからって、健人くんがすぐに信じられるとは思ってない。好きだと言えば、傷つけたことが消えるわけでもない」
「それでも、俺にどうしてほしいですか」
難しい問いだった。
許してほしい。
もう一度好きだと言ってほしい。
隣を歩いてほしい。
すべて本当だった。けれど、欲しい答えを隠して聞き分けのいい人を演じることも、今夜はしたくなかった。
「もう一度、私と向き合ってほしい」
美咲は言った。
「恋人として始められるなら、始めたい。でも、今すぐ答えを出してとは言わない。健人くんが考えて、もう無理だと思ったなら、それも受け止める」
健人はしばらく黙っていた。
やがて、カップを置いた。
「俺は、今も美咲さんが好きです」
胸の奥が熱くなった。
「忘れようとしても、無理でした。今日見つけた時も、会えたことが嬉しかった」
「健人くん」
「でも、好きだけで大丈夫とは言えません」
美咲は息を止めた。
「年齢のこと、あの日は数字が違うだけだと思っていました。今も、好きになることを諦める理由だとは思ってません。でも離れている間に、俺も少し考えました」
健人は両手をテーブルの上に置いた。
「美咲さんは働いて、自分で生活している。俺は学費の一部を親に出してもらって、バイト代で使える額も限られてる。時間も違う。美咲さんが休みの日に、俺は授業や調査があるかもしれない。これから就職活動が始まったら、仙台に残るかどうかも分からない」
「うん」
「結婚のことも、今すぐ時期は約束できない。子どもが欲しいかも、正直、まだ分かりません」
どれも、美咲が恐れていたことだった。
けれど今は、逃げずに聞けた。
「私も、今すぐ結婚したいわけじゃない。子どもが欲しいかも、まだ決められない」
「でも、俺より考えられる時間が短いと思ってるでしょう」
「思ってる」
美咲は曖昧にしなかった。
「だから、なかったことにはしたくない。でも、付き合う前に答えを決めてほしいとも思わない。私の考えが変わるかもしれないし、健人くんの考えも変わる。変わった時に、言わずに我慢する方が怖い」
健人は静かに聞いていた。
「私は、先のことを考えるのをやめない。でも、先の不安を使って、今の健人くんの答えを否定することもやめたい」
「もし俺が、東京で働きたいと言ったら?」
「寂しいと思う。反対したくなるかもしれない。でも、最初から駄目とは言わない。どうして東京なのか、私の仕事はどうするのか、遠距離を続けられるか、一緒に考えたい」
「仙台に残ってほしいとは言わない?」
「言うかもしれない」
健人が少し驚いた顔をした。
「言わないと約束する方が、たぶん嘘になるから。残ってほしいと思えば、そう伝える。でも、残ると決めるのは健人くん。私のためだけに進路を狭めて、あとでその責任を背負わせるようなことはしたくない」
「俺も、美咲さんに仕事を辞めてついてきてとは、簡単に言いたくないです」
「うん。簡単に言わないで」
二人の間に、初めて少しだけ笑いが生まれた。
不安は消えていなかった。
むしろ、以前より具体的になっていた。住む街。働き方。お金。家族。時間。好きという感情だけでは決められないことが、いくつもある。
けれど、言葉にできる不安は、壁ではなく話し合うための場所になった。
「お金のことも、あります」
健人が言った。
「今日の店だって、美咲さんなら気にせず払えるかもしれない。でも俺は、毎回こういう店へ来たら苦しいです」
「今日、そんなに高くないよ」
「例えばです」
「分かってる」
「俺が払えないからって、いつも美咲さんに出してもらうのも嫌です」
「私が多く払うこと自体は、嫌じゃないよ」
「俺が嫌なんです」
健人の返事は早かった。
美咲は、彼の意地だと片づけかけて、やめた。自分が年齢を理由にされたくなかったように、健人にも、学生だから受け取る側だと決められたくない気持ちがある。
「じゃあ、毎回決めよう」
「毎回?」
「安い店なら割り勘。どちらかが誘いたい高い店なら、誘った方が多めに出す。私が誕生日にごちそうしたい時は、ごちそうさせて。健人くんが払いたい日があるなら、その時はお願いする」
「細かいですね」
「大事でしょう」
「大事です」
「それと、お金のかからない場所をたくさん歩く」
健人はようやく、以前に近い笑い方をした。
「それは得意です」
「知ってる」
「美咲さん、歩きにくい靴で来ますけど」
「最近は選んでるよ」
「今日は?」
テーブルの下で、美咲は自分のブーツを見た。
「今日は、大丈夫な靴」
「合格です」
「誰の試験?」
「俺のです」
そう言ったあと、健人の笑みが少し消えた。
「もう一つ、お願いがあります」
「何?」
「年齢のことを、喧嘩に勝つために使わないでほしいです」
美咲は姿勢を正した。
「俺が間違っている時は言ってください。でも、六歳下だから分からないって終わらせないでほしい。美咲さんの方が経験していることは多いけど、年上だからいつも正しいわけじゃないでしょう」
「そのとおりだと思う」
「俺も、美咲さんを年齢で急かしません。結婚を考えるなら年上と付き合うべきだった、みたいなことは言わない」
美咲は目を伏せた。
「それ、言われたら一番苦しいかもしれない」
「言いません。でも、何を言われたら苦しいかは、お互いに話しておきたいです」
「うん」
「分からないことを、分かったふりもしない」
「私も」
健人は一度、窓の外を見た。
ガラスには、向かい合う二人の姿が映っている。六歳の差は、その姿だけでは分からなかった。
「美咲さんが不安になった時、今回みたいに一人でいなくならないでください」
「約束する」
「すぐに言えない時は?」
「考える時間が欲しいって言う」
「俺もそうします」
美咲はカフェラテを飲んだ。
すっかり冷めていた。それでも、喉を通る味は苦くなかった。
「これ、付き合う前にする話としては、重いかな」
美咲が言うと、健人は首を横に振った。
「俺たちには必要だったと思います」
「俺たち、って言ってくれるんだね」
「まだ、そこを決めてません」
健人は真面目な顔で言った。
「厳しい」
「美咲さんが、すぐ答えを出さなくていいって言ったから」
「言ったけど」
美咲は困って笑った。
健人も少し笑ったが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「本当は、もう決めています」
美咲は彼を見た。
「一つだけ、聞かせてください」
「うん」
「あの日、俺は美咲さんに好きだと言いました。今日は、美咲さんの言葉を聞きました。その上で、もう一度、俺から言いたいです」
健人は呼吸を整えた。
「美咲さんが好きです」
広瀬川で聞いた時と、同じ言葉だった。
けれど今は、二人の間にある違いを知らないふりはしていない。傷ついた時間も、消えない不安も含めて、それでも選び直す言葉だった。
「俺と付き合ってください」
美咲の目に涙がにじんだ。
泣いて答えを曖昧にしたくなくて、瞬きをした。
「はい」
声が小さくなった。
「私も、健人くんと付き合いたいです」
健人の肩から、ゆっくり力が抜けた。
安心した顔を見て、美咲は初めて、自分も同じように緊張していたのだと分かった。
「よかった」
健人は息を吐き、両手で顔を覆った。
「そんなに?」
「断られたことがあるので」
「ごめん」
「今のは、謝っていいです」
二人で笑った。
店員が閉店時刻を知らせに来た。
美咲が伝票を取ろうとすると、健人も同時に手を伸ばした。指先が触れ、二人とも止まる。
「さっき決めたでしょう」
美咲が言った。
「今日は、俺が連れてきた店です」
「でも、私は六歳上で、社会人」
健人の目が細くなった。
「もう年齢を使ってます」
「本当だ」
美咲は伝票から手を離した。
「じゃあ今日は、お願いする」
「はい」
「次は私が誘うね」
「高すぎない店でお願いします」
「分かりました」
健人は会計を済ませた。
店を出ると、冬の冷気が頬に触れた。定禅寺通りの方向には、まだ光が見える。閉店前より人は減っていたが、遠くから音楽と話し声が届いていた。
二人は駅へ向かって歩き出した。
来る時には、肩が触れないほど空いていた距離が、今は少しだけ狭くなっている。
美咲は自分から、その間を縮めた。
コートの袖が触れた。
健人が横を見る。
「近いです」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
声が少し上ずっていた。
「健人くんでも、緊張するんだね」
「しますよ。ずっとしてます」
「平気そうに見えた」
「美咲さんの前では、大人に見られたかったので」
健人は笑った。
「でも、もうやめます」
「何を?」
「大人に見せること。俺は俺のままでいたいです。足りないところは、足りないって言います」
「その方がいい」
「美咲さんも、何でも分かってる顔をしないでください」
「そんな顔してる?」
「よくしてます」
「気をつける」
歩道の端に、小さな段差があった。
健人がいつものように、美咲の腕へ手を伸ばしかけた。けれど途中で止め、先に尋ねた。
「手、つないでもいいですか」
美咲は彼の手を見た。
雨の日には、傘を持つその手を意識した。遊園地では、人の波から守ろうとする手を断った。今夜は、健人が差し出した手を、美咲自身が選ぶことができる。
「うん」
美咲から手を重ねた。
手袋越しではない指が触れた。
健人の手は冷えていた。けれど、握り返す力は確かだった。
「冷たいね」
「外に長くいたから」
「私を待ってたわけじゃないよね」
「待ってません。偶然です」
「分かってる」
「でも、会えたらいいとは、少し思ってました」
美咲は握った手に力を込めた。
「私も」
定禅寺通りへ戻ると、光の下を歩く人はまだ多かった。
二人は立ち止まらず、並木に沿って駅へ向かった。
健人の歩幅は、美咲に合わせて少し小さい。美咲は時々、自分の歩幅を少し広げた。どちらか一人だけが合わせるのではなく、二人の間に新しい速さを探すように歩いた。
「明日、大学ですか」
「午後からです。午前はレポートを書きます」
「私は午前から修正会議」
「プレゼンが終わったのに、まだあるんですね」
「仕事は、通ったあとが長いの」
「俺も手伝えることありますか」
「ないよ」
美咲が即答すると、健人は不満そうな顔をした。
「でも、終わったら連絡する」
「それなら待ってます」
「待つことを生活の中心にしないでね」
健人は驚いて、美咲を見た。
「店長と同じこと言う」
「何か言われたの?」
「返事を待つことを生活の中心にするなって。相手が戻ってきた時、待ってた時間を代金みたいに差し出すなって言われました」
「いい店長さんだね」
「はい。かなり厳しいですけど」
「健人くん、ずっと待ってた?」
健人は少し考えた。
「連絡が来たらいいとは思っていました。でも、大学にも行ったし、バイトもした。映画も観た。ちゃんと生活してました」
「そっか」
「待っていたことを、責める理由にはしません」
「ありがとう」
「でも、傷ついたことは言います」
「言って」
「美咲さんも言ってください」
「うん」
勾当台公園駅の入口が見えてきた。
美咲は仙台駅へ、健人は大学近くの部屋へ戻る。乗る地下鉄は途中まで同じだった。
改札へ向かう階段の前で、健人が足を止めた。
「美咲さん」
「何?」
「付き合い始めた日は、今日でいいんですよね」
「そうだね」
「忘れないようにします」
「十二月の点灯初日。忘れにくいよ」
「毎年、混んでる日に来ることになります」
「記念日に必ず同じ場所へ来なくてもいいでしょう」
「そういうものですか」
「たぶん」
「美咲さんも、分からないんですね」
「初めてなんだから、分からないよ」
美咲は笑った。
「年下の恋人も、こんなふうに始まるのも」
「俺も、年上の恋人は初めてです」
「六歳上だよ」
「知ってます」
「何度でも言うかもしれない」
「そのたびに、知ってるって答えます」
健人は握っていた手を少し持ち上げた。
「でも、喧嘩の時には使わない約束です」
「分かってます」
二人は手を離し、地下鉄の階段を下りた。
*
翌朝、美咲が目を覚ますと、健人からメッセージが届いていた。
『おはようございます。昨日のこと、夢じゃないですよね』
送信時刻は午前七時二分だった。
美咲は枕へ頬をつけたまま笑った。
『夢じゃないよ。おはよう』
初めて、迷わず返した。
すぐに既読がつく。
『よかったです』
『レポート、頑張ってね』
『美咲さんも修正会議、頑張ってください』
そこで会話は終わった。
恋人になったからといって、一日中連絡を取り合うわけではなかった。健人には大学があり、美咲には仕事がある。互いの時間は、相手を好きになる前から続いている。
美咲は支度をして会社へ向かった。
修正会議では、企画の撮影候補地が一つ変更になった。予算も見直しが必要になり、昼休みまで議論が続いた。
以前なら、仕事が落ち着くまで私生活の連絡は後回しにしていただろう。けれど美咲は、昼食を取る前に短い文を送った。
『会議、終わりました。撮影場所が一つ変わって、来週は少し忙しくなりそう』
健人からの返事は、二時間後だった。
『俺もレポート終わりました。来週、会う日を変えた方がよければ言ってください』
会う日は、まだ決めていなかった。
美咲がそう送ると、健人から慌てたような返事が来た。
『そうでした。付き合ったので、会えるものだと思ってました』
『勝手に決めないでください』
『すみません。では、会ってください』
画面を見ながら、美咲は声を出さずに笑った。
『日曜日なら空いてるよ』
『俺も空けます』
『元から空いてる日じゃないの?』
『空けます』
健人の強引さが、少し戻っていた。
それが嬉しかった。
*
日曜日、二人は昼前に仙台駅で待ち合わせた。
恋人として会う最初の日だからといって、特別な店へ行くことはしなかった。駅の東口から榴岡公園まで歩き、近くの食堂で昼を食べる。冬の公園には花もなく、木々は葉を落としていたが、晴れた空の下を歩く人は多かった。
美咲はスニーカーを履いてきた。
会ってすぐ、健人は足元に気づいた。
「合格です」
「まだその試験、続いてるの?」
「ずっと続きます」
「厳しいね」
「美咲さんが、また靴を壊さないためです」
公園のベンチに座り、売店で買った温かいお茶を飲んだ。
健人は次のゼミで、商店街の聞き取り結果を発表するという。美咲は観光キャンペーンの撮影場所が変わった理由を話した。
以前と同じ会話だった。
違うのは、言葉が途切れた時に、沈黙を怖がらなくなったことだった。
広瀬川のあと、二人には言えないことが増えた。何を送っても相手を困らせる気がし、何も送らなければ離れていく。その間にあった距離を、今は少しずつ言葉で埋め直している。
「美咲さん」
健人がペットボトルの蓋を閉めた。
「昨日、母から電話が来ました」
「そうなんだ」
「正月はいつ帰るのかって。美咲さんは、実家に帰りますか」
「帰るつもり。二日くらい」
「俺もです」
健人は少し迷ってから続けた。
「まだ、家族には話さなくていいですよね」
美咲は胸の奥がわずかに固くなるのを感じた。
恋人になった途端、家族への説明という現実が近づいたように思えたからだった。
「健人くんは、話したい?」
「いつかは。でも、昨日始まったばかりで話すのは早いと思います」
「私もそう思う」
「隠したいわけじゃないです」
「分かってるよ」
「美咲さんの親に会うのが嫌なわけでもないです」
「そこまで言ってない」
「言われる前に伝えておこうと思って」
健人の顔は真剣だった。
美咲は笑いながら、安心していた。
「急がなくていい。私たちが、自分たちのことをちゃんと分かってから話そう」
「はい」
「でも、ずっと隠すのは嫌」
「俺もです」
その日の帰り、健人が働くカフェへ寄った。
彼は休みだったが、店主へ伝えたいことがあるという。
「私も行っていいの?」
「来てほしいです」
「何を伝えるの?」
「行けば分かります」
店へ入ると、店主はカウンターの中で豆を量っていた。健人を見たあと、その隣にいる美咲へ視線を移す。
「いらっしゃいませ」
いつもどおりの声だった。
二人はカウンター席へ座った。
健人はブレンドを、美咲は紅茶を頼んだ。店主は注文を作り終えてから、健人の前へカップを置いた。
「それで?」
「何がですか」
「休みの日に、わざわざ顔を見せに来た理由だ」
健人は一度、美咲を見た。
「昨日から、美咲さんと付き合うことになりました」
店主は驚いた顔をしなかった。
「そうか」
「それだけですか」
「ほかに何を言えばいい」
「もう少し、あるでしょう」
「おめでとう」
「無理に言わせたみたいになりました」
美咲が笑うと、店主もわずかに口元を緩めた。
「待った時間を、代金にしなかったか」
「してません」
健人は即答した。
「美咲さんが戻ってきたから許した、ということでもないです。俺も傷ついたことを話しました。これから困ることも、二人で話しました」
「全部決まったのか」
「決まってません」
「なら、よかった」
健人が首をかしげた。
店主はカウンターを布巾で拭きながら言った。
「最初の日に全部決めたと思うと、あとで変わった時に言えなくなる。決まってないことがある方が、話す理由が残る」
「店長、時々いいこと言いますね」
「時々は余計だ」
店主は健人のカップを指した。
「冷める前に飲め」
美咲は紅茶へ口をつけた。
温かな香りが広がる。
六月の雨の日、初めてこの店へ来た時、美咲は健人を偶然知り合った大学生だと思っていた。彼と何度もここで話し、街を歩き、傷つけ、離れ、それでも今、隣の席へ戻ってきた。
戻ったといっても、元の場所ではなかった。
出会った頃のように、何も知らない二人には戻れない。広瀬川での言葉も、返せなかったメッセージも消えない。
だからこそ、ここから始められるのだと思った。
店を出るころ、空から細かな雪が落ち始めていた。
積もるほどではなく、光の中で白く見えたかと思えば、地面へ着く前に消えていく。
美咲は傘を持っていなかった。
「駅までなら大丈夫だよ」
そう言うと、健人は鞄から折り畳み傘を取り出した。
紺色の傘だった。
「雪でも差すの?」
「髪が濡れます」
「少しだけでしょう」
「少しでもです」
健人は傘を開いた。
あの日と同じように、片側を空けて美咲を待つ。
今度は、入っていいかと迷わなかった。
美咲は傘の下へ入り、自分から健人の腕に近づいた。
「近すぎませんか」
「濡れないためです」
「さっき、少しなら大丈夫って言ってましたよね」
「気が変わったの」
健人は笑い、傘を美咲の側へ少し傾けた。
「またそっちが濡れるよ」
「今日は、言われたら直します」
傘を二人の中央へ戻す。
美咲も柄へ手を添え、一緒に角度を合わせた。
六歳の差を越えた先に、何も問題のない場所があるわけではなかった。
違う速さで進んできた二人には、これからも同じ景色を見られない日がある。片方にしか分からない迷いも、時期のずれも、選ばなければならない未来もある。
それでも、どちらか一人が相手の答えまで決めなければ、違いは終わりの理由だけにはならない。
二人は一本の傘を真ん中にして、冬の道を歩いた。
歩幅がずれれば、少し待った。
傘が傾けば、二人で戻した。
その繰り返しの先にあるものを、今はまだ、約束とは呼ばなかった。
ただ、美咲の手には、健人と同じ柄を握る温度があった。




