第四章 届き続ける言葉と光のページェント
健人から届いた雨のメッセージを、美咲は地下鉄に乗ってからもう一度開いた。
『今日は雨なので、足元に気をつけてください』
それだけだった。
会いたいとも、返事が欲しいとも書かれていない。広瀬川で自分が告げた拒絶を、彼はきちんと受け止めている。近づきすぎず、それでも雨の中を歩く美咲のことを思い出した。その事実だけを、短い一文が静かに伝えていた。
美咲は返信欄に『ありがとう』と打った。
四文字のあとで指が止まる。
ありがとう、と返せば、何に対する礼なのだろう。足元を案じてくれたことか。断った相手を、まだ気遣ってくれることか。それとも、あの夜の嘘を追及せず、傷ついた側でありながら美咲に逃げ道を残してくれていることか。
消して、今度は『健人くんも気をつけて』と打った。
それも消した。
自分から終わらせたくせに、いつもどおりの言葉を返すのは卑怯な気がした。かといって、謝罪を送れば、彼が離れようとしている足をまた止めてしまう。何を選んでも、自分の都合になるように思えた。
地下鉄が広瀬通駅を出る。窓に映った美咲の顔は、疲れているというより、何かを警戒していた。
結局、一文字も送らないまま画面を閉じた。
翌朝、雨は上がった。
美咲はいつもより早く出社し、誰もいない執務室の照明をつけた。机の上に企画書を広げ、前日に受け取った修正指示を一つずつ反映する。見出しの言葉を変え、写真の配置を直し、調査結果を読みやすい図へ置き換えた。
手を動かしている間だけは、自分の考えを一つに絞れた。
数字が悪ければ直す。伝わらなければ言い方を変える。締切までに、今ある材料で最善を選ぶ。仕事には、決断したあとに確かめられるものがあった。相手の反応があり、売上や閲覧数があり、上司や取引先からの評価がある。
人の気持ちには、それがない。
健人を断ったことが正しかったのか、誰も採点してくれない。六歳差は現実だと自分へ言い聞かせても、では何がどれほど現実的でないのかと問われれば、答えは曖昧だった。
八時を過ぎると、同僚たちが少しずつ出社してきた。
「早いね」
隣の席へ鞄を置いた沙織が、美咲のモニターをのぞき込む。
「昨日のうちに終わらなかったから」
「昨日も九時までいたでしょう」
「あと少しだったの」
「美咲の『あと少し』、だいたい二時間かかるやつ」
沙織は呆れた声を出しながら、自分の椅子を引いた。
「今度の観光キャンペーン、担当を増やすって聞いたけど、まさか手を挙げてないよね」
「昨日、部長にやりたいって言った」
「やっぱり」
「前から興味があった案件だし」
「それは知ってる。でも、今の更新案件と重なるよ」
「十一月を越えれば落ち着くから」
答えながら、美咲は資料のページを送った。
忙しくなればいいと思っていた。
朝起きた瞬間から今日やるべきことが並び、帰宅するころには考える力も残っていないほど疲れればいい。仕事を選び、積み上げていく自分を目に見える形にできれば、広瀬川で口にした言葉も、そのために必要な決断だったと信じられるかもしれない。
沙織は何か言いかけたが、出社してきた部長に呼ばれ、席を立った。
美咲はスマートフォンを鞄の奥へしまった。
通知は来ていなかった。
それに安堵したのか、落胆したのか、自分でも分からなかった。
*
そのころ健人は、大学の図書館で地域調査の記録を整理していた。
雨のメッセージを送ったあと、美咲から返事はなかった。既読の表示だけがつき、それ以上は何も変わらない。
予想していたことだった。
自分から告白し、美咲から答えを受け取った。それが望んだ答えでなくても、もう一度考えてほしいと迫るつもりはなかった。彼女が年齢を理由に選ばないと言ったのなら、その境界を越えてはいけない。
けれど、雨が降り始めた時、最初に思い出したのは美咲だった。
壊れたパンプス。紺色の傘。肩が触れるほど近くを歩いた、六月の歩道。
送信するまで、十五分かかった。
長い文は書かなかった。あの日のことも、広瀬川のことも書かなかった。返事を促す疑問文も避けた。ただ、気をつけてほしいという気持ちだけなら、伝えても許されるのではないかと思った。
送った直後には、やはり迷惑だったかもしれないと後悔した。
昼休み、健人がノートパソコンを閉じると、向かいに座っていたゼミ仲間の三浦が顔を上げた。
「今日、学食行く?」
「行く」
「その前に、先生から共有された聞き取りの表、見た?」
「見た。年齢の欄がずれてたから直した」
「早いな」
「今朝、時間があったから」
三浦は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「最近、真面目すぎない? バイトも増やしたって言ってたし」
「普通だよ」
「普通の人は、金曜の夜に図書館へ残らない」
「聞き取りの提出、月曜だろ」
「そうやって正しいこと言われると、何も返せない」
健人は笑い、机の上の資料をまとめた。
美咲に仕事へ逃げないでと言ったことがある。今の自分も、やっていることは似ていた。
ただ、逃げたままではいたくなかった。
授業に出て、調査へ行き、カフェで働く。友人と食事をし、卒業後に何をしたいのか考える。美咲に選ばれなかったからといって、自分の時間まで止める理由にはならない。そう分かっているから、目の前のことを一つずつ続けた。
それでも、ふとした瞬間に思い出す。
講義で広告の事例が出れば、美咲ならどう見るだろうと思った。新しい店の窓に丸い照明を見つければ、あのカフェを気に入りそうだと考えた。何かを話したいと思う相手が、まだ彼女のままだった。
忘れることと、生活を続けることは、同じではなかった。
*
十月の終わり、美咲は大学時代の友人に誘われ、青葉通りのレストランへ行った。
友人の夫の会社にいる、三十二歳の男性を紹介したいと言われたからだった。
最初は断ろうとした。けれど、自分が健人だけを特別に感じていたのか、それとも久しぶりに親しく話す男性だったから気持ちが揺れただけなのか、確かめたい気持ちもあった。
店は落ち着いた照明で、席の間隔が広く、ワインの説明だけで一冊の本ほどあるメニューが置かれていた。向かいに座った岡田は、濃紺のジャケットを着た物腰の柔らかな人だった。
「広告のお仕事なんですね」
「広報が中心です。今は観光関係の企画を担当しています」
「忙しそうだ。でも、やりがいはありそうですね」
「そうですね。結果が出るまで落ち着かないですけど」
「僕も締切前は同じです。システムの導入支援をしているので」
会話は途切れなかった。
勤めている会社、休日の過ごし方、好きな食べ物。岡田は話題を選ぶのが上手で、美咲のグラスが空けば店員を呼び、料理が運ばれれば取り分けてくれた。年齢も近く、仕事を続けたいという美咲の考えにも理解を示した。
嫌なところは何もなかった。
それなのに、美咲は何度も、自分が面接を受けているような気持ちになった。
「転勤はありますか」
「今のところはありません。岡田さんは?」
「可能性はありますけど、仙台を離れるつもりはないです。実家も近いので。結婚するなら、同じ考えの人がいいですね」
「そうですよね」
「子どもについては、どう考えていますか」
岡田は失礼にならないよう慎重に尋ねた。
真剣に相手を探しているからこそ、早めに確かめたいのだろう。美咲にも、その誠実さは理解できた。
「いつかは、と思います。でも、まだ具体的には」
「仕事が大事な時期ですもんね。僕も、すぐにというわけではないです。ただ、三年後くらいには家庭を持てたらと考えています」
三年後。
数字が示されると、未来が急に予定表の枠へ入れられたように感じた。
美咲は笑ってうなずきながら、広瀬川で健人に問い詰めるように並べた言葉を思い出した。就職はどうするのか。結婚は。子どもは。親はどう思うのか。
あの時の自分は、今の岡田のように穏やかではなかった。答えが決まっていないことを責めるように、六年先を、十年先を、健人一人に背負わせた。
同じ問いでも、こんなふうに話すことはできたのだ。
一度の会話で正解を出すのではなく、考えが違えば確かめ、変われば話し直すこともできた。けれど美咲は、彼にその機会さえ渡さなかった。
「寒いですか」
岡田に言われ、美咲は顔を上げた。
「すみません。少し考え事をしていました」
「空調、下げてもらいましょうか」
「大丈夫です」
岡田は店員を探すように周囲へ目を向けた。
優しい人だと思った。
その優しさを比べるべきではないのに、美咲の頭には別の声が浮かんだ。
寒い時は、寒いって言っていいんですよ。
健人なら、美咲の答えを待つ前に、自分のマフラーを外そうとするかもしれない。そして美咲が断れば、困ったように笑いながら、せめて温かい飲み物を買いましょうと言うだろう。
食事の終わりに、岡田はまた会いたいと言ってくれた。
美咲は、その場で曖昧な返事をしなかった。
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。今は、次に進めないと思います」
岡田は少し驚いたあと、静かにうなずいた。
「分かりました。正直に言ってくれてありがとうございます」
別れたあと、美咲は青葉通りを駅へ向かって歩いた。
岡田に心が動かなかったからといって、健人を選ぶ理由にはならない。それでも、年齢も仕事も将来の希望も釣り合う相手なら安心できるはずだという考えは、少し揺らいだ。
条件が整っていても、話したい言葉が浮かばない相手はいる。
条件が整っていなくても、見つけた景色を伝えたくなる相手もいる。
駅前の信号で立ち止まり、美咲はスマートフォンを取り出した。
健人との画面を開く。最後にあるのは、雨を案じる一文だった。
『この前はごめんなさい』
そこまで打ち、消した。
謝るなら、何について謝るのかを伝えなければならない。怖くなったこと。嘘をついたこと。自分で考えるべき将来を、彼の年齢のせいにしたこと。
それを文字だけで送り、返事を待つ勇気はなかった。
青信号になった。
人の流れに押されるように、美咲は画面を閉じて歩き出した。
*
十一月に入った最初の土曜日、健人はアルバイト先のカフェで閉店作業をしていた。
客席の椅子を上げ、エスプレッソマシンを洗う。店主は売上を確認しながら、カウンターの端に置かれた健人のスマートフォンを見た。
「待ってるなら、休憩室へ持っていっていいぞ」
「待ってません」
「そのわりに、さっきから何度も見てる」
「時間を確認しただけです」
「店の時計はあそこにある」
健人は布巾をすすぎ、返事をしなかった。
雨の一文を送ってから、十日が過ぎていた。返事が来ないことには、もう慣れたつもりだった。それでも、通知音が鳴れば反応してしまう。
店主は帳簿を閉じた。
「送ったこと、後悔してるのか」
「少し」
「返事がなかったから?」
「それもあります。でも、断られたのに連絡するのは、相手の答えを無視してるのかもしれないと思って」
「何を送った」
「雨だから気をつけてって」
「それだけ?」
「それだけです」
店主はしばらく考え、棚へカップを戻した。
「次に送る時、自分に一つ聞けばいい」
「何をですか」
「返事をもらうために送るのか。返事がなくても、その人に渡したい言葉だから送るのか」
健人は蛇口を止めた。
「前者なら、今はやめた方がいい。返事をしないことで出してる答えもある。後者でも、何度も続けば重くなる。そこは自分で考えろ」
「難しいですね」
「他人との距離は、正解が書いてないからな」
店主は腕を組み、健人を見た。
「それと、待つことを生活の中心にするな。連絡が来ても来なくても、お前は自分のやることをやれ。相手が戻ってきた時に、待っていたことを代金みたいに差し出すなよ」
「そんなことはしません」
「ならいい」
店主は素っ気なく言い、厨房の照明を一つ消した。
その夜、健人は美咲との画面を開かなかった。
翌日は朝からゼミの資料を作り、午後は友人と古い商店街を歩いた。月曜には講義へ出て、火曜はカフェに立った。時間は、きちんと先へ進んだ。
翌週、以前に美咲が勧めてくれた映画の上映が終わると知り、健人は一人で観に行った。
海辺の町で暮らす姉妹の話だった。大きな出来事は少ない。食事を作り、働き、家族へ言えなかったことを少しずつ口にする。美咲は、見終わったあとに派手ではないのに長く残ると言っていた。
映画館を出ると、その言葉の意味が分かった。
健人は四日考えてから、メッセージを送った。
『この前話していた映画、観てきました。美咲さんの言ったとおり、すごくよかったです。台所で姉妹が話す場面が、ずっと残っています』
質問はつけなかった。
送信したあとはスマートフォンを伏せ、翌日の聞き取りに使う質問票を開いた。
返事は来なかった。
けれど既読がついた時、少なくとも言葉は届いたのだと思った。
*
美咲はその映画のメッセージを、帰宅した玄関で読んだ。
コートも脱がず、靴を片方だけ脱いだ姿勢で、画面を見つめた。
台所で姉妹が話す場面は、美咲も好きだった。姉が長年隠していた本音を打ち明ける。妹はすぐには許さず、怒りを口にし、それでも同じ食卓から立ち去らない。
健人がそこを覚えていたことが、胸に刺さった。
『私も、あの場面が一番好きです』
打ち込んだ文は、送らずに下書きへ残した。
健人の言葉は、扉を強く叩かなかった。
扉の前に、小さなものを置いて帰るようだった。雨の日には気遣いを。映画を観た日には感想を。それを拾うかどうかは、美咲に委ねられている。
その優しさに甘えている自分が嫌だった。
返さないなら、もう開かない方が彼のためなのかもしれない。それでも通知が来れば、誰より先に読みたかった。
十一月の二週目、美咲は父の誕生日を祝うため、実家へ帰った。
母は朝から煮物を作り、父は自分の誕生日なのに庭の落ち葉を集めていた。美咲が駅前で買った日本酒を渡すと、父はラベルを眺め、もったいないから正月まで取っておくと言った。
「誕生日に飲むために買ったんだよ」
「今日全部飲んだら、明日はないだろう」
「全部飲まなくていいでしょう」
「そういう考え方もあるな」
父は真面目な顔でうなずき、母に笑われた。
夕食の途中、母が従妹の結婚式について話した。来春に式を挙げるらしい。美咲は身構えたが、母は会場の料理が評判だという話をしただけで、美咲に何も尋ねなかった。
拍子抜けするほどだった。
食後、母と台所へ食器を運んでいると、母が小さな声で言った。
「最近、仕事、忙しいの?」
「うん。新しい企画が始まって」
「顔が疲れてる」
「寝れば戻るよ」
「ならいいけど」
母は皿を洗いながら、少し迷うように続けた。
「前に、いい人はいないのって何度か聞いたでしょう」
美咲の手が止まった。
「急に何?」
「綾子ちゃんのお母さんから、赤ちゃんが生まれたって聞いたから。あなたにまた余計なことを言いそうになって、やめたの」
「そう」
「親は、子どもが先で困らないようにって思うのよ。でも、先のことを全部分かってるわけじゃない。私だって、お父さんと結婚すれば苦労しないと思ったわけじゃないもの」
居間から、父がテレビの音量を上げる音がした。
「苦労した?」
「したわよ。転勤の話を、決まってから聞かされた時なんて、本気で実家に帰ろうと思った」
「初めて聞いた」
「言ってないもの。でも、話して、喧嘩して、結局は一緒に行った。正しかったかどうかは、今も分からない。ただ、あの時は私が決めた」
母は洗った皿を水切り籠へ置いた。
「あなたに結婚しなさいって言いたいんじゃないの。しないならしないでいい。でも、私が言うことを、あなたの答えにしなくていいからね」
美咲は、すぐに返事ができなかった。
母から見れば、娘の結婚は安心につながる。年齢の近い、安定した職業の相手なら、なおさら安心するだろう。それは変わらないかもしれない。
けれど美咲は、母の期待を確かめもしないまま、自分の中で必要以上に大きくしていた。
周囲にどう見られるか。
親はどう思うか。
友人たちは何と言うか。
まだ誰も答えていない問いに、美咲自身が最も厳しい答えをつけ、それを健人へ渡した。
「お母さんは、私が変な人を連れてきてもそう言える?」
「変な人なの?」
「例えばの話」
「変だと思ったら、何が変かは言うわよ」
母は水を止め、美咲を見た。
「でも、会う前に決めたりはしない」
美咲はうなずいた。
広瀬川で、自分は何をしたのだろう。
健人の未来を聞く前に、学生だから決められないと判断した。二人で考えられるかを確かめる前に、六年の差は越えられないと結論を出した。
会う前に決めないと母は言った。
美咲は、すでに知っている人のことさえ、年齢だけで知らない人のように扱った。
*
実家から戻った月曜、観光キャンペーンの企画会議があった。
県内の冬の過ごし方を、首都圏の若い世代へどう伝えるか。雪景色や温泉だけでなく、街を歩き、地元の人と話し、夜の時間まで楽しめる企画にしたいと美咲は考えていた。
部長は、美咲へ企画全体の提案を任せた。
「来月三日のプレゼン、先方の役員も出る。責任は大きいけど、やってみるか」
「はい。やらせてください」
即答した。
そこから、美咲の帰宅時間はさらに遅くなった。
写真家の候補を探し、取材先へ連絡し、媒体ごとの予算を組む。若い観光客への聞き取り結果を読み、仙台に住む人が日常だと思っているものの中から、外から来る人には新鮮に映る時間を選び出す。
取材案の一つに、定禅寺通りの冬の夜があった。
資料へケヤキ並木の写真を置くたび、健人の顔が浮かんだ。
夏に二人で歩いた通り。木漏れ日の下でアイスコーヒーを飲み、噴水のそばで仕事の話をした。彼は街路樹の根元に置かれたベンチを見て、座る場所があるだけで街の歩き方が変わると言った。
その言葉は、今の企画にもつながっていた。
美咲は資料の余白に、『歩く速度で出会う仙台』と書いた。
採用されるかどうかは分からない。それでも、自分一人では見つけられなかった視点だった。
十一月半ばの夜、健人から三通目のメッセージが届いた。
『定禅寺通り、ページェントの準備が始まっていました。昼のケヤキに電球が巻かれているのを見ると、冬が来るんだなと思います』
美咲は、作業中の資料に置いた夜の並木と、健人が見た昼の並木を交互に眺めた。
同じ通りを、今も別々に歩いている。
『私も今日、その写真を見ていました』
打って、消す。
『今、定禅寺通りを使った企画を考えています』
それも消した。
仕事の話なら返せると思ったのに、送信できなかった。
健人が望んでいたのは、仕事仲間のような安全な距離ではない。返事をするなら、自分が断ったことと向き合わなければならない。その覚悟がないまま、都合のいい話題だけを差し出したくなかった。
美咲はスマートフォンを伏せ、資料へ戻った。
けれど、その夜に作った企画書の表紙には、昼の並木へ取りつけられた電球の写真を使った。
冬の光は、点灯する前から始まっている。
誰にも見上げられない時間に、人の手で一つずつ準備されている。
そう考えると、暗いままの今も、何かが終わった時間ではないように思えた。
*
十一月最後の金曜日、給湯室でコーヒーを淹れていると、先輩の由香里が入ってきた。
由香里は広報部で十年以上働き、今は複数の案件をまとめている。判断が早く、言うべきことははっきり言うが、後輩の失敗を人前で責めたことはなかった。
その日も、由香里はマグカップを棚から取り出し、美咲の横顔を見ただけで言った。
「ちゃんと寝てる?」
「五時間くらいは」
「それを、寝てるとは言わない」
「プレゼンが終われば戻ります」
「終わったら、別の仕事を入れるでしょう」
言い当てられ、美咲は苦笑した。
コーヒーメーカーから落ちる細い液体を見つめる。機械の低い音だけが、狭い部屋に続いた。
「何かあった?」
由香里は声を少し落とした。
「仕事の忙しさだけじゃない顔をしてる」
「どんな顔ですか」
「間違えたことに気づいてるのに、まだ正解だったことにしようとしてる顔」
美咲は由香里を見た。
「そんなに分かりやすいですか」
「私も、昔よくしてたから」
由香里は笑わなかった。
彼女の夫は十歳年下のミュージシャンだった。社内で結婚を報告した時、驚く人は多かったが、由香里は冗談を交え、誰にも口を挟ませなかった。美咲も当時、由香里は迷わない人なのだと思っていた。
「由香里さんは、いつも自分で決めてるように見えます」
「見せてるだけ。迷ってるところまで全員に見せる必要はないもの」
由香里は二つのカップを持ち、壁際の小さな丸テーブルを顎で示した。
「五分だけ休もう。次の会議まで時間ある?」
「あります」
二人は向かい合って立ったまま、コーヒーを飲んだ。
美咲は何から話せばいいのか迷った。
雨の日に出会ったこと。毎週のように会うようになったこと。六歳年下の大学生から告白されたこと。好きではないと嘘をつき、断ったこと。そのあとも、彼から返事を求めない短いメッセージが届いていること。
名前だけは伏せ、順番に話した。
由香里は途中で口を挟まなかった。
「それで、あなたはその人が好きなの?」
話し終えたあと、由香里は尋ねた。
広瀬川でも、健人に同じことを聞かれた。
あの時は、胸の奥にあった答えを押し込み、ないと言った。
美咲はカップを両手で包んだ。
「好きだったと思います」
「過去形?」
「好きです」
声に出すと、息が震えた。
「今も、好きです」
由香里はうなずいた。
「そこは分かった。じゃあ、怖いのは何?」
「年齢です。彼はまだ大学三年生で、私は二十七です。これから就職して、やりたいことも変わるかもしれない。結婚とか、子どもとか、考える時期も違う。私の親だって、すぐには受け入れないと思います」
「どれも、あり得るね」
由香里は簡単に否定しなかった。
年齢なんて関係ないと言われることを、美咲はどこかで予想していた。けれど、その言葉では自分の不安は消えないとも思っていた。
「私の時も、周りにはいろいろ言われた。年下は頼りないとか、収入は安定するのかとか、子どもをどうするのかとか。年齢なんて数字だけ、とは私は思わない。生活するなら、その数字から生まれる違いはあるから」
「やっぱり、大変ですか」
「大変なことはある。夫が音楽を続けるか、私の仕事が忙しい時に家のことをどうするか、親の介護が重なる可能性、子どもを持つか。結婚前に一度話して終わりじゃない。状況が変わるたびに話してる」
由香里はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、それは同い年の人と結婚しても必要でしょう。違うのは、問題が見えやすかったことかもしれない。十歳下だから、考えなくて済むふりができなかった」
美咲は黙って聞いた。
「不安になるのは当たり前。でも、その不安を相手と話す前に、一人で結論にしたら、その人はあなたの人生に参加できない」
「参加」
「あなた、きっと彼のためでもあると思ったでしょう。若い人の将来を縛りたくない、とか」
美咲は目を伏せた。
「思いました」
「私もそうだった。夫がもっと同世代の人を好きになった方が幸せなんじゃないかって、勝手に考えた。そう言ったら、すごく怒られたよ。自分が誰といたいかまで決めるなって」
広瀬川で見た健人の顔が浮かんだ。
困惑と痛みの奥に、確かに怒りがあった。どうして俺の気持ちまで決めるのかという怒りだった。
「周りには、今も何か言われますか」
「言う人はいる。でも、結局、一緒に暮らすのは周りの人じゃないでしょう」
由香里は穏やかに言った。
「周りの意見を聞くなという意味じゃないよ。心配してくれる人の言葉には、見るべきものもある。ただ、最後に何を選ぶかまで預けない。幸せかどうかを他人の物差しだけで測っていたら、自分の答えにはたどり着けないから」
「私、自分で選んだつもりでした」
「そうだと思う」
「でも、本当は、誰にも変だと思われない方を選んだだけかもしれない」
美咲の声は小さくなった。
「彼を選ばなかったんじゃなくて、決められた道から外れる自分を、選べなかった」
由香里はすぐに慰めなかった。
「それに気づいたなら、次に何をするかでしょう」
「今さら、許してもらえると思いますか」
「それは彼が決めること」
厳しい言葉だった。
けれど美咲は、その厳しさに救われた。
謝れば許されるはずだと考えるのも、健人の答えを自分で決めることになる。もう一度会いたいと言っても、断られるかもしれない。怒りをぶつけられるかもしれない。彼にはその権利がある。
「まず、嘘をついたことを認める。話はそこからじゃない?」
由香里は時計を見た。
「五分を過ぎた。戻ろう」
「由香里さん」
「何?」
「ありがとうございます」
「礼は、プレゼンを成功させてからでいい」
由香里はそう言って、給湯室の扉を開けた。
美咲は一人残り、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
*
プレゼンの前夜、美咲は日付が変わる直前に帰宅した。
資料は完成していた。写真の権利も確認し、見積もりの数字も三度見直した。沙織と想定質問を出し合い、部長からも、あとは眠れと言われた。
シャワーを浴び、髪を乾かしてから、ベッドへ入る。
眠ろうとすると、明日の会議室が頭に浮かんだ。先方の役員が並ぶ席。大型モニター。最初の一言で、企画全体の印象が決まる。
午前零時七分、スマートフォンが震えた。
健人だった。
『前に言っていた大きなプレゼン、今日ですよね。美咲さんなら大丈夫です。終わったら、ちゃんと自分を褒めてください』
日付が変わったから、今日になっている。
美咲は上半身を起こした。
あの話をしたのは、まだ夏の終わりだった。観光キャンペーンの担当を狙っていると、定禅寺通りのベンチで話した。正式に任されたことは伝えていない。それでも健人は、時期まで覚えていた。
美咲は返信欄を開いた。
『覚えていてくれてありがとう。頑張ってくるね』
今度は、消さなかった。
親指を送信の印へ置く。
押すだけでよかった。
けれど、これを送ったあと、謝罪を先延ばしにしたまま、優しい言葉だけを受け取る自分に戻るのが怖かった。
美咲は文の続きを打った。
『それから、プレゼンが終わったら話したいことがあります。あの日のことを、ちゃんと謝りたいです』
読み返す。
心臓が速くなった。
送ろうとした瞬間、画面上部の時刻が目に入り、指が止まった。深夜にこんな文を受け取れば、健人は眠れなくなるかもしれない。自分も明日は大事な仕事がある。
逃げる理由ではなく、送る時を選ぶのだと自分へ言い聞かせ、美咲は文章を下書きへ残した。
翌朝、鏡の前で紺色のスーツを着た。
会社へ向かう地下鉄の中で、健人のメッセージを読む。
不思議と、呼吸が整った。
プレゼンは、予定より十分長くかかった。
先方からは、都市部の夜を押し出す理由や、若い世代が本当に地元の人との交流を望むのかと質問が続いた。美咲は調査結果を示し、自分が街を歩いて見つけた時間について話した。
「観光地を点で巡るだけでは、その土地で過ごした感覚は残りません。歩く速度でしか見えないものを、今回の企画では届けたいと考えています」
言いながら、健人の言葉を思い出していた。
座る場所があるだけで、街の歩き方が変わる。誰かと一緒なら、同じ道でも速さが変わる。
会議の終わりに、先方の役員が企画の方向性へ賛同した。細かな修正は残ったが、予算を含めて次へ進めることになった。
会議室を出ると、沙織が美咲の腕を軽く叩いた。
「よかった。最後の質問、私なら詰まってた」
「沙織が昨日、同じこと聞いてくれたから答えられたの」
「じゃあ、半分は私の手柄」
「そういうことにしておく」
部長も珍しく笑い、今日は早く帰れと言った。
美咲は自分の席へ戻り、最初にスマートフォンを手に取った。
母でも、友人でもなかった。
健人へ知らせたいと思った。
『終わりました。企画、次へ進めることになりました』
入力したあと、午前零時に残した下書きが続いて表示された。
話したいことがあります。
あの日のことを、ちゃんと謝りたいです。
今なら送れると思った。
けれど部長に呼ばれ、先方へ送る礼状の確認を頼まれた。美咲はいったん画面を閉じた。
そのまま午後は修正点の整理に追われ、会社を出た時には九時を過ぎていた。
駅へ向かう歩道で、再び画面を開く。
送信する前に、健人からの文を最初から読み返した。
雨の日。
映画。
点灯前の定禅寺通り。
そして、プレゼンへの励まし。
数週間に一度だけ届いた言葉は、どれも返事を求めていなかった。ただ、二人で交わした会話を健人が大切に覚えていることだけが伝わってきた。
美咲は、自分の下書きをすべて消した。
謝ることをやめたのではない。
細切れの文章で、自分だけ先に楽になるのをやめた。
会って、彼の顔を見て話したい。謝罪も、あの時に言えなかった本心も、返事を怖がらずに渡したい。
新しい文を打った。
『プレゼンは無事に終わりました。覚えていてくれて、ありがとう』
今度こそ、送信した。
画面に自分の吹き出しが現れる。
健人へ返事をしたのは、広瀬川の日以来、初めてだった。
すぐには既読がつかなかった。
美咲は地下鉄へ乗り、自宅の最寄り駅で降りた。改札を出たところで、短い返信が届いた。
『よかったです。本当にお疲れさまでした』
それだけだった。
健人は、なぜ今まで返さなかったのかと聞かなかった。会おうとも言わなかった。
美咲は立ち止まり、もう一文を打った。
『直接、話したいことがあります。会ってもらえませんか』
送信の印に触れようとした時、駅前を強い風が抜けた。手袋をしていない指がかじかみ、誤って画面を閉じた。
もう一度開こうとしたところで、母から電話がかかってきた。父が誕生日にもらった日本酒を開けたが、思ったより強くて一杯で酔ったという話だった。
電話を切ったあと、美咲は家までの道を歩いた。
部屋へ着いて落ち着いてから送ろうと思った。
ところが帰宅すると、会社から修正依頼が届いていた。先方の確認が翌朝に早まり、写真の差し替えが必要になった。パソコンを開き、作業を終えた時には午前一時を過ぎていた。
下書きは画面に残っていた。
美咲は翌朝に送ることを決め、眠った。
朝になって読むと、『会ってもらえませんか』が、答えを急かしているように見えた。書き直しているうちに出社時刻になった。
先延ばしにしている自覚はあった。
それでも、以前とは違っていた。
何も言わずに終わらせるつもりは、もうなかった。
*
十二月、光のページェントが始まった。
点灯初日の金曜日、美咲は仕事を早く切り上げた。
健人へ会ってほしいと送る前に、定禅寺通りを一人で歩きたかった。夏に二人で見た道と、健人が準備を知らせてくれた冬の道を、自分の足で確かめたかった。
会えると期待したわけではない。
彼がいつ大学へ行き、いつカフェで働いているのか、今の美咲は知らない。偶然を願うより、通りを歩き終えたら自分から連絡すると決めていた。
勾当台公園駅の改札を出ると、冷たい空気の中に人の声が満ちていた。
地上へ上がる階段の途中から、ケヤキを包む光が見えた。
暖かな色の明かりが、通りの奥まで続いている。一本の木に灯る無数の光が、隣の木へつながり、その先へ重なっていく。車道を走る車の屋根にも、歩道を歩く人の髪にも、淡い光が降りていた。
美咲は人の流れに合わせ、ゆっくり歩いた。
腕を組む恋人たち。光を背に写真を撮る学生。父親に肩車をされ、頭上の明かりへ両手を伸ばす子ども。屋台からは甘い飲み物の香りが漂い、吐く息が白くほどけていく。
華やかな場所にいるのに、美咲の胸は静かだった。
夏の定禅寺通りでは、葉が光を細かく分けていた。冬は葉を落とした枝が、隠すものなく空へ伸びている。
自分も、隠さずに話せるだろうか。
好きではないと嘘をついた。
本当は、好きだった。
年齢への不安が消えたわけではない。健人が学生であることも、美咲が結婚や子どものことを考える年齢に近づいていることも変わらない。親や友人に説明する日は来るかもしれない。二人の考えが合わず、別れる可能性もある。
それでも、それは二人で話して初めて見えてくる未来だった。
まだ始まってもいない時間を、美咲一人の恐れだけで終わらせたくなかった。
通りの中央に近い場所で足を止め、スマートフォンを取り出す。
健人との画面には、プレゼンを労う一文がある。
美咲は文字を打った。
『突然でごめんなさい。あの日のことを、直接話したいです。健人くんの都合のいい日に、少しだけ時間をもらえませんか』
何度も迷った文が、ようやく形になった。
送信の印へ指を置く。
その時、通りを満たしていた光が一斉に消えた。
暗闇の中で、周囲から小さなどよめきと笑い声が上がった。
街灯や店の明かりは残っている。それでも、つい先ほどまで頭上を覆っていた光がなくなると、冬の夜空が急に広くなった。
美咲は画面から顔を上げた。
暗くなったケヤキの枝が、黒い線となって空へ伸びている。
胸の内側に残っていた言い訳も、その暗さの中で輪郭を失った。
もし断られたら。
もう遅いと言われたら。
怖い。
けれど、怖いから何も言わないのは、あの日と同じだった。
美咲は画面へ目を戻し、送信した。
暗闇の中で、小さな吹き出しだけが白く浮かんだ。
数秒後、頭上の光が一斉に戻った。
歓声が波のように広がる。
無数の明かりが、枝を、歩道を、人々の顔を再び照らした。
美咲は光に目を細めた。
そして、人の流れの向こうに、見覚えのある横顔を見つけた。
濃い灰色のコート。少し長くなった黒い髪。片手をポケットへ入れ、もう一方の手にスマートフォンを持っている。
健人だった。
彼は画面に目を落としていた。
美咲が今送った文を、読んでいるのかもしれない。
心臓が強く打った。
偶然に任せてはいけないと思った。けれど、自分から送ったあとなら、これは偶然に答えを預けることではない。画面の向こうで返事を待つのではなく、今ここにいる彼へ、自分の声を届けられる。
人の流れが二人の間を横切った。
見失う前に、美咲は歩き出した。
「健人くん……!」
声は、思ったより大きく出た。
健人が顔を上げ、こちらを向く。
目が大きく見開かれた。
美咲は人の間を縫って近づいた。肩がぶつかりそうになり、何度もすみませんと言った。走るほどの距離ではないのに、健人の前へ着いた時には息が切れていた。
「美咲さん」
健人は驚いたまま、スマートフォンと美咲を交互に見た。
「どうして、ここに」
「仕事が終わって、歩きたくなって」
「一人で?」
「うん」
健人も一人だった。
聞くと、夕方まで大学で発表の準備をし、帰る前に明かりを見ようと立ち寄ったのだという。美咲へ準備のメッセージを送った時から、一度は点灯した通りを歩きたいと思っていたらしい。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
夏には自然に並べた距離が、今は遠かった。手を伸ばせば届くところにいるのに、広瀬川で別れたあとの時間が、見えない幅となって二人を隔てている。
健人は画面を見せるように少し持ち上げた。
「今、メッセージを読みました」
「うん」
「返事をしようと思って」
「その前に呼んじゃったね」
美咲は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
健人の表情は慎重だった。以前のように、すぐに美咲の側へ歩み寄ろうとはしない。その慎重さを作ったのは自分だった。
「あの日のことを、話したいの」
美咲は言った。
「私、健人くんに謝らなきゃいけない。言ったことも、言わなかったことも」
健人の眉が、わずかに動いた。
「ここで話しますか」
周囲では写真を撮る人たちが行き交い、音楽と車の音が重なっていた。立ち止まった二人を避けるように、人の流れが左右へ分かれていく。
「できれば、落ち着いて話したい」
「分かりました」
健人はすぐに歩き出さなかった。
「ただ、先に一つだけ聞いてもいいですか」
「何?」
「美咲さんが、無理をして来たわけじゃないですよね」
その問いに、美咲は胸を突かれた。
健人はまだ、自分の存在が美咲を困らせるのではないかと考えている。断られた痛みを抱えながら、先に彼女の意思を確かめようとしている。
「違う」
美咲は首を横に振った。
「誰かに言われたからでも、寂しくなったからでもない。私は、自分で話したいと思って来たの。ここを歩き終えたら、さっきのメッセージを送るつもりだった」
「じゃあ、俺がいたのは」
「本当に偶然。でも、メッセージはもう送った。健人くんを見つける前に」
健人は、自分の画面へ目を落とした。
そこには、美咲が送った文が残っている。
「分かりました」
低い声で言い、彼はうなずいた。
「話を聞きます」
安堵だけではないものが、美咲の胸に広がった。
これから何を言われるかは分からない。許されるとも、もう一度好きだと言ってもらえるとも限らない。それでも、彼が自分の言葉を聞く時間をくれたことが嬉しかった。
「ありがとう」
健人は通りの先を見た。
「この近くに、遅くまで開いているカフェがあります。少し歩きますけど」
「行きたい」
二人は並んで歩き出した。
肩が触れないほどの間があった。
以前なら健人が車道側へ移ることを、美咲は冗談にしただろう。けれど今夜、彼は何も言わずに車道側を歩き、美咲も何も言わなかった。
定禅寺通りを離れ、一本裏の道へ入る。
頭上を覆っていた光は遠ざかり、足元へ落ちるのは店の看板と街灯の白い明かりだけになった。人の声も少なくなる。
健人は急かさず、美咲の歩幅に合わせていた。
そのことに気づくと、胸が痛んだ。
「健人くん」
「はい」
「メッセージ、ずっと返さなくてごめんね」
「今は、まだ謝らなくていいです」
健人は前を向いたまま答えた。
「ちゃんと聞けるところで聞きたいから」
「うん」
美咲はそれ以上言わなかった。
路地の角を曲がると、小さなカフェの明かりが見えた。曇った窓の向こうに、木のテーブルと暖色の照明がある。扉の横には、手書きの営業時間が掲げられていた。
健人が扉へ手をかけ、美咲を振り返った。
六月の雨の日、彼は傘の下へ美咲を招き入れた。
今夜、その扉の向こうへ進むかどうかを決めるのは、美咲だった。
美咲は一度深く息を吸い、うなずいた。
健人が扉を開ける。
温かな空気と、コーヒーの香りが流れてきた。
二人は光の通りを背にして、カフェの中へ入った。




