第三章 六歳の壁
待ち合わせの日曜日、健人から届いた連絡は、予定より一時間遅れるというものだった。
『ゼミの聞き取りが長引いています。五時半には大町西公園駅へ行けると思います。本当にすみません』
美咲は駅近くのカフェで、そのメッセージを読んだ。
窓の外では、十月の薄い日差しが歩道を斜めに照らしている。日が落ちるのが早くなり、五時を過ぎれば空はすぐに暗くなる。広瀬川を歩ける時間は短くなるだろう。
『大丈夫。急がなくていいよ』
そう返してから、テーブルに置いた本を開いた。
仕事とは関係のない小説を持ってきたつもりだった。けれど、同じページを三度読んでも内容が頭へ入らない。店の扉が開くたび、顔を上げてしまう。
健人を待つことに腹は立たなかった。
むしろ、待っている時間さえ、自分の予定の一部になっていることに気づいた。誰かが来る時刻を意識し、扉の音に期待し、会ったら何から話そうかと考える。少し前まで、休日に一人で過ごす時間を乱されたくないと思っていたのに、今は一人でいる時間の中へ健人が入り込んでいる。
五時十二分、スマートフォンが震えた。
『終わりました。今から向かいます』
『落ち着いて来てね』
『走りません』
その直後に、走っている人の絵文字が送られてきた。
美咲は笑い、本を閉じた。
五時二十五分に店を出る。地下鉄の出口へ着くと、健人はすでに改札前に立っていた。肩で息をし、額にうっすら汗を浮かべている。
「走らないって言ってなかった?」
「地下鉄には、走らずに乗りました」
「その前は?」
「少しだけ」
「急がなくていいって言ったのに」
「待たせてるのに、ゆっくりは歩けません」
健人は息を整え、深く頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「もう謝らなくていいよ。調査はうまくいった?」
「はい。予定より長くなったのは、話してくれた店主さんが、昔の商店街の写真まで出してくれたからです」
「それなら、切り上げられないね」
「先生は途中から時計を何度も見てましたけど」
健人が申し訳なさそうに笑う。
駅を出ると、夕暮れの冷気が頬へ触れた。美咲は薄手のコートの前を合わせた。健人は大学帰りの大きなバッグを背負い、片手に紙袋を持っている。
「それ、何?」
「店主さんからもらった笹かまぼこです。調査した全員に」
「聞き取りに行って、お土産までもらったの?」
「断ったんですけど、持っていかないと次から話さないって」
「強いね」
「七十八歳です。先生より強いです」
二人は西公園の南側を通り、広瀬川の方へ向かった。
園内には親子連れや散歩をする人が残っていたが、川へ近づくにつれて人の声は遠くなった。木々の間から見える空は淡い橙色で、その下を広瀬川が静かに流れている。対岸の青葉山は、色づき始めた木々を抱えたまま夕闇へ沈みかけていた。
河川敷へ下りる道を歩く。
足元には乾いた草と小石が混じり、パンプスでは歩きにくい。美咲が一度よろめくと、健人が振り返った。
「手、貸しましょうか」
「大丈夫」
「靴、今日は壊れませんか」
「それ、いつまで言うの?」
「美咲さんが、歩きやすい靴を選ぶようになるまで」
「仕事帰りじゃない日は、スニーカーも履いてるでしょう」
「遊園地の一回しか見てません」
「今日はこのあと、食事に行くかもしれないと思ったから」
言ってから、美咲は自分の言葉が、二人で過ごす時間の続きを当然のように考えていたことに気づいた。
健人も気づいたらしく、少し嬉しそうに言った。
「行きましょう。今日、遅れたお詫びに出します」
「また勝手に決めてる」
「じゃあ、何が食べたいですか」
「まだ考えてない」
「歩きながら決めましょう」
河川敷には、低い位置から川を眺められる場所があった。二人は流れに沿って、ゆっくり西へ歩いた。水面には夕空の色が薄く映り、ところどころで流れが石に当たって白くほどけている。
健人は今日の調査について話した。
商店街で四十年以上店を続ける男性に、客が立ち寄る理由を聞いたこと。店先に置かれた長椅子は、客のためだけでなく、近所の高齢者が買い物の途中で休む場所になっていること。何も買わずに座る人がいても、店主は追い払わないこと。
「その人が言ってました。座る場所がなくなると、歩ける距離も短くなるって」
「店の売上には直接つながらなくても、通りに来られる人が増えるんだね」
「はい。でも、商店街の会議では、物を置くと通行の邪魔だって意見もあるみたいです」
「どちらも間違ってないね」
「だから難しいです」
健人は立ち止まり、川の向こうを見た。
「一つの正解を出そうとすると、誰かの都合が見えなくなる。先生に、最後まで両方を書けって言われました」
「私は仕事だと、最後には一つを選ばないといけない」
「怖くないですか」
「怖いよ。選ばなかった方が正しかったかもしれないって、あとで考える」
「それでも選べるの、すごいです」
「締切が来るから。待ってもらえないだけ」
「それでもです」
健人は美咲を見て、まっすぐに言った。
美咲はその視線を受け止めきれず、川へ目を戻した。
彼は時々、こういう顔をする。
褒めるために褒めるのではなく、自分が見つけたものを確かめるように、迷いなく言葉にする。会社で評価される時とは違う。結果ではなく、迷いながら選んだことまで見られているようで、嬉しいのに落ち着かなかった。
「健人くんは、選ぶ時に迷わないの?」
「迷います」
「例えば?」
健人は一度、息を吸った。
「今、何を言うか」
声が少し低くなった。
美咲は足を止めた。
健人は何かを続けようとしたが、その時、美咲のバッグの中でスマートフォンが鳴った。
着信ではなく、メッセージの通知だった。無視してもよかった。それでも、張りつめた空気から逃げるように、美咲は画面を開いた。
大学時代の友人、綾子からだった。
『昨日、無事に生まれました』
生まれたばかりの赤ん坊を抱く綾子と、その隣で笑う夫、少し緊張した顔で赤ん坊をのぞき込む三歳の娘。続けて、家族四人になったという短い文章が届いた。
美咲は写真を見つめた。
嬉しかった。
綾子が妊娠中に体調を崩し、入院したことも知っている。母子ともに無事だったことへ、心から安堵した。
同時に、胸の奥に針で刺されたような痛みが走った。
綾子とは同い年だった。大学時代は同じ講義を受け、就職活動の愚痴を言い合い、卒業旅行では一晩中話した。卒業後、綾子は地元へ戻り、二十五歳で結婚した。今は二人目の子どもを抱いている。
どちらが正しいわけでもない。
何度そう言い聞かせても、並んで歩いていたはずの友人が、いつの間にか遠い場所へ着いているように感じる時があった。
「友達から?」
健人が尋ねた。
「うん。二人目の子どもが生まれたって」
「おめでたいですね」
「そうだね」
声がうまく明るくならなかった。
美咲は『おめでとう。落ち着いたら会いに行かせてね』と返信し、画面を閉じた。
「大丈夫ですか」
「何が?」
「少し、寂しそうに見えたから」
「そんなことないよ。無事に生まれてよかったと思ってる」
「それと、寂しいのは別じゃないですか」
美咲は返事に詰まった。
「前にも、友達から子どもの写真が来た時、自分だけ同じところを走ってる気がしたって言ってましたよね」
AERの展望テラスで話したことだった。
「よく覚えてるね」
「忘れません」
「私が勝手に比べてるだけ。綾子は何も悪くない」
「悪い人がいなくても、苦しくなることはあると思います」
健人の声は穏やかだった。
慰めようとするのではなく、美咲が否定した感情を、そこにあってもいいものとして扱っている。
美咲は歩き出した。
「母にも、時々聞かれるの。いい人はいないのかって」
「美咲さんのお母さん?」
「うん。悪気はないんだけどね。私の同級生が結婚したとか、従妹に子どもが生まれたとか、そういう話のあとで」
「嫌ですか」
「前は気にならなかった。仕事が楽しかったし、結婚したい相手もいなかったから。でも、二十七になってから、母の声を聞くだけで、次に何を言われるか身構えることがある」
「結婚したいんですか」
真っすぐ聞かれ、美咲は戸惑った。
「分からない」
「子どもは?」
「それも、分からない。いつか欲しいと思うかもしれない。でも、今すぐ仕事を変えたいわけじゃないし、結婚するために誰かを探したいわけでもない」
「分からないって言うと、駄目なんですか」
「駄目ではないけど、ずっと分からないままではいられないでしょう」
「どうして?」
「時間があるから」
美咲は自分の声が固くなるのを感じた。
「私には、健人くんより時間がないの。結婚も、子どもを持つことも、考えるならいつか決めなきゃいけない」
健人は黙った。
その沈黙に、美咲は後悔した。
「ごめん。あなたに言っても仕方ないよね」
「どうして、俺に言っても仕方ないんですか」
穏やかだった声に、わずかな硬さが混じった。
「健人くんは、まだ二十一歳だから」
口にした瞬間、彼との間に細い亀裂が入った気がした。
健人は歩みを止めた。
「二十一歳だと、考えてないと思いますか」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味ですか」
「大学生の今と、働き始めてからでは、考え方も生活も変わるでしょう。選択肢だって、これから増える」
「美咲さんだって、これから変わるかもしれない」
「そうだけど」
「俺だけが、何も分かってないみたいに言わないでください」
健人の表情には、怒りより痛みがあった。
美咲は謝ろうとした。
だが、その前に、健人が息を吐いた。
「すみません。今、言い方がきつかったです」
「ううん。私の言い方が悪かった」
川の音だけが二人の間を流れた。
日が落ち、対岸の建物に明かりがともり始めている。もう食事の店を相談するような空気ではなかった。
「少し座りませんか」
健人が近くの低い段差を指した。
二人は川を正面にして並んだ。間には、人一人分ほどの隙間があった。
健人はバッグを足元へ置き、両手を組んだ。何かを言おうとしてはやめるように、指先が何度か動いた。
「さっき、何を言うか迷ってるって言ったでしょう」
「うん」
「本当は、今日、ちゃんと話そうと思ってました」
美咲の胸が強く鳴った。
定禅寺通で沙織と別れたあと、健人は「今度ちゃんと話します」と言った。分かっていたはずだった。それでも美咲は、今日がその日だと具体的には考えないようにしていた。
「今の話を聞いたあとに言うのは、ずるいかもしれません」
「どうして?」
「美咲さんが、将来のことを不安に思ってると分かったから。俺が言えば、もっと困らせるかもしれない」
美咲は、言わなくていい、と答えかけた。
聞けば、今までの関係には戻れない気がした。
だが、健人は続けた。
「それでも、何も言わないまま会い続ける方が、俺にはずるいです」
健人は美咲へ身体を向けた。
「美咲さんが好きです」
飾りのない言葉だった。
夕暮れの川辺に、静かに置かれた。
「最初に駅で会った時から、ずっとそうだったわけじゃありません。傘を貸した時は、困っている人がいたから声をかけただけです。返してもらうために会った時も、きれいな人だと思ったけど、六歳上で、仕事もできて、俺とは違う人だと思ってました」
健人の声は少し震えていた。
「でも、仕事の話をする時に楽しそうに笑うところを見て、もっと聞きたいと思った。店に来てくれた時は嬉しかったし、定禅寺通を歩いたあと、次はいつ会えるか考えてました。遊園地で写真を断られた時は、俺だけが特別だと思ってたのかもしれないって、少し落ち込みました」
美咲はあの日の自分の声を思い出した。
私たちは大丈夫です。
「でも、あとで撮ろうって言ってくれた。仕事でうまくいかなかった日に会いたいと思ったって言われた時は、嬉しくて、帰ってから眠れませんでした」
「眠れなかったの?」
思わず聞くと、健人は困ったように笑った。
「そこ、今聞きますか」
「ごめん」
「はい。あまり眠れませんでした」
彼は一度視線を川へ逃がし、また美咲を見た。
「俺にとって、美咲さんは、たまに会って話す人じゃありません。美咲さんから連絡が来ると嬉しいし、会えないと残念です。困った時には頼ってほしいし、嬉しいことがあった時にも、できれば最初の方に教えてほしい」
一つずつ積み上げるような告白だった。
「だから、俺と付き合ってください」
美咲は息を止めた。
嬉しかった。
その感情は、疑う余地もなく最初にあった。
健人の言葉が、自分の中に隠していたものへ届いた。仕事で疲れた日に声が聞きたいこと。次の約束が決まると安心すること。肩が触れただけで意識してしまうこと。彼の未来に自分がいない場面を想像すると、胸が冷たくなること。
好きなのだと認めれば、すべてが一つにつながった。
同時に、その先の景色が押し寄せた。
二十七歳の自分と、二十一歳の健人。
自分が三十歳になる時、健人は二十四歳。大学を卒業し、ようやく社会人になったばかりかもしれない。仕事を覚え、新しい人間関係を築き、今まで知らなかった世界へ踏み出す時期だ。
自分が結婚を考えたくなった時、彼はまだ仕事を優先したいかもしれない。子どもを望んだ時、彼には早すぎるかもしれない。仙台を離れる選択をするかもしれない。別の人を好きになるかもしれない。
母へ紹介する場面が浮かんだ。
大学生なの、と尋ねる母の声。父の沈黙。友人たちが驚き、それでも祝福しようと言葉を選ぶ表情。会社で知られた時の視線。
何より怖かったのは、数年後の健人に「あの時は若かった」と言われることだった。
自分は待った。彼の可能性を狭めた。そう責められる未来。
まだ起きてもいない出来事が、現実のような重さで胸をふさいだ。
「美咲さん」
返事を待つ声で、意識が戻った。
健人は不安そうに美咲を見ていた。
「ごめんなさい」
それしか言えなかった。
健人の表情が止まった。
「それは、どういう……」
「付き合えない」
自分の声が、遠くから聞こえた。
「どうしてですか」
「六歳も違うから」
言葉にした途端、理由が一枚の壁になった。
「六歳?」
「私は二十七で、健人くんは二十一でしょう。今は会って楽しくても、これから考えなきゃいけないことが違いすぎる」
「さっきの結婚とか、子どもの話ですか」
「それだけじゃない。仕事も住む場所も、これから全部変わるかもしれないでしょう」
「美咲さんは変わらないんですか」
「そういう話じゃなくて」
「俺が学生だから、今の言葉は信用できないってことですか」
「信用の問題じゃない」
「じゃあ、何の問題ですか」
健人の声が強くなった。
「六歳違うことは、最初から知ってました。俺が大学生だってことも。その上で、何度も会ってくれたんじゃないんですか」
「友達として会うのと、付き合うのは違う」
「俺は、友達のつもりだけで会ってたわけじゃない」
「だから困ってるの」
その一言で、健人の顔から血の気が引いた。
美咲はすぐに言い直そうとした。
「違う。健人くんが困るという意味じゃなくて」
「じゃあ、何ですか」
「このまま進んだら、もっと好きになる。そうなったあとで、やっぱり無理だったってなったら、今より苦しくなるでしょう」
「最初から駄目だと決めれば、苦しくならないんですか」
「少なくとも、戻れなくなる前に止められる」
「どこに戻るんですか」
健人は立ち上がった。
「告白する前の俺に、何も思ってなかったことにして会えってことですか」
美咲も立った。
「そんなことは言ってない」
「同じです」
「健人くん、落ち着いて」
「落ち着いてます」
声は抑えられていた。だからこそ、怒りの深さが分かった。
「美咲さんが俺を好きじゃないなら、分かります。ほかに好きな人がいるなら、それも仕方ないです。でも、まだ何も始まってないのに、何年も先の俺の気持ちまで勝手に決めないでください」
「決めてない」
「決めてます。俺が変わる。後悔する。美咲さんを責める。全部、美咲さんが決めた未来です」
言い返せなかった。
その通りだった。
美咲は、自分が傷つかないために、未来の健人へ残酷な役を与えていた。
「今の俺には、結婚の時期も、卒業したあとの仕事も約束できません」
健人は唇をかみ、言葉を選んだ。
「でも、それは、美咲さんを大事にできないという意味じゃない。分からないことを一緒に考えたいと思ってます。俺が大学生だから、それを言う資格もないですか」
「資格なんて言ってない」
「じゃあ、俺の話を聞いてください」
「聞いてるよ」
「聞いてないです」
初めて、健人にはっきり遮られた。
「美咲さんは、俺の言葉を聞きながら、六歳年下の大学生が言ってるだけだと思ってる」
「そんなこと……」
「ないって言えますか」
美咲は答えられなかった。
健人の目が揺れた。
怒りの奥に、傷ついた光が見えた。
「ごめんなさい」
「また、それですか」
「ほかに何を言えばいいの」
「本当のことを言ってください」
「本当のこと?」
「俺のことを、少しでも好きだと思ったことがあるのか」
川の流れる音が急に大きくなった。
美咲の中では、答えがはっきりしていた。
ある。
健人に会いたいと思った。触れた肩を意識した。誰かに説明する時、関係を否定しながら寂しかった。告白を嬉しいと思った。
それを認めれば、年齢という壁にひびが入る。
ひびの向こうには、選ばなければならない自分がいる。
「ない」
口から出たのは、嘘だった。
健人の表情が消えた。
「分かりました」
短く答え、足元のバッグを持ち上げた。
「待って」
「何を待つんですか」
「そんな顔で帰らないで」
「どんな顔ならいいですか」
「私は、傷つけたいわけじゃなくて」
「好きじゃないなら、傷つけたことまで責任を持たなくていいです」
健人は肩へバッグを掛けた。
「今日は遅れて、すみませんでした」
「健人くん」
「食事は、行けません」
彼は美咲へ一度頭を下げ、河川敷から上がる道へ歩き出した。
追いかけようとした足が動かなかった。
追いついて何を言うのか。
好きではないという言葉を取り消すなら、告白へ答えなければならない。答えられないなら、呼び止めることは、さらに彼を傷つけるだけだ。
健人の背中が小さくなり、やがて薄暗い道の向こうへ消えた。
美咲はその場に立ち尽くした。
対岸の明かりが水面で揺れている。少し前まで、その景色を二人で見ていた。今は隣に人一人分の空白どころか、声の届かない距離ができていた。
スマートフォンがバッグの中で鳴った。
母からだった。
美咲は画面を見たまま、出られなかった。
着信が切れる。数秒後、メッセージが届いた。
『来月、お父さんの誕生日に帰れそう? 都合のいい日を教えて』
結婚の話ではなかった。
自分が勝手に身構えていただけだった。
美咲は河川敷へ座り直した。
指先が冷えていた。バッグの中には手袋がない。缶コーヒーを買ってきてくれる人も、もう隣にはいない。
追いかければよかった。
今からでも電話をすればいい。
そう思いながら、連絡先を開くことができなかった。
*
健人は、地下鉄の入口まで一度も振り返らなかった。
振り返れば、美咲が立っているかもしれない。追ってきていなければ、さらに傷つく。追ってきていたら、足を止めてしまう。
どちらも嫌だった。
改札を通り、ホームへ下りる。電車が来るまで七分あった。ベンチは空いていたが、座る気になれず、柱の前に立った。
怒っていた。
自分でも驚くほど、腹が立っていた。
六歳違うことも、大学生であることも、美咲が気にする可能性は分かっていた。だから急がなかった。金銭感覚の違いを見せたくなくて、コーヒー一杯をおごる方法に悩んだ。学生だからと子どものように扱われたくなくて、できないことはできないと言い、分からないことは分からないと答えた。
それでも、最後には年齢で一つにまとめられた。
二十一歳。
その数字の前では、何を話しても、何を考えても足りなかった。
電車がホームへ入ってきた。
車内は混んでいた。健人は扉の脇に立ち、流れていく暗い壁を見た。
美咲の「ない」という声が、耳に残っている。
自分だけが思い違いをしていたのだろうか。
仕事で失敗した日に呼ばれたこと。同じ傘の下で袖をつかまれたこと。写真を残したいと言われたこと。今日の食事を当然のように考えてくれていたこと。
それらを、都合よく受け取っていただけなのかもしれない。
恥ずかしさが遅れて押し寄せた。
店長に相談した。ゼミの友人にも、美咲と会うことを少し話していた。告白するなら、曖昧にするなと言われた。自分でも、言葉にすれば何かが変わると信じていた。
変わった。
戻れない方へ。
地下鉄を降り、地上へ出ると、夜風が汗の引いた身体を冷やした。健人は自宅へ向かわず、アルバイト先の店へ歩いた。
日曜の夜は閉店が早い。看板の明かりは消え、店長が一人で片づけをしていた。ガラス扉を軽くたたくと、店長が驚いた顔で鍵を開けた。
「どうした。忘れ物か」
「少しだけ、中にいてもいいですか」
店長は健人の顔を見て、それ以上聞かず、扉を開けた。
照明が半分落とされた店内は、昼間より広く感じられた。椅子はテーブルの上へ上げられ、コーヒーの香りに洗剤の匂いが混じっている。
店長は厨房へ戻り、しばらくして二つのカップを持ってきた。
「売り物にならない豆だ。金はいらない」
「どうして売り物にならないんですか」
「焙煎を少し失敗した」
「店長でも失敗するんですね」
「帰れ」
「すみません」
健人はカップを両手で包んだ。
店長は向かいへ座らず、隣のテーブルを拭きながら言った。
「駄目だったか」
「何がですか」
「二日悩んでコーヒー一杯おごった人だろう」
健人は返事をしなかった。
「言ったのか」
「言いました」
「断られた?」
「はい」
声にすると、事実が重くなった。
店長は布巾を置いた。
「理由は」
「六歳年下で、学生だから」
「それだけか」
「俺のことは、好きじゃないそうです」
最後の言葉だけ、うまく平らに言えなかった。
店長はしばらく黙り、空いた椅子を下ろして座った。
「なら、仕方ないな」
「もう少し、何かないんですか」
「何を言ってほしい。押せば何とかなるとか、年齢は関係ないとか」
「分かりません」
「相手が嫌だと言ったなら、そこで止まるしかない」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
健人はカップへ視線を落とした。
「年齢だけで決められたことが、悔しいです」
「年齢もお前の一部だろう」
「でも、それだけじゃない」
「それだけじゃないと知ってもらうには、時間がいる。知ってもらっても選ばれないことはある」
店長の声は淡々としていた。
「相手にも、相手が生きてきた時間がある。お前が六歳なんて関係ないと思うのと同じように、その六歳が怖い人もいる」
「じゃあ、俺はどうすればよかったんですか」
「どうにもできないこともある」
健人は唇をかんだ。
それが一番聞きたくない答えだった。
「ただし」
店長はカップを一口飲み、顔をしかめた。
「お前が傷ついたからといって、相手の怖さまで嘘になるわけじゃない。相手が怖いからといって、お前が傷つかなかったことにもならない。どっちかだけを正しいことにすると、余計にこじれる」
「店長、そういう話もできるんですね」
「今すぐ帰れ」
健人は少しだけ笑った。
笑った途端、胸の奥に押し込めていたものが緩んだ。泣くほどではないと思っていたのに、視界がにじんだ。
店長は気づかないふりをして、またテーブルを拭き始めた。
*
美咲が自宅へ戻ったのは、午後九時を過ぎてからだった。
玄関の照明をつける。傘立てには、自分の折り畳み傘と二本のビニール傘がある。紺色の傘はもうない。それなのに、そこへ目を向ける癖だけが残っていた。
コートを脱ぎ、バッグを床へ置く。
夕食を取っていないことに気づいたが、何かを作る気にはなれなかった。冷蔵庫から水を出し、そのままソファへ座った。
スマートフォンを開く。
健人との画面には、昼までのやり取りが残っていた。
『ゼミの聞き取りが長引いています』
『大丈夫。急がなくていいよ』
『走りません』
数時間前まで、次に送る言葉がなくなるなど考えていなかった。
美咲は入力欄を開いた。
『今日はごめんなさい』
書いて、消した。
何について謝るのか。告白を断ったことなら、謝るのは違う。付き合えない相手に、申し訳ないという理由だけで応じることはできない。
だが、自分はそれだけをしたのではなかった。
健人の気持ちを若さの勢いとして扱い、未来の彼を勝手に作り、最後には「好きではない」と嘘をついた。
『ひどい言い方をしてごめんなさい』
また消した。
謝ったあと、何を望んでいるのか。
これまでどおり会いたい。連絡を取りたい。仕事で失敗した日は話を聞いてほしい。楽しいことがあれば最初の方に伝えたい。
そのすべてを求めながら、恋人にはなれないと言うのは、あまりに自分勝手だった。
美咲は画面を伏せた。
部屋が静かだった。
以前から一人で暮らしている。変わったものは何もないはずなのに、冷蔵庫の音も、外を通る車の音も、今夜は不自然に大きく聞こえた。
しばらくして、母へ返信していないことを思い出した。
『来月の二週目なら帰れそう。お父さんの誕生日、少し遅れても大丈夫?』
母からすぐに返事が来た。
『もちろん。帰ってきてくれるだけで喜ぶよ』
続けて、父が欲しがっている本の写真が届いた。
結婚のことは一言もなかった。
美咲は、母との過去の会話を思い出した。
『仕事は大事だけど、いい人がいたら会わせてね』
『同級生の真由ちゃん、春に結婚するんだって』
『お母さんは、美咲が幸せならそれでいいのよ』
最後の言葉を、自分は信じていなかった。
母はきっと、同年代か年上で、安定した仕事に就き、結婚を前提に付き合える男性を想像している。そう決めつけていた。
健人が言った通りだった。
美咲は、相手が何を言うか聞く前に、都合のいい未来を作る。
傷つけられる未来だけではない。反対される未来、失望される未来、後悔する未来。悪い結末を先に選び、それを避けるためなら、今ある気持ちをなかったことにする。
その方が賢いと思っていた。
けれど今、賢く選んだはずの部屋で、少しも安心できなかった。
テーブルの引き出しを開ける。
遊園地で受け取った半券が入っていた。捨てる理由もなく、写真を印刷した時に一緒にしまったものだ。
美咲は、その下にある二枚の写真を取り出した。
一枚目では、健人が自然に笑い、美咲は驚いた顔をしている。二枚目では、二人ともカメラを見ていた。肩が触れ、背後には夏の空が広がっている。
恋人ではない。
友人だと説明することもできる。
それでも、写真の中の自分が健人を好きではないとは、もう思えなかった。
美咲は写真を伏せた。
スマートフォンは鳴らなかった。
*
月曜日、美咲はいつもより早く会社へ行った。
席に着き、メールを開き、必要な返事を送る。秋季キャンペーンの集計表を更新し、午前の会議に使う資料を整える。手を止めれば、広瀬川での会話が戻ってくるため、考える隙間をつくらなかった。
八時半を過ぎ、同僚が出社し始めた。
沙織は美咲の顔を見るなり、バッグを置く前に言った。
「寝てない?」
「寝たよ」
「何時間」
「三時間くらい」
「それは寝たって言わない」
沙織は自分の席から、未開封の栄養補助食品を投げてよこした。
「朝ごはんは?」
「食べてない」
「食べなさい」
「ありがとう」
美咲が袋を開けると、沙織は隣の椅子へ座った。
「何かあった?」
「何も」
「その答えをする時は、何かあった時でしょう」
美咲はパソコンの画面を見た。
沙織には、健人と時々会っていることまでしか話していない。定禅寺通で偶然会った時、自分は「たまに会って、話をするだけ」と強く否定した。その後のことを説明すれば、沙織はどう思うだろう。
やはり大学生は難しい。早く断ってよかった。そう言うかもしれない。
その想像だけで、口を閉ざした。
「仕事で少し考えることがあるだけ」
「ならいいけど」
沙織は納得していない顔で席へ戻った。
また、相手の答えを聞く前に決めた。
美咲は栄養補助食品を一口かじった。甘さが口に残り、飲み込むのに時間がかかった。
昼休み、スマートフォンを確認した。
健人からの連絡はなかった。
午後三時。午後六時。帰りの電車。
画面は動かなかった。
これまでなら、数時間連絡がなくても平気だった。彼にも自分のいない生活があると知っていたからだ。今は、沈黙の理由が分かっている。
自分が終わらせた。
火曜日も、水曜日も、連絡はなかった。
美咲も送らなかった。
木曜日の夜、仕事を終えて駅へ向かう途中、雨が降り始めた。
天気予報では夜から雨だった。美咲は折り畳み傘を持っている。バッグから取り出し、開く。傘の下へ入れば濡れない。それだけのことだった。
それでも、初めて健人に会った日の雨を思い出した。
あの日、彼は自分の傘を渡し、雨の中へ戻っていった。
今度は、美咲が彼を傘の外へ押し出した。
スマートフォンを取り出し、健人との画面を開いた。
『雨、大丈夫?』
そこまで入力した。
送る資格がないように思えた。
削除しようとした時、画面上部に通知が現れた。
健人からだった。
『今日は雨なので、足元に気をつけてください』
美咲は立ち止まった。
横を歩く人が傘を避け、肩をすぼめて通り過ぎる。
メッセージはそれだけだった。
告白のことにも、日曜日の言い争いにも触れていない。返事を求める言葉もない。
美咲の指は、入力欄の上で動かなかった。
ありがとう。
健人くんも気をつけて。
この前はごめんなさい。
本当は、好きではないと言ったのは嘘だった。
いくつもの言葉が浮かび、どれも送れなかった。
今、嘘を取り消したら、彼に期待を持たせる。付き合う覚悟がないまま気持ちだけを伝えることは、優しさではない。
美咲は画面を閉じた。
紺色ではない自分の傘を差し、駅へ向かって歩き出した。
雨は防げた。
けれど、傘の内側には、もう一人分の温度がなかった。




