第二章 定禅寺通りの四季
健人から勤務表の写真が届いたのは、展望テラスで別れてから四日後のことだった。
『土曜日は四時までいます。忙しくなければ、上がったあと少し話せます』
続けて、店の地図と、入口が少し分かりにくいという説明が送られてきた。
美咲は画面を見ながら、予定表を開いた。その土曜日には、美容院の予約しか入っていない。終わるのは二時半。店までは地下鉄と徒歩で三十分もかからない。
『三時半頃に伺います』
そこまで入力し、すぐには送らなかった。
アルバイト先へ行くことは、食事をするよりも相手の日常に近づくことなのかもしれない。店の人に関係を尋ねられたら、どう答えるのだろう。ただ傘を借りた人。二度目に会う年下の知り合い。それとも、友人。
考えすぎている自覚はあった。
美咲は文章の末尾に「楽しみにしています」と加えた。前回の電車で送ったものと同じ言葉だった。送信すると、健人からコーヒーカップの絵文字が返ってきた。
その土曜日、六月に入ったばかりの仙台は、朝から気温が上がっていた。
美容院を出た美咲は、駅前から一番町へ向かって歩いた。切ったばかりの髪が首筋へ触れるたび、落ち着かない気持ちになる。長さはほとんど変えていない。毛先を整え、少し軽くしただけだ。それなのに、鏡を見る回数がいつもより増えていた。
健人の働く店は、アーケードから一本入った通りにあった。褐色の木枠にはまったガラス扉と、控えめな白い看板。入口の脇には小さな黒板が置かれ、本日のコーヒーと手作りケーキの名前が、白いチョークで書かれている。
店へ入ると、豆を挽く音と甘く焦げた香りが一緒に押し寄せた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中にいた健人が顔を上げた。
白いシャツに濃い茶色のエプロンを着け、髪をいつもより短く整えている。駅で会った時より、背筋が伸びて見えた。美咲に気づいた瞬間、目元がわずかに緩んだが、すぐに接客の表情へ戻った。
「お一人ですか」
「はい」
「お好きな席へどうぞ。注文、あとで伺います」
初対面の客のように扱われ、美咲は少しおかしくなった。
窓際の二人掛けの席へ座る。店内は思っていたより広く、十数席のテーブルと長いカウンターがあった。壁際の棚にはコーヒー豆の袋と古い雑誌が並び、天井から下がる照明が、木のテーブルに丸い光を落としている。
土曜の午後ということもあり、席の大半は埋まっていた。向かいのテーブルでは若い夫婦が小さな子どもにパンケーキを食べさせ、カウンターの端では年配の男性が新聞を読んでいる。
健人は、美咲のところへすぐには来なかった。
注文を待つ客へ水を運び、会計を済ませ、厨房から出てきた皿を間違いなく各テーブルへ置いていく。子どもが落としたスプーンに気づくと、新しいものを持ってきて、しゃがんで母親と言葉を交わした。年配の男性が新聞を畳むより先に伝票を取り、レジへ向かう。
動きに迷いがなかった。
美咲が仕事で見る大学生のアルバイトは、イベント会場で指示を待っている姿がほとんどだった。健人もその延長で考えていたのかもしれない。大学へ通いながら、空いた時間に働いている人。自分が仕事で背負うものとは違うと、どこかで線を引いていた。
だが、ここには健人を頼りにする客と、一緒に動く同僚がいる。彼は誰かに言われる前に店内を見て、自分がすべきことを選んでいた。
「お待たせしました」
健人が水とメニューを持ってきた。
「混んでるね」
「三時を過ぎると、少し落ち着くんですけど。今日は近くで催しがあるみたいで」
彼はメニューを開き、一番上を指した。
「約束のコーヒー、これでいいですか。本日の豆です」
「健人くんのお薦めなら」
「酸味は強くない方が好きですよね」
「私、言った?」
「この前の食事のあと、コーヒーの話になった時に」
美咲は覚えていなかった。自分が何気なく話したことを、健人が覚えていたことに驚く。
「よく覚えてるね」
「注文を覚えるのは仕事なので」
「私、まだ注文してないけど」
健人は少し笑った。
「じゃあ、ご注文は」
「本日のコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
数分後、白いカップが運ばれてきた。小さな伝票立ては置かれない。
「伝票は?」
「もう払いました」
「勤務中なのに、いつ払ったの」
「休憩に入った時、先にレジを通しました。店長にも確認してます」
「そこまで準備してたんだ」
「約束でしたから」
健人は満足そうに言い、別の客に呼ばれてカウンターへ戻った。
コーヒーは苦すぎず、飲み込んだあとに少しだけ果物に似た甘さが残った。美咲は二口目を飲み、仕事用のノートを開きそうになった手を止めた。待ち時間があれば、何かを片づける癖がついている。今日は何も片づけなくていい。
代わりに店内を眺めた。
入口の黒板は字が小さく、通りの反対側からは読みにくい。窓際の席には午後の光が入るのだから、飲み物の写真を撮るならこの時間がいい。棚に置かれた豆の説明には、専門的な言葉が多すぎる。もう少し、香りや食べ物との相性を書けば、詳しくない客にも選びやすい。
気づけば、仕事の目で店を見ていた。
美咲は苦笑し、カップへ視線を戻した。
「何か気になりますか」
いつの間にか、健人がテーブルの横に立っていた。
「どうして?」
「黒板を見て、棚を見て、窓を見てたから。店の改善案を考えてる顔でした」
「そんな顔があるの?」
「この前、仕事の話をしてた時と同じです」
図星だった。
「職業病。気にしないで」
「あとで聞かせてください。店長、そういう話が好きなので」
「勝手なことは言えないよ」
「勝手かどうかは、聞いてから決めます」
健人はそう言って、空いたグラスをトレーへ載せた。
AERの展望テラスへ行く前の食事で、彼は「最初から全部決められると、子どもになったみたいで落ち着かない」と言った。美咲はその言葉を覚えていたつもりだった。それでも、自分の考えを出す前に引っ込めようとした。求められていない助言は迷惑だと決めつけて。
頼まれたら話せばいい。相手がどう受け取るかまで、先回りして決めなくていい。
「じゃあ、あとで少しだけ」
「はい」
健人の返事が弾んだ。
四時を少し過ぎると、健人は私服に着替えて店の奥から出てきた。白いTシャツの上に薄い青のシャツを羽織り、肩には例の黒いバッグを掛けている。
「待たせてすみません」
「コーヒー、おいしかった」
「それは店長に言ってください。俺は淹れてないので」
レジの中にいた四十代くらいの男性が顔を上げた。
「相葉、聞こえてるぞ」
「すみません」
「君が桐谷さん?」
突然名前を呼ばれ、美咲は背筋を伸ばした。
「はい。お邪魔しました」
「相葉がコーヒー一杯に三日も悩んでたから、どんな人かと思ってた」
「店長、それは言わなくていいです」
健人の耳が赤くなる。
「豆を替えるか、ケーキを付けるか、勤務中に自分が淹れてもいいか。最後は普通にコーヒー一杯おごることにしたらしい」
「もう行きます」
健人は美咲を促し、逃げるように扉を開けた。
外へ出た途端、美咲は笑いをこらえきれなくなった。
「三日も悩んだの?」
「店長は話を大きくするんです」
「否定はしないんだ」
「……二日です」
美咲は声を上げて笑った。
「そんなに笑わなくても」
「ごめん。でも、健人くんでも、そういうことを考えるんだと思って」
「俺を何だと思ってるんですか」
「いつも自然で、あまり迷わない人」
「迷いますよ。美咲さんと会う時は、特に」
その言葉だけ、初夏の風の中に取り残された。
美咲は聞き返せず、健人も説明しなかった。
二人は一番町を抜け、定禅寺通へ向かった。車道を走る車の音が近づくにつれ、頭上の緑が濃くなる。中央緑道へ入ると、四列に連なるケヤキの枝が道路の上まで広がり、葉の隙間から落ちる光が足元で揺れていた。
ベンチには本を読む人が座り、犬を連れた人がゆっくり歩いている。車の音は消えないのに、緑道の中だけ時間の進み方が違うように感じられた。
「よく来るの?」
「大学の調査でも来ますし、何もない時にも来ます。人を見てても怪しまれにくいので」
「言い方が怪しいよ」
「観察です。ちゃんと目的があります」
「例えば?」
「どのベンチに人が座るか。日なたと日陰、背後に何があるか、前をどれくらい人が通るか」
健人は並んだベンチを見渡した。
「同じ形でも、座る人の数が違うんです。理由を考えて、実際に話を聞く。予想と全然違うことも多いです」
「どんなふうに?」
「前に、日陰だから人気だと思ったベンチがあったんです。でも、いつも座ってる人に聞いたら、近くの店から時計が見えるからって。バスの時間を確認しやすいらしくて」
「それは見ているだけじゃ分からないね」
「はい。自分の都合のいい理由をつけるなって、先生によく言われます」
美咲は、カフェで勝手な助言を引っ込めかけたことを思い出した。
「広告も似てるかもしれない。商品が売れない理由を、知られていないからだと決めつけて宣伝を増やしても、そもそも値段や使い方に問題があることもある。聞かないと分からない」
「それなら、美咲さんの仕事と俺の勉強、やっぱり近いですね」
「健人くんは動いた理由を探して、私は動いてもらう理由をつくる」
「前と後ろですね」
「どっちが前?」
「それは分かりません」
二人は笑った。
緑道の途中で、健人が一体の彫刻の前に立ち止まった。
細く伸びた身体が、青葉の間から差す光を受けている。台座の銘板には「夏の思い出」と刻まれていた。
「まだ六月なのに、もう思い出なんですね」
「作品をつくった時の夏は、もう過ぎていたんじゃない?」
「そういう現実的な答えですか」
「じゃあ、健人くんはどう思うの」
彼は彫刻を見上げた。
「楽しかった時間って、その最中でも、いつか終わることが少し分かるじゃないですか。だから、まだ終わってなくても、思い出みたいに感じる時がある」
「大学の夏休みとか?」
「夏休みは始まる前が一番楽しいです。始まった瞬間から、残り日数を数えるので」
「それはもったいない」
「美咲さんは数えないんですか」
「社会人に長い夏休みはないから」
言ってから、少し冷たい答えになったと思った。
健人は気を悪くした様子もなく、銘板へ視線を落とした。
「じゃあ、休みじゃなくてもいいです。楽しい時間が終わる前に、終わったあとのことを考えたりしませんか」
美咲はすぐに答えられなかった。
駅で待っている時。レストランでデザートが運ばれた時。展望テラスで閉館の放送が流れた時。今日も、店へ入る前から、会い終えたあとのことを考えていた。
「考えるかもしれない」
「俺もです」
健人は彫刻ではなく、美咲を見ていた。
風がケヤキの葉を揺らし、細かな光が二人の間を行き来した。
「さっきの店の改善案、聞いてもいいですか」
健人が先に歩き出した。
美咲は少し遅れて、その隣へ並んだ。
「黒板の文字を、もう少し大きくした方がいいと思う。あと、豆の説明が詳しい人向けになってる。苦味や酸味だけじゃなくて、どんな時に飲みたいか、何と合わせたいかがあると選びやすい」
「俺も、最初は説明を読んでも分からなかったです」
「でしょう。詳しい人は産地や精製方法で選べるけど、慣れていない人は、自分に合う言葉を探してるから」
「店長に言ってみます」
「私の名前は出さなくていいよ」
「どうしてですか」
「外から一度見ただけだから。外れているかもしれない」
「じゃあ、外から見た人がそう思ったって伝えます」
健人は足を止めずに言った。
「美咲さん、自分の考えが外れた時、怖いですか」
「仕事なら怖いよ。お金も人も動くから」
「仕事じゃない時は?」
「それでも、できれば外したくない」
「俺のことも?」
不意に向けられた問いに、美咲は横顔を見た。
「どういう意味?」
「俺が何を考えてるか、先に決めてる時がある気がするから」
責める声ではなかった。だからこそ、ごまかしにくかった。
「年下だから、こういう店は緊張する。学生だから、お金をかけたくない。そういうふうに考えてたこと?」
「はい。でも、俺も同じです。美咲さんは仕事ができるから、弱音を聞かれたくないんだろうとか。忙しいから、連絡しない方がいいんだろうとか」
「連絡は、してもらって大丈夫」
思ったより早く言葉が出た。
健人が目を見開く。
「忙しい時は、返事が遅くなるかもしれないけど。送ってもらうのは嫌じゃない」
「分かりました」
「それから、勝手に決めてると思ったら言って。私も聞くようにする」
「約束ですね」
「うん」
その約束は、何の名前もついていない二人の間に、最初に置かれた小さな決まりになった。
*
それから、美咲のスマートフォンには、健人から短い連絡が届くようになった。
『店の黒板、字が大きくなりました』
写真には、以前よりも余白を広く取り、飲み物の特徴を三つの言葉で示した黒板が写っていた。
『読みやすくなった。写真も一枚あると、もっと伝わると思う』
『店長が、無料でそこまで聞くのは申し訳ないと言ってます』
『では、次に行った時にケーキを一つ付けてもらいます』
『交渉成立です』
別の日には、大学の調査で数えた歩行者の表が送られてきた。
『一時間で三百人を超えました。途中から数字が人に見えなくなります』
『休憩して。数え間違えるよ』
『もう間違えました』
『最初から?』
『途中の十分だけです』
『十分でも大変でしょう』
『先生には内緒にしてください』
美咲も、仕事で見つけたものを送った。
雨上がりの道路に映った看板。試食会で形が崩れ、採用されなかった桃のタルト。会議室から見えた夕焼け。社外へ出せない情報は避けながら、自分の一日から、健人に見せたいものを選ぶようになった。
返事はすぐに来る日も、数時間後に来る日もあった。
以前の美咲なら、返信の速さから相手の気持ちを測ったかもしれない。けれど、健人が授業に出ている時間、レポートを書いている夜、客で混み合う店内を知った今は、画面が動かなくても不安にならなかった。
彼にも、自分のいない時間がある。
そのことが、かえって心地よかった。
六月の終わり、二人は榴岡公園を歩いた。桜の花はとっくに終わり、枝いっぱいに重なった葉が、強くなり始めた日差しを遮っていた。春の名残を探すのではなく、今ある緑の中を歩く。美咲はその方が、健人と過ごす時間に似合う気がした。
七月には、駅東口の小さな書店で待ち合わせた。健人は社会調査の本を、美咲は広告写真の資料集を手に取り、互いの本を入れ替えて立ち読みした。健人は写真集の値段を見て棚へ戻し、美咲は専門書の文字の細かさに三ページで降参した。
会う回数は、ひと月に二度ほどだった。
多すぎず、少なすぎない。どちらかが次の約束を急かすこともなかった。それでも美咲は、月の予定表に健人の名前がないと、空白を一つ見落としているように感じるようになった。
七月最後の土曜日には、八木山の遊園地へ行く約束をしていた。
言い出したのは健人だった。
『美咲さん、遊園地に最後に行ったのはいつですか』
そう聞かれ、すぐに思い出せなかった。大学時代、友人たちと東京へ旅行した時以来かもしれない。
『たぶん八年くらい前』
『じゃあ、八年分、遊んでください』
美咲は笑いながら了承した。
ところが前日の金曜日、秋季キャンペーンの動画に使う音源で確認漏れが見つかった。権利処理の範囲が、当初の想定と違っていたのだ。公開は翌週。差し替えるなら、週末に編集作業を進めなければ間に合わない。
美咲は関係者へ連絡し、代わりの音源を探し、修正の時間を押さえた。会社を出た時には、午後十時を過ぎていた。
仙台駅のホームで、明日の約束を思い出した。
『ごめんなさい。仕事の修正が入って、明日は出社しなければならなくなりました』
送信してから、胸が重くなった。
健人からの返事はすぐに来なかった。電車が二駅進んだ頃、ようやく画面が光った。
『分かりました。仕事、頑張ってください』
短い文章だった。
怒っているのだろうか。がっかりしているのだろうか。「勝手に決めていると思ったら聞く」と約束したばかりなのに、美咲はまた、文字の少なさに意味をつけようとしていた。
『怒っていますか』
送ったあと、あまりに直接的だったと思った。
今度はすぐに返事が来た。
『怒ってはいません。残念です』
続いて、もう一通。
『でも、美咲さんも残念だと思ってくれているなら、次を決めればいいです』
美咲はホームから遠ざかる街の灯りを見た。
『残念です。とても』
自分の気持ちを、そのまま送った。
『では、八月の最初の日曜日はどうですか』
予定表を開くまでもなかった。
『空けます』
『仕事が入ったら?』
『入れません』
『信用しておきます』
健人の返事に笑った時、電車の窓に映った自分の顔は、疲れているのにどこか嬉しそうだった。
翌日の作業は夕方までかかった。修正した動画を先方へ送り、公開準備が整ったことを確認する。大森は、自分も休日に出てきたくせに「若いうちから仕事だけになるなよ」と言った。
「大森さんに言われたくありません」
美咲が返すと、彼は声を上げて笑った。
以前なら、予定がなくなったことまで仕事のせいにして、帰宅後も不機嫌だったかもしれない。今は一週間後の約束がある。先の楽しみが一つあるだけで、休日出勤の重さが少し変わることを知った。
*
八月最初の日曜日、美咲は白いTシャツとデニムで待ち合わせ場所へ向かった。
足元はスニーカーだった。
駅で健人に会うと、真っ先に靴を見られた。
「今日は壊れなさそうですね」
「遊園地にヒールで来るほど無謀じゃないよ」
「安心しました」
「まだ気にしてたの?」
「あの日、接着剤を薦めたことは、たぶんずっと忘れません」
二人は地下鉄に乗り、八木山へ向かった。
日差しは強かったが、風には前日までの雨の湿り気が残っていた。園内へ入ると、子どもたちの歓声と機械の回る音、甘い菓子の匂いが重なっている。鮮やかな色に塗られた乗り物には、長く使われてきた傷や擦れがあり、それがかえって親しみやすかった。
「最初、何に乗りますか」
健人が案内図を広げた。
「一番怖くないもの」
「八年分遊ぶ人の答えじゃないですね」
「八年の間に慎重になったの」
「じゃあ、少しずつ慣らします」
最初はゆっくり回る乗り物を選び、その次に小さなコースターへ乗った。健人は平気な顔をしていたが、急なカーブに入るたび、手すりを握る指へ力が入った。
「怖いんでしょう」
「怖くないです」
「顔が固まってる」
「美咲さんこそ、さっき目を閉じてました」
「風が強かったから」
「それ、俺の言い訳より苦しいですよ」
降りたあとも互いの強がりを指摘し合い、二人はしばらく笑い続けた。
昼を過ぎる頃には、美咲は仕事のことを考えなくなっていた。大人になってからは、何かを楽しむにも理由が必要だった。話題の店だから。仕事の参考になるから。友人との関係を保つため。けれど、目の前で回る乗り物に乗り、声を上げ、冷たい飲み物を買うことには、何の成果も求められない。
健人が売店で二つのソフトクリームを買ってきた。
「これは割り勘にしよう」と美咲が言った。
「一つ三百円です」
「値段の問題じゃないでしょう」
「じゃんけんで決めますか」
「負けた方が払うの?」
「勝った方が払います」
「どうして?」
「おごる権利を取るから」
訳が分からないと言いながらじゃんけんをし、美咲が勝った。
「私が払うね」
「どうぞ」
健人は素直に手を出し、美咲から代金を受け取った。
「本当に受け取るんだ」
「勝った人の権利ですから」
「こういう時は、いらないって言うものじゃないの?」
「それをやると、また美咲さんが借りを返そうとするでしょう」
言われて、美咲は笑うしかなかった。
二人は日陰のベンチへ座った。ソフトクリームは暑さに負け、すぐに縁から溶け始めた。美咲が慌てて食べる隣で、健人は手に垂れたクリームを紙ナプキンで拭いている。
「仕事してる時と、全然違いますね」
「何が?」
「今、ソフトクリームに完全に負けてます」
「暑すぎるの」
「企画を通す人でも、夏には勝てない」
「健人くんだって手に垂れてるよ」
「俺は引き分けです」
その時、近くにいた家族連れの母親から、写真を頼まれた。健人は立ち上がり、渡されたスマートフォンを両手で構えた。
「もう一枚、撮りますね」
子どもが横を向いたため、しゃがんで注意を引き、今度は全員が笑った瞬間に撮る。母親は写真を確認し、何度も礼を言った。
「お二人も撮りましょうか」
親切にそう言われ、美咲は反射的に首を振った。
「いえ、私たちは大丈夫です」
言葉が少し早すぎた。
母親は気にした様子もなく、家族と一緒に歩いていった。
健人はベンチへ戻り、溶けかけたソフトクリームを見た。
「すみません。俺の、もう駄目かもしれないです」
それ以外のことには触れなかった。
美咲は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。
写真を断ったこと自体はおかしくない。二人で写真を撮る必要もない。だが、自分の否定には、写真以上のものが含まれていた気がした。
私たちは、そういう二人ではありません。
誰もそこまで尋ねていないのに、先回りして線を引いた。
「健人くん」
「はい」
「あとで、一枚撮ろうか」
健人がゆっくり顔を上げた。
「写真」
「無理しなくていいですよ」
「無理じゃない。せっかく来たから、残したい」
美咲が言うと、健人は少し考え、うなずいた。
「じゃあ、最後に」
午後三時を過ぎた頃、二人は園内が見渡せる場所で並んだ。健人が腕を伸ばし、スマートフォンを構える。画面の中で、二人の肩の間には不自然なほど隙間があった。
「もう少し入ってください。美咲さんが切れます」
「健人くんが寄ればいいでしょう」
「腕を伸ばしてるので、これ以上は難しいです」
美咲が半歩近づいた。肩が触れた。
画面の中の健人は笑っていた。美咲も笑おうとしたが、触れた場所ばかりが気になり、表情が固くなる。
「撮りますよ」
小さな電子音がした。
確認すると、健人は自然に笑い、美咲は驚いたような顔をしている。
「もう一枚」と美咲が言った。
二枚目は、さっきよりうまく笑えた。
帰り際、空が急に暗くなった。
遠くで雷が鳴り、入場口へ向かう人の足が速くなる。二人が屋根のある売店へ着く前に、大粒の雨が落ちてきた。
「またですね」
健人がバッグから紺色の折り畳み傘を出した。
あの日、美咲へ貸した傘だった。
「今日は私も持ってる」
美咲はバッグの中を探した。朝、入れたつもりだった。化粧ポーチ、財布、ハンカチ、充電器。傘はない。
玄関に置いたままにした光景が、はっきり浮かんだ。
「持ってないみたいですね」
「……入れたと思ったの」
「今日は靴が壊れなかったので、十分です」
健人が傘を開いた。
二人で入るには、少し小さい。美咲は遠慮して端を歩こうとしたが、健人が傘をこちらへ傾けるため、彼の左肩がすぐに濡れた。
「もっと真ん中にして。健人くんが濡れる」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
美咲は健人のシャツの袖をつかみ、自分の方へ引いた。
肩と腕が触れたままになる。
雨音が傘の布を細かく叩いた。濡れた土と木の匂いが立ち上り、ついさっきまでの暑さが急に遠のく。
健人は何も言わなかった。美咲も袖から手を離せなかった。
あの日は、傘を差し出される側と、雨の中へ戻っていく側だった。今日は、同じ傘の下を同じ速さで歩いている。
駅へ着く頃には雨脚が弱まっていた。
「写真、送ります」
健人が言った。
「二枚目だけでいいから」
「一枚目も面白いですよ」
「消して」
「検討します」
「今、消して」
追いかける美咲から逃げるように、健人は改札へ向かって歩いた。その背中を見ながら、美咲は自分が笑っていることに気づいた。
その夜、送られてきた写真は二枚とも保存した。
*
八月が過ぎ、九月に入っても暑さは残った。
秋季キャンペーンが始まると、美咲の仕事は再び忙しくなった。撮影した動画が公開され、スタンプラリーの台紙が各店へ並び、最初の週末を迎える。企画が形になる時期は嬉しい反面、数字が毎日突きつけられる時期でもあった。
家族向けの参加数は予想を上回った。しかし、平日の利用が伸びない。会社員向けに用意した特典が、思ったほど使われていなかった。
月曜の会議で、大森は画面に映した集計表を見ながら言った。
「昼休みに店を回るには、距離があるんじゃないか」
「一店舗の利用だけでも特典は受けられます」
「説明を読めば分かる。でも、最初の告知で伝わってない」
美咲にも分かっていた。家族向けの写真を前面に出したことで、平日の会社員には、自分向けの企画だと認識されにくくなっている。
「媒体を分けます。平日は一店舗で完結することを、駅周辺の広告とSNSで強く出します」
「追加費用は」
「今の掲載枠を組み替えれば、最小限で済みます」
「先方へ、今日中に出してくれ」
会議が終わると、美咲はすぐに修正案を作った。昼食を後回しにし、午後二時に先方へ送る。返事を待つ間も別の仕事を進めたが、画面の端にある受信欄が気になった。
午後五時半、修正案が承認された。
安堵より先に、疲れが押し寄せた。
間違えたわけではない。最初の企画は全体として成果を出している。それでも、見落とした部分だけが、頭の中で繰り返された。
『今日、会えますか』
健人へそう送ったのは、考える前だった。
送信後、美咲は慌てて時計を見た。月曜日。健人には授業も、アルバイトもあるかもしれない。
『急だから、無理なら大丈夫です』
続けて送る。
十分ほどして返事が来た。
『七時なら定禅寺通に行けます。どうしましたか』
『少し歩きたいだけ』
『分かりました』
午後七時、待ち合わせ場所に現れた健人は、大学の資料が詰まった大きなバッグを背負っていた。
「急にごめん」
「今日はその言葉から始まると思ってました」
「だって、本当に急だったから」
「誘ってくれて嬉しかったです。だから、謝らなくて大丈夫」
健人はそう言い、コンビニの袋から温かい缶コーヒーを一本出した。
「九月なのに温かいの?」
「夜は少し涼しくなったので。冷たい方がよかったですか」
「ううん。ありがとう」
美咲は缶を受け取った。
「これは、返さなくていいから」と健人が先に言った。
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔に書いてありました」
二人は中央緑道を西へ歩いた。
初夏には柔らかかった葉が、濃い影を落としている。日中の熱を残した歩道に、夜風が細く通り抜けた。ベンチに座る人は少なく、車の走行音の合間に虫の声が聞こえた。
「仕事で何かありましたか」
「どうして仕事だと思うの」
「月曜日の夕方に、少し歩きたいと言われたので」
「勝手に決めてる」
「じゃあ、聞きます。何がありましたか」
約束を覚えていたことが、嬉しかった。
美咲は、キャンペーンの平日利用が伸びなかったことを話した。企画全体は悪くないこと。修正案は通ったこと。誰かに責められたわけではないこと。それでも、自分なら最初から気づけたはずだと思ってしまうこと。
「だから疲れてるだけ。明日になれば戻る」
最後にそう付け加えると、健人はすぐには答えなかった。
「明日までに戻らないと駄目ですか」
「仕事はあるから」
「仕事をするのと、元気に戻るのは別じゃないですか」
美咲は缶コーヒーのふたを開けた。湯気は見えないが、手のひらに熱が伝わる。
「健人くんは、失敗した時どうするの?」
「しばらく落ち込みます」
「普通だね」
「美咲さんは、すぐ立ち直る方法を聞きたかったんですか」
「少し期待した」
「ないです。レポートの評価が悪かった時は、二日くらい先生の悪口を考えて、三日目に読み直します」
「口には出さないの?」
「友達には少し」
「先生には?」
「言えません」
美咲は笑った。
「でも、読み直すんだ」
「悔しいので。次も悪かったら、先生のせいだけにできなくなるから」
「それ、十分立派だよ」
「三日かかっても?」
「三日で戻れるなら」
「美咲さんも三日かけてください」
「明日は普通に会社へ行くよ」
「行っても、落ち込んでていいです」
健人は美咲の歩調に合わせながら言った。
「無理に元気な顔をしなくても、仕事はできます。たぶん」
「たぶん?」
「俺は会社で働いたことがないので、そこは断言できません」
知ったふりをしないところが、健人らしかった。
美咲は缶を両手で包んだ。
「今日、健人くんに会いたいと思った」
口にしたあと、自分の言葉に驚いた。
健人の足が、わずかに遅くなった。
「相談したい、とかじゃなくて。うまくいかなかった時に、顔が浮かんだ」
「それは、喜んでいいことですか」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
AERの展望テラスで自分が言った言葉を返され、美咲は笑った。
「喜んでいいよ」
健人は前を向いた。街灯の下で、耳が少し赤く見えた。
その夜、二人は一時間ほど歩いた。仕事の話が終わると、健人が大学で担当している調査のことを話した。聞き取りに応じてくれた店主が、話し始めると止まらず、予定の倍の時間がかかったこと。質問票の順番どおりに進めようとして、指導教員から「人の話は項目ではない」と注意されたこと。
「美咲さんの話を聞いてる時も、頭の中で質問を並べてしまうことがあります」
「今日も?」
「今日は、最初に何があったか聞いて、次にどう思ったか聞こうとしてました」
「調査されてたんだ」
「途中でやめました」
「どうして?」
「美咲さんが、答えを求めてるわけじゃない気がしたから」
美咲は、歩きながら健人の横顔を見た。
自分でも分かっていなかったことを、彼は大げさに言い当てようとはしない。確かめながら、必要なところまで近づき、それ以上は踏み込まずに待つ。
年齢から想像していた未熟さは、そこにはなかった。
別れ際、美咲は空になった缶を捨てようとした。健人が受け取ろうとしたが、今度は渡さなかった。
「これは私が捨てる」
「借りを返すため?」
「違う。私が持ってたから」
「それなら、お願いします」
健人は笑った。
*
十月になると、朝晩の空気が急に冷たくなった。
定禅寺通のケヤキは、緑の中に黄や茶を混ぜ始めていた。歩道には乾いた葉が落ち、車が通るたび、端へ寄った葉が小さく舞い上がる。
日曜日の午後、美咲は健人とカフェで待ち合わせた。
彼は窓際の席で、分厚い資料を読んでいた。テーブルには赤い線の引かれた紙が何枚も広がっている。
「ごめん。待った?」
「今来たところです」
「嘘。コーヒー、半分ないよ」
「一杯目なので、まだ待ったうちに入りません」
美咲が向かいへ座ると、健人は資料をまとめた。
「レポート?」
「ゼミの中間発表です。商店街の滞在時間について」
「見てもいい?」
「まだ途中です」
「途中だから見たいの」
健人は迷った末、表紙を上にして資料を差し出した。
調査の目的、方法、観察した日時、聞き取りの人数。美咲には初めて見る形式だったが、文章は分かりやすかった。ベンチの位置だけでなく、近隣店舗の人との会話や、日陰になる時間帯が滞在に影響している可能性が示されている。
「面白い」
「本当に?」
「うん。ただ、最初のページだけだと、何が面白いのか分かるまで少し時間がかかる」
「先生にも、結論を先に出せって言われました」
「同じことを言うと、広告の人みたいで嫌でしょう」
「広告の人に見せてるので、そこは大丈夫です」
美咲はペンを借り、一ページ目の余白へ小さく印をつけた。
「ここに、調査で一番意外だったことを一文入れたら? 読む人が、その理由を知りたくなるから」
「一番意外だったこと……」
「答えは私が決めないよ。健人くんが選ぶ」
健人は美咲を見て、それから笑った。
「ちゃんと約束、覚えてますね」
「健人くんも、この前覚えてたでしょう」
資料を返すと、健人はすぐにはバッグへしまわず、書き込みを眺めていた。
「美咲さんに見てもらえてよかったです」
「専門的なことは分からないよ」
「分からない人が、どこで止まるかを知りたかったので」
「それ、店のコーヒーと同じだね」
「はい。店長、今度は豆の説明カードも変えるって言ってました」
健人は少し誇らしそうだった。
店を出ると、二人はいつものように定禅寺通へ向かった。
夏の間は頭上を覆っていた葉が薄くなり、空が近く見える。中央緑道に入ったところで、後ろから名前を呼ばれた。
「美咲?」
振り返ると、沙織が紙袋を提げて立っていた。隣には見覚えのない女性がいる。
「やっぱり美咲だ。こんなところで会うなんて」
「沙織こそ。買い物?」
「友達が仙台に来てて、案内してるところ」
沙織の視線が健人へ移った。
美咲は紹介しなければと思った。
「こちら、相葉健人くん。この前話した、傘を貸してくれた人」
「ああ、傘の人」
沙織は明るく笑い、健人へ頭を下げた。
「いつも美咲がお世話になってます」
「いえ。こちらこそ」
「いつも、ってほどじゃないよ」
美咲はすぐに訂正した。
「たまに会って、話をするだけ」
沙織は一瞬だけ美咲を見たが、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ、また月曜日ね」
手を振り、友人と歩いていく。
健人も「失礼します」と会釈した。
二人きりに戻ると、さっきまで自然だった足取りが、わずかに合わなくなった。
「沙織は同期なの」
「前に、連絡したか聞いてきた人ですよね」
「覚えてたの?」
「名前、何度か聞いたので」
健人は前を向いたまま歩いている。
美咲は、自分が言った言葉を思い返した。
いつも、というほどではない。たまに会って、話をするだけ。
事実ではあった。だが、そこにはまた、必要以上の否定が混じっていた。
「さっきの言い方、嫌だった?」
健人は少し黙った。
「怒ってはいません」
「残念?」
「それ、前にもありましたね」
「ちゃんと聞いてるの」
健人は足を止めた。近くのベンチへ枯葉が一枚落ち、乾いた音を立てた。
「少しだけ、寂しかったです」
美咲は言葉を待った。
「俺にとっては、たまに会って話すだけの人じゃないので」
心臓が一度、強く打った。
「じゃあ、どういう人?」
聞いたのは自分なのに、答えを聞くのが怖くなった。
健人は美咲を見た。いつもの穏やかな表情ではなかった。迷いと緊張を隠さず、それでも視線をそらさない。
「それは、今度ちゃんと話します」
「今じゃないの?」
「今言ったら、たぶん途中で止められます」
「止めないよ」
「美咲さん、今、すごく困った顔をしてます」
指摘され、美咲は何も言えなくなった。
健人は歩き出した。
「今日は、レポートを見てもらったお礼を言う日です。それで終わりにします」
「日ごとに目的を決めてるの?」
「決めないと、言わなくていいことまで言いそうなので」
その答えに、美咲の胸はさらに騒いだ。
夏の思い出の像が見えてきた。
初夏に見た時とは、周囲の色が変わっている。彫刻の細い輪郭の向こうで、黄ばんだ葉が風に揺れていた。
「本当に、思い出みたいになったね」
美咲が言うと、健人も像を見上げた。
「六月にここで話したこと、覚えてますか」
「楽しい時間の途中でも、終わったあとのことを考えるって話?」
「はい」
「覚えてる」
「俺、最近はあまり考えなくなりました」
「どうして?」
「終わっても、次に会えると思うから」
美咲は足元の枯葉を見た。
自分も同じだった。
会うたびに別れは来る。けれど、別れたあとには連絡が届き、次の予定が決まる。その繰り返しを、いつの間にか当然のように信じていた。
もし、次がなくなったら。
想像しただけで、胸の内側に冷たい空気が入った。
「来週、時間ありますか」
健人が尋ねた。
「日曜日なら」
「広瀬川の方を歩きませんか。ゼミで近くまで行くので、そのあとなら会えます」
「うん。行きたい」
美咲は迷わず答えた。
健人は安心したように笑った。
その笑顔を見て、美咲も笑った。
友情という言葉なら、安全だった。六歳という差も、社会人と大学生という違いも、深く考えなくて済む。会って話し、互いの生活へ少しだけ触れ、別々の日常へ戻る。それ以上を望まなければ、何も壊れない。
けれど、美咲はもう知っていた。
仕事で失敗した日に、会いたいと思ったこと。
同じ傘の下で、離れたくないと思ったこと。
二人で撮った写真を、誰にも見せず何度も開いたこと。
健人にとって自分が「たまに会って話すだけの人」ではないと聞いて、怖さより先に嬉しさが込み上げたこと。
風が吹き、ケヤキの葉が二人の前へ降った。
健人が一枚を避け、美咲も同じ方向へ動く。肩が触れ、どちらからともなく笑った。
定禅寺通の景色は、初夏から秋へ変わっていた。
二人の間にあるものだけが、まだ名前を持たずに残っていた。




