第一章 展望台の夜景と本音
紺色の傘は、桐谷美咲の部屋の玄関で、そこだけ持ち主の違う空気をまとっていた。
透明なビニール傘が二本、靴箱の横の傘立てに無造作に差してある。その奥に、濡れた布を十分に乾かしてから丁寧に畳んだ紺色の折り畳み傘があった。持ち手には細い革紐がつき、留め具の近くに小さな擦り傷がある。新品ではない。けれど、きちんと手入れされてきたことが分かる傘だった。
相葉健人から借りたまま、五日が過ぎていた。
あの夕立の日、美咲は駅前のドラッグストアで応急処置用の接着剤と安いサンダルを買い、濡れかけた資料を大きなビニール袋に移した。折れたヒールはどうにもならなかったが、資料は端が少し波打っただけで済んだ。翌朝、別の用紙に印刷し直したため、仕事に支障は出なかった。
だから、もう困ってはいない。
それなのに、玄関を通るたびに傘へ目が向いた。
傘と一緒に借りたハンカチは、洗ってアイロンをかけ、小さな白い箱に入れてある。紙袋の底を拭ったせいで薄い茶色の染みが残るのではないかと心配したが、洗剤をなじませるときれいに落ちた。返す準備は、翌日にはできていた。
連絡できずにいた理由を、美咲は忙しかったからだと思うことにしていた。
実際、忙しかった。
午前七時四十分。美咲は仙台市中心部にある広告代理店の六階で、まだ半分しか明かりのついていない執務室を横切った。窓の外は曇っていた。昨夜の雨を吸ったビルの壁が黒く、遠くに見える山並みも白い靄の向こうへ沈んでいる。
自分の席へバッグを置くより先に、会議室のプロジェクターを立ち上げた。今日の十時から、市内で複数の飲食店を展開する企業へ、新しい秋季キャンペーンを提案する。昨日の夕方、先方から「若い女性だけでなく、家族連れにも届く内容にしてほしい」と連絡があり、構成をほぼ作り直すことになった。
スクリーンに一枚目のスライドが映る。
秋の仙台を、ひと皿ずつ。
中央に置いたその言葉を見つめ、美咲はリモコンのボタンを押した。二枚目には、宮城県産の食材を使った限定メニューの写真。三枚目には、休日に親子で参加できる小さなスタンプラリー。四枚目には、市内の農家を取材した短い動画の案。華やかな写真の裏に、媒体ごとの掲載期間、撮影日、協力先への確認期限、想定される閲覧数が細かく積み上がっている。
資料の端が雨で濡れた時、真っ先に頭へ浮かんだのは、この数字を作り直す時間だった。
我ながら情緒がないと思う。
けれど、仕事とはそういうものだった。思いつきだけでは人は動かない。どれほどきれいな言葉を並べても、店を知ってもらえなければ意味がない。知ってもらっても、足を運ぶ理由がなければ売上にはつながらない。誰に、いつ、どこで、何を伝えるのか。一つずつ道筋をつくり、限られた予算の中で人の気持ちが動く場所を探す。
美咲は六枚目で足を止めた。
家族連れの写真が、少し作り物めいて見える。広告素材として購入した写真だから当然なのだが、昨夜は気にならなかった子どもの笑顔が、今朝は妙に整いすぎているように思えた。
「早いね」
背後から声がして、美咲は振り返った。
同期の沙織が、コンビニのコーヒーを片手に会議室へ入ってきた。髪はまだ湿っていて、薄いベージュのジャケットの肩に小さな水滴が残っている。
「沙織こそ」
「私は昨日、パソコンの電源を落とさずに帰った気がして。気になって早く目が覚めた」
「それ、ちゃんと落ちてたよ。最後に会議室を出る時、席を見たから」
「さすが。私の記憶より信用できる」
沙織はスクリーンを眺め、六枚目で首を傾けた。
「昨日と写真を変えた?」
「まだ変えてない。でも、変えようかと思ってる」
「時間ある?」
「九時までなら」
「十時から本番でしょう」
「だから九時まで。そこから一時間は、変えない時間」
美咲が答えると、沙織は呆れたように笑った。
「そういう自分ルール、よく続くね」
「本番直前まで直すと、話す順番まで迷うから」
「それは分かるけど。昨日、駅で靴まで壊れたんでしょう。今日は少し手を抜いても誰も怒らないよ」
「靴と企画は関係ないもの」
「出た。桐谷美咲の、関係ないものは別の箱に入れる方式」
沙織はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
「で、傘の人には連絡した?」
美咲の手が、リモコンの上で止まった。
「……まだ」
「五日も?」
「今週、忙しかったでしょう」
「お礼のメッセージを一通送るのに、一週間はかからない」
「分かってる」
「連絡先、交換したんだよね」
「傘を返すためにね」
「じゃあ、返しなよ」
あまりに単純な正論だった。
美咲はスクリーンへ向き直り、家族連れの写真を閉じた。別の素材フォルダを開きながら、できるだけ平坦な声で言った。
「今日の提案が終わったら連絡する」
「今日の提案が終わったら、次の修正が来るんじゃない?」
「それでも連絡する」
「よし。聞いたからね」
沙織は満足そうに会議室を出ていった。
一人になると、空調の低い音だけが残った。
美咲は写真素材を探しながら、あの日、雨の中へ戻っていった健人の背中を思い出した。連絡先を交換した時、彼は二十一歳だと言っていた。自分より六歳下。大学三年生で、社会学を勉強しているとも話していた。それでも、彼がどんな人間なのか、まだほとんど知らないに等しかった。
知らない相手に、ただ傘を返す。
それだけのことを、なぜ五日も先延ばしにしたのだろう。
答えを探す前に、美咲は新しい写真をスライドへ置いた。農園のテーブルを囲み、形の不揃いな梨を手に笑っている親子の写真だった。照明も構図も完璧ではない。それでも、こちらの方がずっと温かく見えた。
十時からの提案は、一時間十五分に及んだ。
先方の会議室には、社長、営業部長、店舗運営の責任者、若い広報担当者が並んでいた。最初の十分は反応が薄かった。社長は腕を組み、営業部長は予算表ばかり見ていた。美咲は予定していた説明を少し短くし、農家の取材動画を中心に話す順番を変えた。
「限定メニューの価格や写真だけなら、競合店も同じ時期に発信します」
画面に、生産者の手と土のついた野菜の写真を映す。
「今回伝えたいのは、安さではなく、この一皿を選ぶ理由です。誰が、どこで育てた食材なのか。お客様がご家族へ話したくなる背景まで届けます。スタンプを集めることが目的ではなく、店から店へ移動する間にも、仙台の秋を楽しんでもらう設計です」
若い広報担当者が初めて顔を上げた。
「動画は、出演する農家さんの負担が大きくなりませんか」
「撮影は一か所につき二時間以内です。事前に質問をお渡しし、店舗で使う部分とSNSで使う部分を同日に撮ります。公開前には必ずご本人にも確認していただきます」
「子ども向けのスタンプラリーは、平日の集客にはつながりにくいですよね」
「はい。ですので、平日は別に、限定メニューの注文で次回来店時に使える特典を付けます。休日の家族向け企画と、平日の会社員向け企画を同じ言葉で告知すると、どちらにも弱くなります。入口を分けます」
質問に答えるうち、会議室の空気が変わっていった。営業部長が予算表のページを戻し、社長が腕をほどく。美咲はその小さな変化を見逃さなかった。
最後に社長が言った。
「秋を、ひと皿ずつ、か。うちの店だけを回ってもらうんじゃなく、街を歩いてもらうというのがいいね」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の胸の奥で張りつめていたものが少し緩んだ。
会社へ戻る車の中で、上司の大森は助手席から振り返った。
「写真、変えたんだな」
「はい。今朝、見直して」
「昨日の方が広告としてはきれいだった」
「そうですね」
「でも、今日の方が社長には届いた。あの人は作り込んだ家族写真を嫌うから」
褒められたのか、たまたま好みに合ったと言われたのか分からなかった。美咲が返事を迷っていると、大森は続けた。
「午後、見積もりを詰めよう。先方から今日中に欲しいと言われた」
やはり、提案が終われば次の仕事が来る。
美咲は「分かりました」と答え、窓の外へ目を向けた。濡れた道路の上を、雲の切れ間から差した光が滑っていた。
会社へ戻ったのは午後零時半だった。
沙織は自分の席から、口だけを動かして「れ・ん・ら・く」と言った。
美咲は見なかったふりをしてパソコンを立ち上げた。見積書を開き、協力会社から届いた金額を入力する。撮影費、編集費、媒体費、印刷費。数字を一つずつ確認し、二時前に大森へ送った。
それからようやく、スマートフォンを手に取った。
健人との画面には、連絡先を交換した直後に彼から送られた、名前だけの短いメッセージが残っていた。
『相葉健人です』
美咲は入力欄を開いた。
『先日はありがとうございました。お借りした傘とハンカチをお返ししたいのですが、ご都合の良い日はありますか』
読み返す。
取引先への連絡のようだった。
最後に絵文字を入れようかと思い、やめた。「本当に助かりました」と加え、また消した。十分近く迷った末、最初に書いた文章のまま送信した。
送った途端、胸が落ち着かなくなった。
忙しくて気づかないかもしれない。授業中かもしれない。そもそも傘など返さなくていいと思っているかもしれない。
スマートフォンを伏せて仕事へ戻ろうとした時、短い振動が机に伝わった。
『連絡ありがとうございます。資料、大丈夫でしたか?』
返事は、傘のことではなかった。
『はい。無事に提案できました。靴は駄目でしたが、資料は助かりました』
『よかったです。靴は残念ですけど』
続いて、泣いているのか笑っているのか分からない顔の絵文字が一つ届いた。
美咲は思わず笑った。
『傘は、いつでも大丈夫です。俺は大学とバイトがあるので、平日なら夕方以降、土曜日なら三時まで空いています』
具体的な時間が並び、急に彼の日常が見えた気がした。
美咲は予定表を開いた。土曜日の夕方には何も入っていない。何も入っていないことを確認してから、なぜかもう一度翌週の予定まで見た。
『今週の土曜日、五時半はいかがですか。仙台駅で』
『大丈夫です』
すぐに返事が来た。
『それから、お礼に食事をごちそうさせてください』
送信したあとで、少し構えすぎただろうかと思った。
画面上部に「入力中」と表示され、消え、また表示された。
『傘を貸しただけなので、そこまでしてもらわなくても』
『私がそうしたいんです。助けていただいたお礼をさせてください』
また取引先のような文章になった。
しばらくして、健人から届いた。
『分かりました。じゃあ、お言葉に甘えます。でも、高すぎる店は緊張するので、普通のところでお願いします』
最後に、笑った顔がついていた。
美咲は「もちろんです」と返しながら、予約しようとしていた店の名前を頭の中から消した。仙台駅近くのホテル上階にあるレストラン。仕事の会食で何度か使い、窓からの眺めも、料理の味も知っている。失敗のない選択だと思っていた。
だが、大学生にとって何が「高すぎる店」なのか、美咲には分からなかった。
検索画面を開き、駅の近くにある店をいくつか見比べた。値段だけでなく、服装、席の間隔、料理の量まで気になった。二十分ほど迷った末、駅西口から歩いて数分の場所にあるイタリア料理店を予約した。気軽すぎず、静かすぎない。夕方の早い時間なら、窓際の席も空いているという。
予約を終えると、沙織が椅子を滑らせて近づいてきた。
「顔が仕事じゃない」
「どういう意味?」
「数字を見てる顔じゃなかった」
「店を探してただけ」
「傘の人と?」
美咲は答えず、見積書の画面を前に出した。
「大森さんが、ここの撮影費をもう一度確認してって」
「はいはい。別の箱ね」
沙織は笑いながら自分の席へ戻っていった。
土曜日の午後五時二十五分、美咲は仙台駅西口のステンドグラス前に立っていた。
人と会うだけで、これほど服に迷ったのは久しぶりだった。仕事帰りではないのだからスーツでなくてもいい。かといって、普段着すぎれば、予約した店から浮くかもしれない。結局、細身の黒いパンツに白いブラウス、薄いグレーのジャケットを選んだ。鏡の前では自然に見えたが、駅へ着いてみると、やはり仕事の延長のように思えた。
右手には、紺色の傘が入った細長い袋。バッグの中には、白い箱に入れたハンカチ。その隣には、駅ビルで買った焼き菓子の包みがある。
食事をごちそうするのだから、焼き菓子までは必要なかったかもしれない。
そう気づいたのは、買ったあとだった。
休日の駅は混み合っていた。待ち合わせをする人、土産袋を持った旅行客、部活動のジャージ姿で集まる高校生。改札から人が流れ出るたび、美咲は無意識に背筋を伸ばした。
五時二十八分、健人が人波の向こうから現れた。
あの日の黒いブルゾンではなく、濃紺のシャツの上にベージュの薄いコートを羽織っている。髪はきちんと整えていたが、前髪の一部だけが思うように収まらなかったらしく、歩くたびに額へ落ちた。肩から下げた黒いバッグには、大学の名前が小さく印刷されたクリアファイルがのぞいていた。
「すみません。待ちましたか」
「ううん。私も今来たところ」
口にしてから、ありふれた待ち合わせの台詞だと思った。
健人は美咲の足元を見た。今日はヒールの低いパンプスを履いている。
「靴、本当に大丈夫でした?」
「あれはもう処分しました。修理に持っていったら、接着剤で直しても危ないって言われて」
「やっぱり、あの時の提案は駄目でしたね」
「提案?」
「ドラッグストアに接着剤があるって言ったことです。あとで調べたら、ヒールが根元から折れた場合は歩かない方がいいって」
「調べたの?」
「無責任なことを言ったなと思って」
健人は申し訳なさそうに眉を下げた。
「大丈夫。店員さんにも止められて、サンダルを買ったから。あの時は、店の場所を教えてもらえただけでも助かったよ」
「ならよかったです」
彼は本気で安堵したように息を吐いた。
美咲は傘の袋を差し出した。
「これ。本当にありがとう」
「わざわざ袋まで用意してくれたんですか」
「濡れてはいないけど、そのまま渡すのもどうかと思って」
健人は受け取り、袋の口から持ち手を少しだけ出して確かめた。
「ちゃんと戻ってきた」
「当たり前でしょう」
「貸した時は、戻ってこなくてもいいと思ってたので」
「そんなこと言わないで。気になって仕方なかったんだから」
少し強い口調になり、健人が目を丸くした。
美咲はバッグから白い箱と焼き菓子を出した。
「ハンカチも。それと、これは少しだけ」
「食事もあるんですよね」
「これは別」
「別なんですか」
「ハンカチに染みが残ったら申し訳ないと思って。きれいにはなったけど」
健人は箱を開けず、両手で持ったまま美咲を見た。
「桐谷さんって、借りを残すのが嫌いですか」
不意に核心へ触れられた気がした。
「嫌いというより、落ち着かないの。してもらったことには、きちんと返したいだけ」
「じゃあ、今日で全部返し終わりますね」
「そうなるかな」
「焼き菓子まであるなら、たぶん返しすぎです」
健人が笑い、美咲もつられて笑った。
店へ向かう途中、二人はペデストリアンデッキを歩いた。雨の日には足元ばかり見ていた場所だ。今日は雲の隙間から夕方の光が差し、ビルの窓を一枚ずつ赤く染めている。眼下のバス乗り場では、色の違う車体が順番に発着し、そのたびに人の列がほどけては組み直された。
「この前は、イベントの帰りだったの?」
美咲が尋ねると、健人は肩に掛けたバッグを直した。
「はい。知り合いに頼まれて、設営と受付を手伝ってました。普段はカフェでバイトしてるんですけど、人が足りない時だけイベントにも呼ばれて」
「大学は仙台?」
「そうです。社会学を勉強しています」
「社会学って、具体的には何をするの?」
「それ、よく聞かれるんですけど、説明すると長くなるんですよ」
「今日は時間があるから大丈夫」
美咲が言うと、健人は一瞬だけこちらを見た。
「じゃあ、長くなったら止めてください」
店に着くまでの短い道で、健人は、商店街の人通りを調べるゼミに参加していることを話した。同じ通りでも、ベンチの位置や店先の明るさ、歩道の幅で、人が立ち止まる場所が変わる。数字を数えるだけでなく、そこで働く人や歩く人に話を聞き、なぜその道を選んだのかを確かめるのだという。
「人の流れを調べるんだ」
「そうですね。でも、人って流れって言われると、ちょっと変な感じもします。歩いてる本人には、一人ずつ理由があるので」
その言葉が、美咲の中に残った。
夕立の日、美咲には周囲が巨大な人波にしか見えていなかった。その中で健人だけが立ち止まり、壊れた靴を見た。
店はビルの三階にあった。木の扉を開けると、焼いたチーズとトマトソースの香りが流れてきた。奥の厨房から食器の触れ合う音が聞こえ、十組ほどの客がそれぞれの会話を楽しんでいる。窓際の席からは駅前のビルが見えたが、夜景を売りにするような高さではない。そのことに、美咲は少し安心した。
席へ案内されると、健人は店内を見回した。
「こういう店、あまり来ないです」
「高すぎないところって言っていたから、ここなら大丈夫かなと思ったんだけど」
「値段じゃなくて、普段は大学の近くか、バイト先で済ませるので」
メニューを開いた健人の視線が、料理名の右側で止まった。ほんの一瞬だったが、美咲には分かった。
「今日は私が誘ったんだから、値段は気にしないで」
「そう言われると、余計に気になります」
「一番高いものを頼んでも大丈夫」
「そういう意味じゃなくて」
健人は困ったように笑い、メニューを閉じかけた。
「ごちそうしてもらうのはありがたいです。でも、最初から全部決めてもらうと、自分が子どもになったみたいで落ち着かないんです」
美咲は返す言葉を失った。
店も時間も自分が決めた。彼の都合を聞いたつもりだったが、選択肢は渡していない。年下の学生をもてなすのだから、それでいいと思っていた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかった」
「謝ってほしいわけじゃないです。俺も、普通の店って言っただけで、何も提案しなかったから」
健人はもう一度メニューを開いた。
「じゃあ、料理は美咲さんのおすすめを聞いて決めます。次に飲むコーヒーは俺が出す。それでどうですか」
初めて名前を呼ばれ、美咲は答えるまでにわずかな間が空いた。
「桐谷さんじゃないんだ」
「会社の人みたいだったので。嫌なら戻します」
「嫌じゃないけど」
健人の顔に、少しだけいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「じゃあ、美咲さんで」
「それなら、私も健人くんでいい?」
「もちろんです」
二人は前菜の盛り合わせと、魚介のパスタ、鶏肉のローストを選んだ。健人が遠慮して少なく頼もうとするため、美咲がデザートを追加した。注文を終えると、テーブルの上から決めるものがなくなり、短い沈黙が訪れた。
気まずいわけではない。ただ、さっきまで歩きながら自然に続いていた会話が、向かい合った途端、互いの顔を意識するようになった。
「今日は、仕事だったんですか」
健人が尋ねた。
「今日は休み。平日は広告代理店でPRの仕事をしてる」
「PRって、CMを作ったりする仕事ですか」
「それも会社によってはやるけど、私は広報の企画やイベント、SNSの運用が多いかな。新しい店や商品を、どうやって知ってもらうかを考える仕事」
「この前の資料も?」
「今日、無事に提案が通った。まだ正式決定ではないけど、進められそう」
「よかった」
健人は自分のことのように笑った。
「どんな企画なんですか」
守秘義務に触れない範囲で、美咲は秋の飲食店キャンペーンについて説明した。話し始めると、自然に言葉が速くなった。生産者への取材、店を巡る仕組み、家族向けと会社員向けで告知を分ける理由。健人は途中で口を挟まず、ときどき短くうなずいた。
前菜が運ばれてきても、美咲はしばらく話し続けていた。
「ごめん。仕事の話ばかり」
我に返ってフォークを置くと、健人は首を横に振った。
「面白いです。大学で調べてることと少し似てるなと思って」
「似てる?」
「人に動いてもらうために、どこで何を伝えるか考えるんですよね。俺たちは、人がどうして動いたかをあとから調べることが多いけど」
「確かに、反対側から見てるのかも」
「でも、美咲さんは、数字だけじゃなくて、その店や作ってる人のことも伝えたいんですね」
自分の説明から、そこを拾われるとは思わなかった。
「そうありたいとは思ってる。でも、現実には売上も必要だし、予算もあるから、きれいごとだけではできないよ」
「きれいごとでも、最初にそれがなかったら、数字だけになりませんか」
健人は前菜の皿から小さなトマトを取りながら、何でもないことのように言った。
美咲は水のグラスへ手を伸ばした。
会社では、企画の意義を説明すれば、利益につながるのかと聞かれる。数字を説明すれば、面白みがないと言われる。その両方を成立させるために働いているうち、自分が最初に何をしたかったのか、考えることは少なくなっていた。
「健人くんは、どうして社会学を選んだの?」
「高校の頃、商店街に新しい広場ができたんです。きれいなのに、なぜか誰も長くいなくて。少し離れた古いベンチの方には、いつも人が集まってた。それが気になったのが最初です」
「人が集まる理由を知りたかった?」
「はい。最初は建物の問題だと思ってたけど、話を聞いたら、古いベンチの近くには顔見知りの店員さんがいて、子どもを見てくれる人がいて、バス停も近かった。場所だけ新しくしても、人の関係までは移せないんだなって」
健人はそこで少し照れたように笑った。
「もっとも、大学に入ってからは、そんな簡単に答えが出ないことばかりですけど」
「でも、好きなんでしょう」
「好きです。フィールドワークの前日は朝が早すぎて、毎回やめたいと思いますけど」
「何時?」
「始発前から人の動きを数える時もあります」
「それは仕事より大変かも」
「仕事みたいに給料は出ません」
二人は笑った。
料理が進むにつれ、会話は少しずつ形を崩していった。健人がカフェで注文を聞き間違え、同じテーブルにカフェラテを三つ運んだ失敗。美咲が入社一年目、記者向け資料の開催日を間違え、先輩と市内を走り回って差し替えたこと。好きな食べ物。苦手な早起き。仙台駅の中で迷いやすい場所。
健人は落ち着いて見えたが、話に夢中になるとフォークを持ったまま身振りをする癖があった。美咲が指摘すると、慌てて手を下ろした。
「すみません。行儀悪いですね」
「大丈夫。落とさないか心配なだけ」
「よくバイト先でも言われます」
「直ってないんだ」
「今のところ、皿は割ってません」
そう答えた直後、健人の袖が水のグラスに触れた。グラスが傾き、美咲がとっさに手を伸ばす。水面が大きく揺れたが、倒れずに戻った。
二人の手が、同じグラスを挟んで重なった。
健人がすぐに手を引いた。
「……危なかった」
「今のところ、グラスも割ってないね」
美咲が言うと、健人は耳を赤くして笑った。
デザートが運ばれる頃には、店の窓の外はすっかり暗くなっていた。駅前の看板に明かりがともり、向かいのビルの窓が夜空に四角く浮かんでいる。
美咲のスマートフォンがバッグの中で震えた。
一度なら無視するつもりだった。しかし、振動は短く二回続いた。会社の連絡に使うアプリの通知だった。
「出た方がいいんじゃないですか」
「今日は休みだから」
そう答えながらも、美咲の意識はバッグへ向いていた。
大森からかもしれない。先方から修正が来たのかもしれない。月曜日の朝までに必要なことなら、今確認した方がいい。
健人はデザートの皿へ視線を落としたまま言った。
「気になるなら、見てください。俺は食べて待ってます」
「ごめん」
画面を開くと、大森からだった。
『先方、動画案を役員会に出したいとのこと。月曜十時までに一枚で要点まとめられる?』
続いて、参考にしてほしいというファイルが届いていた。
できる、とすぐ返しそうになった指を止める。
月曜日の十時なら、朝少し早く出れば間に合う。今夜やる必要はない。
『承知しました。月曜朝に作成し、九時半までにお送りします』
送信して、アプリを閉じた。
「終わりました」
「仕事、大変ですね」
「今日はまだ短い方」
「いつも、すぐ返事するんですか」
「気づいた時は」
「返さないと不安になる?」
傘を返す時にも、似たことを聞かれた。
「そうかもしれない」
「美咲さん、ずっと何かを返してますね」
責める口調ではなかった。ただ、見つけたことをそのまま口にしたような声だった。
美咲はスマートフォンをバッグへしまった。
「返さない人よりはいいでしょう」
「いい悪いじゃなくて、疲れないのかなと思って」
「慣れてるから」
答えたあと、デザートのクリームが少し溶けていることに気づいた。
慣れていることと、疲れないことは同じではない。
美咲はその考えを口にせず、スプーンを取った。
食事を終え、美咲が会計を済ませると、健人は店を出たところで腕時計を見た。
「まだ七時十分ですね」
「そうだね」
「このあと、少し時間ありますか」
美咲は一瞬、返事に迷った。
食事がお礼であり、それが終われば別れるものだと思っていた。予定表には何もない。急いで帰る理由もない。
「あるけど」
「じゃあ、コーヒーの前に、行きたい場所があるんです。八時までなので」
「どこ?」
健人は駅の北側にそびえる高層ビルを指した。
「AERの展望テラス。無料なんですよ」
美咲は思わず笑った。
「無料を強調するんだ」
「次のコーヒーは俺が出す約束なので、予算配分が必要です」
「堅実だね」
「大学生ですから」
外へ出ると、昼間より気温が下がっていた。健人は返してもらった傘の袋と焼き菓子を片手に持ち、もう一方の手をコートのポケットへ入れた。美咲はその横を歩きながら、彼の歩幅が自分より少し広いことに気づいた。健人は先へ出そうになるたび、意識せず速度を緩めた。
AERへ入ると、商業フロアのにぎわいは落ち着き始めていた。二人は展望テラスへ向かうエレベーターに乗った。扉が閉まり、上昇が始まる。耳の奥に小さな圧迫感が生まれた。
途中の階で何人かが降り、最後には二人だけになった。
鏡張りの壁に、美咲と健人が並んで映っている。
健人の方が少し背が高い。六歳という数字を知らなければ、通りすがりの誰かには、どのような二人に見えるのだろう。
そう考えた自分に驚き、美咲は階数表示へ目を移した。
三十一階で扉が開いた。
通路の先にある展望テラスへ入ると、夜の仙台が一気に視界へ広がった。ガラスの向こうに、無数の窓明かりと車の光が重なっている。高い建物の間を縫う道路は細い光の筋になり、その先で闇へ溶けていた。遠くの山は見えず、街だけが空中に浮かんでいるようだった。
「すごい」
何度か来たことがある場所なのに、美咲の口から素直に言葉が漏れた。
「夜に来たこと、ありますか」
「あるよ。でも、久しぶり」
「俺は、バイトが早く終わった時にたまに来ます」
ウッドデッキの床を歩き、健人は東側の窓へ向かった。ガラス壁のわずかな隙間から夜風が入り、室内に近い空間でありながら、頬に冷たさが触れた。
「あそこ、新幹線が見えるんです」
健人が眼下を指した。
駅のホームから、白い車体がゆっくりと動き出していた。先頭が大きく曲がり、幾つもの窓の明かりを連ねたまま、街の中へ滑り出していく。
「俺、電車を見るのが好きなんです」
「乗るんじゃなくて?」
「乗るのも好きです。でも、見てる方が落ち着きます。あの中に、今から東京へ行く人も、家に帰る人も、仕事の人もいるんだろうなって」
「やっぱり、人の流れが気になるんだ」
「だから、流れってまとめると怒られそうです」
健人は笑い、窓の下へ消えていく列車を見送った。
レストランにいた時より、彼の肩から力が抜けていた。明るすぎない照明の中で、横顔が静かに夜景へ向いている。
「さっきの店、やっぱり緊張した?」
美咲が尋ねると、健人は少し考えてから答えた。
「店というより、美咲さんが慣れてる感じがしたので」
「仕事でも使えそうな店を選んだから」
「注文も会計も迷わないし、店員さんとも自然に話してた。俺、メニューの値段を見てたでしょう」
「少しだけ」
「見られてたんだ」
「ごめん」
「謝らなくていいです。それが今の俺なので。ただ、無理して平気なふりをするのも違うと思って」
健人は傘の袋を持ち替えた。
「六歳って、こういう時は大きいですね」
美咲の胸に、その数字が落ちた。
自分からは触れないようにしていたことを、健人はあっさり口にした。
「気にしてた?」
「そりゃ、少しは。美咲さんは働いて五年目で、俺はまだ大学生です。今日だって、ごちそうしてもらってるし」
「それは年齢じゃなく、お礼だから」
「分かってます。でも、何でもしてもらって当然みたいにはなりたくない」
健人の声には、静かな強さがあった。
美咲は、彼をただ親切で穏やかな青年だと思っていた。見返りを求めず、傘を渡して雨の中へ戻っていける人。けれど、何も求めないことと、何も考えていないことは違う。彼には彼の自尊心があり、美咲との間にある差も見えている。
「私、健人くんのことを、年下の学生だからって決めつけてたかもしれない」
「会ったばかりなら普通じゃないですか。俺も、美咲さんのこと、何でもできる仕事の人だと思ってました」
「過去形?」
「今日、仕事の通知を見た時、すごく嫌そうな顔をしてたので」
「そんな顔してた?」
「はい。それでも、すぐにちゃんと返事してた」
「見ないふりをして、月曜日に困るのは自分だから」
「そういうところは、やっぱりすごいと思います」
健人は夜景から美咲へ目を向けた。
「でも、仕事の話をしてる時は、もっと楽しそうでした」
「大変だって話ばかりしてた気がするけど」
「企画を説明してた時、目が全然違いました。農家の人の話とか、店を歩いて回ってもらう話とか」
「プレゼンの癖が出ただけ」
「プレゼンで、あんなふうに笑うんですか」
言われて、美咲は返事ができなかった。
会社の同僚や取引先から、説明が分かりやすい、準備が細かい、対応が早いと言われることはある。楽しそうだと言われた記憶はなかった。
「美咲さんは、仕事が嫌いなんじゃなくて、好きだから疲れるんですね」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
二人の笑い声が、風の通る展望テラスに小さく響いた。
眼下では、別の列車が駅へ入ってきた。道路を走る車の赤い尾灯が、交差点で一度集まり、信号が変わると四方へ散っていく。地上にいた時は巨大に感じた仙台駅も、ここから見ると、光の集まる一つの場所にすぎなかった。
「この前、私、駅で立ち尽くしてたでしょう」
美咲は夜景を見たまま言った。
「はい」
「靴が壊れて、雨が降って、資料が濡れそうで。それだけだったのに、何もかも駄目になったような気がしてた」
「仕事で何かあったんですか」
「大きなことは何も。ただ、打ち合わせがうまくいかなくて、友達から二人目の子どもが生まれたって連絡が来て、自分だけ同じところを走ってるような気がしてた」
ここまで話すつもりはなかった。
同僚にも、学生時代の友人にも言ったことのない気持ちだった。二十七歳になり、結婚する友人が増えた。仕事では任されることが増え、嬉しいはずなのに、どこかへ進んでいる実感がない。焦っていると認めれば、今の生活を否定するようで、口にできなかった。
健人は慰めの言葉を急がなかった。
「同じところを走ってるように見えても、走ってるなら、同じではないんじゃないですか」
「どういうこと?」
「大学の調査で、毎週同じ道を歩いてる人に話を聞いたことがあるんです。その人、自分は毎日同じことの繰り返しだって言ってた。でも、話を聞くと、先月までは一人で歩いてたのに、今は近所の人と待ち合わせて歩いてた。本人が気づいてないだけで、少し変わってた」
健人は言葉を選びながら続けた。
「美咲さんも、今日の企画を通したんですよね。五年前と同じ場所にはいないと思います」
まっすぐな励ましではなかった。頑張れば大丈夫とも、気にしなくていいとも言わない。ただ、彼が見つけた小さな事実を、美咲の前へ置いた。
だから、その言葉は素直に受け取れた。
「ありがとう」
「俺、変なこと言ってませんか」
「ううん。少しだけ、楽になった」
健人は安心したように笑った。
閉館を知らせる放送が流れた。時計を見ると、八時まであと十分だった。
「コーヒー、間に合わないですね」
健人が残念そうに言った。
「別の日でいいんじゃない?」
美咲は自然にそう答えていた。
口にしたあとで、それが次に会う約束だと気づいた。
健人も同じことに気づいたらしく、少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、今度は俺のバイト先に来ませんか。コーヒーはちゃんと俺が出します」
「店の商品を勝手に出したら駄目でしょう」
「もちろん、自分で払います」
「それなら、行ってみたい」
「日程は、あとで送ります」
展望テラスを出て、二人はエレベーターで地上へ戻った。上る時よりも会話は少なかったが、沈黙は重くなかった。鏡の中で目が合うと、どちらからともなく少し笑った。
仙台駅へ戻る頃には、夜の冷気が強くなっていた。ペデストリアンデッキを行き交う人の中には、傘を持っている人が多い。美咲が空を見上げると、雲が低く垂れ込めていた。
「また降るかもしれませんね」
健人も空を見た。
「今日は傘、返してもらいましたから」
彼は袋から紺色の傘を取り出し、持ち手を軽く上げた。
「今度は自分で使います」
「そうして」
「美咲さんは?」
美咲はバッグの中を確認した。朝、天気予報を見て折り畳み傘を入れてある。
「今日は持ってる」
「よかった」
改札の前で足を止めた。健人は地下鉄、美咲は在来線を使うため、ここで方向が分かれる。
「今日はありがとうございました。ごちそうさまでした」
「こちらこそ。傘、本当に助かりました」
「それ、もう何回も聞きました」
「だって、そのために会ったんでしょう」
美咲が言うと、健人は少しだけ首を傾けた。
「最初は、そうでしたね」
最初は。
その二文字が、胸の中へ静かに残った。
「じゃあ、また連絡します」
「うん。気をつけて」
健人は人の流れの中へ歩き出し、一度だけ振り返って会釈した。紺色の傘を持った背中が地下鉄の入口へ消えるまで、美咲はその場に立っていた。
帰りの電車では座ることができた。
窓に映る自分の顔が、行きよりも少し緩んでいる。向かいの席では、幼い子どもが母親の肩にもたれて眠っていた。以前なら、その姿を見て、自分にないものを数えていたかもしれない。今夜はただ、子どもの片方の靴下がずり落ちていることが気になった。
電車が動き出して間もなく、スマートフォンが震えた。
『今日はごちそうさまでした。美咲さんの仕事の話、もっと聞きたいです』
続いて、もう一通届いた。
『コーヒーの予定、バイトのシフトが出たら送ります』
美咲は画面を見つめた。
『楽しみにしています』
そこまで入力し、指を止める。
期待していると伝えるには、少し素直すぎる気がした。消して、「分かりました」に変えようとする。
けれど、展望テラスで健人に言われた言葉を思い出した。
ずっと何かを返していますね。
相手に合わせ、求められた形に整え、安全な言葉だけを返す。それは仕事では必要でも、今は仕事ではない。
美咲は書き直さず、そのまま送信した。
『楽しみにしています』
すぐに、笑った顔の絵文字が返ってきた。
窓の外で、雨粒が一つ、暗いガラスを斜めに流れた。続いて二つ、三つと細い筋が増えていく。
美咲はバッグの中の自分の傘を確かめた。
今夜は、もう雨宿りをする必要はない。
それでも、あの日に差し出された紺色の傘が、まだ心のどこかに静かな場所をつくっているような気がした。




