序章 夕立、あるいは邂逅
六月に入って間もない、ある水曜日の夕方だった。
仙台駅西口のペデストリアンデッキは、光と音の洪水だった。ビルボードの広告が白く発光し、バス乗り場からは絶え間なく発車のアナウンスが流れ、駅ビルの改札からは会社帰りの人波が途切れることなく吐き出されてくる。誰もが俯き加減で、スマートフォンか、あるいは自分の足元だけを見つめて歩いていた。夕暮れの空はまだ明るさを残していたが、ビルの谷間に落ちる影は、すでに夜の色を帯び始めている。
梅雨入りにはまだ間があるはずなのに、この数日、仙台には湿った風がまとわりついていた。ケヤキ並木の葉は雨を含んで重く垂れ、街路の匂いさえ、いつもより濃く感じられる。誰もが傘を鞄の底に忍ばせ、降るか降らないか分からない空を、ちらちらと見上げながら歩いていた。
その人波に逆らうように、桐谷美咲は立ち尽くしていた。
二十七歳。市内の広告代理店でPRを担当している。手にした紙袋の中には、明日の朝一番に必要なプレゼン資料が、ぎっしりと詰まっていた。
いつもなら、このデッキを歩くのに迷いはない。改札までの最短ルート、混雑を避けられる時間帯、雨の日でも濡れずに歩ける庇の位置まで、五年間の通勤で身体に染みついている。それなのに今日は、その慣れた道のりさえ、やけに長く感じられた。
入社してからの五年間、平日はほとんど同じ時刻に同じ道を歩いてきた。朝は始発に近い電車で出社し、夜は日付が変わる前に帰れれば上出来だと思うような日々だった。友人からは、よくそんなに働けるねと半ば呆れたように言われる。美咲自身、嫌々続けているつもりはなかった。企画が形になり、街のどこかで自分の言葉が誰かの目に留まる瞬間には、確かな手応えがある。ただ、その手応えを積み重ねた先に何があるのかと問われると、うまく答えられない自分もいた。
三十分前まで、美咲は取引先の会議室にいた。
来月から始まる住宅展示場のキャンペーンについて、先方の広報担当者と最終確認をする予定だった。ところが、会議室に入ってすぐ、担当者の隣に見慣れない役員が座っているのに気づいた。予定にはなかった人物だった。
「今回の企画、ターゲット層をもう少し広げられませんか」
役員が開口一番にそう言った。上司の大森が横で小さく息を吸うのが分かった。三か月かけて練り上げた企画だった。子育て世代に絞り込むことで、限られた予算の中でも確実に届く広告にする。それが美咲たちの狙いだった。
「ターゲットを広げると、一件あたりの訴求力が薄まります。今回の予算規模でしたら、絞り込んだ方が」
「でも、役員会では、もっと幅広く見せた方がいいという声もあってね。うちの商品は、単身者にも需要があるはずだから」
「単身者向けの物件は、別のラインでご用意があります。今回のキャンペーンで両方を扱うと、どちらのメッセージも弱くなってしまうかと」
「弱くなる、というのは数字の根拠があるのかな」
美咲は一瞬だけ大森と視線を交わし、手元の資料をめくった。持参した数字はあくまで社内検討用のものだったが、出し惜しみをしている場合ではなかった。
「過去三回の類似案件で、ターゲットを絞った回の方が、反響率で平均一・八倍でした。数字はのちほど資料としてお送りします」
即座に数字が出てきたことに、役員はわずかに眉を上げた。
理屈ではなく、社内の空気の問題だった。美咲は用意していた資料とは別に、頭の中で新しい説明の道筋を組み立てながら、写真の差し替え案、媒体の追加案、それぞれの費用感を口頭で示した。大森が横から数字を補足する。四十分ほどのやり取りの末、来週までに修正案を二つ用意することで、その場は収まった。
会議室を出ると、大森が小さく肩を叩いた。
「悪くない対応だった」
「役員が出てくるなら、先に言ってほしかったです」
「俺も知らなかったよ。向こうの担当も、慌ててたじゃないか」
「はい。あとで、彼にも確認しておきます」
大森は苦笑いを浮かべ、先にエレベーターへ向かった。悪くない対応だった、という言葉は、褒め言葉のようで、実際にはただの現状維持でしかない。修正案はまだ何もできていない。今夜のうちに骨子だけでも考えておかなければ、明日の朝が地獄になる。
そんなことを考えながら駅までの道を歩いてきたせいで、美咲は自分の足元にほとんど注意を払っていなかった。
改札に近づいたところで、右足のヒールがぐらりと傾いだ。
「......え」
声を出す間もなく、カツン、と乾いた音がして、パンプスのヒールが根元から折れた。片足だけ背が低くなり、美咲はよろめきながら、かろうじて転ばずに済んだ。通りすがりの数人がちらりと視線を寄越したが、誰も足を止めない。夕方のペデストリアンデッキは、そういう場所だった。
「......うそでしょ」
思わず漏れた声は、雑踏の中にあっけなく吸い込まれていった。
美咲はしゃがみ込み、折れたヒールを確かめた。接着剤でどうにかなる壊れ方ではない。踵の芯そのものが割れている。片足はいつもの高さ、もう片足はそれより四センチ低い。試しに数歩歩いてみると、身体の軸がおかしなふうに傾いた。
どうして、いつもこうなのだろう。
仕事も、私生活も、肝心なところで何かが足りなかったり、壊れたりする。社会人五年目、キャリアの正念場だと自分に言い聞かせ、がむしゃらに走ってきたつもりだった。今日のような不意打ちにも、いちいち動揺しないくらいには、経験を積んできたはずだった。それなのに、片方だけ低くなった靴で立っていると、積み上げてきたものがひどく頼りないものに思えてくる。
スマートフォンを取り出し、画面を見る。
大学時代の友人から届いた通知が、ロック画面に浮かんでいた。結婚式の二次会の写真。真新しいドレスを着た友人と、その周りを囲む笑顔の人々。美咲はその画面を見ないまま、鞄の奥へ押し込んだ。
見なくても、内容は分かっている。
友人たちの結婚報告、生まれたばかりの子どもの写真、家族で出かけた休日の一コマ。誰かが着実に前へ進んでいくのを、指先一つで知らされる。喉の奥が、乾いたスポンジのようにきゅっと縮こまるのを感じた。駅のアナウンスが、頭の中で意味を持たない音の塊になっていく。
自分だけが、同じ場所で足踏みをしている。
同期入社の誰かは、もう課長代理になった。学生時代の友人は、二人目の子どもを妊娠中だと聞いた。誰かと自分を比べても仕方がないと分かっていながら、比べることをやめられない。そういう自分の狭量さに、いちばん嫌気が差していた。
そんなはずはない、と分かっている。実際、今日だって、役員の急な横槍にもひるまず対応した。誰に恥じるところもない一日だった。それでも、片足だけ低くなった靴で立っていると、その事実さえ、ひどく頼りないものに思えてくる。母から先週かかってきた電話の、何気ない一言も、まだ耳の奥に残っていた。同級生の誰かが結婚したという話のあとに続いた、あなたはどうなの、という軽い調子の問い。悪気がないことは分かっている。分かっているからこそ、うまく受け流せなかった。
ぽつり、と頬に何かが当たった。
見上げると、灰色に沈んだ空から、大粒の雨が落ちてきていた。最初の一滴が頬を打ち、続いて二滴、三滴と、あっという間に本降りになる。折り畳み傘は、会社のデスクに置き忘れてきたままだった。
「......ほんとに、うそでしょ」
今度は声が大きくなった。
美咲は紙袋を胸に抱え込み、屋根のない場所で立ち尽くした。プレゼン資料が湿気を吸って波打っていくのが分かる。明日の朝までに印刷し直せば済むことだと、頭では分かっていた。それでも、今この瞬間だけは、何もかもが自分に向かって崩れ落ちてくるように感じられた。
ただ、少しだけ、雨宿りがしたい。
心も、身体も。
そう思った時だった。
頭上から聞こえていた雨音が、ふわりと遠のいた。
見上げると、大きな紺色の傘が、無慈悲な雨から美咲を守っていた。傘を差し出していたのは、一人の青年だった。歳は、おそらく自分よりずっと下だろう。大学のキャンパスにいそうな、気負いのない佇まい。シンプルな黒いブルゾンの肩が、うっすらと濡れている。イベントの設営や撤収を手伝うアルバイトの帰りにでも見えた。
「......あの」
美咲が声を発するより早く、青年が言った。
「大丈夫ですか。足、怪我してませんか」
その声は、都会の喧騒の中にあって、不思議なほど穏やかに響いた。同情でも、下心でもない。ただ純粋な、事実確認のような響きだった。彼の視線は、美咲の壊れた靴と、濡れて心もとない紙袋へ、順番に落とされている。それは、彼女の窮状を感情的に受け止めるのではなく、解決すべき問題として静かに認識している者の目だった。
「あ......大丈夫、です。靴が、ちょっと」
「見えました。踵、根元からいってますね」
「はい」
「歩けますか」
「たぶん、大丈夫だと思います」
美咲がそう答えると、青年は小さく頷き、傘を持つ手をわずかに動かして、彼女の頭上を確実に覆うようにした。彼自身の右肩は、ほとんど傘の外に出ている。
「これ、使ってください」
彼は肩に掛けたバッグから、まだ真新しいハンカチを取り出した。断る間もなく、美咲が抱えていた紙袋の濡れた底を、そっと拭う。手つきに迷いがなかった。
「あの、そんな」
「濡れたままだと、中の紙まで駄目になります。急ぎの資料ですか」
「明日の朝、必要なもので」
「じゃあ、余計に。このハンカチ、洗ってないので使い捨てのつもりで大丈夫です」
「洗ってないなら、なおさら使えないです」
思わず返すと、彼はきょとんとした顔をしたあと、小さく笑った。
「新品です。まだ袋から出したばかりで」
「......ああ、そういう意味ですか」
美咲は自分の勘違いに、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
彼はそう言いながら、通りの向こうを指差した。
「あそこに、ドラッグストアがあります。靴の応急処置用の接着剤、たぶん売ってると思います。サンダルとかも、置いてあるはずです」
「......ありがとう、ございます」
美咲はようやく、まともな礼を口にした。
「それと、この傘、使ってください」
「え」
「俺は、そんなに濡れても平気なので」
彼はそう言うと、紺色の傘の持ち手を、ためらいなく美咲の手のほうへ差し出した。美咲が受け取るより先に、彼は自分の荷物を濡れないよう抱え直し、軽く会釈をして、雨の中へ歩き出そうとした。
その背中に、美咲は反射的に声をかけていた。
「待ってください」
青年が振り返る。
「傘、返さないと。それに、こんな高そうなものを、いただくわけには」
「高くないですよ。普通の傘です」
「でも」
「濡れて帰るのも、俺は別に嫌じゃないので」
そう言って、彼はまた歩き出そうとする。
彼の行動は、あまりに自然で、見返りを一切期待していないものだった。だからこそ、美咲はこのまま彼を行かせるわけにはいかないと思った。それは、ただの親切に対する義務感だけではなかった。この乾いた都会の片隅で、何の下心もなく差し伸べられた優しさを、手放してはいけないような気がしたのだ。
「あの」
美咲は、鞄からスマートフォンを取り出しながら、もう一度呼び止めた。
「せめて、連絡先を教えてもらえますか。傘、ちゃんとお返ししたいので」
青年は、少し驚いたように足を止めた。
雨粒が、彼の黒い髪の先から、ぽつりと落ちる。
「別に、返してもらわなくても」
「困ります」
美咲は自分でも思いがけないほど、はっきりした声で言った。
「借りたままにするのは、性に合わないので」
その言い方が、いかにも仕事の交渉のようだったことに、口に出してから気づいた。相手は取引先ではなく、雨の中で見ず知らずの自分を助けてくれた学生らしき青年なのに。
けれど、青年はそのぎこちない言い方を、特に気にした様子もなかった。
「分かりました」
彼は小さく笑い、鞄からスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、交換しましょう。傘は、そのついでに返してもらえれば」
画面を差し出された美咲は、自分の連絡先アプリを開き、彼のQRコードを読み取った。表示された名前を見て、思わず視線を止める。
相葉健人。
「相葉、健人さん」
「はい」
「私は、桐谷美咲です」
「桐谷さん、ですね」
彼はそう繰り返し、画面をポケットへしまった。傘の下、間近で見る顔立ちは、想像していたよりも幼さが残っていた。日焼けした肌と、少し癖のある前髪。話し方の落ち着きから、もう少し年上かと思っていた。
「学生さん、ですか」
「はい。大学三年です」
「お仕事帰りとかじゃなくて」
「今日は、知り合いに頼まれて、近くのイベントの設営を手伝ってました。普段はカフェでバイトしてます」
「そう、なんですね」
年齢を尋ねるのは、初対面としては踏み込みすぎだろうかと迷い、けれど気になって、美咲は結局尋ねた。
「今、おいくつですか」
「二十一です」
「二十一歳」
思わず、口の中で繰り返してしまった。
六つも年下だった。ちょうど、大学生になったばかりの弟がいたら、こんな感じなのだろうかと想像するくらいの差だった。もっとも、美咲に弟はいない。
「桐谷さんは」
「え」
「いえ、聞いていいのか分からないですけど」
彼が少し気まずそうに言葉を濁したので、美咲はかえっておかしくなった。
「二十七です。相葉さんから見たら、だいぶおばさんに見えるかもしれないけど」
「そんなことないです」
即答だった。
「靴が壊れても、慌てすぎずに立ってる人だなと思いました」
「これのどこが慌てずに、なの。うそでしょって、大声出してたと思うけど」
「それは、聞こえてました」
彼は今度こそ、声を出して笑った。
初対面の相手に対して、驚くほど気負いのない笑い方だった。美咲は、自分の頬が少しだけ緩むのを感じた。今日一日、張りつめていたものが、雨の中でわずかにほどけていくようだった。
「ドラッグストア、案内します。すぐそこなので」
「あ、いえ、場所を教えてもらえれば、一人で」
「傘、持ってないんですよね」
「それは......そうですけど、相葉さんの傘を借りたので」
「なら、俺が持って歩いた方が早いです」
彼はそう言って、当然のように歩き出した。美咲は片方だけ低くなった靴でよろめきながら、その半歩後ろをついていく。彼は時折、美咲の歩調を確かめるように振り返り、傘の角度をこまめに直した。雨脚はまだ強く、アスファルトに跳ねる飛沫が、二人のふくらはぎを濡らしていく。
「お仕事、広告関係なんですか」
歩きながら、彼が尋ねた。紙袋の中身から察したらしい。
「うん。PRっていう仕事。会社とか商品のことを、どうやって知ってもらうか考えてる」
「難しそうですね」
「難しいよ。今日も、急に条件変えられて、明日までに直さないといけなくなった」
「それで、あんなに疲れた顔してたんですね」
「顔に出てた?」
「けっこう」
正直な返事に、美咲は苦笑いを浮かべるしかなかった。取引先にも、社内の誰にも、そんなふうに指摘されたことはなかった。
「相葉さんは、大学で何を勉強してるの」
「社会学です。商店街とか、地域の人の集まる場所を調べたりしてます」
「面白そう」
「桐谷さんの仕事と、少し似てるかもしれません。人に、何かを届ける仕事っていう意味では」
「私は届ける方で、相葉さんは受け取る方?」
「そう言われると、逆な気もします」
彼はそう言って、少し考えるような顔をした。会話は短かったが、初対面とは思えないほど、するりと言葉が続いた。
ドラッグストアの明るい照明の下、彼は迷いのない足取りで応急処置用の接着剤の棚へ向かい、続いて安価なサンダルの並ぶ一角を教えてくれた。
「これなら、駅までなら歩けると思います」
「詳しいんですね、こういうこと」
「前に、友達が同じ目に遭ってたので」
彼はそう言って、少し照れたように笑った。美咲はサンダルと接着剤を手に取り、レジへ向かった。彼は店の外で待っていると言い、自動ドアの外に立った。会計を済ませ、店の外へ戻ると、雨は先ほどよりわずかに弱まっていた。それでも、傘なしで歩ける強さではない。
店の外に立つ彼の姿を見つけて、美咲は少し驚いた。会計を待つ数分の間さえ、律儀に外で待っていてくれたことが、意外だった。普通なら、店の中で一緒に涼んでいてもいいはずなのに。
「濡れなかった?」
「軒下にいたので、平気です」
「わざわざ待っててくれなくても」
「桐谷さんが濡れずに店から出られるように、傘を差してた方が早いので」
彼はそう言って、店の出入り口から少し外れた場所を指した。実際、そこだけ屋根の張り出しが深く、雨をほとんど防げる位置だった。無駄なく考えて、無駄なく動く人なのだと、美咲はぼんやり思った。
「傘、本当にいただいていいんですか」
「はい。俺はこのあと、すぐ近くまでなので」
「せめて、駅までは一緒に」
「大丈夫です。桐谷さんは、これから資料を印刷し直すとか、あるんですよね」
「......なんで分かるんですか」
「濡れた紙袋、抱えてたので」
図星だった。美咲は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「今日は、ありがとうございました。本当に」
「いえ。またぐらつく前に、履き替えた方がいいです」
彼はそう言って、軽く頭を下げた。
「それじゃあ」
「あ、待ってください」
美咲は、彼が雨の中へ一歩踏み出す前に、もう一度声をかけた。
「傘、必ず返します。近いうちに、ご都合のいい時に」
「急がなくていいですよ」
「急がないと、気になって仕事に集中できないタイプなので」
正直にそう言うと、彼は今度は困ったような、それでいて少し嬉しそうな表情を浮かべた。
「じゃあ、待ってます」
そう言い残し、相葉健人は雨の中へ歩き出していった。黒いブルゾンの背中が、街灯の光をくぐりながら、あっという間に人混みへ紛れていく。傘も差さず、肩を軽くすくめるようにして歩く姿は、六月の雨など気にも留めていないようだった。
美咲は、彼の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
手の中には、まだ持ち主の温度が残っているような、紺色の折り畳み傘があった。安価な靴に履き替えた足は、これまでよりよほど安定していたが、それでもどこか頼りない感覚が拭えなかった。
会ったばかりの、名前も知らなかった年下の青年が、見返りを求めることなく差し出してくれた優しさ。それは、美咲がここ数年、仕事の中でも、私生活の中でも、あまり触れたことのない種類のものだった。取引先との関係も、社内の人間関係も、多かれ少なかれ、貸し借りの帳尻を意識せずにはいられない。差し出したものには、いつか何らかの形で返ってくることを、無意識のうちに期待してしまう。
けれど、彼にはそれがなかった。
傘を返さなくてもいい、と本気で言っていた。困っている人がいたから、ただ手を差し伸べた。それだけのことだと、彼自身は思っているのだろう。見返りを計算しない親切は、美咲がふだん生きている場所では、ほとんど流通していない種類のものだった。仕事でもらう好意には、たいてい次の依頼が続いている。友人からの誘いには、断れば角が立つという計算が透けて見える時もある。だからこそ、何の計算もなく差し出された傘一本が、これほど重く感じられるのかもしれなかった。
美咲は傘を軽く開き、頭上にかざした。
紺色の布地の下、雨音がわずかに遠くなる。先ほどまで彼が守ってくれていた場所に、今は自分一人で立っている。それだけのことなのに、なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
スマートフォンを取り出し、連絡先の一覧を開く。
相葉健人、という三文字が、まだ真新しい登録として並んでいた。何かメッセージを送るべきだろうかと思いながら、結局、その日は指を止めた。今送れば、忙しさにかまけて雑な文面になってしまう。礼を伝えるのは、傘を返す時でいい。そう自分に言い聞かせ、美咲は駅の改札へ向かって歩き出した。安いサンダルの底は、雨で濡れたタイルの上を、これまでのパンプスよりずっと頼りない音で鳴らした。それでも、片足だけ低くなったまま歩くよりは、ずっとましだった。
改札を抜ける直前、美咲はもう一度だけ振り返った。
雨に煙る駅前の光景の中に、もう青年の姿はなかった。
ただ、手の中の傘だけが、彼と交わした短いやり取りの、確かな証のように残っていた。美咲はその傘を、壊れやすいものを扱うような手つきで、そっと持ち直した。
この日の出来事を、美咲はまだ、ただの偶然だと思っていた。
雨宿りをさせてもらい、靴を助けてもらい、連絡先を交換しただけの、ささやかな出来事。明日になれば、また忙しい日常に紛れて、忘れていくはずのものだと。今夜のうちに直さなければならない修正案のことを思うと、この寄り道さえ、贅沢な時間の使い方だったようにも思えた。
改札を抜け、ホームへ続く階段を下りながら、美咲は自分がまだ紺色の傘を握りしめていることに気づいた。閉じた傘の先から、雨の雫が一滴、また一滴と、階段のタイルへ落ちていく。
電車に揺られる間、美咲は窓に映る自分の顔を見ていた。疲れは消えていないはずなのに、駅前で立ち尽くしていた時よりも、いくらか表情が緩んで見える。隣に座った学生らしき二人組が、くだらない話で笑い合っている。以前なら、うるさいと感じたかもしれない。今夜は、その笑い声さえ、耳に心地よかった。
自宅の最寄り駅に着く頃には、雨はほとんど上がっていた。街灯に照らされた歩道には、まだ濡れた跡が黒く残っている。美咲はサンダルの慣れない感触を確かめながら、いつもより時間をかけて部屋へ帰った。
玄関の鍵を開け、電気をつける。
靴箱の横の傘立てには、透明なビニール傘が二本、無造作に差してあった。どちらも、コンビニで買った安いもので、いつ処分してもいいと思いながら、なんとなく捨てられずにいたものだった。
美咲は、紺色の折り畳み傘の水気を軽く払い、その傘立てへそっと立てかけた。
自分の傘とは、明らかに違う気配をまとった一本だった。持ち手には見覚えのない細い革紐がつき、留め具の近くには小さな擦り傷がある。新品ではないが、きちんと手入れされてきたことが分かる傘だった。
しばらく、その傘を見つめた。
明日には返そう、と最初は思っていた。連絡さえすれば、きっとすぐに会える距離にいる相手だった。けれど、コートを脱ぎながら、美咲は今夜のうちに片づけなければならない仕事のことを思い出し、結局、メッセージを送らないまま浴室へ向かった。
ただ、少しだけ雨宿りがしたかった。それだけのつもりだった。
けれど、その一言を口にできないまま立ち尽くしていた自分の前に、見返りを求めない優しさが、あんなにも自然な形で差し出されたことが、まだうまく信じきれずにいた。仕事でも、友人関係でも、何かを受け取れば、いつかは同じだけのものを返さなければならない。そう思って生きてきた美咲にとって、相葉健人という青年の振る舞いは、これまで知っていたどの人間関係の型にも当てはまらなかった。
*
相葉健人は、雨の中を歩きながら、さっきまで傘の下にいた女性のことを考えていた。
桐谷美咲、二十七歳。広告代理店に勤めていて、疲れた顔をしていても、靴が壊れた程度では取り乱さない人。連絡先を交換する時の言い方が、まるで仕事の約束を取り付けるようで、少しおかしかった。
濡れることは、健人にとってそれほど苦にならなかった。イベントの設営や撤収を手伝っていれば、多少の雨風には慣れる。それに、困っている人を放っておくという選択肢は、最初から頭になかった。壊れた靴で立ち尽くす彼女を見た瞬間、身体が先に動いていた。
傘は、正直なところ、返してもらわなくてもよかった。安いものではなかったが、人を助けるために使ったのなら、それで十分な役目を果たしたことになる。
それでも、彼女は律儀に連絡先を交換したがった。
「借りたままにするのは、性に合わないので」
そう言った時の、少しむきになったような表情を思い出し、健人は一人、小さく笑った。仕事のできる大人の女性、というだけの印象では収まらない何かが、あの困惑した横顔にはあった。
雨足はまだ弱まらない。濡れたブルゾンが肩に重く張りつくのを感じながら、健人はアパートまでの道を急いだ。傘を返しに、彼女から連絡が来るだろうか。来なければ、それはそれで構わない。ただ、来るなら、少しだけ楽しみだと思っている自分にも気づいていた。
アパートの部屋に着き、濡れた服を着替えながら、健人はふと、自分のスマートフォンを確かめた。まだ何も届いていない。それも当然だった。出会ってから、まだ一時間と経っていない。
窓の外では、雨が街灯の光を細かく砕きながら降り続けている。健人は濡れた髪をタオルで拭きながら、傘立てに一本足りない自分の傘のことを、少しだけ思った。困った時は、また誰かが誰かに手を差し伸べればいい。それだけのことだと、その時はまだ、そう思っていた。
六歳という年齢差も、彼女が広告代理店で背負っている責任の重さも、健人はまだ何も知らなかった。ただ、雨の中で見た彼女の横顔だけが、いつまでも記憶の隅に残り続けた。六月の雨は、その夜も静かに、仙台の街を濡らし続けていた。




