第5話
引っ越し当日が近づくほど、アパートの廊下は少しずつ別れの気配を帯びていった。
隣の部屋の前に積まれる段ボールが増える。
宅配便の時間帯が変わる。
ドアの開閉音がいつもより多い。
それでも僕たちは、前よりずっと会うようになっていた。
仕事終わりにコンビニで待ち合わせて、短い時間だけ歩く。休日に昼を食べる。引っ越しの荷造りを手伝おうとして、最初は断られ、二度目でようやく許可された。
「散らかってます」
「段ボールだらけだね」
「見ないでください」
「入った時点で無理では」
「言い返せないです」
小鳥遊さんの部屋に入るのは初めてだった。
思ったより日当たりがよくて、机の上にはノートパソコンと液晶タブレット、壁際には本棚。整っているのに、今だけはその秩序が少し崩れている。その“今だけ”に入れてもらえたことが、妙に嬉しかった。
「何すればいい?」
「本を、この箱に」
「了解」
二人で床に座り込み、本を仕分ける。
仕事の資料、デザイン集、小説、画集。彼女がどんなものを好きで、何に時間を使ってきたかが少しずつ見える。それはメモよりずっと具体的で、でもやっぱり彼女らしかった。
「これも読むんだ」
僕が古い映画の評論本を持ち上げると、彼女がうなずく。
「言葉の使い方が好きで」
「小鳥遊さん、言葉好きだもんね」
「……そう見えますか」
「メモでわかる」
「文字だけで判断されるの、少し恥ずかしいです」
「じゃあ会ってから修正された?」
彼女は少し考える。
「いい意味で」
「それは詳しく」
「思ったより、ちゃんと話してくれる人でした」
「思ったより、が引っかかる」
「最初はもっと無口だと思ってました」
「実際、かなり無口だったと思う」
「私もです」
箱を閉じながら、二人で少し笑う。
こういう時間が普通みたいになってきていることが、逆に不安だった。
普通になればなるほど、失う想像も具体的になるからだ。
夕方、休憩と称してコンビニのアイスを食べた。
段ボールの山の前、床に並んで座る。外は薄暗くなってきて、部屋の中だけがやけに近い。
「新しい部屋、どれくらい遠いの」
「電車で三十分くらいです」
「会えない距離じゃない」
「はい」
「でも、隣ではない」
そこだけ、少し空気が変わった。
小鳥遊さんがアイスの棒を見つめたまま言う。
「隣じゃなくなったら、瀬戸さん、楽になりますか」
「え」
「今までみたいに、生活音とか、帰宅時間とか、たまたま気配がわかること、なくなります」
「それの何が楽なの」
「気にならなくて済むかなと」
「気になりたいよ」
言ってから、少し強かったと思った。
でも訂正したくなかった。
彼女はゆっくりこちらを見る。
「気になりたい?」
「うん。今だって、帰りが遅いと勝手に心配してるし、ドアが開く音で帰ってきたってわかると妙に安心する」
「……それは、かなり」
「重い?」
「いえ」
彼女は目を伏せた。
「同じです」
その一言で救われる。
けれど同時に、もっとはっきり形が欲しくなってしまう。
「私、ちょっと不安なんです」
彼女が続ける。
「新しい部屋に行って、環境が変わって、仕事も増えて。そうしたら今みたいに連絡できなくなる日があるかもしれない」
「うん」
「そういう日に、瀬戸さんが“やっぱり隣人だったから近かっただけ”って思ってしまったら嫌です」
心臓がぎゅっと縮む。
彼女はそういう不安を、一人で抱え込んで黙るタイプだと思っていた。実際は、黙り続けないで言葉にしてくれるらしい。
「思わない」
「でも、保証は」
「保証ならする」
「どうやって」
「……会いに行く」
彼女が瞬きを止める。
「忙しくても、少しずつでも。隣じゃなくなっても、近くにする努力は僕がする」
言いながら、自分でもこれは半端に言う言葉じゃないとわかった。
でも、半端にしたくなかった。
小鳥遊さんはしばらく黙ってから、小さく息をつく。
「そういうところ、ずるいです」
「よく言われる」
「私にだけでしょう」
「たぶん、そう」
そのとき、彼女のスマホが鳴った。
引っ越し業者からの確認連絡らしい。彼女が電話に出ている間、僕は手元のアイスの棒をぼんやり見つめていた。
今すぐ言ってしまうべきか、まだ早いのか。
でも、早い遅いの問題じゃなくなっている気もする。
電話が終わる。
彼女はスマホを置いて、少しだけ困った顔をした。
「明後日、朝から搬出です」
「早いね」
「はい」
「じゃあ、明日が最後か。隣人としては」
その言い方に、自分で少し傷つく。
彼女も同じだったのか、視線を落とした。
「……瀬戸さん」
「うん」
「明日の夜、少しだけ時間ありますか」
「ある」
「たぶん、荷造りはほとんど終わってるので」
「うん」
「最後に、ちゃんと話したいです」
最後。
その言葉は重い。
でも彼女の言い方は、終わりのためではなく、その先に進むためのものに聞こえた。
帰り際、玄関まで送る。
段ボールで狭くなった廊下で、二人とも少しだけ立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。手伝いっていうか、本見せてもらっただけだった気もする」
「かなり助かりました」
「それならよかった」
ドアの前で別れるだけのはずだった。
なのに彼女は一度ドアノブに手をかけてから、また振り返る。
「瀬戸さん」
「ん?」
「隣じゃなくなっても、気になってください」
胸の奥が熱くなる。
「頼まれなくても」
彼女はそれを聞いて、今にも何か言いそうな顔をした。
けれど結局、言葉の代わりに小さくうなずいて部屋へ戻っていく。
その夜、自分の部屋のドアノブには久しぶりに付箋が挟まっていた。
『明日、最後のメモを渡したいです』
僕はそれを読み終えてから、すぐに紙を探した。
返事は短くしか書けなかった。
『僕も、最後のつもりでは渡しません』
それをドアノブに挟む手が、少し震えていた。




