第6話
隣人として最後の夜は、思っていたより静かだった。
小鳥遊さんの部屋の前からは、もうほとんど段ボールが消えている。
残っているのは小さなバッグと、明日手に持って出るらしい箱がひとつだけ。廊下に漂っていた引っ越しの慌ただしさまで、今夜は息を潜めていた。
仕事を切り上げて帰ると、僕のドアノブにはまだ何もかかっていなかった。
先に渡しに行くべきか迷っているうちに、隣のドアが静かに開く。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつの間にか、このやり取りも自然になっていた。
それが明日から簡単にはできなくなるのだと思うと、喉の奥が少し詰まる。
「少しだけ、いいですか」
「うん」
彼女の部屋に入る。
昨日よりずっと物が少なくて、逆に落ち着かなかった。生活の気配が薄れている。ここから彼女がいなくなることが、あまりにもよくわかってしまうからだ。
床に置かれたローテーブルの上に、二枚の付箋があった。
一枚はたぶん彼女の。もう一枚は僕のための空白だろう。
「座ってください」
言われるまま座る。
彼女も向かいに座って、少しだけ息を整える。
「最後のメモ、先に渡します」
「うん」
彼女は一枚の付箋を差し出した。
僕はそれを受け取って、ゆっくり開く。
『隣に住んでいた時間より、これから会う時間のほうを長くしたいです』
胸の奥で何かがほどけるような、逆に強く結ばれるような、不思議な感覚がした。
たぶんこれはもう、答え合わせだった。
「返事、今書く?」
「できれば」
「わかった」
僕はペンを取り、空白の付箋に書く。
迷いは少しあった。でも、もう言葉を濁したくなかった。
『そのつもりで、好きになりました』
書き終えて渡すと、彼女は最初の数文字を見た瞬間に動きを止めた。
それから最後まで読んで、ほんの少しだけ唇を噛む。泣きそう、というほどではない。でも、簡単に流せない顔だった。
「……ちゃんと、書くんですね」
「逃げたくなかったから」
「私も、逃げたくなかったです」
彼女は付箋をそっとテーブルに置く。
指先が少し震えていた。
「瀬戸さん」
「うん」
「私も、好きです」
その“好きです”は、付箋の文字より、メモの文面より、今までのどの言葉よりまっすぐだった。
「隣にいたから気になったんじゃなくて、気になっていた人がたまたま隣にいたんだと思います」
喉の奥が熱い。
返事をしたいのに、数秒うまく声が出なかった。
「それ、かなり嬉しい」
ようやく言うと、彼女が少しだけ笑う。
でも次の瞬間、その笑顔が揺れた。
「よかった」
「何が?」
「私ばっかり先に好きになってたらどうしようって、少し思ってたので」
「それはない」
「本当に?」
「むしろ、認めるのが遅かっただけ」
「それも知ってました」
「知ってたの」
「メモがだんだん長くなってたので」
「恥ずかしいな」
「私もです」
二人で笑う。
少しだけ泣きそうな空気が、笑うことでほどけた。
それから小鳥遊さんは、テーブルの脇に置いてあった小さな封筒を僕に差し出した。
「これは?」
「新しい住所」
「メモじゃなくても連絡するのに」
「でも、紙で渡したかったので」
封筒の中には、住所が書かれたカードと、最寄り駅の名前、それから小さく一行だけ添えられていた。
『最初に来る日は、ちゃんと楽しみにして待っています』
「これ、ずるいな」
「瀬戸さんに言われたくないです」
「じゃあおあいこ」
「はい」
しばらく、何も言わない時間が流れた。
沈黙が苦しくないのは、たぶん気持ちを言葉にできたからだ。もう、隣人だから近いわけじゃない。好きだと言った相手が、目の前にいるから近いのだ。
「明日、見送ってもいい?」
「はい。むしろ来てください」
「行く」
「朝、早いですけど」
「遅刻しない」
「記録しますよ」
「もうその記録、ちょっとご褒美っぽくなってる」
「それは困ります」
笑ったあと、彼女は少し真面目な顔に戻る。
「ひとつだけ、約束してほしいです」
「なに」
「忙しくて会えない日があっても、勝手に終わりにしないでください」
「しない」
「メモが減っても」
「しない」
「不安になったら」
「ちゃんと言う」
「……私も言います」
その約束は、付き合ってください、より少し現実的で、でもずっと先まで効くものに思えた。
僕たちらしい始まり方だと思う。
帰る前、玄関まで送ってもらう。
ドアを開けると、見慣れた廊下がある。明日にはこの距離も、今とは別の意味になる。
「じゃあ、また明日」
「はい」
「見送りのあと、連絡する」
「はい」
「それと」
僕は少しだけ迷ってから続けた。
「今度の土曜、住所の紙だけじゃなくて、ちゃんと行くから」
彼女は目を細める。
「待ってます」
「うん」
「……彼氏として?」
その一言で、心臓がひどく跳ねた。
でもたぶん、ここで言わないとだめだと思った。
「できれば」
「できれば?」
「いや、したい。そういうつもりでいる」
彼女は少しだけ頬を染めて、それから小さくうなずく。
「私も、そういうつもりです」
それだけで十分だった。
でも、もう少しだけ欲しくなるのも本当だった。
自分の部屋に戻ったあと、いつもの癖でドアノブを見てしまう。
もちろん、今夜は何もない。
けれど数分後、スマホが震えた。
『隣の部屋じゃなくなっても、おやすみは送っていいですか』
僕はすぐに返信する。
『毎日ほしい』
数秒後、また返ってくる。
『では、最初の一回です。おやすみなさい、瀬戸さん』
画面の文字を見て、思わず笑った。
ドアノブのメモは終わる。
でも、恋が終わるわけじゃない。
むしろここからが始まりだ。
隣人だったころより少し不便で、でもきっとずっと確かな形で、僕たちはこれから会っていくのだと思う。




