第4話
土曜日の午後、僕は約束の二十分前に駅前へ着いていた。
遅刻しないと言った以上、五分前では足りない気がしたのだ。
結果として、改札前の柱にもたれている自分がかなり落ち着きのない人間に見えている自覚がある。スマホを見る。まだ十二分ある。もう一度見る。十一本ある。時間の進み方がおかしい。
ポケットの中には、小さく折ったメモが入っていた。
手渡しの一枚目。
何を書くべきか昨夜ずっと悩んで、結局、短くしか書けなかった。
やがて改札の向こうから、小鳥遊さんが歩いてきた。
今日はベージュのワンピースに薄いカーディガン。前に喫茶店で会ったときより、少しだけ柔らかい雰囲気に見える。たぶん、僕が前より落ち着いて見られるようになったからじゃない。単純に、彼女を見る回数が増えて、緊張の質が変わっただけだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
「早いですね」
「そっちも」
「私は十分前です」
「僕は二十分前」
「かなり気合い入ってますね」
「初回なので」
「……それ、うれしいです」
その“うれしいです”が、会ってすぐ出てくるのは反則だと思う。
僕は何とか平静を保って歩き出した。
駅前の商店街を抜けて、川沿いの遊歩道へ向かう。
何をするか、ちゃんと決めていたわけではない。ただ、あまり騒がしい場所だと話しにくい気がして、人の流れがゆるいところを選んだ。
「引っ越しの準備、進んでる?」
「思ったより進んでません」
「意外」
「捨てるか迷うものが多くて」
「わかる。僕もレシートの束とか捨てられない」
「それは捨ててください」
「急に厳しい」
「必要な厳しさです」
やり取りの調子は、メモより少し軽い。
でも、直接顔を見ながら言われると、文字では平気だった言葉まで妙に胸に残る。
しばらく歩いたあと、ベンチのある小さな公園で足を止めた。
子ども向けの遊具が端にあって、中央には花壇がある。休日の午後にしては静かだった。
「……あの」
僕が切り出すと、小鳥遊さんがこちらを向く。
「これ」
ポケットから折った紙を出す。
彼女は目を丸くしたあと、少しだけ笑った。
「本当に持ってきたんですね」
「持ってくるって言ったから」
「律儀」
「小鳥遊さんに言われたくはない」
「それもそうですね」
彼女は紙を受け取ると、丁寧に開いた。
そこには、昨夜かなり迷った末の一文がある。
『会えるの、思ってたよりずっと楽しみでした』
読み終えた彼女が、すぐには顔を上げなかった。
風で髪が少し揺れて、白い耳がのぞく。そこがほんのり赤い。
「重かった?」
「いいえ」
「よかった」
「ただ……」
「ただ?」
「メモでこれを書かれると、かなり困ります」
「困るのに、嫌じゃないやつ?」
「はい」
僕は思わず笑ってしまう。
すると彼女も、少し遅れて笑った。
「返事、今ここで書きます」
「え、紙あるの」
「あります」
本当に小さなメモ帳を取り出して、彼女は膝の上で何かを書く。
数秒じゃない。ちゃんと考えている。そういうところが好きだな、と思った瞬間、まだ“好き”という言葉を自分の中で完全には使っていないことに気づいた。でも、使わない理由ももうほとんど残っていなかった。
彼女がページを切り取って差し出す。
『私も、行く前から少し緊張していました』
僕はその紙を受け取って、たぶんかなり間抜けな顔をした。
嬉しいと、だいたい語彙が減る。
「少し?」
「かなり、だと認めると悔しいので」
「負けず嫌い?」
「瀬戸さん相手には、少し」
そんなことを言われたら、もっと期待してしまう。
けれど期待だけで進めるには、今の関係はまだ繊細だった。
公園を出て、近くの書店に入る。
別に示し合わせたわけではないのに、本棚の前で立ち止まるのは二人とも同じだった。
「やっぱり本、好きなんだね」
「仕事でも資料は見るので、紙に触るのが落ち着くんです」
「メモ好きなのも、その延長?」
「どうでしょう」
彼女はそう言いながら、文庫本の平積みを指先で整える。
無意識の仕草まで丁寧だ。
「瀬戸さんは?」
「僕は、たぶん一人でいるときの相棒として好き」
「本が?」
「うん。でも最近は、感想を言いたい相手がいる本のほうが楽しい」
彼女がゆっくりこちらを見る。
「それ、ずるい言い方です」
「メモより口のほうが下手だと思ってた」
「今日はかなり上手くないですか」
「相手がいいので」
「それは、もっとずるいです」
彼女は困ったように笑ってから、一冊の短編集を棚から抜いた。
表紙に青い夜空が描かれている。
「これ、好きなんです」
「じゃあ買う」
「貸す、ではなく?」
「引っ越したら返しに行く場所が変わるから」
そこまで言って、自分でも妙に真面目な理由だと思った。
でも彼女は茶化さなかった。
「じゃあ、読み終わったら感想を聞かせてください」
「直接?」
「できれば」
「何回でも」
「そんなにありますか」
「感想を話す口実なら、いくらでも作る」
そのあと、駅前のカフェで少し休んだ。
夕方が近づいて、窓の外の光が薄くなる。帰る時間が近づくほど、二人とも話題を変えながら、同じことを避けていた気がする。つまり、引っ越しのあとをどうするか、だ。
駅へ戻る道で、小鳥遊さんが急に立ち止まった。
「瀬戸さん」
「うん」
「今日、楽しかったです」
「僕も」
「だから少しだけ、困ってます」
「何に」
「引っ越しを前向きなことだと思い続けるのが、難しくなってきたので」
言葉を失った。
嬉しいのに、切ない。
でもたぶん、それは向こうも同じだ。
「じゃあさ」
気づけば言っていた。
「次も会おう。引っ越し前に、あと何回でも」
彼女は少しだけ目を見開く。
「何回でも?」
「できるだけ」
「……はい」
「メモじゃなくても、約束していい?」
「もう、したいです」
駅の改札前。
最初に会ったときよりずっと近い距離で、僕たちは立ち止まる。
彼女はバッグから小さな付箋を一枚取り出して、僕の手に押しつけた。
その仕草が少しだけ急で、でも逃げるみたいではなかった。
「帰ってから見てください」
「今じゃだめ?」
「今だと、私が耐えられないので」
そう言って改札を抜けていく背中を、僕はしばらく見送った。
電車の扉が閉まってから、ようやく手の中の付箋を開く。
『今日は、会ってからのほうがもっと好きになってしまって困りました』
駅前の人混みの中で、僕はたぶんかなり危ない顔をしていたと思う。
でもそんなことはどうでもよかった。
次に会う約束を、今すぐ取りつけたくて仕方なかったからだ。




