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隣人のドアノブに残るメモが、だんだん恋文みたいになってきた  作者: 螺旋


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3/6

第3話

翌日の午後、アパートの前で待っている時間は、普段の仕事よりずっと長く感じた。


休日なのに、シャツを二回着替えた。

髪も整えた。

そのうえで、隣人と話すだけでこんなに緊張している自分に呆れた。


約束の五分前、小鳥遊さんが階段を下りてきた。

白いブラウスに薄い青のスカート。派手ではないのに、見た瞬間にちゃんときれいだと思った。彼女は僕を見つけると少しだけ歩幅を緩めて、それから会釈する。


「お待たせしました」

「いや、今来た」


たぶん、こういうときの定型文ほど信用できないものはない。

でも彼女はそれを指摘せず、少しだけ笑った。


近くの小さな喫茶店に入る。

向かい合って座るのは、メモでやり取りしていたときよりずっと落ち着かない。けれど同時に、ようやくここまで来たという気持ちもあった。


注文を終えてから、先に口を開いたのは彼女だった。


「まず、引っ越しのこと、もっと早く言うべきでした」

「ううん。責めたいわけじゃない」

「でも、隠してたのは事実なので」


彼女はテーブルの上で指先をそろえる。

あのメモを書く手だと思うと、それだけで少し胸が詰まった。


「新しい部屋、職場の近くなんです。今のところだと打ち合わせに出る日は少し遠くて」

「そっか」

「だから、引っ越し自体は前向きなことなんです」

「うん」

「なのに、最近はあまり前向きじゃなくなってました」


そこまで言って、彼女は視線を上げた。


「瀬戸さんのせいで」

思わずむせそうになる。

「僕」

「はい」

「それ、責任重大じゃない?」

「重いですか」

「むしろ、うれしい」


彼女は少しだけ息をついて、表情をやわらげた。

それから、ぽつりぽつりと言葉を置いていく。


「最初は、丁寧な人だと思ってました。誤配の荷物を、ちゃんと運んでメモまで残してくれる人」

「それ普通じゃない?」

「普通でも、やらない人はやらないです」

「……ありがとう」

「それから、返事をくれる人だと思いました」

「返さないと悪いかなって」

「最初はそうでも、途中から違いましたよね」


見抜かれていたらしい。

僕は素直に負けを認めるしかない。


「違った。待ってた」

「私もです」


静かな店内で、その言葉だけが妙にはっきり残った。

会えなくてもやり取りできた時間が、急に全部本物に思えてくる。


「引っ越したら、メモはもうできないです」

彼女が言う。

「そうだね」

「だから、終わりにする理由にはできると思ってました」

「でも、したくなかった」

「……はい」


その“はい”は、メモには書けない種類の返事だった。


僕はコーヒーカップに触れたまま、少し考える。

勢いで言うと軽くなる気がして、でも慎重すぎると間に合わない気もした。


「小鳥遊さん」

「はい」

「引っ越しても、会いたい」

彼女がまばたきを忘れたみたいに静かになる。

「隣人じゃなくなっても」

少しだけ呼吸を整えて、続けた。

「メモがなくても、ちゃんと連絡したい。できれば、仕事帰りとか、休みの日とか。そういうふうに会いたい」


言ったあと、手のひらが熱かった。

彼女はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく笑った。


「よかった」

「え」

「私から言うつもりだったので」

「そうなの?」

「かなり」

「じゃあ危なかった」

「本当に。瀬戸さん、こういうの言わない人かと思ってたので」

「言わないまま後悔するの、もっと嫌だった」


彼女はその言葉に目を細める。

それから、今までで一番やわらかい声で言った。


「私も、会いたいです」

たぶん、その一言で十分だった。

でも彼女はちゃんと続ける。

「隣に住んでるからじゃなくて、瀬戸さんだから」

胸の奥が、静かに痛むくらい満たされる。

「だから、引っ越しても終わらせたくないです」

「うん」

「できれば……はじめたいです」


はじめたい。

付き合う、と彼女は言わなかった。

でもその言い方のほうが、僕にはずっとしっくりきた。

ここまで文字で少しずつ近づいてきた関係に似合っている気がしたからだ。


店を出たあと、僕たちはアパートまで一緒に戻った。

以前なら数歩で終わる距離なのに、今日はやけに短い。


階段の下で、彼女が足を止める。


「そうだ」

「なに」

「最後のメモ、まだです」

「最後?」

「隣人としての最後、です」


彼女はバッグから小さな付箋を取り出した。

準備していたらしい。僕のほうへ差し出す。


そこには、短くこう書かれていた。


『次からは、ドアノブじゃなくて直接渡したいです』


僕は笑ってしまった。

ずるい。そんなの、うれしいに決まっている。


「返事、今?」

「今です」

「口で?」

「できれば文字でもほしいです」


僕はポケットからボールペンを探した。営業先でメモを取る用の、安いペンだ。

彼女の付箋の下に書き足す。


『じゃあ最初の一枚は、今度の土曜に手渡しで』


それを見た彼女は、付箋を胸元で大事そうに持った。

そんな仕草をされると、自分が書いた文字まで特別に見えてしまう。


「土曜、空けておきます」

「僕も」

「遅刻したらどうしますか」

「初回から印象悪いな」

「少しだけです」

「じゃあ絶対遅れない」

「そのほうがうれしいです」


夕方の風が、階段の下を抜けていく。

隣の部屋に帰るはずの時間なのに、今日はそれだけじゃない。


彼女は階段を一段上がってから、振り返った。


「瀬戸さん」

「うん」

「今まで、会えないのに近かったですね」

「たしかに」

「でもこれからは、会えるのにもっと近くなれます」


その言葉に、うまく返事ができなかった。

ただ頷くしかなかったのは、たぶん今まででいちばん嬉しかったからだ。


小鳥遊さんは小さく笑って、自分の部屋へ戻っていく。

隣人でいられる時間はもう少しで終わる。

でも、その先に続く約束がもうある。


ドアノブに残るメモは、やがてなくなるだろう。

それでもたぶん、あの小さな紙切れが始めた恋だけは、引っ越しでは回収できない。

むしろこれから先のほうが、ずっと本番なのだと思う。

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