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 仕事終わりに田中 栄太と待ち合わせた俺は、子供部屋の前に立っていた。


「おじいちゃんのお友達が来たんだ。ほら、お父さんが言っていただろう?あの作家さんだよ」

 田中 栄太は閉じられたままのドア越しにそう呼びかける。

「丑弌 論咲と申します」

 扉の前で軽く頭を下げて挨拶する俺。ドアの向こうでガタリと物音がした。

「論咲?」

 その聞き覚えのあるイントネーションに俺は思わず「ヒメ?」と返す。ガチャリと部屋のドアが開く。こもった空気の中に少年が立っていた。

「髪の毛、ピンクじゃないね」

 俺の姿を見るなり、つまらなそうに田中 栄太の孫が言った。

「ヒメこそ、そもそも性別からして違うじゃないか」

 夢の世界で出会った人間と現実世界で会うなどというビックイベント、もっと驚くべきところだった。だが、人間というものは驚きすぎると逆に受け入れてしまうものらしい。目の前の少年とヒメが同一人物だとあっさり受け入れた自分自身に驚く。


「論咲の見たい姿で現れるんだ。僕のせいじゃない」

 プイっと顔を反らして田中 栄太の孫が言った。

「名前は何と言うんだ?」

 俺は先を促した。

「田中 拓也」

 顔を反らしたまま、田中 拓也は答えた。俺の視界の端で田中 栄太がオロオロと心配そうに様子を見ている。俺に説明を請うような目を向けてきたが、夢の中で会いましたなんて説明し、信じてもらえるような話術は俺にはない。問い掛けるような視線には気付かなかったことにする。俺が鈍感なふりして微笑んで見せると田中 栄太は不安そうに瞳を揺らしながらも口角を上げた。どこにでもいる孫に甘いおじいちゃんの表情だった。


「あー、なんだ。田中さんに頼まれて”自分に自信のない10歳に聞かせるお話”考えてきたんだよ。とりあえず話させてくれ」

 俺は頭を掻いて咳ばらいし、返事を待たずに続けた。

「”カブトムシの箱”って知ってるか?ルートヴィヒ・ゲンシュタインって人の言った考え方なんだが。例えば。箱に入った”カブトムシ”と自称する物を俺と田中さん、拓也くんのそれぞれが一つずつ持っていたとして。その箱の中身をお互いに見ることができず、自分の箱の中身によってのみ、「カブトムシ」を知ることができる状態におかれた時。”相手の箱の中にあるカブトムシ”を本当の意味で知ることができるだろうか?って話なんだけど、どう思う?」

 田中 拓也は首を傾げた。田中 栄太も一緒になって首を傾げている。俺は口頭説明の難しさに、やっぱり小説に落としてから来るんだったと後悔が過ぎる。

「まっ、分かりにくいよな。そうだな、じゃぁ、ちょっと実際にやってみようか」

 俺はネタ帳からページを破くと、それぞれに1枚ずつ渡した。2人に誰にも見せないようにカブトムシを描いてほしいとお願いする。描き終わった頃をみはからって、俺は質問した。


「角は1本ですね?」俺の言葉に、田中 拓也は首を振り、田中 栄太は頷く。

「羽の色は茶色ですね?」俺が続けた言葉に、2人とも頷く。「まぁ、俺のは違うけど」と俺は言い置く。

「足は6本ですね?」俺達3人の意見が纏まったところでお互いの絵を見せ合った。


「拓也くんのは、カブトムシのメスだね」俺は田中 拓也が描いたものを指差して言った。

「田中さんは王道のカブトムシ、俺はヘラクレスオオカブトを描いた。ボールペンだから色は同じだけど。背中の羽、実際は黄色なんだ」

 俺はスマホを取りだし、あらかじめ待受にしておいたヘラクレスオオカブトの写真を2人に見せた。田中 栄太からは小さな歓声が、田中 拓也からは不満げな「ずるい」という声が上がった。自分の描いたもの以上の意外性を持った俺の答えに嫉妬しているのだろう。


「これが”カブトムシの箱”。まぁ、きちんと勉強している人が聞いたら怒られる、雑な説明なんだけどね」

 俺が、田中 拓也が理解したかどうか確認するようにその顔を見ると、

「で?つまり何が言いたいの?」

 不機嫌そうな顔で田中 拓也に返された。


「まま、焦るなよ。拓也くん、他人の期待に応えられない自分には価値がないって思ってるんだろう?」

 俺は手の平を田中 拓也の目前で動かして落ち着くようにジェスチャーする。

「……僕からあの世界を取り上げるつもりなら応じないよ。もう僕は疲れたんだ」

 田中 拓也は言うと部屋のドアを閉めようとした。俺は一昔前の訪問セールスマンみたいに足をドアの隙間に挟んでそれを阻止する。

「拓也くんが思ってる”期待”って実は、カブトムシの箱みたいなもんでさ?案外、そんなに重たいものじゃないかもよ?」

 ドアの隙間を通すように俺が言葉を流し込む。


「……論咲だってあの世界の方が居心地いいでしょ?」

 形だけ、ドアの取っ手を引っ張りながら田中 拓也が返してきた。

「まぁな」

 俺が肯定したことで田中 栄太が動揺したように身じろいだ。詳しいことはわからなくても、孫が指した世界が”外にでてきて欲しい田中 栄太にとって”好ましいものじゃないと察したのだろう。


「じゃぁ、あっちの世界で過ごそうよ。人の世界で期待に応えつづけて摩耗するなんて不毛だよ。うまく出来なかったら否定されてもう2度と同じステージには立てない」

 小学生にしては難しい言葉をつかう田中 拓也はきっと俺が向き合わずに逃げて来たことに向き合いつづけていたのだろう。沢山考えて、その答えを探して、疲れた。


「すごいな。拓也くんの見ている世界」

 俺は思わず素直にそう言った。俺の中の丑弌 論咲が今すぐにでもこの子を主人公にした小説を書きたいと疼き出す。数倍生きてきた俺が立ち止まってしまうような問題に、10歳で真っ向から向き合おうとしたその姿勢が眩しかった。


「は?僕が見ている世界じゃなくて、ただの現実でしょう?」

 不愉快そうに顔をしかめて、田中 拓也が言った。

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