書けない
仕事終わりにはジョーカーに寄る。体に染み付いた習慣のおかげで俺は今、ステンドグラス装飾のドア前にいた。
「どんな顔して入れば……」
昨夜の乱れようを思い出してドアを開けないでいると、ドアの方が開く。出てきた人とぶつかりそうになって慌てた。頭を軽く下げて、道を譲るように体を動かした俺に声がかかった。
「鳴海さん?」
顔を上げた俺の目の前に両眉をあげた三鷹 聡子が立っていた。
「こんばんは」
俺は挨拶をしたものの、どうしたものかと考える。店に入るなら今だし、帰るとしても今だった。
「今日は少し顔色マシみたいですね……田中さんは、その、私のせいで池に落ちたんでしょうか?」
そわそわと落ち着き無くハンドバックを持ち替えながら三鷹 聡子が聞いた。
「……その……仕返ししたいとかじゃ、ううん、100%田中さんを好意的に見てるかと言われたらそれは違ってて。えっとその。物語を受け取った時は自分が声を出せた事にテンション上がってたんです。だけど、自宅に帰ってから、改めて考えてみたら、なんか、良いように手の平で転がされたような気分になって。そもそも、あんなふうにビビらせて正常な思考回路を奪うのは違うんじゃないかと……」
ストーリーテラーでの出来事が三鷹 聡子を変えたのだろう。
一生懸命自分の言葉で話そうとする三鷹 聡子はもう、言葉に詰まっても俯かない。それどころか俺の目をまっすぐ見ている。「お茶でも?」と俺は、三鷹 聡子が背にしているジョーカーを指差した。
「いいえ、今日のところは……田中さんに、謝った方がいいでしょうか?」長いまつげを一度伏せて三鷹 聡子が言う。
「落ちたのは、三鷹 聡子さんのせいじゃないですよ」俺の答えを聞いた三鷹 聡子はホッとしたように微笑み、頭を下げて帰って行った。その姿を見送りながら俺はジョーカーのドアを開けるかどうかの考えに戻る。
ここ数日でいろんな考えに触れすぎたせいだろう、頭にもやがかかったようにすっきりとしない気分だ。疲れから犯してしまった昨夜の失態を考える。今日はおとなしく家に帰った方が良さそうだ。結局、ドアベルを鳴らすことなく、俺は自宅にもどった。
「さて、せめて頼まれた作品は書かないと」
帰りがけに買ったコンビニ弁当を胃に流し込んだ後、執筆の準備を整えた。俺はミントのラムネを口にいれる。いつものすっきりとした刺激で鳴海 創は意識深く眠り、気づいたら作品ができているはずだった。
「嘘だろ?」
時計の秒針がなる音が嫌に大きく耳に響く。今まで、どんなに残業していても、上司のお酒に付き合って帰りが午前様になっていても、「書こう」と思えば、多少は書けた。画面では入力待ちの記号が、秒針の音に応えるように明滅を繰り返している。
「おい、論咲」
思わずそう呼びかける。正しいポジショニングでキーボードに載せられた指はいつまで経っても動かない。
ぶわっと汗が吹き出すのが分かった。「スランプ」の四文字が頭を過ぎる。スランプなんて一流の上手に文章が書ける人が陥るものだと思っていた。技術もなにもなく、ただ心の赴くまま書く俺には縁の無いことだと。
「嘘だろ」
せめてプロットを書こうと、紙とボールペンを取り出した。
「あなたを産まなければ一緒に住んだかもね」
母親の言葉が脳内いっぱいに反響する。
「これは、頼まれたんだ。頼まれたんだから、望まれているんだ」
俺は何度も頭を振りながら母親の言葉を打ち消そうと呟いた。母親の言葉が薄れる代わりに三鷹 聡子が読み上げる作品に受けた衝撃が思い返された。自分が書くよりも遥かに完成度の高い作品の数々。
「俺が書く必然性は、どこにある?」
ウェブにアップした力作のPV数が数ヶ月ゼロだった頃にさえ口にしなかった言葉を聞く。その言葉が俺の口から出ていた。ボールペンを握った手さえ、いつまで経っても動かなかせない。
俺が書く必要なんてどこにもない。その言葉を口にしないようにギュッと唇を結んだ。




