5話 夫婦の一歩はゆっくりと
遅い朝食を終えると、カリムは再び書類の人となった。
ミラは暇である。窓際に座って景色を眺めていたのだが、3時間もすると飽きた。
(最初は感動したよ、最初はね。外国の田園風景が馬よりも速く流れて行くなんて感動ものさ。でもね、延々と見ていれば慣れちゃうじゃん)
頬杖をついて、森やら麦畑やらを、ぼぉ〜と眺める新妻。夫カリムはずっ〜と書類と睨めっこ。飽きないのかと疑問に思い、備え付けられた小さな机に座るカリムの手元を後ろから覗き込んでみる。
「数字が沢山ですね、旦那様」
大蔵省の書類だ、数字だらけなのは当然。ミラは堅苦しい書体と数字の羅列に目がチカチカしてしまう。
「覗き見は淑女のマナーに反するな。いちおう国家機密だ。大人しくしていたまえ」
つまらない返答、つまらない夫、つまらない部屋。
ミラは机の端に置かれた書類の一枚に目を落とし、内容を速読して時間を潰そうと考えた。
「あらら? こりゃ何だっペ?」
「あっ、こら!」
サッと読んで興味を引かれ、思わず手に取ってしまう。カリムが慌てて取り返そうとするが、ミラは書類を睨んで離さない。
「婦女子の見るものではない、返したまえ」
「旦那様、この数字は確かですか?」
「なにが?」
「ここです。この数字の通りなら、この部署は鉛筆を月に一万本消費しています。トイレットペーパーなんて一つ100オーラ(オランス王国の通貨単位オーラ)ペーターランドなら3人家族の1日分の食費です〜わ」
50人程の部署で月に一万本の鉛筆、一人当たり月に200本の消費だ。トイレットペーパーは通常なら一巻6オーラ前後。100オーラのトイレットペーパーなど、ミラは故郷の王宮でも見たことがない。
「……むぅ」
カリムは言われて書類を読み直す。確かにそう記載されている。眉間に皺を寄せ、面倒臭そうな表情になる。
「これの何が問題なのだ。官僚の一番の仕事は書く事だぞ、人数も多いし、鉛筆の消費は激しいだろう。トイレットペーパーにしたって、庶民の物と貴族の物は質が違う。貴族に硬くてゴワゴワしたトイレットペーパーを使って痔になれと、君は言うつもりか」
カリムは少々強めに書類を取り返す。その時、指の先が僅かに巨乳の先端を掠った。
「がっぺ!」
「あっ! すまない!」
慌てて顔を逸らすカリム。耳が真っ赤に焼けている。
「ふ、夫婦だから大丈夫だっぺ。旦那様が望むなら、いつでも触って良いからですわ」
「いやいやいやいや! そんな話はしていない! とにかく、国家機密を勝手に見るな!」
カリムは背中を向けて呼吸を整える。
ひっひっふぅ〜。ひっひっふぅ〜。
「まてよ。君は書類の内容が理解出来たのか。物の一般的な価格を知っていて疑問に感じたんだな」
落ち着いて、重要なその部分に気が付いたカリムはミラに向き直り、胸の谷間に視線を落とす。
「はいっぺ。不正を見過ごしては、領の経営も国の運営もすぐに傾いてしまいます」
ミラは両の拳を可愛く握り、腕を寄せて巨乳をムギュッと強調して答えた。カリムは指先に残る柔らかな感触を思い出し、再び耳を赤く焼いたが、精神力で抑え込む。
「そうか。君はありきたりな令嬢とは違う様だ」
カリムは机から数枚の書類を抜き取ると、ミラを促してソファーに並んで座る。
「人間の組織はね、大小の差こそあれ、何処にでも不正がある。その全てを正義の名の下に取り締まるのは不可能だし、やるべきでもない。多少は目を瞑って息抜きをさせるのも、上に立つ者の仕事だ」
不正には気が付いている。その上で許している。カリムはそう説明してミラを諭す。
「でも、国民の税金でっすわ。経費の水増し請求も、ここまで行けば十分に国を滅ぼします」
一つの部署がやるなら他の部署もやっている。各省庁で水増し請求や不適切な経費の使い方が常態化しているのなら、国家は虫食いだらけの穴開きチーズと同じだと反論する。
「君の言う通りだ。しかし、その金が国内で使われ、再び市井に流れるなら正負はゼロだ。大した問題にはならない」
「そうだべか? ですわ」
「そうなんだ。問題は、不正をする者が調子に乗り過ぎる事。それから犯罪組織や外国にお金が流れる事だ。それ以外は、分かっているぞとメッセージを送った上で見逃す」
カリムは少しだけミラとの距離を縮めて説明を続ける。
「予算請求書や領収書を調べて犯罪を見つけ、国家への裏切りを暴き、行き過ぎた者に釘を刺すのも私の仕事の一つなんだ。君の見つけた100オーラのトイレットペーパーは度を越しているから、近々制裁を加える予定だった」
ミラは感情では腹立たしく思いながら、理屈では理解して、カリムへの評価を上方修正する。旦那様はクズだけど、誠実に仕事に向き合う苦労人の様だ。
「形だけとは言え、私の妻になった君には教えておく。現在最も問題になっているのはこれだ」
数枚の書類をミラへ差し出す。それを速読すると、目を疑う数字が並んでいた。
「こったら事、許されないべ!」
ミラは標準語を忘れるくらい頭に来た。カリムは巨乳に意識を奪われて気にしなかった。
「酷いだろう、建設省の予算請求書だ。忌々しい事に、建設省を牛耳っているのは父方の叔父で、私の命を狙っているゲスナー伯爵なのだ。当然、こんな馬鹿げた予算をそのまま許可などしないが、ある程度は持って行かれる」
「そんな。これだけの大金、最高級の山羊チーズが何個買えるか分からんべ」
「これも政治だ、仕方ない」
カリムは疲れた微笑みを作る。けれど、これまでの他人行儀な微笑みではない。そこには話の通じる友を得た安堵が感じられた。
「まさか君に話して通じるとは思わなかった。君には経営者としての教養とコスト意識、それに正義感があるんだな」
カリムは語り出した。ゲスナー伯爵が如何に下衆であるかを。自分や良識派貴族が如何に苦労しているかを。国家運営が如何に大変であるか、世間知らずで我儘な貴族令嬢を相手にするのが如何に疲れるかを。
その全てを、ミラは何度も相槌を打ちながら、反論を一切せず聞き役に徹し受け入れた。そうして時間が過ぎ、気が付くと陽が地平線に消えかかっていた。
「愚痴のような話をすまない。退屈だっただろう」
初夜の素っ気なさが嘘の様に恥じらうカリム。
「ぜんぜん。夫婦だで、気にせんと何でも話して欲しいっちゃ。オラ、旦那様の奥さんになる為にオランス王国に来たんじゃけん」
ミラもいつの間にか、無理な標準語をやめていた。
「それが君本来の話し方か」
「あっ! がっぺ! ですわ!」
今更遅い。カリムは口元を隠して「くくくっ」と笑う。
「オラの話し方、やっぱり変だべか?」
しゅんと肩を落として上目遣いでカリムを見る。
「それが故郷の標準語なのだろう。ならばおかしな事は何もない。プライベートな時間なら、その話し方で良いだろう。嫌いではない。むしろ、飾らない姿が好ましい」
「……旦那様」
赤い夕陽に照らされた黒鉄の列車と2人の横顔。
童貞のカリムは、ミラの親しみ易い田舎顔と巨乳に内心ドキドキしながら、彼女を異性として意識し始めていた。
対して誤解したままのミラは、男色家の言葉をどこまで信じてよいか。社交辞令を鵜呑みにするのは危険だぞ。と警戒する。
「あの、旦那様」
「ん? あ、あぁ。なんだ?」
「そろそろ夕飯を作りに行って来ますっぺ」
「そ、そうか。君の料理は美味しいから楽しみだ」
「はい。期待して、ええんやで」
ミラはそそくさと客室を出る。カリムは名残惜しそうに見送る。結婚式から3日目。少しずつ、何かが動き出したかもしれない。




