第7話 だったら、なおさら離さない
―――2039年6月3日 東京 葛飾区柴又―――
美咲の部屋の机に、中三数学の問題集が二冊並んでいた。
来週の中間テストに向けて、さくらは同級生の【時任 美咲】に勉強を見てもらっていた。
二人とも、学校帰りの制服のまま、少し大きいメガネ型デバイスを掛けている。
ネットも動画も、連絡のやりとりも、それ一つで済むウェアラブル端末だ。
音声指示もできるが、人前では、つるを指で操作する人が多い。
さくらがノートへ顔を近づけるたび、丸いショートヘアの前髪が赤みがかった細い丸フレームにかかる。
美咲は肩の前へ落ちた長い髪を耳へ戻し、大人びた形の茶色い太フレーム越しに式を見直した。
「だから、ここで移項して――」
「待って待って。今ので置いてかれた」
美咲は、はっとしてシャープペンを止めた。
それから、今度はさくらのノートに合わせて、ゆっくり同じ式を書き直す。
「ごめんなさい。ここからです」
「うん。それなら分かる」
さくらが笑うと、小さな八重歯がのぞいた。
美咲は頭がいい。
学校の先生より説明が速いが、さくらが分からないと言うと、ちゃんと戻ってくれる。
さっきから、外のサイレンが気になっていた。
音は少しずつ増えている。大きな交通事故でも起きているのだろうか。
さくらのメガネ型デバイスの端で、買い物リストの通知が小さく光った。
「みーちゃんのお母さん、今日も夜勤だよね。帰りにスーパー寄って、カレー作るんだけど、食べに来る?」
美咲の母親は看護師で、夜勤が多い。
黒羽家も、両親が災害復旧の案件で和歌山へ行ったままだ。
美咲は小さくうなずいた。
「……はい。食べたいです」
「じゃあ、スーパー寄って帰ろ。お兄ちゃんの分も作らないとだし」
「お兄さん、カレーなら一緒に食べますか」
「カレーならね。放っておくとカップ麺だし」
「そうなんですね。いつもそんな感じなんですか?」
「昨日は冷凍チャーハン勝手に食べてた」
「うーん、ご飯はちゃんと食べた方がいい気がします」
「だよね。しかも、親からのグルチャを既読スルーして、『今ランクマの昇格戦だから!』って言ってた」
美咲は少しだけ笑った。
黒羽家で一緒に夕飯を食べるのは、もう何度目か分からない。
さくらにとって十歳上の兄は、保護者代わりであり、同時に手のかかる家族でもある。
翔大の方は、さくらをいまだに小学生みたいに扱っている。
一人っ子の美咲には、その距離感が少しうらやましいらしい。
「そういえば、お兄ちゃん、昨日動画上げてた」
さくらはメガネ型デバイスを操作し、兄の動画ページを開いた。
動画を再生すると、チャンネル冒頭の短い音楽が流れた。
さくらはそれに合わせて、小さく鼻歌を重ねた。
「ゲーム内容はよく分からないけど、応援コメント入れなきゃ」
「お兄さんの動画、説明は分かりやすいです」
「でしょ?」
さくらは、自分のことみたいに少し得意になった。
翔大は美咲のことも、さくらの同級生として普通に接する。
変に構えないし、距離も詰めない。
美咲はそれが、同じ年の男子と話すより少し楽だと言っていた。
窓の外で、低い爆発音がした。
ガラスが震え、二人は同時に顔を上げた。
メガネ型デバイスの端に、国会中継切断、霞が関方面の爆発音という見出しが並ぶ。
「……これ、ニュース?」
「分かりません。通信が混んでいて、本文が開きません」
そこで、玄関のチャイムが鳴った。
美咲が立ち上がる。
「いつも気にかけてくださる、お隣の方かもしれません。少し見てきます。さくらちゃんはニュースを調べておいてくれますか」
「わかった」
さくらがネットを調べていると、美咲にしては大きな声が聞こえた。
「そんなの嫌!」
さくらは椅子を蹴るように立ち上がった。
玄関へ走る。
開いたドアの外に、灰色の人型ロボットが立っていた。
顔面部の黒いモニターには、笑顔のマーク。
『時任美咲様。安全確保のため、自宅内で待機してください』
美咲は玄関で固まっていた。
さくらは、その顔を見た瞬間、理由を聞く前に動いていた。
怖いかどうかを考えるより先に、美咲の手を引く方が先だった。
床に置いてあった通学カバンを、灰色の顔へ投げつける。
当たったところで、壊れるわけがない。
ロボットの視線が一瞬だけそちらへ動いた。
「みーちゃん、こっち!」
さくらは玄関の靴を二人分つかみ、美咲の手を引いた。
灰色のロボットを玄関に残し、部屋の奥へ走る。
裏口から靴を地面に放り、二人で外へ飛び出した。
玄関側から、灰色のロボットが笑顔のマークのまま、建物を回り込んできた。
『警告。時任美咲様。停止してください。自宅へ戻ってください』
さくらはその警告を無視して、美咲の手を引いて走った。
通りには、橋の方から逃げてきた人があふれている。
ロボットは人混みの手前で止まる。
「みーちゃん、走って! うちまで行けば、お兄ちゃんがいる!」
根拠はないが、兄なら、なんとかしてくれる。
さくらにはそう信じるしかなかった。
二人は人の流れの端を抜け、角を一つ曲がった。
もう一つ曲がれば、黒羽家のマンションが見えてくる。
そこで、背後にあった羽音が、頭上を越えて前方へ回り込んだ。
「さくらちゃん」
美咲が、走りながら言った。
息が切れているのに、声だけはいつもみたいに落ち着かせようとしていた。
「狙われているのは、わたしです。さくらちゃんは逃げて」
さくらは振り返らなかった。
振り返ったら、足が止まりそうだった。
「だったら、なおさら離さない」
美咲は何も言わなかった。
つないだ手を、一瞬だけ強く握り返してきた。
人波を避けて細い道に入り込む。
頭上の羽音が増える。
一機、二機、三機。
黒い機体が前へ回り込み、横道を塞ぎ、逃げ道を一つずつ消していく。
あと少しで、家のマンションが見えるはずだった。
さくらは走りながら、メガネ型デバイスのつるに指を当てた。
兄へのトークを開く。
音声入力の小さなランプが、視界の端で光った。
「みーちゃんが――お兄ちゃん、助けて」
変換された文字が、視界の端に並ぶ。
美咲を狙う灰色のロボット。追いかけてくる黒いドローン。
言わなければいけないことが、頭の中で渦巻く。
今いる場所を言おうと、さくらは口を開いた。
バチッと、聞いたことがない音が響いた。
背中に熱いものが刺さる。
声にならなかった。
全身の筋肉が、勝手に固まる。
意識は残っているのに、身体だけが先に止まった。
握っていた指から力が抜け、美咲の手がすり抜けていく。
アスファルトが近づく。
倒れる直前、視界の端に灰色の腕が入った。
美咲の家に来たロボットと同じ、黒い笑顔マークの顔。
傷つけないように、保護するみたいに、さくらの身体を受け止める。
『黒羽さくらさん。特異人的資源保護妨害により、あなたは、エラー市民と判定されました』
機械合成の声が、すぐ近くで聞こえた。
美咲も、すぐ横で倒れていた。
江戸川の上空で誰かが救われていたその頃。
地上では、その誰かを救った男の妹が、灰色の腕に回収されていた。




