第37話 だって妻ですもの♡
数十秒後、共有画面の真ん中に、新しい投稿が立つ。
┌──────
わたくしは、市川橋の配信者さんを応援します。
あの夜、橋を渡って、家族と再会できた方がいます。
わたくしのリスナーにも、いらっしゃいます。
あの夜、誰かが実際に橋を渡ったからこそ、これ以上の混乱を避けるための合意が急がれた。
わたくしは、そう考えています。
誰かを助けた人を、わたくしは笑いませんし、笑わせませんわ。
音嶺 アヤ
──────┘
プロフィール画像には、ピンクの縦ロールと大きなリボン、扇で口元を隠したお嬢様姿が映っている。
「……お前、あの音嶺アヤだったのか」
工場の隅で、玉さんのキーを叩く音が止まった。
投稿主のアカウントには、公式認証マーク。
登録者、2,504,312人。
「――――桁、バグってない!?」
「……バグってないですよ。本物です」
アヤがふっと悪戯っぽく、でも少しだけ照れたような声を出した。
お嬢様口調で歌う有名VTuber、音嶺アヤ。
その名前こそ知っていたが、動画を見たことはなかった。
ネットやゲームの海には、有名人の名前を騙ったり真似したりする奴が山ほどいる。
だからアヤも、そういうロールプレイを楽しんでいる一般人だと思い込んでいた。
「ギルマス、今さら気づいたの。遅い」
「月読、いたのかよ」
いつの間にか月読が、チャットに入っていた。
「月読は、知ってたのか」
「分からないギルマスが二流」
「言えよ」
「声ですぐ分かるのが一流」
月読だけが、いつもの温度だった。
「……それに数字の話、しないのが八咫烏」
「親衛隊百万人って設定盛りすぎだと思ってたんだが?」
「あれでも、少なめに申し上げておりましたの」
:え、音嶺アヤ? 本物!?
:大物が動いた
:黙ってたけど、うちの親戚が市川橋で渡れました。ありがとう
:うちも。祖父が向こうで保護されてる
:待ってれば帰れたって言うけど、市川橋がなかったら合意出てたか?
:一部が通ったから、暴動になる前に開けたんだろ
:タロンが動かなかったら、今も通行禁止だった可能性ある
:急にWWUが優しくなったと思ってるやつ、さすがに無理
俺への罵倒が消えたわけじゃない。
ただ、矛先の一部が、音嶺アヤ本人へも向き始めている。
共有画面の端で、音嶺アヤの企業案件にまで罵倒が届いている。
表の名前で、ピンク縦ロールの公式アイコンが火を受け止めている。
罵倒一色だった画面に、感謝の報告が割って入っていく。
黙っていた人たちが、声を出せる場所ができている。
「ほら。一気に変わりましたでしょう? 火は消すより、燃える向きを変える方が楽ですわ」
アヤの声は、いつも通り軽かった。
「……なんで、そこまでするんだよ。お前の表まで、燃えるんだぞ」
返事が少し遅れた。
「言いましたでしょう? ダーリンの妻ですもの♡」
市川橋の夜と同じ、はぐらかしの言葉のはずだった。
なのに今夜は、冗談に聞こえなかった。
「今はこれだけ覚えてくださいまし。ダーリンの声は、明日へも、画面の向こうへも届きますのよ」
それだけ言い残すと、アヤはオフラインになった。
画面の中では、まだ感謝と罵倒がぶつかり合っている。
その真ん中に、250万人を抱えた名前が、盾みたいに立っていた。
◇
工場の灯りは、その夜、消えなかった。
玉さんは、ノートPCの前から動かなかった。
市川橋の解析ログを、ずっと睨んでいた。
「翔大」
玉さんが、画面を見たまま俺を呼んだ。
「読みを外したのは、私だ。公開配信を使うと提案したのは、私だった」
自分を責めているのに、玉さんの声は淡々としていた。
「敵の配置、避難ルート、ダンボール部隊の囮。戦術レベルは読んだ。だが、協力者の身元が洗われるところまでは、盤面に入れていなかった。確認が甘かった」
玉さんが、ようやく画面から目を離した。
銀縁のメガネの奥の目が、いつもより暗かった。
「私の……読み負けだ」
「玉さんのせいじゃ――」
「慰めはいらない」
玉さんの視線は、もう画面に戻っていた。
「連れていかれた人の行き先は、月読さんとアヤさんにも追ってもらっている」
捕まった人の一覧と、灰色の車両の行き先候補が並んでいる。
「助けに行く先を探す。同時に、行動予測モジュールを完成させる。助けに行ける機体にする」
キーを叩く音だけが続いた。
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