第2話 ゲームなら、これは詰んでいる
車列の前の方では、すでに人が逃げ始めている。
スーツ姿の男が、ドアを開けたまま走る。
配送車の運転手は、荷台の扉も閉めず、伝票の束を落としている。
後ろの方は、まだ状況を飲み込めていない。
窓を開けて前方をのぞく人、クラクションを鳴らす人。
そこへ速報が流れ、車列の後ろまで、一気に混乱が広がった。
老夫婦が、ガードレール沿いに寄る。
子供を抱えた母親は、片方だけ脱げた靴を見捨てて、人の流れに押されていく。
:パニックじゃん
:どうするのが正解なんだこれ
:普通に怖い
:これマジで現実なの?????
都心へ戻る者もいる。
他の橋へ徒歩で向かおうとする者もいる。
行き先はバラバラなのに、誰もが橋の方を何度も何度も振り返る。
カメラを河川敷へ振る。
混乱を避け、橋から離れようと人々が土手沿いへ流れ出す。
その江戸川の上空を、人影が滑るように横切る。
「人が飛んでる……!?」
:空中機動キャラきた
:ハチドリ隊じゃん
:自衛隊のジェットスーツ部隊
:リアルにイベント湧いとる
:背中と腕の噴射で飛ぶやつな
ハチドリ隊の名前は知っている。
けど、現実の空に人間が浮いている。
理解がすぐには追いつかない。
ハチドリ隊員は橋へ向かうが、近づきすぎない。
少し手前で減速し、ジェットの噴射を細かく揺らしながら空中にとどまる。
口元が動き、何かを大声で伝えているように見える。
「偵察してるのか」
:来るの早くね??
:誰だろ? 紫苑ちゃんか葵ちゃんかな?
:近くで訓練してたやつ?
:葵ちゃんだったら熱い
ふと、小型観光船の乗り場が俺の視界に入った。
川を渡ろうとする人々が、列を作ろうとしている。
それでも不安に押されて、前へ前へと人が詰めかけている。
「――あそこの桟橋、人が押し寄せすぎててヤバい」
俺はカメラを桟橋へ向ける。
:どこ?
:見えん
:鴉カメラ下手
:右下?
桟橋の端から、小さな身体が江戸川へ落ちた。
子供だ。
水しぶき。
「やば、落ちた!」
流れが、子供をあっという間に下流へ運んでいく。
:あ、誰か落ちた
:子供やばい
:配信してる場合か
:110番しろ
異変に気づいたハチドリ隊員の動きが変わる。
橋へ向いていた身体を、川下のこちら側へ向ける。
:あ、ハチドリ気づいた?
:そこから間に合う?
:ギリじゃね
次の瞬間、落ちた子供へ一直線に身体を倒した。
腕と脚の間の翼面が風を掴み、ばっと広がる。
明るい灰色のジェットスーツが川面の数メートル上まで一気に降下。
子供の真上は避け、少し斜め上で止まる。
腰の装備が開き、輪のついたロープが伸びた。
:いけ
:届いて
:手伸ばせ!
「掴めええええ!」
子供の手が、ロープに届かず空を切る。
やばい、届かない。
だが、もう片方の手をめいっぱい伸ばし、ぐっとロープを捉えた。
ジェットスーツの噴流が太くなる。
抱え上げて飛ぶ余裕はない。
水面を滑らせるように、いちばん近い岸へ引き寄せる。
岸辺から、母親らしき女性が膝下まで浸かりながら駆けつける。
助かった子供が、母親の腕の中へ転がり込む。
「いや、マジで無事でよかった!」
:助けた
:すげえ
:神
隊員も一度岸に降り立ち、噴射を切ってロープを巻き取る。
泣いて頭を下げる母親の横に立つと、急にその小ささが分かる。
大人の女性としては、頭ひとつ以上、背が低い。
バイザーの下の横顔は落ち着いていて、面倒見のいい年上のお姉さんみたいだった。
身体の線が出るほど、ぴっちりした飛行服。
そこに両腕と背中のジェットだけが大きく付いている。
隊員は濡れた子供に向かってわずかに微笑み、手首から先だけを小さく振る。
その笑い方は、戦場に似合わないくらい柔らかい。
:あれって葵ちゃんじゃん!
:さすが救助のプロ
「葵ちゃんって、あの山岳救助の?」
:そう
:切り抜きで見たやつ
:小さいけど飛び方えぐい人
:実在したのか
葵ちゃん。
ハチドリ隊の【真壁 葵】か。
切り抜きで何度か見たことがある名前だ。
山岳救助動画でバズったことのある、空を飛ぶ女性自衛官。
「本物速すぎ。こんな動きするのか」
真壁隊員は短く一礼し、再浮上の姿勢に入る。
背中と握った両手の先から、青い炎が細く立ち上がる。
岸辺から三メートルほど浮上。
――その瞬間、上空から黒い点が降ってきた。
「……は?」
一機、二機、三機。
橋の上空にいた機体だろうか。
黒い機体のドローンが、見る間に隊形を整えていく。
:え
:マジ?
:やばくね
:救助直後に敵襲はひどい
数え終わる前に、包囲網が完成する。
「十二機」
川の上にいたとき、ドローンは動かなかった。
けれど今、真壁隊員の身体は東京側の岸の上にある。
支配地域への侵入者と判定されたのだろう。
真壁隊員を中心に、黒い機体が球体の檻を作る。
輪をずらしながら旋回し、逃げ道を塞いでいく。
:これ、ヤバいって!
:軍用だろこれ
:ボス部屋の扉閉まったやつ
:さっき爆発してたやつじゃん
:葵ちゃん逃げて
彼女は視線だけを動かした。
上空を見る。
次に川側。
橋側。
都心側。
どこにも、抜ける場所がない。
ゲームなら、これは詰んでいる。
全機が連動して旋回し、上空の数機が少しずつ高度を下げる。
天井が降りてくるみたいに、彼女を下へ追いやる動きだ。
下はまだ空いている。
けれど、下がるほど逃げる角度は減る。
音は、ここまで届かない。
けれど何を命じられているのかは、見れば分かる。
飛ぶな。
降りてエンジンを切れ。
真壁隊員の背中の炎が、細くなる。
誰かと話しているようで、口元が忙しなく動いている。
彼女は上昇を止め、河川敷の少し上に留まる。
さっき救われた子供が、母親の腕の中で空を見上げている。
その頭上で、子供を救った小さな背中が爆弾の輪に閉じ込められていた。
「こうなるリスク、考えなかったのか……」
俺と違って、あの人は先に飛んだ。
助けられるかどうかを考える前に、もう身体が動いていた。
:降りたらどうなるの? 捕まるやつ?
:これ、もう戦争だろ、捕虜扱いだよ
:鴉!葵ちゃん助けて!
:無理だろ
:でもあの人、さっき子供助けたんだぞ
:鴉もドローン持ってるだろ!
「ゲーム実況者に、何を期待してんだよ!?」
口ではそう返しつつ、足はもう動いていた。
ベランダから部屋へ戻る。
白いドローンをひっつかむ。
電源オン。
リアルの俺には彼女みたいに、空へ飛び出す勇気も、能力もない。
けど、コントローラー越しなら届くかもしれない。
誰かを助けた人が、助けたせいで追い詰められている。
そんなシーンを、見ているだけで終わらせたくなかった。
問題は包囲網。
崩すしかない。
こいつはレーシング用。
大きいものは運べない。
電池も五分ぐらい。
体当たり?
いや、俺のドローンが先に死ぬ。
釣りバッグを漁り、目についたストリンガーを取り出す。
:何それ?
:釣り道具?
:ストリンガーだよ、魚つないどくやつ
:それで何する気?
:釣るの?
「包囲網を崩す」




