第九話 勇者ではない者 森山葵3
月曜日の朝、教室は少し湿っていた。
週末に雨が降ったせいで、廊下の窓が白く曇っている。机の脚を引く音がして、誰かが鞄を机に置いた。後ろの方では、購買のパンの話をしている。
いつもの朝だった。
葵は自分の席に鞄を置き、スマートフォンを出した。
画面には、SeiðrのSNSが開きっぱなしになっていた。
【最ツツ高でした、ありがとう】
妙な文字化けみたいな投稿の下に、打ち上げの写真が載っている。テーブルには空のグラスと皿が並び、メンバーらしい男たちが肩を組んでいた。その輪から少し外れたところに、金髪の男が写っていた。
蓮。
ライブハウスの外で見た時は、もっと違うものに見えた。照明のせいか、音のせいか。あの場所全体が、まだ耳の奥に残っていたせいかもしれない。
写真の中の蓮は、ただの金髪の男だった。
目つきが少し悪くて、煙草が似合いそうで、たぶん学校の先生には嫌われるタイプ。写真だけなら、それ以上でもそれ以下でもない。
葵は画面を閉じた。
考えすぎだ。
昨日はライブの後だった。音が大きすぎたし、美咲はずっと興奮していた。自分まで変なテンションに引っ張られていたのかもしれない。
葵は、教室の反対側を見た。
彩花の席は空いていた。
いつもなら、もう美咲のところへ来ていてもおかしくない時間だった。
土曜の夜、彩花は泣いていた。
あの男は、彩花を見ていた。見ていた、というより、どこへ逃げるかを先に見ていた。
「葵?」
美咲が、後ろから肩を叩いてきた。
「おはよう。なに、朝から怖い顔して」
「別に」
「別にって顔じゃないけど」
「……土曜のこと、ちょっと思い出してた」
「ああ」
美咲の顔から、少しだけ笑みが引いた。
けれどすぐに、いつもの調子へ戻る。
「週末の疲れもあるんじゃない? 葵、ライブ初めてだったし」
美咲はにやっと笑った。
「楽しかったでしょ」
「まあ、うん」
「ほら、絶対ハマるって言ったじゃん。次も行こ。次」
「次って」
葵はスマートフォンをポケットにしまった。
「まだ一回しか行ってないんだけど」
「一回行けば十分。葵はもうこっち側の人間です」
「勝手に決めないで」
美咲は笑いながら、自分の席へ行った。
◇
昼休み、平田彩花が葵と美咲の席まで来た。
いつもの彩花なら、購買の新作パンとか、隣のクラスの噂とか、先生の機嫌が悪いとか、そういう話をする。
今日は違った。
彩花は葵の机の横に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
「土曜の夜のこと?」
葵が顔を上げると、彩花は一度だけ美咲の方を見た。
「放課後、ちょっと相談してもいい?」
「うん。いいけど」
「美咲も……いてほしい」
美咲が、パンの袋を開けかけた手を止めた。
彩花は笑おうとした。口元だけが少し動いて、すぐ戻った。
その顔を見て、葵は軽く流せなくなった。
◇
放課後、三人はグラウンド脇の自動販売機の前に集まった。
部活へ向かう生徒たちが、スパイクの袋を揺らしながら通り過ぎていく。校舎の壁に、サッカー部の声が跳ねていた。トラックの内側では、陸上部の後輩たちがストレッチをしている。
葵はジャージの入ったバッグを足元に置き、スポーツドリンクを買った。
美咲は紙パックのカフェオレを選んだ。
彩花だけが、いちごミルクの紙パックを両手で持ったまま、ストローを刺さずにいた。
「で」
美咲が、紙パックにストローを刺す。
「何があったの」
彩花は紙パックの角を、指で何度も押していた。同じところを押すので、少しへこんでいる。
「バイト先のラーメン屋の人なんだけど」
「あんた、バイトしてるの?」
「四月から始めたところ。学校には内緒ね」
彩花は、ようやくストローの袋を破いた。
「最初は、普通だったの。仕事も教えてくれて、ミスしても店長に怒られないように間に入ってくれたりして。私、助かってた」
「それが土曜の例の男?」
美咲が聞いた。
彩花は頷いた。
「黒澤さんっていう人。大学生じゃなくて、たぶんフリーター。二十歳くらいって言ってた」
「それで?」
「帰りに、たまたま一緒になったことがあって。それから、シフトが一緒の日は、外で待ってるようになって」
葵はキャップを開けかけた手を止めた。
「店の外?」
「裏口のところ。最初は、帰る方向が同じだからって言ってた。でも全然違ったの。私が駅に向かったら駅まで来るし、迎えがあるって言ったら駐輪場まで来る」
「それ、普通にアウトじゃん」
美咲の声が低くなった。
「店には言った?」
「まだ。大ごとにしたくなくて」
「いや、大ごとだよ」
「親にも言いたくない。バイトやめろって言われるし」
彩花はストローを紙パックに刺した。
けれど、飲まなかった。
「この前、言われたの。君は僕が守るって」
「うわ」
美咲が露骨に顔をしかめた。
「きつい」
「それだけなら、まだ断ればいいと思ったんだけど」
彩花は、そこで声を落とした。
「最近、変なことを言うの」
「変なこと?」
「自分は、魔王の側近だったって」
葵の指が、ペットボトルの表面で止まった。
「名前、なんだっけ。魔剣のラグナス。そういう人の生まれ変わりだって」
美咲は一瞬固まった後、彩花を見た。
「ごめん。思ったよりだいぶ変だった」
「で、私のことを、魔王ドロネオールの生まれ変わりだって」
ドロネオール。
葵は、ペットボトルから手を離した。
聞いたことがない名前のはずだった。ゲームにも漫画にも、たぶん出てこない。少なくとも、葵の知っている範囲では。
なのに、その名前を聞いた瞬間、階段を一段踏み外した時みたいに膝の奥が抜けた。
ラグナス。
ドロネオール。
彩花の声が、少し遠くなる。
「で、彩花は魔王様なん?」
美咲が言った。
「ちょっと」
彩花が泣きそうな顔で美咲を見る。
「ごめん。今のなし」
美咲はすぐに両手を上げた。
「ごめん、ほんとに。怖かったよね」
彩花は頷いた。
「私、どうしたらいいか分かんなくて。明日もシフト一緒なの」
「何時」
葵が聞いた。
「五時から八時」
「あいつもいる?」
「たぶん。黒澤さん、最近、私のシフトに合わせてるっぽい」
「店長に言った方がいい」
「言う。でも、その前に……」
彩花は言葉を切った。
「明日、バイト終わりに話したいって言われてる。断ったら、学校にバイトのことを言うって」
美咲の眉が上がった。
「は?」
「それだけならまだいいけど。店にも、私が変な噂を流してるって言うって」
「最低じゃん」
美咲が吐き捨てた。
「行かなくていい」
葵はすぐに言った。
彩花は首を振る。
「でも、向こうから来ると思う。私が行かなくても」
「じゃあ、こっちから行く」
美咲が身を乗り出した。
「私たちも行く。レグなんとかの生まれかわりにガツンと言ってやる」
「ラグナス」
葵は小さく言った。
美咲がこちらを見る。
「知ってるの?」
「いや、まさか」
葵はすぐに首を振った。
なぜ訂正したのか、自分でも分からなかった。
葵はスポーツドリンクを飲んだ。
甘さが、変に口の中に残った。
「普通じゃないよ。その人」
「だよね」
美咲が頷く。
「明日、私たちも行く。彩花ひとりで会わせない」
「でも」
「でもじゃない」
葵は彩花を見た。
「本当に困ってるなら、ひとりで行かないで」
彩花は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
その声は、グラウンドから聞こえた笛の音に、少しだけ重なった。
◇
翌日、葵は部活を早めに切り上げた。
顧問には、中間テストの勉強を友達とすると言った。嘘ではない。実際、鞄には数学の問題集が入っている。ただ、開く予定はない。
マドカの奥の席で、美咲がスマートフォンを見ながら唸っていた。
「えー」
「なに急に」
「Seiðr、しばらくライブ休止だって」
美咲が画面を向けてくる。
【Seiðrはしばらくライブ活動を休止します。楽曲配信等の活動は続けて行きますので応援お願いします】
投稿には、金髪の男が頭を下げている写真が添えられていた。
蓮だった。
葵はアイスティーのグラスを持ったまま、画面を見た。
「なんで急に」
「分かんない。昨日まで普通に投稿してたのに。せっかく葵も気に入ってくれたし、これからガンガン連れてこうと思ってたのに」
「そこまでは言ってない」
「顔が言ってた」
「言ってない」
葵はストローを指で回した。
氷がグラスの中で鳴る。
もう一度会えば、何か分かる気がしていた。
理由は説明できない。あの金髪の男が答えを持っていると決まったわけでもない。むしろ、面倒そうな人だった。近づかない方がいい相手にも見えた。
それなのに、活動休止の文字を見た瞬間、足の裏が変にむずついた。
「残念だね」
葵は言った。
美咲がじっと見てくる。
「それ、残念そうな顔?」
「どんな顔」
「怒ってる」
怒っているつもりはなかった。
ただ、置いていかれた気がした。
葵は残りのアイスティーを飲んだ。
店の時計を見る。七時四十分。
そろそろ出た方がいい。
「行こ」
葵が立ち上がると、美咲もスマートフォンを鞄に入れた。
「彩花、裏口で待ち合わせだよね」
「うん」
「黒澤って人も来るのかな」
「来るでしょ」
葵は鞄を肩に掛けた。
「来なかったら、それはそれで店に言いやすい」
「葵、こういう時だけ冷静だね」
葵は店の扉を押した。
外の空気は昼より冷えていた。部活帰りの足には、ちょうどよかった。
◇
ラーメン屋の裏口は、表の看板の明るさから少し外れていた。
壁際にビールケースと空の麺箱が積まれている。排気口から、スープとにんにくの混じった匂いが流れてきた。室外機が低い音を立てている。
彩花はすでにいた。
店の黒いTシャツの上に、制服のカーディガンを羽織っている。髪は後ろでひとつに結んだままだった。その横に、男がいた。
黒縁眼鏡。少し長い前髪。背は葵より高いが、肩が内側に入っているせいで、大きく見えない。
黒澤は店の黒いTシャツの上に、薄いパーカーを羽織っていた。前掛けを外したばかりなのか、腰のあたりに紐の跡が残っている。黒いリュックを片肩に掛け、片手で肩紐を握っていた。
魔剣のラグナス。
その名前とは、だいぶ遠かった。
「彩花」
美咲が声をかける。
彩花の顔が少しだけ緩んだ。
「来てくれたんだ」
「当たり前でしょ」
黒澤は、美咲と葵を順番に見た。
「彩花さん。誰、この子たち」
声は小さかった。責めるというより、先に拗ねている声だった。
「同じ学校の友達です」
「友達に話したの?」
黒澤の目が、彩花に向いた。
葵は半歩、足を動かした。
黒澤は彩花を見ているのに、彩花を見ていなかった。
彩花を心配している目ではなかった。自分の机に置いた物が、勝手に動かされていた時の目だった。
美咲が前に出る。
「あなたね。彩花を困らせてるのは」
「違う」
黒澤はすぐに言った。
「僕は、彩花さんを守ろうとしてるだけだ」
「それを困るって言ってんの」
「君たちには分からない」
「あ、出た」
美咲が眉を上げる。
「分からない系のやつ」
黒澤の手が、リュックの肩紐を握り直した。
「彩花さんは普通の人じゃない。僕だけが気づいたんだ」
「彩花は彩花でしょ」
「違う」
「違わない」
美咲は引かなかった。
「勝手に魔王とか言われても迷惑なんだけど。彩花、怖がってるじゃん」
「魔王様は、まだ思い出していないだけだ」
その言い方だけ、さっきまでと違った。
彩花が肩を縮める。
「黒澤さん、もうやめてください」
「彩花さん」
「私、そういうの分からないし、怖いです」
黒澤は口を開いた。何か言おうとして、言葉が出ないようだった。
美咲がその間に入る。
「聞こえた? 怖いって。もう近づかないで」
黒澤の顔が歪んだ。
「人間の小娘が」
美咲の勢いが止まった。
黒澤の黒縁眼鏡の奥で、目が赤く見えた。街灯のせいかもしれない。店の裏口から漏れた赤い光が反射しただけかもしれない。
黒澤の肩が、上がった。
美咲が、ほんの少しだけ引いた。
それだけで十分だった。
葵の足は、もう前に出ていた。
「ちょっと」
葵は美咲の前に入った。
「いい加減にして」
黒澤が葵を見た。
その瞬間、黒澤の顔から色が引いた。
さっきまでの怒りが、途中で切れた。
『お前』
声が変わった。
日本語ではなかった。
『お前は誰だ。セラヴィアなのか』
葵は動けなかった。
分からない音だった。学校で習った英語でも、ニュースで聞く外国語でもない。なのに、意味だけが先に入ってきた。
セラヴィア。
その名だけで、胸の奥が冷えた。
『それとも』
黒澤は後ずさった。
『勇者の側の者か』
美咲が後ろで何か言った。
聞こえなかった。
葵は黒澤を見ていた。
おかしい。
ただの作り話には見えなかった。
黒澤自身も、自分の言葉に追いついていない。そんな顔をしていた。
「あなた」
葵は一歩近づいた。
「今、何て」
黒澤は答えなかった。
代わりに、一歩下がった。
足先が、もう出口へ向いている。
そう気づいた時には、黒澤は走り出していた。
「あっ」
美咲が声を上げる。
葵も一歩、踏み出した。
追えば、届きそうだった。黒澤の走り方は、重い。
「葵」
彩花の声がした。
振り返ると、彩花がその場に座り込みそうになっていた。美咲が支えている。美咲の手も、少し固まっていた。
葵は足を止めた。
黒澤の背中は、駐車場の向こうへ消えた。
「大丈夫?」
葵は彩花に近づいた。
彩花は小さく頷いた。
「ごめん。私のせいで」
「彩花のせいじゃない」
美咲がすぐに言った。
「あいつが変なんだよ。ほんと無理。何あれ。急に声変わったし」
美咲はそこで葵を見た。
「葵、すごかった。正義の勇者みたいだったよ」
勇者。
違う。
その言葉だけは、はっきり違った。
葵は自分の手を見た。
弓など持っていない。
それでも、指は弦の張りを覚えていた。
風の向きも、濡れた土の匂いも。
セリシアに見放された民。
忘却の民。
「葵?」
美咲が覗き込んでくる。
葵は返事をしようとした。
いつもの調子で、大丈夫、と言えばよかった。
でも舌が動く前に、別の名前が落ちてきた。
クローディア・ヴェイル。
葵は、その名を思い出してしまった。




