表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/17

第九話 勇者ではない者 森山葵3

 月曜日の朝、教室は少し湿っていた。


 週末に雨が降ったせいで、廊下の窓が白く曇っている。机の脚を引く音がして、誰かが鞄を机に置いた。後ろの方では、購買のパンの話をしている。


 いつもの朝だった。


 葵は自分の席に鞄を置き、スマートフォンを出した。


 画面には、SeiðrのSNSが開きっぱなしになっていた。


【最ツツ高でした、ありがとう】


 妙な文字化けみたいな投稿の下に、打ち上げの写真が載っている。テーブルには空のグラスと皿が並び、メンバーらしい男たちが肩を組んでいた。その輪から少し外れたところに、金髪の男が写っていた。


 蓮。


 ライブハウスの外で見た時は、もっと違うものに見えた。照明のせいか、音のせいか。あの場所全体が、まだ耳の奥に残っていたせいかもしれない。


 写真の中の蓮は、ただの金髪の男だった。


 目つきが少し悪くて、煙草が似合いそうで、たぶん学校の先生には嫌われるタイプ。写真だけなら、それ以上でもそれ以下でもない。


 葵は画面を閉じた。


 考えすぎだ。


 昨日はライブの後だった。音が大きすぎたし、美咲はずっと興奮していた。自分まで変なテンションに引っ張られていたのかもしれない。


 葵は、教室の反対側を見た。


 彩花の席は空いていた。


 いつもなら、もう美咲のところへ来ていてもおかしくない時間だった。


 土曜の夜、彩花は泣いていた。


 あの男は、彩花を見ていた。見ていた、というより、どこへ逃げるかを先に見ていた。


「葵?」


 美咲が、後ろから肩を叩いてきた。


「おはよう。なに、朝から怖い顔して」


「別に」


「別にって顔じゃないけど」


「……土曜のこと、ちょっと思い出してた」


「ああ」


 美咲の顔から、少しだけ笑みが引いた。


 けれどすぐに、いつもの調子へ戻る。


「週末の疲れもあるんじゃない? 葵、ライブ初めてだったし」


 美咲はにやっと笑った。


「楽しかったでしょ」


「まあ、うん」


「ほら、絶対ハマるって言ったじゃん。次も行こ。次」


「次って」


 葵はスマートフォンをポケットにしまった。


「まだ一回しか行ってないんだけど」


「一回行けば十分。葵はもうこっち側の人間です」


「勝手に決めないで」


 美咲は笑いながら、自分の席へ行った。


     ◇


 昼休み、平田彩花が葵と美咲の席まで来た。


 いつもの彩花なら、購買の新作パンとか、隣のクラスの噂とか、先生の機嫌が悪いとか、そういう話をする。


 今日は違った。


 彩花は葵の机の横に立ったまま、しばらく何も言わなかった。


「土曜の夜のこと?」


 葵が顔を上げると、彩花は一度だけ美咲の方を見た。


「放課後、ちょっと相談してもいい?」


「うん。いいけど」


「美咲も……いてほしい」


 美咲が、パンの袋を開けかけた手を止めた。


 彩花は笑おうとした。口元だけが少し動いて、すぐ戻った。


 その顔を見て、葵は軽く流せなくなった。


     ◇


 放課後、三人はグラウンド脇の自動販売機の前に集まった。


 部活へ向かう生徒たちが、スパイクの袋を揺らしながら通り過ぎていく。校舎の壁に、サッカー部の声が跳ねていた。トラックの内側では、陸上部の後輩たちがストレッチをしている。


 葵はジャージの入ったバッグを足元に置き、スポーツドリンクを買った。


 美咲は紙パックのカフェオレを選んだ。


 彩花だけが、いちごミルクの紙パックを両手で持ったまま、ストローを刺さずにいた。


「で」


 美咲が、紙パックにストローを刺す。


「何があったの」


 彩花は紙パックの角を、指で何度も押していた。同じところを押すので、少しへこんでいる。


「バイト先のラーメン屋の人なんだけど」


「あんた、バイトしてるの?」


「四月から始めたところ。学校には内緒ね」


 彩花は、ようやくストローの袋を破いた。


「最初は、普通だったの。仕事も教えてくれて、ミスしても店長に怒られないように間に入ってくれたりして。私、助かってた」


「それが土曜の例の男?」


 美咲が聞いた。


 彩花は頷いた。


「黒澤さんっていう人。大学生じゃなくて、たぶんフリーター。二十歳くらいって言ってた」


「それで?」


「帰りに、たまたま一緒になったことがあって。それから、シフトが一緒の日は、外で待ってるようになって」


 葵はキャップを開けかけた手を止めた。


「店の外?」


「裏口のところ。最初は、帰る方向が同じだからって言ってた。でも全然違ったの。私が駅に向かったら駅まで来るし、迎えがあるって言ったら駐輪場まで来る」


「それ、普通にアウトじゃん」


 美咲の声が低くなった。


「店には言った?」


「まだ。大ごとにしたくなくて」


「いや、大ごとだよ」


「親にも言いたくない。バイトやめろって言われるし」


 彩花はストローを紙パックに刺した。


 けれど、飲まなかった。


「この前、言われたの。君は僕が守るって」


「うわ」


 美咲が露骨に顔をしかめた。


「きつい」


「それだけなら、まだ断ればいいと思ったんだけど」


 彩花は、そこで声を落とした。


「最近、変なことを言うの」


「変なこと?」


「自分は、魔王の側近だったって」


 葵の指が、ペットボトルの表面で止まった。


「名前、なんだっけ。魔剣のラグナス。そういう人の生まれ変わりだって」


 美咲は一瞬固まった後、彩花を見た。


「ごめん。思ったよりだいぶ変だった」


「で、私のことを、魔王ドロネオールの生まれ変わりだって」


 ドロネオール。


 葵は、ペットボトルから手を離した。


 聞いたことがない名前のはずだった。ゲームにも漫画にも、たぶん出てこない。少なくとも、葵の知っている範囲では。


 なのに、その名前を聞いた瞬間、階段を一段踏み外した時みたいに膝の奥が抜けた。


 ラグナス。


 ドロネオール。


 彩花の声が、少し遠くなる。


「で、彩花は魔王様なん?」


 美咲が言った。


「ちょっと」


 彩花が泣きそうな顔で美咲を見る。


「ごめん。今のなし」


 美咲はすぐに両手を上げた。


「ごめん、ほんとに。怖かったよね」


 彩花は頷いた。


「私、どうしたらいいか分かんなくて。明日もシフト一緒なの」


「何時」


 葵が聞いた。


「五時から八時」


「あいつもいる?」


「たぶん。黒澤さん、最近、私のシフトに合わせてるっぽい」


「店長に言った方がいい」


「言う。でも、その前に……」


 彩花は言葉を切った。


「明日、バイト終わりに話したいって言われてる。断ったら、学校にバイトのことを言うって」


 美咲の眉が上がった。


「は?」


「それだけならまだいいけど。店にも、私が変な噂を流してるって言うって」


「最低じゃん」


 美咲が吐き捨てた。


「行かなくていい」


 葵はすぐに言った。


 彩花は首を振る。


「でも、向こうから来ると思う。私が行かなくても」


「じゃあ、こっちから行く」


 美咲が身を乗り出した。


「私たちも行く。レグなんとかの生まれかわりにガツンと言ってやる」


「ラグナス」


 葵は小さく言った。


 美咲がこちらを見る。


「知ってるの?」


「いや、まさか」


 葵はすぐに首を振った。


 なぜ訂正したのか、自分でも分からなかった。


 葵はスポーツドリンクを飲んだ。


 甘さが、変に口の中に残った。


「普通じゃないよ。その人」


「だよね」


 美咲が頷く。


「明日、私たちも行く。彩花ひとりで会わせない」


「でも」


「でもじゃない」


 葵は彩花を見た。


「本当に困ってるなら、ひとりで行かないで」


 彩花は少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」


 その声は、グラウンドから聞こえた笛の音に、少しだけ重なった。


     ◇


 翌日、葵は部活を早めに切り上げた。


 顧問には、中間テストの勉強を友達とすると言った。嘘ではない。実際、鞄には数学の問題集が入っている。ただ、開く予定はない。


 マドカの奥の席で、美咲がスマートフォンを見ながら唸っていた。


「えー」


「なに急に」


「Seiðr、しばらくライブ休止だって」


 美咲が画面を向けてくる。


【Seiðrはしばらくライブ活動を休止します。楽曲配信等の活動は続けて行きますので応援お願いします】


 投稿には、金髪の男が頭を下げている写真が添えられていた。


 蓮だった。


 葵はアイスティーのグラスを持ったまま、画面を見た。


「なんで急に」


「分かんない。昨日まで普通に投稿してたのに。せっかく葵も気に入ってくれたし、これからガンガン連れてこうと思ってたのに」


「そこまでは言ってない」


「顔が言ってた」


「言ってない」


 葵はストローを指で回した。


 氷がグラスの中で鳴る。


 もう一度会えば、何か分かる気がしていた。


 理由は説明できない。あの金髪の男が答えを持っていると決まったわけでもない。むしろ、面倒そうな人だった。近づかない方がいい相手にも見えた。


 それなのに、活動休止の文字を見た瞬間、足の裏が変にむずついた。


「残念だね」


 葵は言った。


 美咲がじっと見てくる。


「それ、残念そうな顔?」


「どんな顔」


「怒ってる」


 怒っているつもりはなかった。


 ただ、置いていかれた気がした。


 葵は残りのアイスティーを飲んだ。


 店の時計を見る。七時四十分。


 そろそろ出た方がいい。


「行こ」


 葵が立ち上がると、美咲もスマートフォンを鞄に入れた。


「彩花、裏口で待ち合わせだよね」


「うん」


「黒澤って人も来るのかな」


「来るでしょ」


 葵は鞄を肩に掛けた。


「来なかったら、それはそれで店に言いやすい」


「葵、こういう時だけ冷静だね」


 葵は店の扉を押した。


 外の空気は昼より冷えていた。部活帰りの足には、ちょうどよかった。


     ◇


 ラーメン屋の裏口は、表の看板の明るさから少し外れていた。


 壁際にビールケースと空の麺箱が積まれている。排気口から、スープとにんにくの混じった匂いが流れてきた。室外機が低い音を立てている。


 彩花はすでにいた。


 店の黒いTシャツの上に、制服のカーディガンを羽織っている。髪は後ろでひとつに結んだままだった。その横に、男がいた。


 黒縁眼鏡。少し長い前髪。背は葵より高いが、肩が内側に入っているせいで、大きく見えない。


 黒澤は店の黒いTシャツの上に、薄いパーカーを羽織っていた。前掛けを外したばかりなのか、腰のあたりに紐の跡が残っている。黒いリュックを片肩に掛け、片手で肩紐を握っていた。


 魔剣のラグナス。


 その名前とは、だいぶ遠かった。


「彩花」


 美咲が声をかける。


 彩花の顔が少しだけ緩んだ。


「来てくれたんだ」


「当たり前でしょ」


 黒澤は、美咲と葵を順番に見た。


「彩花さん。誰、この子たち」


 声は小さかった。責めるというより、先に拗ねている声だった。


「同じ学校の友達です」


「友達に話したの?」


 黒澤の目が、彩花に向いた。


 葵は半歩、足を動かした。


 黒澤は彩花を見ているのに、彩花を見ていなかった。


 彩花を心配している目ではなかった。自分の机に置いた物が、勝手に動かされていた時の目だった。


 美咲が前に出る。


「あなたね。彩花を困らせてるのは」


「違う」


 黒澤はすぐに言った。


「僕は、彩花さんを守ろうとしてるだけだ」


「それを困るって言ってんの」


「君たちには分からない」


「あ、出た」


 美咲が眉を上げる。


「分からない系のやつ」


 黒澤の手が、リュックの肩紐を握り直した。


「彩花さんは普通の人じゃない。僕だけが気づいたんだ」


「彩花は彩花でしょ」


「違う」


「違わない」


 美咲は引かなかった。


「勝手に魔王とか言われても迷惑なんだけど。彩花、怖がってるじゃん」


「魔王様は、まだ思い出していないだけだ」


 その言い方だけ、さっきまでと違った。


 彩花が肩を縮める。


「黒澤さん、もうやめてください」


「彩花さん」


「私、そういうの分からないし、怖いです」


 黒澤は口を開いた。何か言おうとして、言葉が出ないようだった。


 美咲がその間に入る。


「聞こえた? 怖いって。もう近づかないで」


 黒澤の顔が歪んだ。


「人間の小娘が」


 美咲の勢いが止まった。


 黒澤の黒縁眼鏡の奥で、目が赤く見えた。街灯のせいかもしれない。店の裏口から漏れた赤い光が反射しただけかもしれない。


 黒澤の肩が、上がった。


 美咲が、ほんの少しだけ引いた。


 それだけで十分だった。


 葵の足は、もう前に出ていた。


「ちょっと」


 葵は美咲の前に入った。


「いい加減にして」


 黒澤が葵を見た。


 その瞬間、黒澤の顔から色が引いた。


 さっきまでの怒りが、途中で切れた。


『お前』


 声が変わった。


 日本語ではなかった。


『お前は誰だ。セラヴィアなのか』


 葵は動けなかった。


 分からない音だった。学校で習った英語でも、ニュースで聞く外国語でもない。なのに、意味だけが先に入ってきた。


 セラヴィア。


 その名だけで、胸の奥が冷えた。


『それとも』


 黒澤は後ずさった。


『勇者の側の者か』


 美咲が後ろで何か言った。


 聞こえなかった。


 葵は黒澤を見ていた。


 おかしい。


 ただの作り話には見えなかった。


 黒澤自身も、自分の言葉に追いついていない。そんな顔をしていた。


「あなた」


 葵は一歩近づいた。


「今、何て」


 黒澤は答えなかった。


 代わりに、一歩下がった。


 足先が、もう出口へ向いている。


 そう気づいた時には、黒澤は走り出していた。


「あっ」


 美咲が声を上げる。


 葵も一歩、踏み出した。


 追えば、届きそうだった。黒澤の走り方は、重い。


「葵」


 彩花の声がした。


 振り返ると、彩花がその場に座り込みそうになっていた。美咲が支えている。美咲の手も、少し固まっていた。


 葵は足を止めた。


 黒澤の背中は、駐車場の向こうへ消えた。


「大丈夫?」


 葵は彩花に近づいた。


 彩花は小さく頷いた。


「ごめん。私のせいで」


「彩花のせいじゃない」


 美咲がすぐに言った。


「あいつが変なんだよ。ほんと無理。何あれ。急に声変わったし」


 美咲はそこで葵を見た。


「葵、すごかった。正義の勇者みたいだったよ」


 勇者。


 違う。


 その言葉だけは、はっきり違った。


 葵は自分の手を見た。


 弓など持っていない。


 それでも、指は弦の張りを覚えていた。


 風の向きも、濡れた土の匂いも。


 セリシアに見放された民。


 忘却の民。


「葵?」


 美咲が覗き込んでくる。


 葵は返事をしようとした。


 いつもの調子で、大丈夫、と言えばよかった。


 でも舌が動く前に、別の名前が落ちてきた。


 クローディア・ヴェイル。


 葵は、その名を思い出してしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ