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第八話 捨てられた盾 山之内武志1

 山之内武志の最後の夏は、準決勝で終わった。


 県大会ベスト四。それだけ聞けば、胸を張っていい結果ではある。まして武志の高校は野球の強豪ではない。毎年、一回戦で消える。良くて二回戦。そんな学校が県内でも知られた私立を破り、古豪を倒し、準決勝まで勝ち上がった。


 奇跡だと、大人たちは言った。


 実際、奇跡に近かったのだと思う。その中心に、武志はいた。


 主将で、五番で、捕手。派手な選手ではなかった。新聞に大きく載るような怪物でもない。ただ、投手が崩れそうになれば声をかけた。下級生が萎縮すれば背中を叩いた。相手に流れが傾いたとき、いつもどこかでそれを止めるのは武志だった。


 この町では、武志は少しだけ有名だった。


 敷路神宮くらいしか人に話せるもののない町では、それで十分だった。


 県内有数の進学校が甲子園を目指す——そんな見出しで、地方のテレビ番組にも取り上げられた。校門の前で照れくさそうに笑う部員たちの中に、武志もいた。


 試合が終わった瞬間、スタンドから拍手が起きた。


 泣いている後輩がいた。監督が、よくやった、と言った。相手校の選手が整列し、礼をする。武志も帽子を取り、頭を下げた。


 その瞬間、自分の中から何かが抜け落ちていくのが分かった。


 負けたからではない。終わったからだ。


 朝も夜も、雨の日も、正月も、ずっと追いかけてきたもの。それが今日で終わる。明日からも学校はある。受験もある。卒業も、将来もある。大人たちはそう言うのだろう。


 言うのだろうが、その先に立っている自分が、武志にはまだ見えなかった。


 球場を出る頃には、夕方になっていた。蝉の声が、頭の奥で鳴っている。


 後輩たちは、まだ泣いたり笑ったりしていた。来年こそは、と誰かが言う。先輩たちを超えます、と誰かが言う。武志は笑って頷いた。うまく笑えていたかは、分からない。


 帰り道、ふいに足元が遠くなった。


「山之内さん?」


 後輩の声が、妙に薄く聞こえた。


 次の瞬間、空が傾いた。


 アスファルトの熱が頬に触れるより先に、武志は別の場所にいた。


       ◇


 夢を見ているのだと思った。夢にしては、鮮明すぎた。


 空の色が違う。風の匂いも違う。自分の手が、もっと大きく、固く、傷だらけだった。


 その手に、盾があった。


 剣ではない。槍でもない。分厚い鉄の盾だ。


 正面から振り下ろされた斧を受ける。腕の芯まで痺れる。それでも退かない。退けない。


 背後に、勇者がいた。金の髪を汗で濡らし、聖剣を握る青年が。


「アレン、前だけ見てろ!」


 自分が、そう叫んでいた。


 老人が魔法を放つ。青白い光が空を裂いた。狩人の矢が魔物の喉を射抜き、竜に乗る男が上空から槍を落とす。


 その喧騒の奥で、僧侶が祈っていた。白い衣を風に揺らし、両手を組み、目を閉じている。彼女の声は、戦場の中でも不思議とよく通った。


『聖セリシアよ。どうか、御子をお守りください』


 ユーナ。


 その名を、武志は知っていた。知っているはずがなかった。それでも、知っていた。


 俺の名は、エリオ・ベルク。ガーラシアの不倒の鉄盾に選ばれた戦士。勇者アレンの盾。僧侶ユーナの祈りを、誰より近くで聞いていた男。


 記憶は、堰を切って流れ込んできた。


 王都の白い城壁。旅の野営。ルドルフの皮肉。クローディアの無駄のない手つき。ロードの豪快な笑い声。アレンの背中。


 そして、ユーナの祈る横顔。


 最後に見えたのは、魔王ドロネオールだった。漆黒のローブを纏った影。勇者の聖剣が、その闇を裂こうとしていた。


 その時、青黒い光が頭上に現れた。輪のように広がっていく。祈りにも、呪いにも見えた。


 アレンが何かを叫んだ。ユーナが手を伸ばした。俺は盾を構えようとした。


 その前に、世界が捻じれた。


       ◇


 目を覚ますと、白い天井があった。


 消毒液の匂い。保健室ではない。病院だ。


 母が泣いていた。父は黙って、ベッドの脇に立っていた。


「検査では大きな異常はありません。疲労と脱水でしょう」


 医者はそう言った。武志は頷いた。その説明でいい、と思った。異世界の記憶が戻りました、などと医者に言えるはずもない。


 不思議と、混乱はなかった。怖くもなかった。


 山之内武志として生きてきた十八年と、エリオ・ベルクとして戦った記憶。その二つが頭の中でぶつかり合いながら、どちらかを壊すことはない。


 俺は武志だ。だが、エリオでもあった。そう思えた。


 理由は、たぶん、生まれ育った場所のせいだ。


 武志の父は、敷路神宮に仕える神職の一人だった。母も祭礼の時期には手伝いに出る。だから武志にとって神宮は、特別な場所であり、同時にひどく身近な場所でもあった。


 子どもの頃から、境内の端で遊んだ。白い装束の大人たちが行き来するのを見て育った。祝詞の声も、柏手の音も、祭りの前に町全体が少し浮き立つあの空気も、武志には日常の一部だった。


 目に見えないものを、頭から否定する環境ではなかった。かといって、何でも信じるわけでもない。世の中には説明のつかないこともある。武志は、そういう肌感覚を知っていた。


 だからこそ、あの記憶を、ただの夢だとは思えなかった。


 アレン。ルドルフ。クローディア。ロード。ユーナ。


 誰か一人でも、この世界にいるかもしれない。そう思うと、何もせずにはいられなかった。


 だが、探すすべがなかった。


 名前で探しても意味がない。この世界では別の名で生きているはずだ。顔も、年も、性別さえ違うかもしれない。


 それでも武志は探した。


 家のパソコンで掲示板を漁った。前世の記憶。異世界。転生。勇者。魔王。打ち込めば、いくらでも書き込みが出てくる。


「俺も転生者です」


「前世では魔法使いでした」


「勇者だった記憶があります」


「魔王に殺されました」


 画面の中に、似たような言葉が並んでいた。


 最初は、一つひとつ読んだ。すぐに分かった。違う。どれも違う。


 ふざけている者がいる。本気で信じ込んでいる者もいる。けれど、そこにアレンはいなかった。ルドルフも、クローディアも、ロードも、ユーナもいない。


 一度だけ、自分でも書き込んだ。


「ガーラシアという名に覚えのある人はいませんか」


「聖セリシアという名を知っている人はいませんか」


 返事は、すぐについた。


「知っています」


「私も前世を覚えています」


「詳しく話したいので、連絡をください」


 武志は、その画面を閉じた。それきり、掲示板は見なくなった。


 友人にも話せなかった。野球部の後輩に、実は俺は前世で戦士だった、などと言ってどうなる。笑われるならまだいい。心配されるかもしれない。親に伝わるかもしれない。


 武志は黙った。


 黙って学校へ行き、授業を受け、受験の話を聞き、後輩たちの練習を見に行った。


 皆、少しずつ先へ進んでいた。武志だけが、夏の終わりと、別の世界の終わりの間に取り残されていた。


       ◇


 卒業が近づく頃、武志は敷路神宮の鳥居の前に立っていた。


 理由があったわけではない。ただ、家にいるのが息苦しかった。


 夕暮れの境内は静かだった。参道の端に、掃き残された枯葉が寄っている。石畳は、昼の熱を失いかけていた。鳥居が、妙に紅い。


 この世界は平和だ。魔物もいない。魔王もいない。剣を提げて歩く者もいない。


 それなのに、武志はひどく落ち着かなかった。


 肩を叩かれたのは、そのときだった。


 振り向くと、制服姿の少女が立っていた。この学校の制服ではない。黒い髪。細い眼鏡。整った顔立ち。


 どこにでもいる女子高生の姿をしている。はずだった。それなのに、武志は息を呑んだ。同じ場所に立っているのに、彼女のまわりだけ、別の記憶が滲んで見えた。


 いや、見えたわけではない。ただ、分かった。


 少女が、武志を見上げた。そして、懐かしい言葉を口にした。


『聖セリシアの祝福があらんことを』


 遠い昔、何度も聞いた言葉だった。


 武志は声を出せなかった。


 少女は、ほんの少しだけ笑った。相手を先に安心させようとする、そういう笑い方だった。


『エリオ様。ご無沙汰しておりました』


 その声を聞いた瞬間、武志の中で何かが崩れた。


 ユーナだった。


 顔は違う。声も、かつてと同じではない。けれど、分かった。理屈ではなかった。


 目の前の少女は、紛れもなくユーナだった。


「……ユーナ」


 名を呼ぶと、少女は目を開いた。


「はい」


 その一言だけで、武志は救われた気がした。


       ◇


 彼女の今の名前は、真衣というらしい。


 けれど、ユーナと呼んでほしい、と言われた。ユーナもまた、武志をエリオと呼んだ。


「あの地方番組で、見たんです」


 ユーナはそう言った。


「県内有数の進学校が、甲子園を目指す。あの特集に映っていたエリオ様を見て、胸が騒いで」


 ずいぶん都合のいい偶然だと、思わなかったわけではない。


 けれど、そのときの武志は疑わなかった。疑いたくなかったのかもしれない。


 ユーナは、ずっと静かに話した。


 この世界で目覚めた時のこと。前世の記憶を抱えたまま、普通の少女として生きなければならなかったこと。聖セリシアの名を、誰にも言えなかったこと。そして、アレンたちを探していたこと。


 そこまで聞いて、武志は胸の奥が少し冷えた。


 やはり、ユーナはアレンを探している。


 当然だった。エリオだった頃から、知っていた。


 ユーナの祈りは、いつもアレンに向いていた。戦場で彼女が呼ぶ名は、いつも勇者の名だった。アレン様。御子。聖剣に選ばれし方。


 その言葉を聞くたび、エリオは盾を握り直していた。


 嫉妬ではない、と思いたかった。


 勇者を守るのが、自分の役目だ。アレンが倒れれば、世界が終わる。ユーナが勇者を見ているのは、当たり前のことだった。


 それでも、ユーナが祈る横顔を見るたび、腹の底に小石のようなものが沈んだ。


 その重さを、エリオはずっと恥じていた。勇者に妬く戦士など、あってはならない。仲間を羨む盾など、醜いだけだ。


 だから武志は、その感情を記憶の奥へ押し込めた。


 俺はエリオではない。山之内武志だ。エリオの記憶を持っているだけの、ただの人間だ。


 そう、思うことにした。


 ユーナは、アレンのことを口にした。ルドルフのことも、クローディアのことも、ロードのことも。


 武志は頷きながら聞いていた。


 だが、途中から、別のことを考えていた。


 もし、見つからなければ。


 もし、この世界にいるのが、自分とユーナだけなら。剣も魔法もないこの国で、二人だけが前世を覚えているのなら。


 それは、不幸なのだろうか。


 それとも——。


「エリオ様?」


 ユーナが、武志を見た。


 その呼び方に、胸が締めつけられた。


 アレンではない。ユーナは今、俺の名を呼んでいる。


「いや」


 武志は首を振った。


「何でもない」


 夕暮れの境内に、風が抜けた。鳥居の向こうで、町の灯りが少しずつ増えていく。


 この世界に、魔王はいない。盾もいらない。斧もいらない。勇者の背中を守る必要もない。


 ならば、自分は何になればいいのだろう。


 武志には、その答えが出せなかった。


 ただ一つだけ、手放せない思いがあった。


 ユーナを、もう一人にしたくない。


 それが彼女のためなのか、自分のためなのかは、分からない。分からないまま、武志はそう決めた。


 俺は、他の仲間を探すのをやめた。


 盾も、斧も、魔王も、勇者アレンの名さえも、遠い夢の奥へ押し込めた。


 山之内武志として。ただ、ユーナと生きていきたかった。


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