第七話 盾 村上翔太5
蓮と別れた翌日、翔太は昼から仕事に戻った。
一週間、ろくに連絡も入れずに休んだ。怒鳴られる覚悟はしていた。最悪、もう来なくていいと言われても文句は言えない。
配達所の反応は、拍子抜けするほど薄かった。
「戻れるなら、助かるわ」
責任者はそれだけ言って、いつもの端末を寄こした。事情を聞かれもしない。休んだ分を責められもしない。若い人手が足りていないという話は、本当らしかった。
翔太は頭を下げ、いつものように荷物を積んだ。
車を出す。
昼の街は、いつもと変わらない。コンビニの前で煙草を吸う作業員。横断歩道を渡る高校生。信号待ちの軽トラ。低いビルの窓に、薄い曇り空が映っている。
変わったのは、自分の方だ。
配達先を回りながら、翔太は何度も蓮の言葉を思い返していた。
「いいか、翔太。ラグナスとセラヴィアがいる可能性がある以上、派手に広げるな」
蓮は、火のついていない煙草を指に挟んだまま、そう言った。
吸うわけでもない。考え事をするとき、指先で弄ぶ。それがルドルフのころと変わらなくて、胸の奥が変なふうにざらついた。
「掲示板だのSNSだのでばら撒くな。向こうも見てるかもしれない」
「でも――この世界だけの人間じゃないことは、互いに感じ取れるんだろ」
「感じ取れるだけだ。誰、までは分からん」
蓮の声は、冷えていた。
「だから厄介なんだよ。仲間のふりして近づいてくる奴がいたら、お前、見抜けるか」
答えられなかった。
見抜ける、とは言えなかった。
遥のことがあった。あの目を見ても、翔太は何も分からなかった。彼女が何を抱えて、どこまで追い詰められていたのか。最後まで。
「脳筋ラグナスはまだいい。あいつは隠せない。問題はセラヴィアだ」
「虚絵のセラヴィア……」
「そうだ。たとえ幻影が使えなくても、あいつは狡い。人の見たいものを見せるのがうまい」
蓮はそこで一度、煙草を唇に近づけた。火がついていないことに気づいたように、すぐ指先へ戻す。
「一人ずつだ。慎重に行く」
派手に探せばいい――どこかで、そう思っていた。
名前を出して、記憶のある者を呼べばいい。アレンを知る者なら、きっと反応する。
蓮は違った。
この世界に魔法はない。だが、人は魔法がなくとも人を騙せる。蓮はそのことをよく知っていた。
「順番は」
「クローディアは……後だな」
「……なぜだ」
「言いにくいが、クローディアは見放された民だ。魔族につくとは思わん。だが、根っこは俺たち側じゃないんじゃないか」
蓮は、言葉を選ぶように少し黙った。
「今風に言えば、ビジネスパートナーだよ。あいつは」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
クローディアは仲間だった。無口で、愛想がなくて、焚き火の輪から少し離れたところに座っていることが多かった。それでも、彼女の矢に何度救われたか分からない。
なのに、蓮の言葉を頭から否定できない自分がいる。
クローディアは、故郷のことをほとんど語らなかった。王国にも、魔王軍にも属さない忘却の民。彼女にとって、あの戦争は善と悪の戦いではなかったのだろう。たぶん、最後まで。
「ロードは」
「ロードは……一番後だ」
蓮は、今度ははっきり間を置いた。
「元魔王軍だ。疑ってるわけじゃない。だが、警戒は必要だ」
「ロードは、魔王軍を離れ俺たちのところに来てくれたんだぞ」
「だからだ」
蓮はカップを置いて、まっすぐこちらを見た。
「裏切れる人間は、もう一度裏切れる。そう見る奴はいる。本人が自分をどう見てるかも、俺らには分からん。お前が信じたいかどうかと、最初に会いに行くかどうかは、別の話だ」
黙るしかなかった。
ロード・ヴァルド。元魔王軍の竜騎士。
魔王軍を裏切り、人間にも最後まで疑われた男。
それでもロードは、アレンたちとともに戦った。老竜アズラグと空を駆け、何度も窮地から引き上げてくれた。
仲間だ。そう思っている。
そう思っているのに、疑うための理由を並べられると、何も言い返せない。
それが嫌だった。
「じゃあ、誰から探す」
蓮は煙草を灰皿に置いた。
「当然、エリオだ」
エリオ。王都より鉄盾に選ばれた戦士。いつもアレンの隣に立ってくれた、あの男。
昼過ぎ、信号待ちで車を止めたとき、翔太は無意識にブレーキを深く踏みすぎていた。前のセダンとの距離が、思っていたよりずっと開いている。
赤信号が、少し滲んで見えた。
思い出す。エリオの声を。あの、白い街を。
♢
エテルナの街は、白かった。
城壁も、石畳も、坂の上の大聖堂も、朝の光に淡く溶けている。街路には花布が渡され、風が抜けるたび、どこかで鈴が鳴った。
聖セリシアの名を冠する聖域。
アレンたちがその街に着いた朝、大聖堂では常若の祭りが行われていた。
神官たちが、古い白布を外している。柱に巻かれた布。祭壇を覆っていた布。聖火台を飾る紐。それらを丁寧に畳み、新しい布へ替えていく。
壊すのでも、捨てるのでもなく――古い祈りを、次の祈りへ渡すための儀式なのだという。
「アレン様、見てください」
ユーナが、珍しく声を弾ませた。
「あれが常若の儀です。二十年に一度しかなくて、聖セリシア様の御前で、古い祈りを新しい祈りへお移しする、ええと――」
言いかけて、ユーナは少しだけ頬を赤くした。
「……すみません。浮かれてしまいました」
「いいんじゃねえの」
エリオが、すぐ横から笑った。
「神の使いが祭りで浮かれなくて、どこの誰が浮かれるんだよ」
「エリオ様。そういう言い方は」
「褒めてるんだって」
エリオは悪びれもせず、肩をすくめた。
アレンは、そのやり取りを黙って眺めていた。
ユーナが笑っている。それだけで、息がしやすい気がした。
旅に出てから、アレンは何度も人の期待を浴びてきた。勇者様、と呼ばれた。救ってくれと縋られた。魔王を倒せるのはあなただけだと、誰もが当然のように言った。
その言葉に応えなければ、と思っていた。
思っているうちに、自分がいったい何を守ろうとしているのか、分からなくなる夜があった。
「また難しい顔してんな」
隣から声がした。顔を上げる。エリオだった。
「そんな顔をしていたか」
「してた。勇者ってより、明日の天気まで自分のせいにしてる農夫の顔だ」
「……それは、どういう顔だ」
「全部、自分のせいにしそうな顔」
エリオの口調は軽かった。だが、目は笑っていなかった。
返す言葉を探したが、見つからない。
エリオは、こういう沈黙を待つのがうまい。急かさない。茶化すこともできるくせに、必要なときだけ黙って隣にいる。
その距離に、アレンは何度も助けられてきた。
初めて大きな敗走を経験した夜もそうだった。自分の判断で仲間を死なせかけたと思って、眠れずにいたアレンの横に、エリオは何も言わず腰を下ろした。朝まで付き合って、最後に一言だけ言った。
――次は間違えるな。
責めるでも、慰めるでもない。だから、立てた。
「見ろよ、アレン」
エリオが顎で大聖堂を示した。
ユーナが、若い神官に何かを尋ねている。神官が笑って答えると、嬉しそうに頷いていた。
「あいつ、あんな顔もするんだな」
「……ユーナは、聖セリシアを深く信じているから」
「違う違う、そういう話じゃねえよ」
エリオは苦笑した。
「戦ってる時のあいつは鎧だ。お前は剣で、俺は盾。ルドルフは賢者面した偏屈野郎。けど、今のあいつは、そのどれでもねえだろ」
アレンは、もう一度ユーナを見た。
白い石段。花の匂い。鈴の音。
その中で、ユーナは笑っていた。
「あれが本当なんだよ」
エリオの声は、いつもより低かった。
「守るってのはさ、世界を丸ごと背負うことじゃねえ」
アレンは黙っていた。
「魔王を倒す。人を救う。国を守る。そういうのも、まあ大事だ。けどな、アレン」
エリオが、肩に軽く手を置いた。
「ああいう顔を、できるだけ奪わせないことだよ」
胸の奥に、ことんと落ちた。
勇者としての答えではない。王が、神官が、民が望む答えでもない。
けれど、アレンにはそちらの方が信じられた。
エリオの言葉は、いつも地面に足がついている。救いだとか、使命だとか、大きな言葉でアレンを持ち上げない。ただ、隣に立つ。アレンが遠くを見すぎたとき、近くを見ろと言ってくれる。
「俺は……そんなに、背負っているように見えるか」
「見える」
即答だった。
「勇者って呼ばれて、真に受けてる顔だ」
「真に受けているつもりはない」
「そういう奴が、一番危ねえんだよ」
エリオは笑って、アレンの背を軽く叩いた。
「全部ひとりで持とうとすんな。お前が潰れたら、あいつらの笑い方まで変わる」
「……エリオ」
「半分くらい寄こせ」
目を向けると、エリオはいつもの調子で歯を見せた。
「兄貴分ってのは、そういう時に使うもんだ」
エリオは、少しだけ声を落とした。
「お前は前を斬れ。敵を、魔王を。お前が斬るべきものをな」
「……何の話だ」
「お前が斬れないものは、俺が受ける。汚れる役は、盾の仕事だ」
アレンは、少しだけ目を伏せた。
情けないと思う気持ちはあった。勇者と呼ばれる者が、誰かを頼ることに慣れていない。自分でも分かっていた。
それでも、エリオになら、と思えた。
「なら――頼りにしている」
エリオは一瞬、目を丸くした。それから、照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「おう。もっと早く言え」
「言うほど、簡単ではない」
「知ってるよ」
エリオは、わざとらしく肩を回した。
「だからこっちから言ってんだろ。お前は放っとくと、一人で剣も盾も荷物も鍋も持ちそうだからな」
「鍋は持たない」
「持つだろ。真面目な顔して」
アレンは思わず、小さく笑った。自分でも驚くほど、自然に。
大聖堂の鐘が鳴った。一度。二度。
白い布が風にあおられて広がり、街じゅうから祈りの声が上がる。
ユーナが振り返った。
「アレン様、エリオ様。始まります」
声が、やっぱり少しだけ弾んでいた。
エリオが肩をすくめる。
「ほら、行ってやれよ、勇者様」
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ――祭りに付き合わされる哀れな仲間その一」
「それも違う」
歩き出すと、エリオが隣に並んだ。
その距離が、心強かった。
♢
配達を終えるころには、すっかり日が暮れていた。
家に帰ると、リビングに明かりがついていた。玄関で靴を脱ぐ音に気づいたのか、母が台所から顔を出した。
「翔太。ご飯、食べる?」
声は、いつもと同じだった。
仕事を一週間も休み、部屋にこもったかと思えば、急に出かけて深夜に帰る息子に、母は何も聞かない。怒ることも、責めることもしない。
それが、かえって痛かった。
「うん」
翔太はリビングに入り、椅子を引いた。
「母さん」
「なに」
「……ごめん。心配かけて」
母は少しだけ目を細めた。それから、なんでもないことのように笑った。
「食べられるなら、大丈夫」
温め直した味噌汁が、目の前に置かれる。
大丈夫。その言葉に、うまく返せなかった。
「おや、翔ちゃん。おかえり」
奥の椅子から声がした。祖母だった。
地域情報誌を広げ、眼鏡を鼻先までずらしている。いつから座っていたのか、気配がなかった。
「ただいま、ばあちゃん」
祖母は母の方へ顔を向けた。
「あんた、神宮駅近くの古民家を改築したカフェがすごい評判いいらしいよ。今度行かない?」
「いいですね。混んでなさそうな日にしましょうか」
「混んでるうちに行くのが、楽しいんじゃないの」
そう言って、冊子をテーブルに置いた。
地域情報誌『シキロ』。敷路市で毎月配られている薄い冊子だ。自治会の回覧と一緒に届くこともあれば、駅やスーパーのラックに差さっていることもある。
敷路市は、人口三十万人ほどの地方都市だった。大きすぎず、小さすぎもしない。観光地と呼べるものは、敷路神宮くらいしかない。そのせいか、『シキロ』の表紙にはやたらと敷路神宮の鳥居が使われた。
昼の鳥居。夜の鳥居。雪の鳥居。桜と鳥居。
ときどき、地元出身の漫画家が有名アニメのキャラを巫女装束で描き、その後ろにやっぱり鳥居がある。
どうにかして変化をつけようとしている努力だけは、毎号、表紙からにじみ出ていた。
翔太は箸を取った。
母の作った焼き魚を片手でほぐしながら、なんとなく『シキロ』の表紙に目を落とす。
手が、止まった。
今月号の表紙は、水墨画だった。墨の濃淡だけで、敷路神宮の大鳥居が描かれている。太い柱。石段。奥へ続く参道。
いつもの観光案内とは、違っていた。白と黒だけの鳥居は、妙に重く、古い門のように見えた。
だが、翔太の目が止まったのは、鳥居ではない。
鳥居の上を、一頭の竜が飛んでいた。
黒灰色の鱗。長く、途中で折れたような角。片方の眼を潰す、古い傷。
喉の奥が、音もなく詰まった。
アズラグ。
そう、思った。
ロード・ヴァルドの相棒。魔王軍の空を知る、老いた飛竜。
あれは、アズラグにしか見えない。
「翔太?」
母の声が、遠く聞こえた。
「どうしたの」
返事ができなかった。
冊子を手に取る。指先が震えていた。
表紙の隅を探す。絵の作者名。小さな文字。墨の余白に紛れるように、それは印刷されていた。
――表紙イラスト 神崎凛太郎。
息を、止めた。
「翔太」
母の声が、もう一度した。
味噌汁の湯気が、まだ目の前にある。焼き魚の匂いもする。祖母が開いたままの情報誌のページが、テーブルの端で少し丸まっていた。
けれど、翔太はもう、普通の夕食には戻れなかった。
エリオを探すはずだった。慎重に、一人ずつ――そう決めたばかりだった。
なのに、世界の方が先に、こちらへ名前を差し出してきた。
鳥居の上の、竜。
その片眼は、墨で塗り潰されていた。




