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第六話 捻れた輪廻 村上翔太4

 レノヴァティオ城の玉座の間は、広かった。


 ただ広いのではない。人ひとりの決意くらい、放り込んだそばから吸い込んで消す。そういう広さだった。


 高い天井。黒い石柱。砕けた床に散った硝子の破片が、遠い炎を受けて鈍く光る。死にそこなった星みたいだ、と思った。


 その奥に、魔王ドロネオールがいた。


 漆黒のローブ。顔は見えない。手も足も、輪郭さえ闇に溶けていた。


 いや、違う。


 闇が、そこに立っている。


 そう言ったほうが近い。


 アレンは聖剣を構え、まっすぐ歩いた。


 背後では、まだ戦いが続いている。ラグナスの刃をエリオが受ける音。セラヴィアの魔法をルドルフが打ち消す声。クローディアの弓弦。ロードが古竜アズラグを呼ぶ叫び。ユーナの祈り。


 全部、聞こえていた。聞こえていたはずなのに、アレンとドロネオールのあいだだけ、やけに静かだった。そこだけ、世界が息を止めている。


「勇者アレン」


 ドロネオールが言った。男とも女ともつかない。若いとも老いているともつかない。いくつもの声を重ねて、それでひとつに聞こえる声だった。


「聖剣に選ばれし者。なぜ、ここに来た」


 答えなかった。答える必要などない。


 こいつは人を殺した。街を焼いた。国を滅ぼした。数えきれない悲鳴を、この部屋へ積み上げてきた。だから自分はここにいる。だから剣を抜いた。それで充分だった。


「光と闇」


 ドロネオールは静かに続けた。


「祝福と呪い。私たちは、同じセリシアの、捻れた輪廻の中にいる」


 その声が、不気味なほど通った。


 何を言っているのか分からなかった。分からない、というより、分かりたくなかった。理解しようとした瞬間、何か大事なものが汚れる気がした。


 神の名を口にするな。聖セリシアは人を守る神だ。魔王がその名を語ること自体が許せない。


「黙れ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


「お前が何を言おうと、俺は止まらない」


 ドロネオールは笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、見えない顔をわずかに上げた——気がした。


 その時、頭上に青黒い光が生まれた。


 炎ではない。雷でもない。夜の底が裂けて、そこから別の夜がこぼれてくる。そういう光だった。


 アレンは剣を構え直す。背後の戦いの音が、一瞬だけ遠のいた。


 だが、ドロネオールは驚かない。逃げも、身構えもしない。ただ静かに、その光を見上げていた。


 待っている。そんなふうに見えた。


      ◇


 知らない天井だった。


 白い。低くない。染みもない。木の梁もない。宿屋でも、実家でも、自分の部屋でもなかった。


 翔太はしばらく、その天井を見ていた。頭が重い。口の中が乾いている。自分がソファに寝かされていることに、そこでようやく気づいた。


「……どこだ、ここ」


 起き上がると、毛布が膝から滑り落ちた。


 広いリビング。黒い革張りのソファ。低いガラスの机。壁際の本棚には魔法書ではなく、分厚い専門書と横文字の背表紙が雑に詰まっている。奥にはギター、キーボード、パソコン。


 それだけなら、いかにも大宮蓮の部屋だ。


 だが、どこか止まっていた。ギターケースは閉じたまま壁に立てかけられ、アンプの横でケーブルが丸まったまま放られている。パソコンには音源編集の画面が開きっぱなし。なのに、壁のライブ告知は、五月の日付で途切れていた。


 窓の外は朝だった。駅前の通りが白い光に沈んでいる。車が流れ、バスロータリーに人が集まりはじめる。遠くに山の影。その手前に、大きな神宮の屋根。


 翔太はそこで、ようやく場所を察した。この街で、これだけの高さから神宮を見下ろせる建物はひとつしかない。駅前の高層マンション。地方都市にしては立派すぎて、誰が住んでいるのかと噂になる、あの建物だ。


 昨日の夜、蓮と飲んだ。そこまでは覚えている。あとは、ひどく曖昧だった。


「おう。起きたか、勇者殿」


 声に振り返る。


 大宮蓮が廊下の奥から歩いてきた。灰色のバスローブ。片手にコーヒーカップを二つ、もう片方の指に煙草を挟んでいる。似合うはずのない格好なのに、妙に馴染んでいた。


「日本人に生まれ変わって、ずいぶん酒に弱くなったな」


 蓮は愉快そうに向かいのソファへ腰を下ろした。


「この世界では、初めてだったからな」


「ジョッキ一杯で立てなくなる勇者か。魔物に遭遇しなくてよかったな」


「……すまない」


「気にすんな。瀕死のたびに、エリオにおぶってもらってただろ、お前」


 蓮はコーヒーを一口飲み、それから翔太を上から下まで眺めた。


「顔色は悪いが、死んではなさそうだな」


 煙草に火をつける。細い煙が朝の光の中でほどけていく。


「俺、この街で生まれたんだけどな」


 唐突だった。


「音楽一家でな。高校までは東京やら海外にいた。こっちには二年前、一人で戻ってきた」


「二年前?」


「ああ。じいさんの……魔法使いの記憶が戻った頃だ」


 蓮は天井へ煙を吐く。


「音楽なんざ今どきどこでもできる。それでもこの街に戻れば、何か見つかる気がしたんだよ」


「見つかったのか」


「今のところ、お前だけ」


 軽い言い方だった。だが翔太は笑えなかった。


「で、今は魔法じゃなく、音楽で食ってるのか」


 翔太は部屋を見回した。広い。無駄に広い。家具も家電も、値段の見当がつかない。


「いや、これは実家が太いだけだ」


 笑いながら、蓮は灰皿に灰を落とす。


「地元じゃ多少知られてる。全国区にはほど遠いけどな」


「ルドルフは音楽なんて、耳でやる手品だと馬鹿にしてたな」


「魔法も音楽も似たようなもんだろ」


 蓮は煙草を杖のように振った。赤い火の粉がガラスの机に落ちる。


「……ライブ、止めてるのか」


 翔太は壁の告知を見た。五月。その先に予定がない。


 蓮の、煙草を持つ手が一瞬止まった。


「よく見てるな」


「見えるところに貼ってある」


「嫌な勇者だ」


「隠す気がないだけだろ」


 蓮は笑った。少し薄い笑いだった。


「Seiðrってバンド名でやってたけど、しばらく休んでる」


「ソウゼって、魔法の?」


「そうだ。記憶が蘇った時、最初に浮かんだ言葉だ」


 蓮はコーヒーカップを見た。その声だけは、少しも軽くなかった。


「五月に、敷路でライブをやった。一番デカい箱だ。客の入りも悪くなかった。照明が近くて、客席の熱がまともに上がってくる。音が壁に跳ね返って、床が震える」


 翔太は黙って聞いた。


「演奏の途中で、変な感じがした」


「変な感じ」


「現実じゃないものが見えた」


 翔太は眉を寄せた。


「急に、目の前が開けたんだ。丘の下まで見渡せて、騎兵の列が槍の穂先を光らせてた。怒号。土煙がこっちへ迫ってくる。横には、お前らの背中があった」


 蓮は言葉を切った。


「思い出した、っていうより、あの場に放り込まれた感じだった」


「よく演奏を止めなかったな」


「止めたら格好悪いだろ」


 いつもの調子で言って、それから少しだけ笑った。


「終わったあと、しばらく楽屋で動けなかった。酒でも疲れでもない。ルドルフの記憶が、それまでより前に出てきた」


「きっかけは」


「分からん」


 蓮は首を振った。


「何かを見たわけじゃない。誰かに会ったわけでもない。ただ、あの夜から、俺の中のじいさんが少し濃くなった」


 翔太は冷めかけたコーヒーに手を伸ばしかけて、やめた。


「それで調べ始めたのか」


 蓮は机の上の紙を一枚つまんだ。古い掲示板の印刷だった。


 翔太は、それを見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 文字の形を覚えていた。昔、自分が掲示板に残した文章だ。誰か一人でも読める者がいれば、それでよかった。返事は、来なかった。まともなものは一度も。


「五月のあと、手当たり次第に調べた。ガーラシア。セリシア。アレン。魔王。前世。勇者。出てくるのは創作か、ゲームか、オカルトばかりだ」


 蓮は紙を机に戻す。


「その中に、お前の書き込みがあった」


「……ああ」


「投稿時期を見て、変だと思った。六年前から続いてる。しかもガーラシア語だ。偶然で書けるもんじゃない」


 翔太は否定しなかった。できるはずがなかった。


「昨日、店でお前を見た時、すぐ分かったわけじゃない。顔を見て、声を聞いて、目を見て、それでようやく繋がった。掲示板のアレンと、目の前の村上翔太が」


「俺は、あれで誰かが見つかると思ってた」


 翔太の声は、自分でも思ったより静かだった。


「子どもだったからな」


「子どもじゃなくても、やるだろ」


 蓮はすぐに言った。


「俺でもやる。たぶん、ルドルフでもやった」


 翔太は蓮を見た。蓮は視線を逸らさない。それから、煙草を灰皿に置いた。


「ただ、翔太。そこを混ぜると間違える」


「混ぜる」


「お前の掲示板は、お前が外へ投げたものだ。誰かいないか、と探すための」


 蓮の目が、少し鋭くなった。


「けど、日比谷遥が渡した置き手紙は逆だ。アレンを探すなら、この町にいる。そう書いてあったんだろ」


「ああ」


「あれは、外からお前に向けて投げられてる」


 言われた瞬間、翔太の指先から熱が引いた。


 自分は探していた。誰かを。仲間を。同じ記憶を持つ誰かを。だが、同時に、探されてもいた。そのために遥が使われたのだとしたら。


「俺を探すために、遥が使われたってことか」


「可能性の話だ。断定はしない。だが、無視はできない」


 部屋に沈黙が落ちた。窓の外で、駅前の信号が青に変わる。小さな人の列が動き出す。


 こんな景色の中で、ガーラシアの話をしている。それが妙におかしかった。


「で、翔太。今から時間あるか」


「昼から仕事だ」


「なら、昼までだな」


 蓮の声が、少し変わった。軽さは残っている。けれど、目だけが違っていた。


「昨日の続きだ。ドロネオールと対峙した時のこと、覚えてるか」


「ああ」


「俺たちはラグナスとセラヴィアで手一杯だった。玉座の前で何があったかは見ていない」


 翔太は息を吐いた。


「ドロネオールは、闇みたいな法衣を纏ってた。顔は見えない。男か女かも、若いか年寄りかも分からない」


「声は」


「いくつもの声が重なってるみたいだった」


「何か言ってたか」


 翔太はしばらく黙った。それから、ゆっくり言った。


「俺とお前は、同じ聖セリシアの捻れた輪廻にいる。そんなことを」


 蓮の指が止まった。カップの縁に、白い指がかかったまま動かない。


「同じ聖セリシアの、捻れた輪廻か」


「聖剣と聖衣」


 蓮が、低く呟いた。


「勇者がいれば、魔王がいる。逆もだ。魔王がいるから、勇者が選ばれる」


「……何の話だ」


「独り言だ」


 蓮はそう言って、カップを持ち上げた。その目だけは、笑っていなかった。


 あの時は、ただ腹が立った。けれど今思い返すと、怒りの芯は別の場所にあった気がする。ドロネオールは、自分を敵としてだけ見ていなかった。まるで勇者と魔王が、同じものに巻き込まれているような言い方だった。


 喫茶店での遥の声が甦る。


 ——あの時、本当に魔王を倒すべきだったのかな。


 遥は何を思い出し、何を見たのか。


「それで」


 蓮が思考を切った。


「ああ、その後だ」


 翔太は続けた。


「青黒い光が現れた」


「それは俺も覚えてる」


 蓮は低く言った。


「あの光が出た瞬間、セラヴィアの魔力が乱れて、ラグナスも止まった。たぶん、あの場の全員が見てる」


「ドロネオールは驚いてなかった」


 蓮の目が細くなった。


「驚いてなかった?」


「逃げも、身構えもしなかった。ただ見上げて、待ってるみたいだった」


 蓮はカップを机に置いた。


「心当たりがあるのか」


「全くない」


 翔太は少し落胆した。


 蓮はその顔を見て、煙草の箱を取った。一本抜きかけて、やめる。


「ない。だが、分からないから意味がある」


「どういうことだ」


「仮に、ドロネオールが俺たち全員をこの世界へ転生させる魔法を使ったとする」


「そんなことが可能なのか」


「普通は不可能だ」


 蓮は腕を振った。


「転移魔法だけでも最高位の術式だぞ。空間をずらすだけで、信じられん量の魔力を食う。まして別世界への転生。それも複数人。まともな魔法じゃない」


「なら、あれは何だ」


「だから考えてる」


 蓮は顎に手を当てた。一度、二度。ルドルフが考え事をする時の癖だった。


「どれほど規格外の術式でも、必ず制限はある。範囲。時期。対象。何かで絞らないと、術式は成立しない」


「条件……」


「場所か、時期か。少なくともどっちかは絡んでる」


 蓮は窓の外へ目をやった。駅前のロータリー。神宮の屋根。山の影。


「俺とお前は、同じ地域で生まれてる。時期も近い。お前、誕生日いつだ」


「四月十五日」


「俺は四月五日」


「近いな」


「ああ」


 翔太はそこで、遥を思い出した。


「日比谷遥は」


「知らない」


「何だよ。それぐらい聞いとけよ」


「聞ける状況じゃなかった」


「……まあ、そうだな」


 蓮は少しだけ目を伏せた。遥の死。ユーナの死。その二つが、部屋の空気を重くした。


 けれど蓮は、すぐに顔を上げた。


「断定はしない。だが、お前と俺がこの街で会ったのは、偶然じゃないかもしれない」


「じゃあ、エリオたちも」


「いるかもしれない。エリオ。クローディア。ロード。全員、この街か、近くの町に」


 会えるかもしれない。そう思った瞬間、自分が前のめりになっていることに、翔太は気づいた。エリオに。クローディアに。ロードに。もう一度。


 だが、蓮の表情は明るくない。


「ただし、こっちだけとは限らない」


「こっち?」


「俺たちの仲間だけが転生した保証はない」


 翔太は、すぐには意味を掴めなかった。


「セラヴィア。ラグナス。あいつらも、この世界に来てる可能性がある」


 窓の外で、バスがロータリーを抜ける音がした。


「何のために、味方まで巻き込む」


「巻き込む?」


 蓮が薄く笑った。


「ドロネオールにとっては、そうじゃなかったかもな」


「違うのか」


「分からん。ただ、俺たちを始末するためなら、敵も一緒に送り込むのは理屈に合う」


 翔太は言葉を失った。


 ユーナは死んだ。日比谷遥も、もういない。彼女の死が、もし偶然でなかったとしたら。この世界に来た誰かが、彼女を死に追いやったのだとしたら。


「ユーナは……」


 言いかけて、止まった。


「関係してるかは分からん」


 蓮が先に言った。


「けど、敵側が来ている可能性もあるなら、無関係とも言い切れない」


 はっきりした答えではなかった。それでも、こめかみの裏が痺れた。手のひらが、勝手に膝の上で握られていた。


 蓮は二本目に火をつけた。今度は迷わなかった。


「それで、俺も休んだ」


「ライブを?」


「ああ。五月のあと、記憶が妙に濃くなった。お前の書き込みも見つけた。そこへ、遥の置き手紙だ。もう、ただの前世の記憶じゃ済まない」


 翔太は壁際のギターケースを見た。閉じたままのケース。五月で途切れた告知。


「二年前、俺の記憶が戻った。おそらく術式の効果が薄れてきたんだ。同じ条件なら、他の奴らも戻ってる可能性がある」


「記憶を持つ者を探す必要がある、ということか」


「そうだ。情報を比べる。誰が何を覚えていて、誰が覚えていないのか。それを見ないと、何も分からん」


 翔太は窓の外を見た。


 駅前の街は、いつも通り動いている。バスが停まり、学生が改札へ向かい、誰かがコンビニの袋を提げて歩く。そこに勇者も魔王もいない。聖セリシアの名も、ガーラシアの戦争もない。


 それでいいはずだった。この世界は、それで回っている。


 なのに、自分のところへだけ、別の世界の影が追いついてくる。


「探そう」


 翔太は言った。蓮が顔を上げる。


「エリオも、クローディアも、ロードも」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 会いたい。だが、会うことが救いになるとは限らない。彼らがこの世界でどんな名を持ち、どんな人生を生きているのか、翔太は知らない。記憶を取り戻しているのかも分からない。戻っていたとして、それが彼らを救っているとも限らない。


 それでも。


「それから、置き手紙を渡した奴も」


 蓮はしばらく翔太を見ていた。


 翔太はコーヒーカップを机に置いた。中身は、ほとんど冷めていた。


「蓮」


「何だ」


「もし、俺が原因だったら」


 蓮の手が止まった。


「俺が最初から記憶を持ってたことも、掲示板に書き込み続けたことも、遥が巻き込まれたことも。全部、俺が中心にいるせいだったら」


 自分で言って、嫌な言葉だった。


 蓮は少しだけ笑った。


「その時は、その時だ」


「賢者らしからぬ発言だな」


「実際、違うからな」


 蓮は立ち上がった。金髪と灰色のバスローブが、朝の光に淡く透ける。


「それに、お前が俺たちを裏切るわけないしな」


 翔太は蓮を見た。


「……疑わないのか」


 蓮は鼻で笑った。それから、低い声で言った。


『だから、主とここまで来れたんだよ、若造』


 その瞬間だけ。


 灰色のバスローブ姿の大宮蓮が、魔法使いルドルフに見えた。


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