第五話 金髪の賢者 村上翔太3
聖剣の柄に、朝霧が湿りをまとわせていた。
ガーラシア北東部の小村。魔王軍の影が落ちたと聞き、アレンたちは夜明け前にそこへ入った。
だが、村は静かすぎた。
焼けた家はない。倒れた者もいない。血の匂いすらしなかった。
あるのは、妙な空白だけだった。
食卓には、なぜか椀が三つ出ている。
けれど家の者は、夫婦二人だけだという。
壁には小さな弓が掛かっていた。
母親はそれを見ても、首を傾げるだけだった。
「うちに、子どもはいませんよ」
「……どういうことだ」
アレンは壁の弓を見上げた。
子どもの手に合わせた弓だ。昨日まで誰かが握っていたように見える。
「それは、前からそこにありました。誰のものかは、知りません」
女は穏やかに答えた。
嘘ではない。
だからこそ、気味が悪かった。
ユーナが女の前に膝をついた。
「少し、失礼します」
胸の前で指を組み、祈りの言葉を唱える。淡い光が女の額へ伸びた。
だが、何も起こらない。
光は弾かれたのではなかった。触れる場所を見つけられないまま、薄れていく。
「……おかしいです」
ユーナが眉を寄せた。
「呪いなら、反応があるはずです。穢れでも、残された術式でも、何かしら触れる場所がある。でも、これは」
「解けないのか」
「解けないというより、どこを解けばいいのか分かりません」
珍しく、ユーナの声が迷っていた。
ルドルフが顎髭をさすり、鼻を鳴らす。
「僧侶の術式で解けるなら、こんな面倒な真似はせん」
「ルドルフ様」
「責めてはおらん。お前の術式は、人に巣食った呪いを祓うものだ。だがこれは、人そのものにかけた呪いではない」
ルドルフは食卓の椀を指した。
「思い出す道の方を、塞いでおる」
「思い出す、道……?」
「人は記憶を箱にしまっているわけではない。匂い、音、場所、手触り。そういうものをたどって、ようやく思い出す。ならば、その道筋だけをねじ曲げればいい」
老人は椀の傷に触れた。
「この椀を見れば、本来なら持ち主を思い出す。壁の弓を見れば、子の名を思い出す。だが、その手前で意識が逸らされる」
「記憶を消されたわけじゃないのか」
「消すより悪趣味だ。本人の中には残っておる。だが、本人だけが触れられん」
女は困ったように微笑んでいた。
その穏やかさが、アレンには怖かった。
「虚絵のセラヴィアか……?」
セラヴィア。幻影魔法を得意とする、ラグナスと並ぶ魔王側近の一人。
気配なく忍び寄り、人を虚ろにさせるという。
「おそらくな」
ルドルフは杖の先で床を叩いた。
一度。二度。三度目で、部屋の空気が歪んだ。
壁の隅に、黒い文字のようなものが浮かぶ。虫のように蠢き、壁の内側へ逃げようとしている。
「いたな」
「解けるのか」
「誰に言っておる」
曲がった背中。白い髪。古びた杖。
それでも、その時のルドルフは誰よりも頼もしかった。
「アレン。剣を抜くな。これは斬るものではない」
「じゃあ、俺は何をすれば」
「黙って見ておれ」
「……それだけか」
「お前にできる、最上の働きだ」
腹は立った。
だが、言い返せなかった。
ルドルフは床に杖を立て、低く呪文を唱えた。
ユーナの祈りとは違う。絡まった糸を一本ずつほどいていくような、地味で、根気のいる声だった。
黒い文字が震える。
壁の中へ逃げようとしたそれを、ルドルフの杖が押し留めた。
「逃がすか」
老人が杖を払う。
黒い文字が、裂けた。
その瞬間、女が小さく息を呑んだ。
「……ミナ」
知らない名が、女の口から落ちた。
次の瞬間、彼女は膝から崩れた。
「ミナ、ミナはどこ。あの子、さっきまで、ここに……」
女は壁の弓を見上げた。顔が、みるみる歪んでいく。
「私、どうして……どうして忘れて……」
ユーナが女の肩に手を置いた。
今度は術式ではなく、ただ支えるためだった。
アレンは、何も言えなかった。
忘れていた間の穏やかさが、壊れていく。
思い出すことが、必ずしも救いではない。その時、初めて知った。
「覚えておけ、アレン」
「……何を」
「記憶というものは、消えるより、戻る時の方が人を壊すことがある。忘れていた間の自分まで、信じられなくなるからだ」
その言葉を、アレンは長く覚えていた。
♢
ルドルフなら、何か分かるかもしれない。
なぜこの世界に生まれたのか。仲間たちの記憶が、なぜ今になって戻り始めているのか。遥が、なぜあそこまで追い詰められたのか。
あの老人なら、笑ってごまかすことだけはしない。
そう思っていた。
村上翔太は、居酒屋ろーいんの前で足を止めた。
赤い提灯。ガラス戸の向こうから漏れる笑い声。焼き鳥と酒の匂い。
この世界で、居酒屋に入るのは初めてだった。
誘う相手も、誘われる相手も、いなかったからだ。
ガーラシアでは、よくルドルフに朝まで付き合わされた。
酒が入ると、老人は古代術式の話から王都の魔術師への愚痴まで、際限なく喋った。
そのたびに、ユーナに呆れられた。
『アレン様まで、朝まで付き合う必要はありません』
そう言って、ユーナは少し困ったように笑っていた。
その顔を思い出すと、胸の奥が痛んだ。
翔太は息を吸い、戸を開けた。
中は騒がしかった。
笑い声。皿の音。店員の声。
どこに立てばいいのか、一瞬、分からなくなる。
「あの……ルドルフで、席を」
口にしてから、恥ずかしさが遅れてきた。
だが、店員は気にも留めない。
「奥左十三番で〜す」
当たり前のように言われ、翔太はかえって困惑した。
ルドルフ。
この名前で、本当に予約していたのか。
奥へ進む。
席にいたのは、ルドルフとはかけ離れた男だった。
若い。金髪の短髪。耳にピアス。指輪。ネックレス。腕に流れる入れ墨。薄く差したアイシャドウ。片手にビールジョッキを持ち、膝を組んだままスマートフォンを触っている。
老人ではない。
賢者にも、見えない。
だが、日比谷遥と会った時と同じ感覚があった。
この世界だけで生きてきた人間ではない。
翔太は、用意してきた台詞をガーラシアの言葉で口にした。
『サ、サニトラの賢者、ルドルフ・グレイ……?』
緊張と動揺で、発音は思っていたよりひどかった。
スマートフォンを置き、金髪の男が顔を上げた。
しばらく、間が空いた。
「マジかー」
日本語だった。
男はそう言うなり、ぐったりとテーブルに突っ伏した。
翔太は固まった。
しばらくして、男はゆっくり上体を起こした。今度は、ひどく丁寧なガーラシア語だった。
『座りたまえ、勇者アレン殿』
その発音だけで、疑う余地はほとんど消えた。
♢
「生二つに、焼き鳥五種盛り。あと揚げ出し二つね」
男は店員を呼び、慣れた調子で注文した。
それから、翔太を見る。
翔太はジョッキを持ったまま、まだ少し固まっていた。
「俺、大宮蓮。お前は? まさか、今もアレンじゃないんだろ」
「……村上翔太」
「翔太。よろしく。なんか違和感があるっていうか、この世界だけの人間じゃない感じっていうのかな。いやー、マジでビビった。連絡が来るとも思わなかったし」
言葉の軽さに反して、蓮の指はジョッキの取っ手を強く握っていた。
翔太は、その反応を見ていた。
遥と会った時にも、似た沈黙を見ている。
「俺のメッセージ、見つけてくれたんだな」
「ひょっとしたら、あの時の仲間も同じ状況で、誰かメッセージを出してないかと思ってさ。見つけた時は震えたよ。まさか、MeTubeのドッキリ企画じゃないよな?」
「だったら、どれだけよかったか」
「違いねぇ。異世界の記憶なんてネタ、今どきないよな」
蓮は笑おうとして、少し失敗したような顔をした。
それから残っていたビールを一息で飲み干し、わざとらしく机を叩いた。
ルドルフは、よく喋る老人だった。
けれど、この軽さは知らない。
ただ、遥もこうやって、自分の中にある記憶を誰かに確かめたかったのかもしれない。
「記憶はいつ戻った」
「二年前くらいかな。突然、魔法使いの爺さんだったことを思い出した。高三の終わりだったから、みんな受験終わって浮かれてた時期だ。さすがの俺も、一週間くらい部屋から出なかったぜ」
「……二年前」
「ああ。今、二十歳。お前は?」
「同じだ」
二年前。同じ年。
その符合を、どう受け止めればいいのか、翔太には分からなかった。偶然と言うには近すぎて、意味があると言うには、何も見えてこない。
「お先に生二つです」
店員がジョッキを置いた。
蓮は空のジョッキを渡し、新しい方を受け取る。
「あの掲示板の投稿時期からして、お前はもっと前から記憶がありそうだと思ってた」
「俺は、物心ついた時からあった」
「へえ」
蓮は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、俺とは違うかもな」
「違う?」
「その話は、後だ」
蓮はジョッキを軽く持ち上げた。
「それより、久しぶりの再会に」
翔太も、ぎこちなくジョッキを持った。
ガラスの音が、静かに当たる。
蓮は一口飲んで、こちらを見た。
「なんだよ。せっかくの再会なのに、訳ありって顔してるな」
心臓が、嫌な音を立てた。
この洞察力だけは、ルドルフのものなのかもしれない。
「ユーナに会った」
蓮の眉が、わずかに動いた。
「ユーナ?」
蓮は一瞬だけ考え込み、あるはずのない顎髭をさする仕草をした。
「ああ、あの僧侶の小娘か。大神官長の息女だってのを鼻にかけて、俺のこと妙に避けてたよな」
たぶん、ルドルフが説教くさかったからだ。
翔太はそう思ったが、口にはしなかった。
「正確には、日比谷遥って子だ。ユーナの記憶があるんじゃないかと、思った」
「で、何で今日連れてこなかった」
翔太はジョッキを静かに置いた。
「日比谷遥は、数日前に死んだ」
声が上擦るのが、自分でも分かった。
蓮は、ジョッキの泡を見つめていた。
「焼き鳥五種盛りと、揚げ出し豆腐です」
無言になった二人の間に、料理が置かれる。
店員が去るまで、蓮は何も言わなかった。
「死んだって、どういうことだ」
さっきまでの軽さが、消えていた。
翔太は話した。
生まれた時からアレンの記憶を持っていたこと。掲示板に書き込んだこと。日比谷遥に会ったこと。遥がユーナの記憶を持っていたこと。彼女の様子。そして、遥が残したメッセージ。
蓮は焼き鳥にも手をつけず、ただ黙って聞いていた。
話し終えると、蓮はゆっくり息を吐いた。
「待て。その子、どうやってお前を見つけた」
「書き置きがあったらしい。差出人は不明。アレンを探すなら、この町にいる、とだけ」
蓮の目つきが変わった。
「その紙は?」
「見てない。遥から聞いただけだ」
「……誰が書いた」
「分からない」
蓮は両手を組み、顔を伏せたまま言った。
「悪いけど、翔太。お前が期待してるような答えは、出せないと思う」
「……そうか」
「俺、ルドルフだった記憶があるだけで、魔法は使えないし、古文書もない」
蓮は顔を上げ、焼き鳥の串を一本取った。
けれど、すぐには食べなかった。
「ただ、遥って子の気持ちは、少し分かる」
「分かる?」
「突然、知らない人生が頭に入ってくるんだぞ。しかも、魔法だの魔王だの勇者だの、今の世界と全然違うやつが。信じられるか」
蓮は串で円を描いて、その先を翔太に向けた。
「お前は最初から覚えてたんだろ。だったら、それ込みで自分だったんだと思う。でも俺は違う。大宮蓮として生きてきたところに、後からルドルフが入ってきた」
「……蓮の方が、本物なのか」
「そりゃそうだろ」
その言い方は、軽かった。
けれど、嘘をついているようには見えなかった。
「たぶん、遥って子もそうだったんじゃないか。日比谷遥として生きてきたところに、後からユーナが来た」
言っていることは、分かった。
最初から記憶がある自分でさえ、こんなに苦しい。
なら、遥はどうだったのか。
俺は、日比谷遥にユーナを求めすぎたのだろうか。
彼女を、遥ではなく、ユーナとして見ていた。
それが、追い詰めたのだろうか。
だが、遥の母は言っていた。
やっと、分かってくれる人に会えた、と。
何が正しくて、何を間違えたのか。
考えるほど、足元が崩れていく気がした。
「まあ、そんな顔すんなって」
蓮は焼き鳥を一気に食べ、串を竹の串入れに放った。
「俺も、偉そうなこと言える立場じゃないし。最初に思い出した時は、普通に終わったと思ったからな」
「終わった?」
「人生。ゲームとアニメの見過ぎでおかしくなったと思ったよ」
蓮は少し笑った。
「でも、終わらなかった。飯はうまいし、酒もうまいし、スマホも便利だし。気づいたら、まあ何とかなるかって思ってた」
「……そんな簡単に?」
「簡単じゃなかったよ。だから一週間、部屋から出なかったって言っただろ」
蓮はそこで、ようやく焼き鳥を一口かじった。
「俺は、たまたま戻れた。遥って子は、戻れなかったのかもしれない。それくらいしか、言えない」
翔太は、何も返せなかった。
蓮は答えを持っていない。
ルドルフのように、難しい術式を解いてくれるわけでもない。
目の前にいるのは、大宮蓮だった。
金髪で、ピアスをあけて、居酒屋で焼き鳥を食べている、魔法の使えない二十歳の男。
それでも、逃げずに聞いてくれている。
それだけで、翔太は少しだけ喉の奥が詰まった。
翔太は、まっすぐ蓮を見た。
「俺は、もうこれ以上どうすればいいか分からない」
言葉にすると、胸の奥にあったものが崩れた。
遥のため。ユーナのため。
そう言えば、少しは綺麗に聞こえる。
でも、違う。
これ以上、自分を見失わないために必要なことだった。
「俺のために、力を貸してほしい」
蓮は、翔太の目を見た。
その目を、蓮は知っていた。
遠い昔、サニトラの塔に来た若者も、同じ目をしていた。
世界のため。魔王軍を倒すため。
そんな言葉なら、何度も聞いた。
だから、ルドルフはすべて断ってきた。
だが、その若者だけは違った。
『俺のために、力を貸してほしい』
勇者が言うべき言葉ではなかった。
身勝手で、愚かで、あまりにも真っ直ぐだった。
だから、断れなかった。
そして今、翔太が同じ言葉を口にしている。
蓮は、顎をさすった。
「……ほんと、お前は昔から頼み方がずるいんだよ」
「蓮」
「いいよ。考えてやる」
蓮はそう言って、翔太の皿から焼き鳥を一本取った。
「今回は黙って見てるだけじゃなくて、お前も手伝えよ。勇者殿」
昔と同じように、少し腹が立った。
それでも、翔太は初めて息ができた気がした。




