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第四話 Seiðr 森山葵2

 土曜の午後、敷路駅前は平日より少し浮き立っていた。


 駅ビルのガラスに西日が跳ね、ロータリーの白線がまぶしい。改札からは紙袋を提げた家族連れや、部活帰りらしい中高生が次々に出てくる。神宮行きの案内板の下には観光客が集まり、信号が変わるたびに人の流れがほどけて、また別のかたまりになった。


 葵は時計を見た。15時52分。待ち合わせは16時。


 早すぎたわけじゃない。それでも落ち着かなくて、スマホを何度も開いてしまう。


 美咲から来たライブの詳細は、もう何度も見た。


 Seiðr。


 画面の中の文字は、やっぱり読めない。音だけが舌の奥にある。


 ソウゼ。


 頭の中でなぞると、黒糖ラテの甘さじゃなくて、雨に濡れた紐みたいな味が戻ってくる。


 一週間前、マドカでそれを口にした時、美咲は一瞬だけ黙った。何で分かるの。葵は笑ってごまかした。響きがそれっぽかっただけ。勘。いつもの言い訳。


 疑われたわけじゃない。それでも、あの短い沈黙だけがまだ残っている。


「葵!」


 声がして振り返る。人の流れの向こうから、美咲が手を振っていた。


 葵は、返事が少し遅れた。


 学校で見る美咲と、ずいぶん違う。


 黒い短めのジャケット。銀のチェーン。細いサングラスを頭に乗せて、耳には大きめのイヤーカフ。黒のパンツにはベルトみたいな飾りがいくつもついている。靴は厚底。髪に青く光る細いエクステが混じっていた。いつもより背が高く見えた。


「……すごいね」


「何が?」


「服」


「今日は控えめだよ」


「これで?」


「これで」


 当然のように言う。


 葵は自分の服を見下ろした。黒のTシャツ、薄手のナイロンパーカー、ベージュのワイドパンツ。足元は履き慣れたランニングシューズ。動きやすい、という理由だけで選んだ服は、美咲の隣だと、あまりにも実用的に見えた。


「私、浮かない?」


「浮くか浮かないかで言えば、ちょっと浮く」


「大丈夫って言ったじゃん」


「大丈夫な浮き方」


「何それ」


「友達に連れてこられました、って子、普通にいるから」


 美咲は悪びれもせずに笑って、葵の足元を見て眉を上げた。


「葵、今から走って帰れそう」


「そこ基準で選んでるわけじゃない」


「絶対ちょっと選んでる」


 葵は言い返そうとして、足元を見た。


 ランニングシューズの紐だけ、今朝きっちり結び直してある。


「本当に、私が行っていいやつ?」


「いいやつ。ていうか、葵にも見てほしい」


「ライブとか初めてだけど」


「だからいいんじゃん」


 美咲が腕を軽く引いた。


「行こ。開場始まる」



 大通りを外れると、人の流れが変わった。


 飲食店の看板が並ぶ通りを抜けて、古いビルの前で美咲が足を止める。入口の横に小さな案内板。出演者の名前がいくつか並んでいて、その中にSeiðrの文字があった。


 敷路駅前にこんな場所があるなんて、知らなかった。


 ビルの入口から、地下へ階段が伸びている。もう何人か並んでいた。黒い服が多い。髪を派手に染めた女の人。ピアスをいくつもつけた男の人。ブーツ。革。鎖。美咲と同じで、ここへ来るための服を着ている人たち。


 葵は無意識に背筋を伸ばした。場違いかもしれない。


 そう思ったけど、よく見るとパーカーにジーンズの子もいた。大学生くらいの女の人。葵と同じで、友達に連れてこられたみたいな顔をして、右を見たり左を見たりしている子もいる。それだけで、少し息がしやすくなる。


「ね、大丈夫でしょ」


「まだ何も大丈夫じゃない」


「すぐ慣れるって」


 階段を下りると、外の音が遠ざかった。代わりに、壁の向こうから低い音が伝わってくる。まだ演奏は始まっていないはずなのに、床の奥で何かが震えていた。


 受付でチケットを見せる。


「ドリンク代、六百円お願いします」


「え、別なんだ」


 葵が財布を探している間に、美咲はもう小銭を出していた。


「ワンドリンク制。あとで交換するやつ」


 葵は小銭を渡して、小さな紙片を受け取った。なくしそうで、スマホケースの裏に挟む。


「ライブハウスって、いろいろ決まりあるんだね」


「最初だけだよ」


 中は、思っていたより広かった。天井は低い。けど奥行きがあって、正面にステージがある。マイクスタンドと楽器。床を這う黒いケーブル。壁際にはバーカウンター。グラスを持った人たちが話している。


 客席は薄暗い。外とは空気が違った。香水、汗、金属、照明の熱、人の声。全部が少しずつ混ざって、地下に沈んでいる。


 壁の一部だけ、古い木の板が残っていた。黒く塗られているのに、近づくと少しだけ乾いた匂いがする。葵はそれに気づいて、なぜか少し安心した。


 学校の視聴覚室よりずっと広く、体育館ほどはない。満員でもないのに前の方だけ人が詰まっていて、そこだけ熱が濃く見えた。


「五百の箱で、今日は四百くらいかな」


「箱?」


「会場の大きさ。五百人くらい入るって意味。たぶん」


「たぶんなんだ」


「詳しい人の言い方を真似してるだけ」


 美咲が少しだけ笑った。


 葵はステージを見た。まだ誰もいない。それなのに、そこだけ別の場所みたいに見えた。


「前の方行こうよ」


「最初だから、ちょっと後ろがいい」


「えー。蓮くん、近くで見た方がいいのに」


「蓮?」


「Seiðrのボーカル。見たら分かる」


 見たら分かる。美咲は軽く言った。


 葵は返事をしようとして、うまく笑えなかった。


 美咲は気にする様子もなく、葵を客席の少し後ろ寄りへ連れていく。


 開演前のざわめきが続いている。今日の曲の話。前回のライブの話。グッズの話。分からない単語が、何度も耳を通り過ぎた。


 その中で、Seiðrという名前だけが、やけにはっきり残る。


 ソウゼ。


 考えない。葵は唇を結んだ。考えたら、戻れなくなる。



 そう決めた時、客電が落ちた。


 ざわめきの形が変わる。話し声が消えたわけじゃない。むしろ歓声は大きくなった。けれど音の向きが一つになる。全員が、同じ場所を見た。


 ステージが暗い。低い音が鳴った。


 スタート前、足裏で地面の硬さを測る時に似ていた。まだ走っていないのに、体だけが先に構える。


 葵は息を止めた。


 青い照明が揺れる。薄いスモークの中に、人影が浮かんだ。一人、二人、三人。楽器を持ったメンバーが現れるたび、前列から声が上がる。


 最後に、金髪の男が出てきた。


 葵の視線が、そこで止まった。


 二十歳前後だろうか。高校生じゃない。葵が想像する大人とも、少し違う。短く切った金髪。黒いタンクトップ。肩から腕へ、黒い模様が流れるように入っている。刺青だと分かるまで、少し時間がかかった。耳にはピアスがいくつも光って、首元には細いネックレスが重なっている。マイクを握る指は、ほとんど全部に指輪があった。


 派手だった。葵の知っている誰とも違う。


 そう思ったのに、視線はなかなか外れてくれない。


「蓮!」


 美咲が叫んだ。前方から、同じ名前がいくつも上がる。


 蓮。


 葵は唇の内側で、その音をなぞった。


 教室にも、駅にも、陸上の大会にもいなかった顔だった。なのに、スタートの合図を聞き間違えた時みたいに、体の中で何かがずれた。


 懐かしい、とは違う。


 そこまで考えて、葵はやめた。


 蓮がマイクスタンドに手をかけた。照明が落ちる。


 次の瞬間、四つ打ちの低音が床から突き上げた。足元が震える。


 心臓の音と、外から来る音の境がなくなる。ドラムが一定の間隔で体を打って、ベースがその下をうねる。電子音みたいな細い旋律が、その上に重なった。


 聞いたことがない。なのに、その旋律は、耳に入った瞬間に意味を持ってしまった。


 言葉じゃない。歌詞でもない。ただの音の連なりなのに、体のどこかが先に分かっていた。


 暗い場所。雨の後の土が、靴裏で薄く滑った。遠くで、誰かが笑っている。白い布が風に揺れて、その向こうで金色の何かが光った。


 走っている。


 いや、走っているのは葵じゃない。誰かの背中を追っている。呼び止めたいのに、声が出ない。


 そこまで浮かんだところで、歓声が弾けた。


 蓮の声が入った。低く、掠れているのに、よく通る声だった。


 葵は現実に引き戻された。


 ステージの上で、蓮が歌っている。


 さっき見えたものは、何だったのか。森山葵の十六年の中に、あんな場所はない。土の匂いも、白い布も、金色の光も、知らない。


 知らないのに、知っている。


 その矛盾が、喉の奥に引っかかった。


「葵!」


 隣で美咲が何か言った。音に飲まれて、聞き取れない。


 美咲は笑っていた。目を輝かせて、ステージを見ている。美咲にとって、これはただの好きな音楽だった。好きなバンドのライブで、好きなボーカルが歌っている。それで十分なんだと思う。


 葵だけが違った。音が、葵の中の知らない場所を叩いている。


 一曲目が終わる。歓声と拍手の中で、蓮が短く何か言った。客席が笑う。葵には半分しか聞き取れなかった。


 次の曲が始まる。今度はもっと速い。前列が揺れる。手が上がる。美咲もつられて体を動かしている。葵はその場に立ったまま、ステージから目を離せなかった。


 音楽のことは分からない。うまいのか、下手なのか。どこが新しくて、どこがかっこいいのか、説明できない。


 ただ、逃げられなかった。


 蓮が歌うたびに、閉めたはずの場所が少しずつ緩んでいく。


 葵はナイロンパーカーの袖を握った。握っている間だけ、今の自分の手だと思えた。


 曲の合間、蓮が水を飲んだ。その横顔を見た時、葵はふと思った。


 あの人のところへ行けば、何かが分かってしまう。


 根拠はない。けれど、その考えは一度浮かぶと消えなかった。



 ライブが終わる頃には、外の明るさはすっかり消えていた。


 最後の曲が終わって、メンバーがステージを降りても、前列の熱はしばらく残っていた。拍手と歓声が続く。誰かが蓮の名前を呼んでいる。


 照明が少し明るくなった。その瞬間、葵は自分の足が疲れていることに気づいた。


 ずっと立っていた。ずっと聴いていた。


 美咲は汗をかいていた。頬が赤くて、目がいつもより大きく見える。


「やばかった」


「うん」


「ね、やばかったでしょ」


「うん」


「葵、ちゃんと聴いてた?」


「聴いてた」


「顔、変だったよ」


「変?」


「なんか、魂抜けてた」


 葵は返事に困った。抜けていたのは、魂じゃない。たぶん、もっと別のもの。


「出待ちしよ」


 美咲が急に言った。


「出待ち?」


「蓮くん、たぶん裏から出てくる。ちょっとだけ見れるかも」


「もう帰らないと」


「ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけ」


 葵はスマホを見た。母からの連絡はない。時間も、まだ遅すぎるほどじゃなかった。


 帰らなきゃ。そう思う。けれど、足はすぐに出口へ向かなかった。


 もう一度、蓮を近くで見たい。話したいわけじゃない。たぶん、話せたとしても何も言えない。それでも帰る気になれなかった。


「少しだけなら」


「やった」


 美咲が嬉しそうに葵の手を引いた。



 外に出ると、夜の空気が肌に触れた。地下の熱に慣れた体には、風が冷たい。通りにはまだ人が多い。飲食店の明かりが並んで、車のライトが路面に反射している。


 ライブハウスの裏手には、もう何人か集まっていた。みんな慣れているらしく、邪魔にならない位置で待っている。美咲もその端に混ざった。葵は少し後ろに立った。


「蓮くん、ファンサ薄いけど、たまに手振ってくれる」


「そうなんだ」


「話せたら奇跡」


 話す。


 その言葉に、葵の胸が少し強く鳴った。


 もし話せたら、何を言うんだろう。


 今日初めて見ました。音が、変でした。あなたを、知っている気がしました。


 どれも、言えるはずがない。


 しばらくして、裏口の方がざわついた。スタッフらしき人の後ろから、メンバーが一人、また一人と出てくる。そのたびに小さな声が上がる。


 そして、蓮が出てきた。


 近くで見ると、ステージ上より少し細く見えた。黒い上着を羽織って、片手にスマホを持っている。金髪が外灯を受けて、薄く白っぽい。


 前にいたファンが一斉に動いた。


「蓮くん!」


「今日最高だった!」


 声が重なる。


 葵は一歩も動けなかった。押されたわけじゃない。前へ出る隙間がなかった。美咲もその場で手を振っている。


 蓮が少しだけ顔を上げた。ファンに向けて、軽く手を上げる。


 その視線が、一瞬だけこちらを通った気がした。


 葵は息を止めた。


 目が合った。


 そう思った時には、蓮はもうスタッフに促されて歩き出していた。車のドアが開いて、蓮の姿が半分隠れる。次に見えた時には、もう窓の向こうにいて、すぐに反射した街灯で顔が消えた。


 あっけなかった。


「無理だったー」


 美咲が残念そうに言った。


「でも見れた。近かった。やばい」


 葵は何も言えなかった。


 蓮は通り過ぎただけだ。葵のことなんか、見ていないかもしれない。


 それでも、胸の奥に残った感覚は消えなかった。


 あの人は、何かが違う。



 帰り道、美咲の興奮は収まらなかった。


「今日の二曲目、前とアレンジ違ったよね。絶対違った。あと新曲やったじゃん。やっぱりやったじゃん。私、来ると思ってたんだよ。いや、来るって何。曲だけど。蓮くん、最初ちょっと声掠れてたけど、逆によかったし……ていうか今日、客多くなかった? 次、もっと大きいとこ行くかも」


「うん」


「葵、聞いてる?」


「聞いてる」


「蓮くん、どうだった?」


 葵は少し黙った。


「……怖かった」


「怖い?」


「うん。でも、嫌な感じじゃなくて」


「分かる。蓮くん、ちょっと怖いよね。そこがいい」


 美咲は軽く受け取った。


「怖い」は、近かった。でも、蓮に向けた言葉じゃなかった。


 葵はそれ以上考えるのをやめて、美咲の横顔を見た。美咲はまだ、ライブハウスの方を振り返っている。


 駅へ向かう途中、二人は人通りの多い道から少し外れた。美咲が、近道だと言った道だった。飲食店の明かりはあるけど、昼間の賑やかさとは違う。看板の光が歩道に落ちて、夜の街の匂いがする。


 その角を曲がったところで、美咲が足を止めた。


「あれ」


 葵も顔を上げる。


 少し先に、女の子が立っていた。見覚えがある。同じクラスの平田彩花だった。


 彩花は、男と向かい合っていた。男は大学生くらいにも見えるし、もっと上にも見える。黒いパーカー、片手をポケットに入れている。距離が近い。


 楽しそうには見えなかった。


 彩花は顔を伏せている。男が何か言っているようだけど、声までは聞こえない。けれど、彩花の肩が固くなっているのは分かった。


「彩花じゃない?」


 葵が言うより早く、美咲が声を上げた。


「あやかー」


 その声に、彩花がびくりと顔を上げた。男もこちらを見る。


 一瞬、空気が止まった。


 男は彩花に何か短く言った。彩花は俯いている。男は口元を歪めて、背を向けて歩いていった。


 その背中が角を曲がって見えなくなるまで、彩花は動かなかった。


「彩花、大丈夫?」


 美咲が駆け寄る。葵もその後に続いた。


 近くで見ると、彩花の目は赤かった。泣いた後だと、すぐに分かった。普段はきちんと整えている髪も、少し乱れている。


「今の人、知り合い?」


 美咲が聞いた。


 彩花は小さく首を縦におろした。


「……最近」


 声が震えていた。


「最近、つきまとってくるの」


 美咲の表情が変わった。


 葵は、男が消えた角の方を見た。夜の道には、もう誰もいない。


 ライブの音は、まだ耳の奥に残っていた。


 けれど、さっきまで体を揺らしていた低音が、今は別のものに聞こえた。


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