第三話 木の匂い 森山葵1
教室の窓を開けると、まだ朝の空気が残っていた。
新しいクラスにも、そろそろ慣れた。後ろの黒板には昨日決めた係の名前が薄く残り、誰かが「席替え、もう一回やり直したくない?」と文句を言っている。掲示板には係表と、誕生日を書いた小さなカードが貼られていた。
森山葵の名前は、もう過ぎた日付のところにある。
横で、友達が描いた変な犬の落書きが笑っていた。葵は見るたびに少しだけ釣られる。
「葵、おはよ」
「おはよー」
鞄を机に置くと、前の席の藤原美咲が振り返った。
「今日、部活ある?」
「ある。敷西坂ダッシュ」
「うわ、あの坂? 聞いただけで足がつる」
「走ってる方は楽しいよ」
「それ、葵だけだから」
葵は笑って、汗で額に張りついた短い髪を指で払った。
森山葵、高校二年生。陸上部、専門は百と二百。短距離のせいで、春先でも膝の下だけよく日に焼ける。明るい方だと思われていた。実際、友達は多い。話に入るのも、空気に合わせて笑うのも、苦ではない。
普通にしていれば、誰も気づかない。それでよかった。
「ねえ、今日の小テスト範囲どこだっけ」
「古文。助動詞」
「終わった」
「まだ始まってない」
「気持ちが終わった」
美咲が机に突っ伏す。葵は教科書を出しながら、肩を揺らした。
こういう朝は嫌いではない。男子が後ろで騒いで、先生が来る直前に席へ戻る。その雑さも、慌ただしさも、ちょうどよかった。
ただ、ときどき。
教室のざわめきが、別の音に聞こえる。
木の床を踏む音。遠くで鳴る鐘。知らない言葉で祈る声。
すぐ消える。黒板も机も制服も、ちゃんと戻ってくる。だから葵は、気づかなかったふりをした。
昼休み、葵の机の周りには自然と人が集まった。
「ねえ、放課後どうする?」
「葵は部活でしょ」
「終わったら行けるよね。マドカ」
「あ、行きたい。新作飲みたい」
「また甘いやつ?」
「走った後ならゼロカロリー」
「ならないって」
マドカは、学校と駅の間にできたカフェだった。
古い民家を改装した店で、入口に低い木の門が残っている。引き戸も梁も古く、床板は歩くと小さく鳴った。奥には中庭があって、雨の日は縁側そばの席が人気になる。
葵はその店が気に入っていた。
新しいはずなのに、木だけは昔からそこにいたような顔をしている。柱に触れると、削られた跡や古い傷の残りが分かる。長年人が触ってきた色は、プラスチックの机よりずっと落ち着く。
そう言ったら、美咲に笑われた。
「葵、たまにおじいちゃんみたいなこと言うよね」
「失礼」
「でも分かるよ。あそこ、落ち着く」
「でしょ」
葵は卵焼きを口に入れて頷いた。
家でも、似た匂いがする。玄関の隅の道具箱。磨かれた刃物。作業着に染みついた檜。朝早く出ていく父の背中と、夕方に袖についている細かい木屑。
木の匂いは、家の匂いだった。
それ以上を、人に説明したことはない。説明すると、何かがずれる。
放課後、グラウンドには運動部の声が重なっていた。
陸上部はトラックの外側に集まり、各自でアップを始めている。
「森山、今日は一本目から集中しろよ」
「はい」
葵はスパイクの紐を結び直した。
スタートラインに立つ前の時間が好きだった。
指先が地面に触れる直前、体の中の余計な音がすっと消える。肺に残っていた半端な息が抜けて、体が線の上にだけ集まっていく。そこから先は、考えるより早い。
走っている間は、何も入ってこない。
「用意」
葵は息を止めた。
笛。
地面を蹴る。足音が刻まれる。腕が振れる。頬に風。視界の端で校舎の影が流れる。
百メートル。前だけ。
三十メートルを過ぎたあたりだった。
一瞬、別の地面が重なった。
土の道。湿った葉。木の根。
踏みしめた時の沈み方が、アスファルトと違う。
葵は肩を強張らせた。すぐ戻る。
ゴールラインを越え、勢いを殺しながら息を吐いた。
「森山、今の後半よかったぞ」
「ありがとうございます」
「途中で一瞬浮いたな。集中切れたか」
「……少し」
嘘ではなかった。
練習が終わる頃、空の端がぬるく色を落としていた。
「葵、マドカ行くよね?」
「行く。それを楽しみに走ったから」
「目的が不純」
「ゴールの先に何かないと、人間そんなに頑張れない」
そんなことを言いながら着替えて、学校を出た。
マドカに入ると、床板が小さく鳴った。葵はその音が好きだった。新品じゃない。誰かが歩いて、座って、立って、また歩いた跡がある音。聞くと、家の玄関を思い出す。作業場の戸が閉まる音。刃物を布で拭く音。木屑を払う手。
「葵、今日何飲むの」
「黒糖ラテ」
「走った後に黒糖」
「走ったから黒糖」
「もう何でもありじゃん」
美咲が笑って、スマホをテーブルに置いた。
「そういえばさ、今度ライブ行かない? この辺で活動してるアマチュアなんだけど、めちゃくちゃ変わってるの。電子音と民族楽器っぽいやつ混ぜる感じ。名前がね」
美咲がスマホの画面を向けた。
Seiðr
葵は読めなかった。英語でもローマ字でもない。記号みたいな文字が混じっていて、どう音にすればいいのか分からない。
「何て読むの」
「ソウゼ」
葵の指が止まった。
音だけは、知っていた。
ソウゼ。
火のそばで、誰かが低くつぶやいた声。雨の前に湿る空気。指先に残る、細い震え。
「ああ、魔法って意味ね」
言ってから、舌を噛みそうになった。
美咲が目を丸くする。
「何で分かるの。読めないって言ってたじゃん」
「あ……響きが。なんかそういう感じに聞こえただけ」
美咲は、すぐには笑わなかった。画面と葵の顔を見比べる。
「何それ」
「勘」
「怖。葵、たまに変な勘あるよね」
美咲は笑った。葵も笑った。
手のひらだけが冷えていた。
なぜ知っているのかは、説明できない。正確には、したくない。話せば、今まで保ってきたものが崩れる。
美咲はまだ画面を見ている。
「来週の土曜。駅前のライブハウス」
「部活午前なら、行ける」
「やった。葵、興味なさそうで意外と好きそう」
「失礼」
「褒めてる」
「絶対褒めてない」
笑い声がテーブルに落ちた。
葵は黒糖ラテを飲んだ。
甘いはずなのに、舌の奥に別の味が残っていた。鉄のような、土のような、雨に濡れた古い紐のような味。
店内には夕方の光が差していた。古い梁に細い影が伸びている。
その影を見た瞬間、葵の呼吸が一拍ずれた。
梁の影が、森の枝に見えた。
ただ、それだけ。
葵はカップを置いた。見えたものを追わない。昔から決めていた。
「葵?」
「ん」
「聞いてた?」
「聞いてた。ライブでしょ」
「いや、その前。数学の課題」
「あ、聞いてない」
「こらー」
美咲たちが笑った。葵も笑った。
肩の力だけ、抜けなかった。
マドカを出る頃、駅前に灯りがつき始めていた。
改札の手前で、美咲と別れた。最後までライブの話をしていて、「予定空けといてね」と手を振っていった。
「分かった」
「絶対ね」
「はいはい」
葵も手を振る。
背中が人混みに紛れるまで見送ってから、駅とは反対方向へ歩いた。
古い和菓子屋の前を通り、シャッターの閉まった写真館の横を抜ける。
写真館のガラスに、自分が映った。
制服の女子高生。お気に入りのショート。日焼けした脚。
どこから見ても、森山葵だった。
なのに一瞬、目だけが違って見える。
獲物を探す目。敵の気配を探る目。
葵は立ち止まった。
「……私は、葵」
小さく言う。ガラスの中の自分も、同じように口を動かした。
何度もやってきた。
小さい頃から、時々こうなる。別の景色が重なる。聞いたこともないはずの音が、意味を持ってしまう。聞いたこともない名前に、心臓より先に体が反応する。
でも全部、断片だった。
夢の残りみたいなものとして扱ってきた。そうしないと、学校に行けなかった。
ソウゼ。魔法。
その音が、まだ舌の奥にある。
葵は歩いた。
自転車のブレーキが鳴る。車のライトが路面を白く撫でる。どこかの家から夕飯の匂いがする。
そこに、声が混じった。
『頼む』
顔は見えない。でも声だけは知っていた。まっすぐで、無茶で、放っておけない声。
葵は足を止めなかった。止めたら、戻れなくなる気がした。
走る時と同じだ。スタートの後で横を見たら、フォームが崩れる。前だけ見る。そう決めて、葵は家まで歩いた。
玄関には、木の匂いがした。
靴を脱ぐ前から分かった。今日は濃い。檜を削った日だ。玄関の端に道具箱が置かれていて、隙間から鉋の柄が少し見えていた。
「ただいま」
「おかえり」
奥から父の声がした。
葵は靴を脱ぎながら道具箱を見下ろした。磨かれた刃。木を削るためのもの。それを見ると、呼吸が戻る。
「遅かったな」
「マドカ寄ってた」
「あの古い家を直した店か」
「うん」
「柱、残してたか」
「残ってた。たぶんお父さん好きだと思う」
「今度見に行くか」
「女子高生とカフェに?」
「娘と木を見に行く」
「それなら許す」
父が短く笑った。葵は肩の力を抜いた。
台所から母の声がして、テレビの音がして、どこかで食器が触れる。家の音だった。
部屋へ向かいながら、スマホを開いた。
美咲からメッセージが来ていた。
【ライブの詳細送るね】
【Seiðr、ほんとにいいから】
葵の指が、また止まった。
読めない文字。音だけ残っている。
返信欄に指を置く。
楽しみにしてる、と打ちかけて、消した。
楽しみなのは本当だった。たぶん。でもそれだけで終わらせていいのか、分からなかった。
結局、短く返した。
【予定空けとく】
送信する。
部屋に入ると、机の上には教科書と、朝置いていったヘアバンドがそのままだった。椅子にジャージ。ベッドに脱ぎっぱなしの上着。
普通の部屋。
葵は机の引き出しを開けた。
小さなノートが入っている。誰にも見せたことがない。
ページの端には、読めるはずのない言葉がいくつか書いてあった。夢で聞いた言葉。ふと頭に浮かんだ名前。意味は分かるのに、なぜ分かるか説明できないもの。
葵は新しいページを開いた。少し迷ってから、今日の音を書いた。
ソウゼ。
横に小さく書く。
魔法。
ペンが止まった。
この響きをどこで覚えたのか。考えようとすると、百メートルの途中で呼吸を外した時みたいに、次の一歩が遅れる。
別の言葉が浮かんだ。
書かなかった。書いたら、本当にそこへ繋がってしまう気がした。
代わりに、ページの隅に意味のない線を引いた。
見ているうちに、それは古い文字にも、譜面の切れ端にも見えた。
葵は慌ててノートを閉じた。
階下で、父が道具箱を閉める音がした。乾いた、木の音。
葵は閉じたノートの上に手を置いた。
消せない。でも開けたくもない。
しばらく動けなかった。




