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第二話 勇者アレンへ 村上翔太2

警察署の廊下は、思っていたより明るかった。


 白い床に、白い壁。蛍光灯が天井に並んでいる。どこかで電話が鳴り、誰かが小声で応対している。人の出入りはあるのに、病院ほど慌ただしくはない。役所ほど乾いてもいない。


 居心地だけが、悪かった。


 村上翔太は、硬い椅子に腰かけたまま、自分の手を見ていた。


 指先が、少し震えている。


 寒いわけではなかった。怖いのとも違う。昨日からずっと、身体の中に他人の心臓が一つ増えているみたいだった。


「村上翔太さん」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。


 刑事らしい男が立っていた。四十代くらいか。背が高い。目だけが妙に落ち着いていて、返事より先に翔太の表情のほうを見ていた。


「こちらへ」


 案内された部屋は、小さかった。机が一つ、椅子が三つ、壁際に古い棚。窓のブラインドは下りていた。


 刑事が向かいに座り、若い警察官がその隣に腰を下ろす。机の上に、紙とペンと、録音機らしき黒い箱。


「少し、お話を聞かせてください」


「……はい」


 声が、自分のものではないみたいだった。


「日比谷遥さんとは、いつからのお付き合いですか」


「一週間前です」


 刑事の手が、紙の上で止まった。


「一週間前」


「はい」


「どこで知り合いましたか」


「配達先のマンションです。仕事で」


 刑事は頷いた。責めるような顔ではない。その表情に何も映っていないことが、かえって怖かった。


「会ったのは、その一度だけ?」


「……はい」


「どういう関係でしたか」


 翔太は、答えに詰まった。


 どういう関係。


 この世界での話なら、配達先で会っただけの女だ。少し話をして、連絡先を交換した。直接顔を合わせたのは、それきり。


 それだけのはずだった。


 けれど、翔太の中では違う。彼女の顔を見た瞬間、忘れていたはずの名前が胸の奥から浮かんだ。ユーナ。そう呼びそうになった。


 言えるはずがない。


「……知り合いです」


「友人ではなく?」


「一度しか、会っていないので」


 若い警察官が、紙に何かを書いた。


「日比谷さんから、悩みごとを聞いていませんでしたか」


「悩み、ですか」


「最近、学校を休んでいたようなんです。ご存じでしたか」


「いえ」


「心療内科に通っていたことは」


 翔太は顔を上げた。


 刑事は、その反応を見逃さなかった。


「知りませんでしたか」


「……知りません」


 刑事が、机の上に一枚の紙を置いた。


 遥のスマホに残っていたメッセージ画面の、写しだった。


「これは、あなた宛てに送られたものですね」


 短い文が、印刷されていた。


 【私はセリシアに殺される】


 喉が、音もなく締まった。


 刑事の目が、こちらを見ている。


「心当たりは、ありますか」


 翔太は、紙から目を離せなかった。


 セリシア。


 その名前だけは、分かる。


 分かる、と言えば終わりだった。


聖セリシアはガーラシアの神です、日比谷遥は前世で俺の仲間でした、俺は勇者アレンです──そんなことを言えば、今度は自分が別の場所へ連れていかれる。


疑われるだけならまだいい。


遥が残した言葉まで、同じ箱に入れられる。名前のついた病気か、名前のつかない異常か、そのどちらかの箱に。


「……分かりません」


 自分の声が、ひどく薄かった。


「宗教関係の話を、聞いたことは」


「ありません」


「誰かに狙われている、というような話は」


「……ありません」


「日比谷さんは、あなたに何か特別なことを話していませんでしたか」


 翔太は、机の傷を見ていた。


 話していた。


 けれど、説明できない。


「何も」


 刑事は、しばらく翔太を見ていた。沈黙が長かった。


 やがて紙を戻し、声の調子をわずかに変えた。


「日比谷さんが亡くなった経緯については、こちらからは詳しくお話しできません」


「……どうして」


「ご家族のこともあります。今は、確認している段階で」


「事故、なんですか」


 刑事は答えなかった。


「事件、なんですか」


「今は、お話しできません」


 翔太は、唇を噛んだ。


 もう、知っている。それだけは、昨日から変わらない。日比谷遥は亡くなった。ユーナは、もういない。


「何か思い出したら、連絡してください」


 刑事は、静かに言った。


 翔太は頷いた。


 部屋を出る時、椅子の脚が床をこすった音だけが、やけに大きく聞こえた。



 翌日の夕方、知らない番号から電話があった。


 出るかどうか、迷った。画面を見ているうちに、指のほうが勝手に動いていた。


「村上翔太さん、でしょうか」


 女の声だった。疲れている声だった。


「はい」


「日比谷遥の、母です」


 翔太は、何も言えなくなった。


 電話の向こうで、女が小さく息を吸う音がした。


「娘の携帯に、あなたとのやり取りが残っていました。よろしければ、来てやってください」


 住所と時間を告げられた。翔太は、それをメモした。


 何か言わなければと思った。お悔やみの言葉。謝罪。自分は何も知らなかったという説明。


 どれも違った。


 口から出たのは、かすれた声だけだった。


「行きます」


 電話が切れたあとも、しばらくスマホを耳に当てたままだった。



 葬儀場は、駅から少し離れた場所にあった。


 黒い服の人たちが、静かに出入りしている。入口に、日比谷家、と書かれた案内が置かれていた。


 翔太はその文字の前で、一度足を止めた。


 日比谷遥。


 それが、この世界での彼女の名前だった。


 会場の奥に、白い布のかかった祭壇があった。遺影の前に花が供えられ、その横に、青い葉のついた枝が置かれている。細く切られた白い紙が、枝先でわずかに揺れていた。


 遺影の中の遥は、笑っていた。眼鏡をかけ、少し照れたような顔をしている。翔太を見つめた時の、あの壊れそうな目ではなかった。


 脇に、享年二十、と小さく記されていた。


 翔太と、同じ年だった。


 遺影を長く見ていられなかった。前の人に続いて祭壇へ進み、渡された枝を台の上に置く。頭を下げる。


 遺影の中の遥は、変わらず静かに笑っていた。


 親族席にいた女性が、こちらに気づいて立ち上がった。


 電話の声の人だと、すぐに分かった。


「村上さん、ですか」


「はい。村上翔太です」


「来てくださって、ありがとうございます」


 遥の母が、深く頭を下げた。翔太も慌てて頭を下げる。


「いえ……」


 その先が、出てこなかった。


 遥の母は、少しだけ遺影を見た。


「あの子、看護学校に通ってたんです」


「看護学校……」


「人の役に立ちたいって、昔から言っていました。怪我をした子がいると、絆創膏を持っていくような子で」


 翔太は、何も言えなかった。


 写真の中の遥は、まだ笑っていた。


「でも、二年くらい前からでしょうか。少しずつ、変わってしまって」


 遥の母の声が、小さくなった。


「変な夢を見るって言うんです。知らない国の夢だとか、戦争の夢だとか。最初は、疲れてるだけだと思っていました。学校も、大変でしたから」


 翔太の指が、黒いズボンの布を握った。


「病院にも通っていました。薬も飲んでいました。でも、最近は学校も休みがちで……」


 遥の母は、そこで言葉を切った。


 言わなくても、その先は分かってしまった。


「見つかったのは、自宅の近くでした」


 遺影を見たまま、遥の母は言った。


「マンションの下で、倒れていたそうです。私も、詳しいことはまだ……」


「すみません」


 思わず、言っていた。


 遥の母が、こちらを見る。


 何に謝ったのか、自分でも分からなかった。来るのが遅かったことか。話を聞けなかったことか。彼女が何を恐れていたのか、分からなかったことか。


 翔太は、喉の奥を押さえつけるようにして聞いた。


「遥さんは、何かに怯えていましたか」


 遥の母は、少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり頷いた。


「ときどき、言っていました」


「何を」


「自分が、怖いって」


 辺りの空気が、急に濃くなった気がした。


 自分が怖い。


 私はセリシアに殺される。


 ユーナは、何を見たのか。


 遥の母は、翔太を見ていた。


「あの子、言っていたんです。やっと、分かってくれる人に会えたって」


 翔太は、息を詰めた。


「あなたのこと、でしょう」


 唇の内側に、痛みが走った。


 話していた。たしかに、話していた。


 けれど、自分は分かっていなかった。遥がどれほど追い詰められていたのか。ユーナが何を恐れていたのか。何も。


「……すみません」


 それしか、言えなかった。


 遥の母は、首を振った。


「来てくださっただけで、十分です」


 翔太は答えられなかった。


 もう一度、遺影を見る。


 写真の中の遥は、静かに笑っていた。


 その笑顔だけが、翔太の知らない場所にあった。



 家に帰ると、玄関の明かりがついていた。


 靴を脱いでいると、台所から母が顔を出した。


「遅かったね」


「うん」


「誰かの、葬式?」


 翔太は黒いネクタイを外しながら、短く答えた。


「知り合い」


「そう」


 母は、それ以上聞かなかった。


 台所から味噌汁の匂いがした。いつもなら、少し腹が鳴る時間だった。けれどその日は、何も感じなかった。


「ご飯、食べる?」


「いらない」


「少しだけでも」


「いらないって」


 思ったより、強い声が出た。


 母が、黙った。


 翔太はすぐに後悔した。けれど、謝る言葉が出てこない。


「……寝る」


 それだけ言って、階段を上がった。


 部屋に入り、明かりもつけずにベッドへ倒れ込む。


 スマホが震えている気がした。見なかった。


 目を閉じる。


 瞼の裏に、遥の遺影が浮かんだ。その奥に、白い僧衣のユーナが立っていた。



 それから数日、翔太は仕事を休んだ。


 会社には体調不良とだけ伝えた。嘘ではなかった。身体は重く、頭の奥がずっと熱を持っていた。


 布団から、出られなかった。


 朝になっても、昼になっても、カーテンを閉めた部屋は薄暗いままだった。スマホには通知が来ていた。見なかった。


 考えることは、一つだった。


 遥は、ユーナだったのか。それとも、同じ妄想を抱えた人間だったのか。だとしたら、自分はどうなのか。


 村上翔太は、前世の記憶があると思って生きてきた。


 幼い頃から、誰にも信じられなかった。母を困らせた。学校では黙ることを覚えた。掲示板にガーラシア語を書き込み、返事の来ないメールアドレスを置き続けた。


 それは、勇者だったからなのか。それとも、そう思い込んでいるだけなのか。


 遥は二年前から、妄想に悩んでいたという。病院にも通っていたという。


 では、自分はどう違う。何が違う。


 魔王ドロネオール。聖剣。エリオ。ルドルフ。クローディア。ロード。そして、ユーナ。


 すべて、自分の頭が作ったものだとしたら。


「……違う」


 声に出していた。


 違う。そう思いたかった。


 けれど、確かめる方法はなかった。この世界で、魔法を見たことはない。聖剣もない。ガーラシアを知る者も、いないはずだった。


 いたはずのユーナは、もういない。


 翔太は布団を頭までかぶった。


 息が苦しかった。それでも、出る気にはなれなかった。



 何日目か分からなくなった頃、部屋の扉が小さく叩かれた。


「翔太」


 母の声だった。


 翔太は、返事をしなかった。


 扉が、少しだけ開く。母は中に入ってこなかった。ただ、床に何かを置いた。


「水、置いとくから」


 ペットボトルの音がした。


「飲みなさい。倒れるよ」


 それだけ言って、母は扉を閉めた。


 足音が、遠ざかる。


 部屋はまた、静かになった。


 翔太はしばらく動かなかった。


 やがて布団の隙間から手を伸ばし、ペットボトルを取った。透明な水が、暗い部屋の中でわずかに光っている。


 水。


 その一語だけで、胸の奥に別の夜が開いた。


 ガーラシア。山間の小さな村。井戸はひとつしかなく、乾いた風が石垣の草を揺らしていた。



 その村では、誰もがアレンを勇者と呼んだ。


 背中の聖剣を見て、老人が膝をついた。女が泣き、子供が母親の服を掴んだ。誰かが「これで救われる」と言った。


 アレンは笑った。そうするしか、なかった。


 彼らが見ているのは、アレンではない。背の聖剣と、その先にある勝利だった。


「必ず、魔王を討ちます」


 口にした瞬間、その言葉が自分の重さを増した。


 夜になっても、村は静かにならなかった。すすり泣き。祈り。誰かの名を呼ぶ声。


 礼拝堂にいると思ったユーナは、井戸のそばにいた。白い僧衣の裾をまとめ、両手に水桶を持っている。月明かりが、金色の髪に淡くかかっていた。


 祈りの絵に描かれる聖女そのものだった。


 足元に、泥がついていなければ。


「ユーナ?」


 澄んだ青い瞳が、こちらを向いた。


「アレン様。お休みになられたのでは」


「眠れなかった」


「そうですか」


 ユーナは、それ以上は聞かなかった。


「何をしているんだ」


「水を運んでいます」


「それは、見れば分かる」


「では、なぜ聞かれたのですか」


 少しだけ、いたずらっぽい声だった。


 アレンは、返事に詰まった。


「村の奥に、腰を痛めた方がいます。明日の朝まで待つと、困るかと」


「祈りは」


「します。でも、喉が渇いている方の前で、祈りだけを先にするのは、少し違う気がします」


 アレンは、何も言えなかった。


「持つよ」


「ありがとうございます」


 渡された桶は、思ったより重かった。水面が、揺れる。


「ユーナ」


「はい」


「俺は、あの人たちが望むほど強くない」


 口にした瞬間、後悔した。勇者が言うべき言葉ではなかった。


「魔王を討つと言った。必ず、とも。でも本当は、分からないんだ。あの人たちの望むものを、背負えるのかも」


 ユーナは、歩き出さなかった。桶を持ったまま、隣に立っていた。


「勇者様、と呼ばれるたびに、少しずつ嘘をついている気がする」


 風が、吹いた。長い髪が、白い僧衣の上で揺れた。


「では、嘘をつかない勇者になればよいのではありませんか」


「どういう意味だ」


「怖いなら、怖いままでよいと思います。迷うなら、迷ったまま剣を持ってよいと」


 ユーナは、アレンを見た。


「アレン様が一度も迷わない方なら、私はたぶん、少し怖いです」


「勇者が、迷っていいのか」


「剣を振るう方が迷わないほうが、恐ろしいです」


 責めるでも、崇めるでもない声だった。ただ、そこに置くような声。


「迷うということは、見ているということです。聞いているということです。誰かの痛みを、数にしない、ということです」


 アレンは、村人たちの目を思い出した。願い。泣き声。祈り。


 そのすべてから、逃げたかった。けれど逃げられないから、勇者の顔をしていた。


 ユーナは、それを責めなかった。


「私は、勇者様についてきたのではありません」


 アレンは、彼女を見た。


「アレン様についてきました」


 その言葉は、不思議なほど静かだった。


「世界を救えるから、ではありません。迷っても、目を逸らさない方だと思ったからです」


「買いかぶりだ」


「かもしれません。でも、私の目には、そう見えています」


 ユーナは、小さく笑った。


「では、勇者様。まずは世界より、あちらの家まで水を運びましょう」


 アレンは、少しだけ笑った。


 その夜初めて、息ができた気がした。


「……分かった。世界の前に、一軒だな」


「はい。一軒ずつです」


 ユーナが、歩き出す。アレンも隣を歩いた。


 村の奥では、まだ誰かが泣いていた。魔王は遠く、戦争は終わらず、アレンの迷いも消えなかった。


 それでも、足元には道があった。両手には水があった。隣には、ユーナがいた。



 翔太は、目を開けた。


 部屋は、暗かった。


 手の中に、母が置いていったペットボトルがある。透明な水が、揺れていた。


 翔太は蓋を開け、一口飲んだ。


 喉が、痛かった。自分がどれだけ水を飲んでいなかったのか、その時になってようやく分かった。


 ユーナは、誰にも何も残さず終わるような人間ではない。


 喉が渇いている人間の前で祈りだけを先にするのは違う、と言った。迷っていい、と言った。弱いまま歩いていいと、隣を歩いてくれた。


 そのユーナが、何も言わずに終わるはずがない。


 遥が本当にユーナだったのなら。いや、たとえ違ったとしても。


 彼女が最後に残した言葉は、あれだった。


 私はセリシアに殺される。


 あれは、ただの錯乱ではない。遥が最後に掴んでいた、何かの端だった。


 それを知らないまま、もう一度布団に沈むことだけはできなかった。


 翔太は、身体を起こした。


 頭が重い。腹も減っている。


 知らなければならない。遥に、何があったのか。ユーナが、何を恐れていたのか。


 翔太は、机の上のノートパソコンを開いた。


 起動音が、やけに大きく聞こえた。



 昔、翔太はガーラシア語で掲示板に書き込みを続けていた。十四歳から、十八歳まで。


 誰か一人でもいい。自分と同じ記憶を持つ者がいるなら、見つけたかった。


 日本語の掲示板。英語の掲示板。海外の古いフォーラム。翻訳サイトで無理やり作った文章の隅に、ガーラシア語の一文を置いた。


 私はガーラシアのアレン・アルディス。この文章を読める者がいるなら、下記のメールアドレスへ連絡してほしい。英語でも、日本語でも構わない。


 フリーメールのアドレスも、作った。


 最初の一年は、毎日のように確認した。次の一年は、週に一度になった。高校を卒業する頃には、ほとんど見なくなっていた。


 返事は、なかった。


 当たり前だと思った。この世界に、ガーラシアなど、ないのだから。


 翔太は、古いメールサービスのログイン画面を開いた。


 パスワードを思い出すまでに、少し時間がかかった。何度か間違えた。秘密の質問まで出てきて、くだらない答えに自分で苦笑した。


 ログインできた時、受信箱には未読が数十件あった。


 ほとんどは迷惑メールだった。知らない通販。怪しい投資。英語の宣伝。期限切れの通知。


 翔太は、一つずつ消していった。


 その手が、止まった。


 【件名 勇者アレンへ】


 息が、止まった。


 メールを、開いた。


 本文は、短かった。


 【5/24

 敷路駅前 居酒屋ろーいん

 18:00

 予約名:ルドルフ】


 それだけだった。


 送信日は、五か月前。


 五か月前。


 翔太は画面を見たまま、動けなかった。


 遅い。遅すぎる。


 ルドルフ。


 白髪混じりの髪を後ろで束ね、いつも眠たげに目を細めていた老魔法使い。口は悪く、皮肉も多かった。けれど戦いになれば誰よりも冷静で、咳払いひとつで若い仲間たちの焦りを黙らせる男だった。


 生きている。この世界にいる。


 いや、いた。五か月前に、翔太を待っていた。


 翔太は、それを見逃していた。


 遥の時も、そうだった。そして、ガーラシアでも。


 また、間に合わなかった。


 指が、震えた。キーボードの上で、うまく動かない。


 それでも、翔太は返信画面を開いた。


 【ルドルフか。俺はアレンだ。

 まだこのメールを見ているなら、返信してくれ】


 送信。


 画面が、切り替わる。送信済み、の文字が出た。


 それから、時間が消えた。


 二時間だったのか、六時間だったのか分からない。翔太は椅子に座ったまま、受信箱を更新し続けた。何度も。何度も。


 外は、暗くなっていた。階下で母が何かをしている音がする。スマホが震えた気もした。腹の底が空っぽになっているのに、何も食べる気にはなれなかった。


 ただ、画面だけを見ていた。


 受信箱に、新着が一件、増えた。


 翔太は、息を止めた。


 【件名 Re: Re: 勇者アレンへ】


 本文を、開く。


 【明日

 敷路駅前 居酒屋ろーいん

 18:00

 予約名:ルドルフ】


 翔太は、画面を見つめた。


 喉の奥から、息とも笑いともつかないものが、漏れた。


 この世界に、まだいた。自分以外にも。ユーナ以外にも。ガーラシアを覚えている者が。


 翔太はペットボトルの水を、もう一口飲んだ。


 手の震えは、まだ止まらない。


 けれど今度は、恐怖だけでは、なかった。

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