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第一話 セリシアの祝福 村上翔太1

『セリシアの祝福があらんことを』


 背後から、女の声がした。


 日本語ではない。英語でもない。学校で習ったどの言葉とも違う。なのに翔太には、意味が分かった。分かるどころではない。骨の奥に染みついている。


 旅の始まりに、何度も聞いた言葉だ。死者を送る時にも。戦いの前にも。ガーラシアの者なら誰もが知っている祈り。


 けれど翔太にとって、その言葉はいつもユーナの声で残っていた。


 『御身の祈り、確かに受け取りました』


 考えるより先に、口が動いていた。


 言い終えてから、自分が何を返したのか理解した。


 村上翔太は、配達用の鞄を肩に掛けたまま、マンションの郵便受けの前で立ち止まった。


 夕方の住宅街。車の音が遠くを流れ、どこかの家から夕飯の匂いがする。コンビニの袋を提げた学生が横を通り過ぎ、犬を連れた老人が信号待ちをしていた。


 おかしなところは、何もない。


 この世界では。


 振り返ると、黒髪の女が立っていた。年は翔太と同じくらいか。地味な紺色のカーディガン、白いブラウス、細い銀縁の眼鏡。駅前や図書館にいても記憶に残らない、そういう女だった。


 目だけが違った。


 泣いていた。声を上げるでもなく、顔を歪めるでもなく、ただ涙だけが落ちている。


 その泣き方を、どこかで見たことがある気がした。


 泣いてはいけない場所で涙をこらえる時、ユーナはよく両手を胸の前で重ねた。目の前の女も、似た仕草をしている。


「……ユーナ」


 女は否定しなかった。ただ、小さく息を吸う。


「アレン」


 その名で呼ばれたのは、この世界に生まれてから初めてだった。



 村上翔太には、前世の記憶がある。


 前世の名は、アレン・アルディス。


 ガーラシアの勇者。聖剣に選ばれ、仲間と共に魔王ドロネオールを追った。


 最後の戦いの場所は、黒い石の城だった。


 空には月が二つ浮かんでいた。片方は赤く、片方は欠けている。城壁には炎が走り、崩れた扉の向こうに、魔王ドロネオールがいた。


 翔太は覚えている。


 剣の重みを。鎧の内側に溜まった血と汗の匂いを。エリオが盾を構えた背中を。ルドルフが皮肉を言いながらも杖を握り直した指を。クローディアの矢が闇を裂いた音を。ロードの竜が咆哮した、あの空気の震えを。


 そして、ユーナが祈りを終えた時の、静けさを。


 あと一歩だった。聖剣は、魔王へ届くはずだった。


 その瞬間、青黒い光が彼ら全員を包んだ。光というより、穴に近い。目で見るものではなく、内側から引き剥がされる感覚。誰かが叫んだ。自分だったのか、仲間だったのか、それは分からない。


 次に目を覚ました時、翔太は赤子になっていた。


 生まれた場所は、日本という国。


 ここが自分のいた世界ではないと気づくのに、そう時間はかからなかった。空に月は一つしかない。魔物はいない。魔族もいない。剣で戦う時代はあったらしいが、それも人間同士の争いに過ぎなかった。


 言葉も、文字も、違う。英語と呼ばれる言語だけが、ほんの少しだけガーラシアの西方語に似ている気がした。それも気のせいかもしれない。



 翔太の父親は、翔太が生まれる前に家を出ている。


 母は詳しく話さない。


 祖母が一度だけ、台所で葱を刻みながら「外に女でもできたんやろ」と言ったことがある。その時、母は何も言わず、味噌汁の火を止めた。


 それ以来、父の話は家の中から消えた。


 母は、一人で翔太を育てた。


 朝早くに家を出て、夕方に帰ってくる。疲れた顔をしていても、翔太の弁当だけは欠かさない。参観日には無理をして仕事を休み、運動会では古いカメラを持って校庭の隅に立つ。


 そういう人だった。


 だから翔太は、母を困らせたくなかった。


 けれど、困らせずにいることはできなかった。


 幼い翔太は、庭で棒を振った。剣の稽古だ。雨の日には畳の上に膝をつき、魔法陣のつもりで広告の裏に線を書いた。火の魔法を試した。光の魔法も。治癒の祈りも。


 当然、何も起こらない。


「翔太」


 母は、最初のうちは笑っていた。子供の遊びだと思っていたのだろう。


 けれど翔太が、誰もいない庭に向かって仲間の名を呼ぶようになると、母の顔から笑みが消えた。


「もう、やめようか」


 責める声ではなかった。だからこそ、翔太は何も言えなくなった。


 祖父だけが、新聞を畳みながら笑ってくれた。


「おまえかて、小さい頃は魔法少女の真似しとったやないか」


「お父さん」


「男の子は棒を持ったら、だいたい勇者になるもんや」


 祖父はそう言って、翔太の頭を軽く撫でた。


 母は笑わなかった。翔太も笑えない。遊んでいるわけではないと、自分だけが知っていたからだ。



 小学校に上がると、翔太は図書館に通うようになった。


 元の世界に戻る方法を探すためだ。


 神話、宗教、民俗学、宇宙、超常現象。読めるものは何でも読んだ。漢字が難しい本は、辞書を引きながらページをめくった。


 やがて、この世界には異世界転生について書かれた本が大量にあることを知る。


 最初は震えた。自分以外にもいる。そう思った。


 けれど、読み進めるうちに違うと分かった。


 ほとんどは創作だ。


 都合のいい力。都合のいい冒険。都合よく理解してくれる仲間。


 翔太の知っているガーラシアに、そんな優しさはなかった。


 それでも、中には本物に思えるものがあった。


 だから翔太は手紙を書いた。自分の経緯を書いた。アレン・アルディスという名前を書いた。ガーラシアの地名を書いた。魔王ドロネオールの名も書いた。作者宛に送る。


 返事はなかった。


 来たこともある。封筒を開けた時、翔太の手は震えていた。


 だが、そこに書かれていたのは──


【応援ありがとうございます。あなたの想像力には脱帽です。次回作の参考にさせていただきます】


 という、丁寧な礼状だった。



 中学生になると、翔太はインターネットを覚えた。掲示板に書き込んだ。自分は異世界から転生した勇者で、仲間を探している。ガーラシアを知っている者は連絡してほしい。


 返ってきたのは、仲間からの連絡ではない。


【中二病乙】


 それだけだった。


 翔太は今度、ガーラシアの文字を書いた。古いノートを破り、覚えている限り正確に書く。


『連絡が欲しい』


 そう書いて、スキャナーで取り込み、掲示板に貼った。


 しばらく画面の前で待った。夜になっても、深夜になっても、誰からも返事はない。


 母が部屋をのぞいた。


「まだ起きてるの」


「もう寝る」


 翔太は画面を閉じた。母は何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。


 この世界は広い。仲間たちは日本にいないのかもしれない。同じ時代に生まれていないのかもしれない。そもそも、転生したのは自分だけかもしれない。


 もっと悪い可能性もあった。


 この記憶が、すべて妄想かもしれない、ということだ。



 成長するにつれ、その疑いは濃くなった。翔太は普通に授業を受け、普通に試験を受け、普通に進路を考えた。体育で剣道を選んでも、竹刀は聖剣ではなかった。化学室で火を見るたび、魔法とは違う燃え方だと思う。


 ガーラシアは遠くなっていくはずだった。


 けれど、記憶は薄れない。むしろ、年を重ねるほど鮮明になった。


 ユーナの祈り。エリオの笑い声。ルドルフの嫌味。クローディアの横顔。ロードが竜の名を呼ぶ声。魔王ドロネオールの前に立った時の、呼吸だけが先に細くなるような重さ。


 どれも、夢にしては重すぎた。


 高校を卒業する少し前、翔太は授業中に倒れた。


 大事にはならなかった。


 教師は、保健室で眠っていただけだと言った。


 けれど翔太は、夢を見ていた。


 ユーナと初めて出会った日の夢。雨の中、小さな礼拝堂で、彼女は泥に濡れた旅人たちへ祈りを捧げていた。


 次に、エリオが盾となって仲間を救った日の夢。


 それから、ルドルフが「勇者様は死に急ぐのがお好きらしい」と呆れた顔で言った日の夢。


 最後に見たのは、母の顔だった。


 前世の記憶ではない。


 怒っているのでも、泣いているのでもなかった。ただ、どうすれば息子をこちら側に引き戻せるのか分からない、そんな顔だった。


 目を覚ました時、白い天井があった。保健室のカーテンが揺れている。翔太は、しばらく天井を見ていた。


 そして、決めた。


 もうやめよう。


 これは妄想なのだ。そう思うことにした。忘れられなくてもいい。本物だと証明しようとするのは、もうやめよう。



 二十歳になった翔太は、配達の仕事をしている。


 正社員ではない。それでも生活はできた。母に少し金を入れることもできる。


 人と深く関わらずに済む仕事は、翔太に向いていた。


 前世のことは、誰にも話さない。


 そうして、どうにか普通の顔をして生きていた。


 その日までは。



 女は、日比谷遥と名乗った。


 仕事を切り上げ、近くの喫茶店に入っても、彼女は自分からユーナとは言わなかった。翔太も、すぐには聞けない。


 テーブルの上に、二つの水のグラスが置かれている。店内には古い洋楽が流れ、隣の席では会社員らしき男たちが声を潜めて話していた。


 何もかもが現代日本だった。なのに、目の前の女はガーラシアの祈りの言葉を知っている。


 日比谷遥は、グラスの水に触れたまま黙っていた。


 さっきまで泣いていた目は赤い。だが、翔太を見るたび、そこに怯えとは別の色が混じる。


 確かめている。


 目の前の男が、自分の中にある記憶と本当に一致するのか。そういう目だった。


「なぜ、俺が分かった」


 翔太は言った。声が少し掠れた。


「書き置きがあったの」


「書き置き?」


「差出人は分からない。アレンを探すなら、この町にいる、とだけ」


「誰がそんなものを」


「分からない」


 遥はグラスに触れたまま、視線を落とした。


「でも、他に手がかりがなかった」


「それだけで、俺を」


「いいえ」


 遥は首を横に振る。


「あなたを見た時、違うと思った」


「違う?」


「この世界だけの人じゃない、って」


 翔太は黙った。それは、翔太も彼女を見た時に感じたことだった。


 なぜか、彼女はこの世界だけで生きてきた人間には見えない。


「だから、確かめたのか」


「ええ」


「さっきの祈りで」


 遥は頷いた。


「普通は、あの言葉に返せない。意味さえ分からない。でも、あなたは返した」


 翔太は、自分の喉に遅れて触れた。確かに、考えてはいなかった。声が先に出ていた。


「ユー......日比谷さん、記憶はいつから」


「二年前」


 遥は答えた。


「急に、思い出したの。最初は夢だと思った。でも、違った。夢にしては、痛みまで覚えていたから」


「痛み」


「ええ。自分のものじゃないはずなのに、自分のもののように」


 遥はそこまで言って、口を閉じた。


「俺は、生まれた時から覚えていた」


 遥は、驚かなかった。


「そうだと思った」


「なぜ」


「あなたは、前世を思い出した人の顔をしていない」


「どういう意味だ」


「ずっと、そのまま生きてきた人の顔をしている」


 翔太は、すぐには返せなかった。


 長い時間をかけて、自分が壊れていないことを確かめてきた。それを、たった一言で見抜かれた気がした。



 ガーラシアのことを話した。旅の道順を話した。最初に仲間になったのがエリオだったこと。ルドルフが王都の魔術院を嫌っていたこと。クローディアが、焚き火の向こうで黙って矢羽を直していたこと。ロードが竜の鱗を磨いていたこと。


 遥は、ところどころで頷いた。知らない者の反応ではない。


 けれど、懐かしんでいるようには見えなかった。むしろ、翔太の言葉をひとつずつ確かめているように思えた。


 それでも翔太は、その頷きを信じたかった。


「ずっと探していた」


 翔太は言った。責めるつもりはなかった。それでも、言葉は少し硬くなる。


「手紙を書いた。掲示板にも書いた。ガーラシアの文字も載せた。でも、誰も来なかった」


「ごめんなさい」


「謝ることじゃない」


「でも、あなたは一人だった」


 その言葉だけは、妙にやさしかった。だから翔太は、また信じそうになった。


「他の仲間は」


 翔太が聞くと、遥は首を横に振った。


「分からない」


「魔王は」


 遥の指が、グラスから離れた。ほんのわずかな動きだった。


「……それも、分からない」


「それも?」


「だから、確かめたい」


 遥は、少しだけ間を置く。


「私たちが、あの場所で何を見たのか」


 窓の外を、自転車に乗った高校生が通り過ぎていく。その制服の青が、夕日の中で一瞬だけ暗く見えた。


『アレン』


 遥は、前世の名で呼んだ。


『あの時、本当に魔王を倒すべきだったのかな』


 翔太は、すぐに返せなかった。その問いだけが、店内の音から切り離されて聞こえた。


「何を言ってる」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど硬かった。


 遥は、翔太の顔を見ていた。責めている顔ではない。答えを欲しがっている顔でもない。ただ、翔太が何を思い出すのかを、確かめているようだった。


「あなたは、わかるの?」


 遥は言った。


「何を」


「私たちが、何のために戦っていたのか」


 翔太は、答えられなかった。


 魔王ドロネオール。ガーラシアを混乱させ、多くの町を滅ぼし、人々を恐怖に沈めた存在。そう教えられてきた。そう信じて戦った。だからこそ、剣を取った。


 けれど、遥にそう聞かれた瞬間、翔太の胸の奥で何かが詰まった。


 記憶は鮮明だった。それなのに、魔王の前に立った時のことだけが、ひどく遠い。


 その時、翔太は初めて気づいた。


 遥は再会を喜んでいる。けれど、それだけではない。彼女は何かを恐れていた。翔太を探していたのは、懐かしかったからだけではない。何かを伝えるため。何かを、確かめるためだった。


 しかし遥は、それ以上話さなかった。


 連絡先を交換し、二人は店を出た。


 別れ際、遥はもう一度だけ両手を胸の前で重ねる。


「また連絡する」


「ああ」


「今度は、逃げないから」


 その意味がなんなのか、翔太には分からなかった。



 その日、翔太は帰り道をよく覚えていない。電車に乗ったはずだった。駅から歩いたはずだった。母に「遅かったね」と言われ、「仕事が長引いた」と答えたはずだった。


 だが、何も現実味がない。


 自分は壊れていなかった。二十年近く抱え続けた記憶は、妄想ではなかった。


 その事実だけが、胸の奥で熱を持っていた。


 日比谷遥が死んだと知ったのは、その一週間後だった。



 知らない番号から電話がかかってきた。出ると、警察だった。日比谷遥という女性を知っているか、と聞かれた。


 翔太は、しばらく答えられなかった。


「知っています」


 ようやくそう言うと、電話の向こうの声は、少しだけ間を置く。


 警察は、遥が亡くなったことだけを告げた。


 詳しいことは電話では話せない。ただ、遥の携帯電話に翔太の連絡先が残っていたため、話を聞きたいという。


 翔太は、何のことか分からなかった。ただ、スマートフォンを握る手だけが冷えていく。


 通話を切った後、翔太は遥とのトーク画面を開いた。


 最後に届いていたメッセージは、深夜二時十三分。


 短い文章だった。


【私はセリシアに殺される】


 聖セリシア。


 ガーラシアで最も広く祈られる神の名だった。


 創造主。守護者。死者を送る者。


 誰もが、自分たちを守るものとして信じていた。


 少なくとも、翔太の知っている聖セリシアは、人を殺す名ではなかった。


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