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第十話 居候 森山葵4

 木々の間から、焚き火の灯りがはみ出していた。


 夜の森は深い。自分の手足の輪郭が、かろうじて見える程度だった。クローディアは硬い地面を選んで腰を下ろした。


 耳を澄ます。


 枝のきしむ音。葉の擦れる音。岩の隙間を抜けていく、ひゅう、という高い風。


 嫌いではなかった。こういう時間は。


 少し離れた場所で、アレンたちは灯りの中心にいた。


 火のはぜる音に、彼らの声が混ざる。エリオの低い笑い。ルドルフのぼやき。ユーナのやわらかな声。森の音の中で、それらだけが不自然に明るく浮いていた。


 別に、嫌いなわけではない。


 ただ、少し距離を空けている方が都合がいい。


 そう思うことにした。


 セリシアの守護者。


 かつて、自分たちの一族はそう呼ばれていたらしい。


 いつの頃からか、その名は変わった。


 見放された民。


 その言葉が、嫌いだった。


 誰が見放したのか。何を見放したのか。


 本当に、見放されたのか。


 確かめたかった。


 セリシアの血を引く民が、なぜそんな名で呼ばれるようになったのか。人間でもなく、魔族でもない自分たちが、何者なのか。


 忘却の民。


 そう呼ばれるたびに、胸の奥に冷たいものが沈んだ。


 アレンは、一度だけ言った。


「俺たちに付かなくてもいい。見極めてくれ」


 そう言って、背を向けた。


 不用心な背中だった。


 この距離なら、射れる。鎧の継ぎ目を抜き、矢尻は心臓まで届く。


 けれど、クローディアは矢先を上げなかった。


 アレンは、こちらを信じていたわけではない。


 ただ、疑うことを選ばなかっただけだ。


 それが、少しだけ厄介だった。


「聖セリシアの祝福があらんことを」


 焚き火の向こうで、ユーナの声がした。


 一族を捨てた神の祝福などいらない。


 いつもなら、そう思う。


 けれど、ユーナの祈りは妙だった。澄んでいて、まっすぐで、聞いている者の胸から棘を抜いてしまう。


 見放されたことさえ、忘れそうになる。


 だから、クローディアは目を細めた。


 ユーナの瞳は、祈りの言葉とは違うものを見ていた。


 聖セリシアでもない。民でもない。世界でもない。


 ただ、アレンだけを。


 その横で、エリオが拳を握った。


 ほんの一瞬だった。誰も気づかないほど小さな動きだった。


 クローディアは、見てしまった。


 見なくてもいいものまで見える。


 自分の鋭さが、その夜だけは少し嫌だった。


 そこで、記憶は途切れた。


     ◇


 湯気で、浴室の鏡が白く曇っていた。


 葵は浴槽の縁に頭を預け、天井を見上げた。換気扇の低い音が、ずっと同じ高さで鳴っている。湯は熱いのに、体の芯までは温まらなかった。


 嘘みたいな記憶だった。


 森の匂い。焚き火の熱。弓を握る指の硬さ。アレンの背中。ユーナの祈り。エリオの拳。


 どれも、自分が見たはずのないものだ。


 それなのに、思い出せる。


 幼い頃から、葵の中には小さなさざなみがあった。木の匂いに落ち着いたり、弓道場の前で足が止まったり、朱色の鳥居を見ると胸の奥が冷えたりした。


 気のせいで済ませてきた。


 Seiðrの蓮。


彩花をつけまとう黒澤。


 さざなみが、うねりになった。


 あの人らも、きっとこの記憶の中の誰かだ。


 誰なのかまでは、まだ分からない。ただ、あの目を見た瞬間、葵の奥でクローディアが反応した。警戒でも懐かしさでもない。もっと古くて、もっと厄介な感覚だった。


 葵は湯の中で息を吐いた。


 思い出す。


 玉座の間。


 青黒い光。


 あれは、ただの魔法ではなかった。


 包み込むようで、引き裂くようだった。祈りにも、呪いにも似ていた。


 セリシアの祝福。


 誰かが、あれを発動させた。


 魔王。ユーナ。ルドルフ。


 それとも、あの場にいた別の誰かか。


 もしかしたら。


 クローディア自身、かもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、背筋の奥に冷たいものが走った。


 記憶は、事実ではない。


 なぜか、そう思った。


 見えているものがすべてではない。覚えているものは、起きたことそのものではない。誰かの目を通り、誰かの痛みを通り、形を変えたものだ。


 その疑いは、葵のものなのか。


 それとも、クローディアのものなのか。


 分からない。


 クローディアは、セリシアを信じていなかった。


 いや、信じることを許されなかったのだ。


 見放された民。忘却の民。


 神に近い血を引きながら、神からもっとも遠い場所に追いやられた者たち。


 その仕打ちが、クローディアに記憶を疑わせているのかもしれない。


 葵は目を閉じた。


 関わりたくない。


 それが、葵自身の本音だった。


 前世だの、祝福だの、勇者だの、魔王だの。物語の中だけで十分だ。自分は森山葵で、学校があって、家があって、友達がいて、走る場所がある。


 それでいい。


 けれど、胸の奥にいる女は、それを許さない。


 クローディア・ヴェイル。


 彼女は、まだ見極めようとしている。


 アレンが何を選んだのか。


 ユーナが何を見ていたのか。


 あの青黒い光の中で、誰が何をしたのか。


 そして、自分たちの一族がなぜ忘れられたのか。


 葵は目を開けた。


 曇った鏡に、自分の輪郭がぼんやり映っている。


 森山葵なのか、クローディアなのか。


 考えるほど、のぼせそうだった。


「困った居候だな」


 小さく呟いて、葵は鼻の下まで湯に沈んだ。


 湯の音が、耳の内側でこもる。


 それでも、森の音は消えなかった。

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