第十一話 赤と青のインク 村上翔太6
敷路駅のロータリーは、観光バスが停まり、神宮行きの案内板の下で、老夫婦や家族連れが列を作り、土産物の紙袋を提げた女が横を通り過ぎる。
翔太はロータリーの端に立ち、車の流れをぼんやり見ていた。
敷路神社には、幼い頃に一度だけ来たことがある。
母に連れられて、手を引かれて、長い参道を歩いた。朱色の鳥居が、嫌に大きかった。覚えているのはそれくらいだ。母は拝殿の前で手を合わせていた。翔太はその横で、ただ立っていた。
あの時も、母の姿は祈りのように見えた。
けれど、幼い翔太の頭にあったのは、この世界の神ではなかった。ガーラシアのことばかりだった。アレンとしての記憶。聖剣。仲間たち。魔王軍。帰らなければならない場所。
母が何を願っていたのか、聞いたことはない。
聞こうとも思わなかった。
今になって、そのことを時々思い出す。
自分は、母に子供らしい子供の顔を見せられなかったのではないか。
そう考えるたび、胸の奥が少しだけ詰まる。
ロータリーに、古い車が入ってきた。
角ばった車体だった。今どきの滑らかな車とは違い、無骨で、重そうで、どこか頑固そうに見える。色はくすんだ緑だった。陽の光を浴びても派手にはならず、古い木箱のように落ち着いている。
車は翔太の前で止まった。
窓が下がる。
「乗れ」
左の運転席にいたのは蓮だった。
翔太は車体を見てから、蓮を見る。
「随分、古い車に乗ってるな」
「九六年製のチェロキーだ。錆だらけだったんで、シダーグリーンに全塗した。渋いだろ」
「聞いてない」
「半分、魔法使いのじじいの趣味だな」
蓮はそう言って、軽く顎をしゃくった。
翔太は助手席に乗り込んだ。車内には、革と埃と、古い煙草の匂いがわずかに残っていた。ダッシュボードには小さな傷がいくつもあり、エアコンの吹き出し口は少し黄ばんでいる。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
翔太はシートベルトを締めながら、笑いそうになった。
「何だよ」
「いや。ルドルフが車を選ぶなら、こういうのを選びそうだと思って」
「褒め言葉として受け取っておく」
車がゆっくり動き出した。
駅前の混雑を抜けると、道は少しずつ広くなった。神宮へ向かう観光客の姿が窓の外を流れていく。土産物屋の看板、古い旅館、白い石垣。現代の街並みの中に、ところどころ古いものが残っていた。
蓮は前を向いたまま言った。
「神崎凛太郎については?」
「ほとんど出てこなかった」
翔太はスマートフォンを取り出し、調べた内容を思い返した。
「本人の情報は少ない。けど、父親らしき人は出てきた。神崎路雲。書道家」
「路雲?」
「雅号だと思う。本名かどうかは分からない」
「有名なのか」
「それなりに。敷路神社の揮毫をしてる。あと、商品ロゴとか、ドラマの題字とか」
「へえ」
「祖母が好きな和菓子があるんだけど、播磨堂って店。そのロゴも神崎路雲の字だった」
「身近な有名人ってやつか」
「そんなとこだな」
翔太は画面を閉じた。
神崎凛太郎。
現世での名前を持つ、ロード・ヴァルドかもしれない男。
だが、神崎凛太郎本人の情報は、奇妙なほど少なかった。絵の表紙で名前が出たばかりなのに、作家としての経歴も、インタビューも、過去の展示も、見当たらない。
まるで、急に現れたようだった。
蓮がハンドルを切りながら言った。
「ところで、翔太」
「何だ」
「お前の親の仕事は?」
翔太は少しだけ蓮を見た。
「急に何だよ」
「気になっただけだ」
「母親は市役所で働いてる。父親は、俺が生まれた時にはもういなかった」
「そうか」
蓮はそれきり黙った。
何かを考えているようだった。前を見ているのに、意識だけが別のところへ沈んでいるように見える。
しばらくして、蓮は短く息を吐いた。
「すまなかった。今の質問は気にしないでくれ」
「……変なやつだな」
「自覚はある」
蓮はそれ以上、親の話をしなかった。
車は細い道へ入った。
古い家が増えていく。塀の向こうに手入れされた松が見え、軒先には筆文字の表札がかかっていた。観光地の賑わいから、少しずつ離れていく。
「しかし」
蓮が言った。
「ロードのやつ、派手に宣伝してくれたな」
翔太は窓の外を見たまま頷いた。
「竜の絵を表紙に使うなんて、見つけてくれと言ってるようなものだ」
「元魔王軍なら、なおさら警戒するはずだ。セラヴィアやラグナスがこの世界にいる可能性もある」
「それでも描いた」
「ああ」
蓮の声が、少し低くなる。
「誰かに見つけてほしかったのか。それとも、もう隠れる必要がないと思ったのか」
翔太は答えなかった。
車内には、エンジンの低い音だけが残っている。
しばらくして、蓮が言った。
「翔太」
「術者を見つけて、仮にだ。ガーラシアの、あの時のあの場所に戻れるとしたら、お前は戻りたいか」
翔太は、すぐには答えられなかった。
考えたことがない問いではなかった。
むしろ、そのために生きてきた。
この世界で目を覚ましてから、ずっと。
聖剣。仲間たち。魔王城。青黒い光。
帰らなければならない場所。
「……俺は、そのために今まで生きてきた」
声に出すと、思っていたより重かった。
蓮は小さく頷いた。
「俺は逆だ」
「逆?」
「この記憶が邪魔だった。消えてくれたら清々すると思ってた」
「今もか」
蓮は短く笑った。
「お前に会うまでは、そうだった」
翔太は蓮を見る。
蓮は前を見たままだった。
「ルドルフなんて、他人だと思ってた。変な夢みたいなもんだ。忘れられるなら忘れたかった」
「……」
「けど、お前がいた」
蓮は、ハンドルに置いた指を軽く動かした。
「お前と話してると、全部が嘘だったとも言い切れなくなる。あの世界も、あいつらも、本当にあったのかもしれないと思う」
「それで、困るのか」
「困るだろ」
蓮は少しだけ顔をしかめた。
「このままでもいいような気がしてくる」
翔太は何も言えなかった。
「お前に出会わなきゃ、もっと簡単だった」
その言葉は軽く聞こえた。軽く聞こえすぎた。
「俺は、ルドルフの記憶が消えれば、ただの大宮蓮に戻れるかもしれない。売れないミュージシャンで、口が悪くて、見た目が派手な男に戻る。それで済む」
蓮はそこで一度、言葉を切った。
「でも、お前は違うだろ」
「どういう意味だ」
「村上翔太は、どうなるんだ」
その言葉だけが、車内に残った。
元の世界に戻れば、どうなるのか。
アレンに戻るのか。
村上翔太は消えるのか。
それとも、最初からそんなものはなかったのか。
記憶は、取り出したいものだけを抜けるようにはできていない。
赤い水に、青いインクを落とす。
境界は曖昧になり、やがて全てが紫に沈む。
蓮なら、青を取り除けばいいのかもしれない。
ルドルフの記憶を抜き取れば、大宮蓮という赤が残る。
けれど。
自分は、最初から紫だった。
アレンの記憶を持ったまま生まれた、村上翔太。
ならば、翔太からアレンを取り除いた時、そこに何が残るのか。
「……分からない」
翔太は呟いた。
「だろうな」
蓮はそう言って、少しだけ笑った。
「記憶が戻るってのは、昔の自分に戻ることじゃないのかもしれないな」
翔太は窓の外を見た。
この世界の空があった。
見慣れているはずなのに、少しだけ知らない場所のように見えた。
ロード・ヴァルド。
魔王軍の竜騎士。
アレンたちの頭上を、黒い竜に乗って飛んでいた男。
はじめから仲間だったわけではない。
むしろ、敵だった。
灰の匂いが、ふと蘇った。
焼けた石壁。崩れた見張り台。地面に深く刻まれた爪痕。
あの日、ロードは膝をついていた。
◇
魔王軍の補給砦を落としたのは、日が傾く頃だった。
石壁は焼け落ち、見張り台は片側だけが斜めに残っていた。門の内側には、魔王軍の旗が一枚、半分焦げて伏せられている。
戦いは、もう終わっていた。
残っているのは、灰の匂いと、地面に深く刻まれた爪痕だけだ。
砦の中央で、ロード・ヴァルドは膝をついていた。
魔王軍の竜騎士。
先ほどまで、アレンたちの行く手を阻んでいた男だ。
剣は足元に転がっている。投げ捨てたのか、落としたのか、もう分からない。銀の鎧は煤で黒ずみ、右肩の留め具は砕け、肩当てが胴から浮いていた。
空には、黒い竜がいた。
砦の上を低く旋回している。喉の奥で唸るような音を絶えず鳴らしながら、けれど決して降りてこない。ロードの頭上だけを、しつこく回っていた。
アレンは聖剣の柄に手をかけたまま、その男を見ていた。
「俺を斬れ」
ロードが言った。
顔は上げない。
エリオが半歩前へ出た。
「アレン。こいつを連れていくのは反対だ」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かる」
その通りだった。
アレンは、ロードをこの場で斬るべきではないと思っていた。
エリオは、そんなアレンをよく知っていた。
「魔王軍の竜騎士だぞ。何度、空から追われたと思ってる。こいつが指笛ひとつ吹けば、俺たちは寝てる間に丸焼きだ」
「その通りだ」
答えたのは、ロードだった。
「俺は、信用される人間じゃない」
エリオの眉が、ぴくりと動いた。
「なら黙ってろ。お前に語る資格はない」
「エリオ」
たしなめたつもりはなかった。
けれど、声に出ていた。
エリオは振り返らない。斧の柄を握り直しただけだった。
「アレン。これはお前一人の旅じゃない。俺たち五人の命がかかってる」
その言葉に、アレンは何も言えなかった。
正しい。
ロードを連れていくということは、危険を抱え込むということだ。アレン一人が死ぬだけならまだいい。だが、ユーナも、ルドルフも、クローディアも、エリオも巻き込む。
エリオはロードへ向き直った。
「なぜ命令を拒んだ」
ロードは、すぐには答えなかった。
空で竜が大きく弧を描く。
鎧の隙間から、男の喉仏が一度だけ上下した。
「……避難民を、焼けと言われた」
声は、思ったより低かった。
「兵じゃない。村ひとつだ。年寄りも、乳飲み子もいた。魔王軍に従わない村への、見せしめだと」
「それで、お前は急に善人にでもなったのか」
エリオの声には、棘があった。
「違う」
ロードは首を振った。
短く、一度だけ。
「俺は、命じようとした」
風が灰をさらった。
灰はアレンの口の中まで入ってきた。砂のような、苦い味がした。
「だが、竜が火を吐かなかった」
ロードは初めて顔を上げた。
「何度命じても、あいつは飛ぶだけだった。村の上を旋回して、それで終わりだった。俺より先に、あいつが命令を拒んだ」
ロードは空を見上げる。
黒い竜は、翼を広げたまま、まだそこにいる。
「それで、分かった」
ロードの喉が、また動いた。
「俺は、自分の竜にも劣ることをしようとしていた」
エリオが黙った。
斧の柄を握ったまま、ロードを見ている。
すぐに口を開いたのは、それでも彼だった。
「それまでに、お前が焼いた村はどうする」
ロードは目を伏せた。
「消えない」
「一度止まっただけで、信用しろと言うのか」
「思っていない」
ロードはアレンへ視線を戻した。
「だから、斬れと言った」
沈黙が落ちた。
遠くで、焼け残った木材が音を立てて崩れた。
ルドルフは、崩れた壁にだらしなく背を預けていた。杖を肩にかけ、煙草でも吸いたそうな顔で、ロードを眺めている。
「儂はどっちでもいい」
エリオが振り返った。
「おい、爺さん」
「反対したところで、勇者殿は連れていくぞ。なら、儂が口を出すのは時間の無駄だろう」
「無責任だな」
「年寄りは効率を重んじるものだ」
ルドルフは空の竜を見上げた。
「ただな、竜騎士がいれば便利だ。空から偵察できる。敵の竜の癖も読める。危険だが、使える」
エリオは舌打ちした。
ユーナは、少し離れたところに立っていた。胸の前で両手を組んでいる。白い衣の裾に灰が付いていた。
「私は……」
彼女が口を開いた。
全員の視線が集まる。
「反対、です」
エリオがわずかに頷いた。
「罪は、祈りだけで消えるものではありません。救われた命があったとしても、奪われた命がなくなるわけではない」
ユーナはそう言ってから、アレンの方を向く。
目が合った。
「……アレン様」
一呼吸置く。
「それでも、私は貴方の判断を信じます」
クローディアは、少し離れた瓦礫の上に立っていた。
弓は構えたままだ。矢はつがえている。ロードの胸の、心臓があるだろう一点に、ずっと狙いをつけていた。
彼女はユーナを見た。
その横顔を、長く。
それから、ゆっくり指を弦から離した。
矢尻が、わずかに下がる。
言葉はなかった。
アレンはロードの前へ歩いた。
膝をついた男と、視線の高さが合うところまでしゃがむ。
「俺は、お前を許すとは言わない」
ロードの目が、こちらを見た。
「でも、お前は逃げなかった。竜のせいにもしていない。自分が何をしようとしたか、分かっている」
アレンは手を差し出した。
「だから、今度は自分で選べ。誰のために飛ぶのか」
ロードは、その手を見ていた。
差し出された手が、自分の血で汚れるのを恐れているようだった。
空で、竜が低く鳴いた。
「俺は、また間違えるかもしれない」
「その時は止める」
答えたのは、エリオだった。
声は、まだ冷たかった。
「俺が見張る。少しでも怪しい動きをしたら、斬る。アレンの前に俺が斬る」
「構わない」
ロードは短く答えた。
そして、灰で汚れた手を、ようやくアレンの手に重ねた。
握り返した手は、思ったより硬かった。
剣を握り続けてきた手だった。
灰が、二人の間で舞った。
エリオは、剣から手を離さなかった。
ルドルフは杖を肩に乗せたまま、欠伸を噛み殺している。
ユーナは目を伏せ、何かを呟いた。祈りなのか、ため息なのか、アレンには聞き取れなかった。
クローディアは、矢を背の筒へ戻した。
一本きり、戻す音だけが、やけにはっきり響いた。
その少し後だった。
砦の奥から、撤退を告げる角笛が鳴った。
魔王軍の残兵が退いていく。
その中で、最後まで残っていた者がいた。
セラヴィアだった。
黒い外套を灰の中に引きずりながら、彼女はロードを見ていた。いつものような冷たい笑みはなかった。細い角の影が、夕暮れの光に沈んでいる。
「……裏切り者」
ロードは答えなかった。
「なぜですか」
声が震えていた。
「なぜ、裏切るのです。私たちは共に誓ったではありませんか。魔族のために。最後まで戦うと」
空で、黒い竜が低く唸った。
「なのに、貴方は膝をつくのですか。人間の前で。勇者の前で」
ロードの指が、灰の上でわずかに動いた。
「許さない」
セラヴィアは吐き捨てた。
「私は、貴方を許さない。あの方の旗を捨てたことも、共に誓った言葉を踏みにじったことも」
彼女は踵を返した。
だが、数歩進んだところで、もう一度だけ振り返る。
「裏切り者」
その声は、怒りというより、傷のようだった。
「許さない。ロード・ヴァルド。私は、貴方を許さない」
セラヴィアは外套を翻し
その声だけが、砦に残った。
その日から、黒い竜は、アレンたちの頭上を飛ぶようになった。




