第十二話 墨で描かれた記憶 村上翔太7
「おい、ついたぞ」
蓮の声で、翔太は我に返った。
車はすでに止まっていた。
目の前に、大きな看板が立っている。
【神崎路雲 書道教室】
その下には、流れるような行書でいくつもの文字が並んでいた。
【二〇二二年歴史ドラマ『源頼朝』題字担当】
【生徒大募集】
看板の文字は、ただ大きいだけではなかった。墨の太さに勢いがあり、払いの先が、風を切るように伸びている。知らずに見れば、どこかの寺か、老舗の料亭の看板のようにも見えた。
翔太は車を降りた。
神崎路雲の家は、思っていたより開けていた。
もっと荘厳な屋敷を想像していたが、門は低く、玄関までは石畳が続いている。家は和風の造りで、庭には松と小さな池があった。広い。だが、威圧するような広さではない。
教室の入口らしき引き戸を開けると、墨の匂いがした。
中には受付台があり、その向こうに年配の女性が座っていた。眼鏡をかけ、手元の名簿に何かを書き込んでいる。
「おや、体験の方?」
女性が顔を上げた。
「あ、いえ」
翔太は軽く頭を下げた。
「神崎凛太郎さんに会いに来ました」
女性の顔が、はっきりと曇った。
またか。
そう言われた気がした。
「凛太郎さんのお知り合いでしょうか」
「あ、はい。昔からの仲間です」
言ってから、翔太は自分でも妙な言い方だと思った。
嘘ではない。
少なくとも、完全な嘘ではない。
女性はペンを置き、面倒くさそうに受話器を取った。
「先生、凛太郎さんのお知り合いの方がいらしています。ええ、またです」
また。
翔太は蓮を見た。
蓮も、わずかに眉を動かしただけだった。
しばらくすると、奥の廊下から一人の男がやってきた。
青い着物を着た、小柄で小太りの男だった。髪はきれいに撫でつけられ、丸い顔に人の良さそうな笑みを浮かべている。だが、その目だけは疲れていた。
神崎路雲。
翔太はすぐにそう思った。
「息子のお友達か何かかな」
男は柔らかい声で言った。
「最近、あの表紙のせいで、そういう方が増えてね」
蓮が一歩前へ出た。
「我々は凛太郎さんとは戦友でして。にわかではありませんよ」
翔太は内心で、やめろと思った。
路雲は蓮の服装を上から下まで見た。
黒い上着、だらしなく巻かれたストール、年齢の分かりにくい顔。確かに、書道家の家を訪ねるには、かなり浮いている。
「凛太郎は大人しい子だったんだがね」
路雲は困ったように笑った。
「おたくみたいな、少し変わった人たちと付き合い始めたせいか、変わってしまったんだよ」
「いや、二年ぐらい前に、凛太郎さんの方から声をかけてきたんですよ」
蓮は平然と言った。
翔太は小さく肘で蓮をついた。
そんな適当なことを言っていいのか。
だが、路雲の表情が変わった。
「二年前……」
その声は、少し低くなった。
「確かに、二年ほど前からだ。人が変わったように絵を描き始めたんだ」
翔太は息を呑んだ。
「竜の絵ですか」
「そうだ」
路雲は頷いた。
「それ以外にも、いろいろとね。昔から絵は好きだったが、あんなものを描く子ではなかった」
「あんなもの?」
「見れば分かる」
路雲は廊下の奥へ視線を向けた。
「凛太郎はどこにいるんですか」
蓮が聞いた。
路雲は困ったように眉を下げた。
「それが、あの表紙絵を仕上げたあと、三ヶ月ほど連絡が取れないんだ」
「三ヶ月」
「ああ。電話も出ない。部屋にも戻らない。警察にも来てもらったんだが、成人した息子だからね。何か事件に巻き込まれた証拠がないと、簡単には動けないらしい」
「心当たりは?」
「こちらが聞きたいくらいだ」
路雲はため息をついた。
「君たちこそ、何か知らないのかね」
「いえ」
翔太は首を振った。
「俺たちも、凛太郎さんを探しています」
路雲は翔太を見た。
その目に、わずかな疑いと、わずかな期待が浮かんでいた。
「そうか」
彼は小さく頷いた。
「なら、部屋を見ていくといい。あの子が何を考えていたのか、私にも分からん」
路雲に案内され、翔太たちは廊下を進んだ。
家の中は静かだった。
どこかの部屋から、筆が紙を擦る音が聞こえる。生徒が稽古をしているのだろう。墨の匂いは奥へ進むほど濃くなった。
廊下の突き当たりに、襖があった。
隙間から、白い光が漏れている。
「ここだ」
路雲が襖を開けた。
翔太は、すぐには足を踏み入れられなかった。
部屋中に、和紙が散らばっていた。
畳の上。机の上。壁際。重ねられた紙の束。乾ききっていない墨の匂い。大きな机には硯が置かれ、その横に太い筆が何本も転がっている。
視線が、机の端で一度止まった。
開いたままのノートパソコンが置かれていた。画面は暗い。けれど、縁の小さなランプだけが点いている。墨と和紙ばかりの部屋の中で、それだけが妙に場違いだった。
蓮もそれに気づいたらしい。
「絵描きにしては、機械も使うんだな」
「凛太郎は、あまり触らない子だったんだがね」
路雲は困ったように笑った。
「二年ほど前から、急にそういうものも置くようになった」
二年。
翔太は、その言葉だけを拾った。
そして、壁に掛けられていた。
竜の絵だった。
墨だけで描かれている。
だが、黒一色とは思えなかった。濃淡だけで、鱗の硬さも、翼の重さも、空気を裂くような首の曲がりも表されている。翼を広げた黒い竜は、今にも紙の外へ飛び出してきそうだった。
翔太の喉が、ひどく乾いた。
あの竜だ。
ロードの頭上を飛んでいた、あの黒い竜。
「最近は、部屋にこもって、こんな絵ばかり描いていた」
路雲の声は、どこか遠くに聞こえた。
「竜だけじゃない。人の絵もある。だが、どれも気味が悪くてね。本人に聞いても、何も答えなかった」
蓮が机の上の紙を一枚、慎重に持ち上げた。
「……アレン」
そこには、剣を持つ青年が描かれていた。
顔ははっきりしない。墨の線は少なく、輪郭も曖昧だった。けれど、背にある剣だけは異様なほど強く描き込まれている。
聖剣。
翔太は自分の手を見た。
そこにはもう、剣はない。
蓮が別の紙をめくる。
白い衣を着た女。祈るように両手を組んでいる。目元は伏せられていて、表情は読み取れない。
「ユーナか」
翔太は呟いた。
さらに別の紙には、杖を持った老人がいた。歪んだ帽子、曲がった背、笑っているのか怒っているのか分からない口元。
蓮はそれを見ると、嫌そうに顔をしかめた。
「悪意があるな」
翔太は少しだけ笑いそうになった。
けれど、すぐに笑えなくなった。
机の端に、伏せるように置かれた一枚の和紙があった。
翔太はそれに目を引かれた。
理由は分からない。
ただ、視線がそこから離れなかった。
彼は手を伸ばし、その紙を取った。
淡い墨のにじみの中に、女が描かれていた。
細い角。
尖った耳。
長い髪は、一筆で流されている。黒い衣は、紙の白を沈ませるように重く、肩から裾へ落ちていた。
薄く引かれた唇は、笑っているようにも見えた。
だが、目元には何の温度もなかった。
冷たいのではない。
そこに感情があることを、最初から拒んでいるような目だった。
翔太は、息を忘れた。
灰の中でロードを睨んでいた女。
裏切り者、と吐き捨てた声。
魔王軍の側近。
紙の上の女が、こちらを見ている気がした。
「……セラヴィア」
翔太の声は、ひどく小さかった。




