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第十三話 恐怖 森山葵5

 ラグナスの太刀筋は、速かった。


 自身の背丈より長い刃を、片手で振るっているように見えた。重さも、間合いも、力の溜めも、どこにもない。ただ黒い線だけが走る。


 クローディアの矢がかすめなければ、アレンの頭と胴はそこで別れていた。


「セリシアに見放された民が、なぜ人間につく」


 ラグナスの目が赤く光った。


 人のものではない。魔族のものでもない。獲物を見つけた獣の目に近かった。


 人間についたつもりはない。


 魔族につく道理もなかった。


 クローディアは次の矢を番えた。


 ラグナスの刃が、途中で向きを変える。


 斬られる。


 考えるより先に、クローディアの体が沈んだ。


 刃が顔のすぐ上を薙いだ。鉄の匂い。ほんの少しでも遅れていれば、鼻から上を持っていかれていた。


 地面に膝をつく寸前、矢を放った。


 ラグナスの左頬を掠めた。


 赤い血が、一筋。


     ◇


「あの時、痛かったぞ」


 黒澤一輝は、カウンター越しにラーメンを置いた。


 黒縁の眼鏡は湯気で曇り、目元がほとんど見えなかった。


「何なの、急に」


「急に来たのは君じゃないか。しかも、彩花さんがいない時を狙って」


 葵は返事をしなかった。


 好きで来たわけではない。


 できれば、会いたくなかった。ラグナスにも、黒澤一輝にも。前世の敵だとか、現世の知り合いだとか、そういう整理をするのも面倒だった。


 ただ、あの夜からずっと考えていた。


 あの場にいた者のうち、誰も青黒い光を予期していなかった。


 少なくとも、クローディアの記憶ではそう見えた。


 だからこそ、自分とは別の位置から見ていた者の記憶が要る。勇者側から見たものだけでは、真相には届かない。あの場には魔王側の者もいた。


 だから、来た。


 それだけだった。


 本当は、何も頼まずに用件だけ済ませたかった。


 けれど、夕飯時を少し外れた店でカウンターに座ってしまえば、食券を買わないわけにもいかなかった。葵は仕方なく、一番安い醤油ラーメンのボタンを押した。


 油の匂いに、湯気が混じっていた。食券機が鳴り、少し離れた席で誰かが麺を啜る。厨房の奥では、鍋が一度だけ大きく鳴った。


 どう見ても、魔族の武人に会いに来る場所ではなかった。


「君、クローディアだろ」


 黒澤が言った。


 不本意にも、肩が小さく跳ねた。


「な、何で分かるの」


「店に入ってきた時の目だよ。僕を探す目だった」


「それだけ?」


「勇者一行で女は二人。僧侶のユーナと、狩人のクローディア。彩花さんじゃないなら、残りは君だ」


「何その理屈。ユーナかもしれないでしょ」


「それは……」


 黒澤は、曇った眼鏡を指で押し上げた。


「あの目は、狩人の目だった」


 さすが、魔族一の武人と謳われただけのことはある。


 そう思いかけて、葵はすぐに考えを打ち消した。


 肉のついた頬。額の汗。湯気で曇った眼鏡。エプロンの腹のあたりには、薄くスープの染みまでついている。


 ただの当てずっぽにしか見えない。


「ようやく、魔族の側につくことを決めたか」


 黒澤は腕を組み、大げさに頷いた。


「こんなところで、よく恥ずかしげもなく言えるわね」


「恥ずかしい? 君は自分の過去を否定するのか?」


 たった今、全力で否定したくなった。


 そう言い返したかったが、これ以上この会話を続けるのも面倒だった。


 葵は黙って割り箸を取った。


「ここでする話じゃない。食べたら裏にこい」


 黒澤は返事を待たず、厨房の奥へ消えた。


     ◇


 店の裏に回ると、黒澤はもう待っていた。


 エプロンをつけたまま、腕を組んでいる。表の声は壁一枚を隔てて遠く、ここでは少しだけ薄く聞こえた。


「この世界のクローディアは、随分とリアルが充実しているみたいだな」


 さっきより、声が低い。


 彩花のことを根に持っているのか。


 相変わらず、偉そうな言い方だった。


「その名前で呼ばないで。私は森山葵」


「じゃあ、葵」


 黒澤はわざとらしく言い直した。


「まさか、最初に見つかる転生者がお前だったとはな。彩花さんでなくて残念だ」


 黒澤の口から自分の名前が出るのが、無性に腹立たしかった。


「やっぱり、クローディアでいい」


「わけが分からん」


「正直、自分でもそう思う」


 言ってから、葵は少しだけ黙った。


 自分は森山葵なのか。クローディア・ヴェイルなのか。


 走ることが好きで、友達と笑って、普通に学校へ通っている自分がいる。けれど同時に、森の匂いと弓の重みを知っている自分もいる。


 どちらの名前で呼ばれても、もう完全には否定できなかった。


「黒澤さん」


「ラグナスと呼べ」


「あー、面倒くさい」


 葵は額に手を当てた。


 けれど、ここで意地を張っても話が進まない。


「分かった。ラグナス」


 黒澤の目が、ほんの少しだけ細くなった。


「貴方は、この記憶のことをどう思ってるの」


「どう、とは?」


「邪魔なのか。戻りたいのか。何かを探してるのか」


 黒澤は答えなかった。


 店の中から、誰かが笑う声が聞こえた。注文を復唱する声。湯切りの音。現実の音ばかりだった。


 それなのに、葵の胸の奥では、別の世界の音がまだ鳴っている。


 走り出す前の一歩目だけが、いつまでも地面から離れない感じがした。


「私は、術者が誰なのか知りたい」


「術者?」


「あの青黒い光を発動させた誰か」


「一人で探す気か」


「そのつもりだった」


「無理だな」


 腹が立つ言い方だった。


 けれど、間違ってはいない。


「……だから来た」


 葵は小さく言った。


「なぜ、敵であるお前と組む必要がある」


 黒澤は鼻で笑った。


「今は敵も味方もない。現に私たちは、どちらもこの世界で同じように生かされている」


「同じように、か」


 黒澤は目を細めた。


「お前は随分、この世界に馴染んでいるように見えるがな」


「馴染んでるよ」


 葵は即答した。


「でも、それと、何も知らないままでいることは別」


 黒澤は黙った。


 その沈黙で、葵には分かった。


 この男も、同じだ。


 黒澤一輝としてラーメン屋で働きながら、ラグナスの記憶に引っ張られている。口では敵だの味方だの言っていても、本当はもう、その区別が崩れていることに気づいている。


「クローディア」


 低い声だった。


「お前、何か知ってるのか」


 葵は頷いた。


「この術式は、セリシアに関わってる」


 黒澤の表情が変わった。


 さっきまでの皮肉が消える。そこに残ったのは、ラグナスの顔だった。


「……セリシアだと」


「そう」


「なぜ、そんなことが言い切れる」


「クローディアの一族は、セリシアの名から逃げられない」


 葵は少しだけ息を吸った。


「神に近い血を引いた。なのに、ずっと遠ざけられてきた。守護者だったはずなのに、いつの間にか別の名で呼ばれるようになった一族だから」


 黒澤の指が、エプロンの端を握った。


「貴方だって、このままでいいわけじゃないでしょ」


 黒澤は目を伏せた。


 考えているように見えた。


 けれど、葵には、何かを待っているようにも見えた。


「いいから、ラグナス」


 葵は言った。


「一人で抱えるより、二人で探した方が早い」


 黒澤はしばらく黙っていた。


 やがて、肩をすくめる。


「仕方がない。敵の手を借りるのは不本意だがな」


「そういう言い方しかできないの?」


「お互い様だ、クローディア」


 葵は睨んだ。


 けれど、不思議と腹は立たなかった。


 少なくとも今、この男だけは、自分が何者なのか分からなくなっている感覚を理解している。


「今のところ、これしかないから」


 葵はそう言った。


 それ以上でも、それ以下でもなかった。


「じゃあ、そういうことで。……よろしくお願いします」


「一時休戦だ」


「協力って言いなよ」


「狩人風情が……ビジネスパートナーだ」


 予想外のカタカナに、葵は少し笑った。


 店の中から、黒澤を呼ぶ声がした。


 黒澤は何事もなかったように裏口へ向かう。


「戻る。店が回らない」


 その声だけ、少し黒澤一輝に戻っていた。


 葵は、その背中に声をかけた。


「黒澤さん」


 黒澤が振り返る。


「怖くないの?」


 黒澤は、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「怖いわけがない。俺は魔剣のラグナスだぞ」


 そう言って、店の中へ戻っていった。


 嘘だ。


 そう思ったのに、葵は何も言えなかった。


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