第十四話 狩人と魔族 前半 森山葵6
梅雨が明けると、グラウンドの土は夕方になっても熱を残していた。走るたび、靴底から土とゴムの混じった匂いが立つ。
「森山、一本」
「はい」
スタートラインに指をつく。白線の先にトラック。部員の声。フェンスの向こうを過ぎる自転車。いつもの放課後のはずなのに、身体は勝手に周りを探っている。風向き。隣のレーンの呼吸。背後で誰かが砂を踏む、その距離。
これは走る前の身体じゃない。先へ出るより、退く道を数えている身体だ。
笛。
飛び出した一歩目で音が薄くなる。前だけを見ているはずなのに、奥のほうでは別のものを数えていた。近づくもの。守るべき背中。それから――まだ信用してはいけない影。
ここにあるのはスパイクと汗と部活の声で、森も夜営の火もない。葵は奥歯を噛んで走り切った。
「十二秒八。少し落ちたな。休め、顔色悪いぞ」
「大丈夫です」
言ったそばから、膝が笑った。
クローディアの記憶は、もう夢の残りなんかじゃない。物音の遠近を測る耳。暗がりで膝を緩める癖。輪の中心より端に寄ったほうが先に楽になる、その身体の好み。そういうものが、葵より先に動く。自分が思ったのか、クローディアが反応したのか――近頃、その答えが一拍遅れてやって来る。
「葵、タオル」
投げられた白いタオルを受け取ると、張りつめていた意識が少しほどけた。
「今日、マドカ行くよね?」
「……行く」
「よし。抹茶ラテ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてる」
葵はタオルで口元を隠した。少しだけ、笑えた。この笑い方だけは手放したくない。美咲たちの前に、知らない記憶なんてひとつも置きたくなかった。
だからこそ――黒澤とは、なるべく会いたくないのだ。
◇
黒澤とのやり取りは、できるだけメッセージで済ませていた。
黒縁眼鏡、暗い髪、少し猫背の立ち方。ラーメン屋で働く口の悪い男。そこだけ見ていれば、ただの黒澤一輝でいられる。顔を合わせると、どうしてもその奥に赤い目を探してしまうから。
とはいえ、文字だけで済む話ばかりでもなかった。肝心なところで、メッセージは必ず止まる。そのたび葵は、仕方なく出向いた。約束、という感じではない。呼ばれただけ、でもない。結局、二人とも来る。来なければ、身体の中で増えていく違和感をひとりで見張るしかなくなる。
「他にも、転生者かもしれない人に会った」
葵が切り出すと、黒澤は顔を上げず、目だけ寄越した。
「誰だ」
「Seiðrってバンドの、蓮って人」
「ああ?」
「あの人を見た時、この世界だけの人じゃない感じがした」
「ソウゼ」
黒澤は無駄に発音よく繰り返して、露骨に嫌な顔をした。
「お前らのところの魔法使いのじじいか」
「ルドルフのこと?」
「他にいるか」
「でも蓮、若いし金髪だし、ステージで頭振ってたよ」
葵はスマホの画面を向けた。照明の下で観客を煽っていた、あの蓮。あれが説教くさい賢者ルドルフ。どう並べても結びつかない。ただ、目の前に黒澤という前例がいる。見た目で否定するのは、もう無理筋だった。
「わざわざバンド名で魔法を名乗る馬鹿は、魔法使いに決まってるだろ」
「偏見がすごい」
「セラヴィアやユーナの可能性は?」
「あの二人は女だ」
「まあ、そうだけど」
「こういうのは雑な方が当たる」
「貴方が言うと、すごく信用したくない」
「好きにしろ」
黒澤は少し間を置いてから続けた。
「それで。そいつに会いに行くのか」
「急に活動休止したの。ライブも止まってるし、どこにいるかも分からない」
「なら、DMしろ。私はクローディアです。あなたは魔法使いのおじいさんですか。って」
「そんなの送れるわけないでしょ」
「なぜだ」
「蓮が術者だったら?」
「それを疑うなら、俺も同じだろ」
「ラグナスにあの術式は無理よ」
「お前こそ、偏見がすごいぞ」
「じゃあ、貴方が術者なの。ラグナス」
言ってから、声が強すぎたと気づいた。
黒澤は少しうつむいて、ぼそりと言った。
「ちがい……ます」
返事に困る。黒澤と話していると、いつもどこかで調子が狂う。それでも話し終える頃には、自分が何を怖がっているのかだけ、少し輪郭が見えてくるのだった。
「記憶が戻ると、性格も寄るのかな」
黒澤はすぐには答えなかった。
「ある程度はな」
「黒澤さんも?」
「ある」
短い。
「ラグナスだった頃を思い出すと、腹の底に嫌な熱が戻る。今なら流せることでも、流せなくなる」
「それって、黒澤さんがラグナスになるってこと?」
「分からん」
「そこ大事なんだけど」
「大事だから、分からないと言っている」
黒澤の目がこちらを向く。
「お前も同じだろ」
否定できなかった。最近の葵は、自分で考えるより先に、クローディアならどう動くかを知っている。
それが、怖い。
◇
練習後、葵は美咲、彩花と三人でマドカに寄った。店に入ると汗が一気に冷えて、肩が縮む。葵は首の後ろを押さえながら席についた。
「葵、今日すごい顔して走ってた」
アイスティーをかき混ぜながら、美咲が言う。
「暑かったから」
「違う。勝負前の顔」
「ええ、それどんな顔よ」
「近寄ったら射られそうな顔」
一瞬、黙ってしまった。
「……暑かったから」
「二回目」
彩花が小さく笑った。その笑い方に、葵は少しほっとする。まだ無理はしている。けれど、沈みきってはいない。
と思ったところで、当の彩花が遠慮がちに口を開いた。
「ねえ、葵」
「なに?」
彩花はしばらく、ストローの先を見ていた。
「黒澤さんと、付き合ってるの?」
抹茶ラテを取り落としかけた。
「は?」
先に反応したのは美咲だった。
「ちょっと、それどういうこと」
「違うの。そういう意味じゃなくて」
「そういう意味でしかない聞き方だった」
葵は両手を振る。
「ないないない。絶対にない」
「絶対って言い方、つよ」
「強く言う必要があるから」
「でも」
彩花は困ったように視線を落とした。
「あの人、葵のこと……神に見捨てられた狩人の手助けをしてやってる、って」
葵は目を閉じ、額をテーブルに当てた。
あいつ。よりによって、そんな言い方を。
「神に見捨てられた狩人?」
美咲が眉を寄せる。
「何それ。中二? 的な……」
「違う」
「じゃあ何」
「えっと」
言葉を探す。まずい。何も用意していない。
「彩花のことが心配で、あの後、様子を見に行ったの」
「行ったら?」
「黒澤さんがいて」
「いて」
「話になって」
「何の」
「……今ハマってるスマホゲームの」
言った瞬間、しまったと思った。美咲の目が丸くなる。
「スマホゲーム?」
「そう。攻略の話」
「黒澤さんと?」
「うん」
「葵が?」
「……うん」
「ゲーム名は?」
「ガラ……ガーラシア戦記」
沈黙。
「葵」
「なに」
「焦ってる時、嘘が長い」
「嘘じゃない」
「じゃあ、どんなゲーム」
「剣と魔法の」
「それで」
「勇者とか魔王とか出てくる」
「ありがち」
「……神に見捨てられた狩人もいる」
「そこだけ具体的」
抹茶ラテを飲んだ。甘さだけが舌に残って、味はよく分からなかった。
「悪いことは言わない」
美咲が葵の両手を握った。
「あの人はやめとこ」
「だから違うって」
「黒澤さん、悪い人じゃないのかもしれないけど、なんかじめっとしてる」
「じめっと」
「湿った暗さ」
「ひどい」
「葵にはもっと爽やかな人がいい。蓮くんみたいな」
その蓮くんも、中身は説教くさいじいさんかもしれないんだけど――とは、もちろん口に出さない。
そこでスマートフォンが震えた。差出人、ラグナス。葵が嫌味半分で登録した名前だ。
【明日 18:00 待つ。デッキ忘れるな】
相変わらず偉そうな文面だった。続けてスタンプが届く。白い髪に黒い角の小さな魔族と、三匹の小鬼が丸い机を囲んでいる。紫の蝋燭、古びた地図。横に太い紫の文字で【密議】。
どこで見つけたのか。いや、まさか作ったのか。
反応したら次が来る。たぶん、獣耳フードの狩人スタンプが。しかも葵用に。
【りょ】
とだけ返した。
「誰?」
「ゲームの人」
「黒澤さんじゃん」
「ゲームの人」
「嘘が雑になった」
葵はスマートフォンを伏せた。




