第十六話 セリシアの神話
術者が本を手に取ると、埃がふわりと舞い上がった。
端は黄ばみ、ところどころ欠けている。紙は乾き、指をかけるだけで崩れそうだった。
ページをめくる。
見覚えのある文句が並んでいた。
誰もが一度は耳にしたことのある神話。この世の成り立ちを語る、古い祈りのような物語。
けれど、途中で指が止まった。
知っているはずの神話が、知らない形に変わっていた。
書き足されたのか。
削られたものが、ここにだけ残ったのか。
それとも、こちらの方が先だったのか。
分からない。
ただ、震えだけが止まらなかった。
♢
昔、ガーラシアに人間はいなかった。魔族も、まだいなかった。
いたのは牙を持つ獣と、闇に棲む魔物だけだ。言葉もない。祈りもない。国もない。誰かが何かを守る——そんな考えすら、まだどこにも生まれていなかった。
そこへ天界から、セリシアが降りてきた。
セリシアは荒れた地を見渡し、自らの血と骨を分け与えて、最初の守護者たちを生んだ。一人。また一人。指先からこぼれるように。
彼女は守護者たちに三つの役目を授けた。
弓を持つ者は、境を見張る。剣を持つ者は、獣を退ける。法衣をまとう者は、魔を鎮める。
守護者たちはその命に従い、ガーラシアを守った。獣が現れれば剣が立ちはだかった。魔物が闇から這い出てくれば、法衣の者が祈りを捧げた。そして弓を持つ者は、どちらにも属さぬ境に立って、ただ遠くを見張り続けた。
だがセリシアは、この世界に二十年しか留まれなかった。
二十年が過ぎれば、その体は朽ちる。けれど魂までは消えない。守護者の中から新たな器を選び、ふたたびこの地に生まれてくる。
二十年ごとに、セリシアは甦る。二十年ごとに、守護者は増えていく。
そうして長い時が流れたある日。一人の守護者が、獣を食べた。
獣の熱がその赤の血に宿った。牙の恐れが、心に刻まれた。彼は獣の強さを知り、獣に抗う力を得た。
それが人間の始まりだった。
セリシアは人間に聖剣を授けた。どんな獣にも屈しないように。
また別の日、一人の守護者が魔物を食べた。
魔の影がその青の血に宿り、深い痛みが魂の底に沈んだ。彼は魔の強さを知り、魔に呑まれぬ力を得た。
それが魔族の始まりだった。
セリシアは魔族に聖衣を授けた。どんな魔にも呑まれないように。
やがて人間はセリシアを讃え、白き神殿を築いた。
その名を、エテルナ。
魔族もまたセリシアを讃え、黒き城を築いた。
その名を、レノヴァティオ。
二つの民の祈りを聞き届けて、セリシアは祝福を与えた。エテルナに光が降りた。レノヴァティオにも、光が降りた。
人間は聖剣を掲げ、魔族は聖衣を抱き、同じ神の名を呼んだ。
けれど弓を持つ者だけは、その光の外に立っていた。
セリシアは対を好んだ。
境を見張る者として。人間にも数えられず。魔族にも数えられず。
誰にも呼ばれないまま、彼らはただ、二つの祝福を遠くから見つめていた。
それでも弓を持つ者は、待ち続けた。
次の二十年を。その次の二十年を。セリシアがふたたびこの地に生まれる、その日を。
けれど新たな器は、人間の中から選ばれた。次の器は、魔族の中から選ばれた。
剣を持つ者の血より、セリシアは甦る。法衣をまとう者の血より、セリシアは甦る。
弓を持つ者のもとへは、来なかった。
それでも、待った。二十年。また二十年。幾度巡る輪廻の中でも、彼らは境に立ち続けた。
やがて、待つことは祈りではなくなった。祈りは嘆きに変わり、嘆きはいつしか怒りになった。
なぜ、われらは選ばれぬのか。
なぜ、われらの名は呼ばれぬのか。
同じ血と、同じ骨から生まれたはずだ。それなのに、なぜわれらだけが光の外に置かれるのか。
そしてある時。弓を持つ者は、セリシアの輪廻に手を伸ばした。
祝福を奪うためではない。ただ一度でよかったのだ。自分たちの名を、セリシアに呼んでほしかった。それだけだった。
けれど、その手は輪廻の環を捩じってしまった。
セリシアの巡りは歪み、祝福は二つに裂けた。
人間は聖剣を掲げた。魔族は聖衣を抱いた。同じ神の名を呼びながら、二つの民は互いを見失った。
聖剣は聖衣を裂くためのものになり、聖衣は聖剣を拒むためのものになった。
こうして、捻れた輪廻が争いを生んだ。
人間と魔族。聖剣と聖衣。同じセリシアより生まれたものたちが、同じセリシアの名のもとで争いはじめた。
それは祝福でもあり、呪いでもあった。
弓を持つ者は、自らの願いが何を招いたのかを知った。そして、深い森へ沈んでいった。
光の届かぬ森。神殿の鐘も、城の祈りも届かぬ森へ。
彼らは名を失った。人間から忘れられ、魔族からも忘れられ——やがてセリシアからも忘れられた民、と呼ばれるようになった。
♢
術式は本を閉じた。どこか粗々しく。埃が再び舞った。
そんなことは、許さない。
輪廻に、あなたが捧げられる。そんなこと、あってはならない。
だから、あなたを救う。たとえあなたが、それを望まなかったとしても。
だって——セリシアは、あなたなのだから。




