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第十七話 虚絵 霧島さくら1

 古民家を改装したカフェ、マドカは、駅前の通りを一本入った路地にあった。白い暖簾をくぐると、磨かれた床板。古い梁。庭に面した硝子戸から、午後の光が斜めに射している。壁際に小さな本棚がひとつ。客たちは声を落として、珈琲や甘味を口に運んでいた。


 その店で、霧島さくらは働いていた。夏の終わりからだ。それ以来、マドカには少しずつ客が増えた。店を目当てに来る客と、さくらを目当てに来る客。その境目は、ひどく曖昧だった。


「お待たせいたしました」


 盆を両手で持って、窓際の席へ珈琲を運ぶ。黒い髪を後ろでゆるくまとめ、白いブラウスに茶色のエプロン。化粧は薄い。それでも客はさくらを見る。見てしまう。白い肌、長い睫毛、伏せた目元の静かな影。笑うと柔らかく見えるのに、その笑みのどこかは、いつも遠かった。


「ありがとうございます。また、来ます」


 客の男が、声を上ずらせた。


「お待ちしております」


 微笑んで、男が暖簾の向こうへ消えるまで丁寧に頭を下げる。戸が閉まった。盆を持ったまま、ゆっくり顔を上げる。


 くだらない。形の整ったものを見れば欲しがり、怯えたものを見れば踏みにじる。弱い者を見つけては、自分より下に置こうとする。下賤な人間ども。


「さくらちゃん、二番さんお茶お願いね」


「はい」


 店主の声に、すぐ笑顔を戻した。


 この顔は便利だ。誰も笑顔の裏まで見ない。見ようともしないし、見たところで理解できない。霧島さくらという女がどこで終わったのか、セラヴィアという名がいつからこの体の奥で息をしはじめたのか、誰にも分からない。さくら自身にも、もう分からなくなっていた。


 硝子戸の向こうで、風が庭木を揺らした。


 戸が開く。からん、と小さな鈴。伸ばしっぱなしの黒い髪。痩せた体にくたびれた上着。ひょろりと高い背。


 驚きはなかった。何度目だろう、と思っただけだ。


「あら。さくらちゃんのお知り合い。いらっしゃい」


 店主が先に気づいた。凛太郎は曖昧に頭を下げ、入口のそばで立ち止まる。席に着く気がないのは、店主にももう分かっている。


「休憩、もらっていいですか」


「いいわよ。ゆっくりどうぞ」


 店主は笑った。若い男が若い娘を訪ねてくる。それ以上のことを考えてもいない。好都合だった。


 さくらは盆を置き、エプロンの紐に指をかけながら、低く言った。


「外で待ってて」


 凛太郎は何も言わずに店を出ていった。



 店の裏手に、小さな庭があった。古い石灯籠。低く刈り込まれた木。隣家との境に板塀があって、表通りの音は遠い。


 凛太郎は塀のそばに立っていた。さくらが出てくると、すぐに上着のポケットからスマートフォンを出す。前置きはない。前置きが要らない間柄に、もうなっている。


 差し出された画面の中に、見覚えのある部屋があった。散らかった和紙、硯、壁の竜。机の端から見上げる角度――あのノートパソコンの位置だ。


 部屋には、男が二人。一人は黒髪。背格好も顔立ちも、人混みに置けば三歩で見失いそうな青年だった。もう一人は金髪。黒い上着に、だらしなく巻いたストール。年齢の分かりにくい顔をしている。


「音」


 言うと、凛太郎が音量を上げた。空調か衣擦れか、ざらついた雑音の向こうで、声が切れ切れに浮かぶ。


 ……アレン。


 ……ユーナか。


 しばらく間があった。紙をめくる音。畳を踏む音。


 それから。


 ……セラヴィア。


 黒髪の青年が、机の端の一枚を手に取っていた。伏せて置かせた、あの絵だ。画面越しでも分かった。青年は長いあいだ動かず、紙の上の女から目を離せずにいた。


 自分の似姿を、見ず知らずの男が覗き込んでいる。胸の奥が妙な具合に冷えて、それから熱くなった。不快なのか愉快なのか、自分でも区別がつかなかった。


「録画は、いつ」


「……三日前」


「三日」


 さくらは画面から顔を上げた。凛太郎が目を逸らす。


「迷ったの」


「……」


「いいわ。持ってきたんだから」


 責める気は、半分しかなかった。迷って、それでも持ってくる。それが今の凛太郎だ。どちらにも振り切れない――あの頃から、何ひとつ。


 さくらはもう一度、画面に目を落とした。


 あの部屋を訪ねた者は、これまでにも何人かいた。書道教室の仲間たちは、襖の前でおろおろと声をかけ、何も知らないまま帰っていった。中年の刑事も来た。おそらく凛太郎の父親が呼んだのだろう。部屋をひとまわり眺め、和紙を一枚もめくらずに出ていった。あの男にとって、あれはただの散らかった部屋だった。


 それから――高校生の女と、眼鏡の男。


 女は絵の前で明らかに困惑していた。立ち尽くし、目を逸らし、また見て、何かを振り払うように首を振った。眼鏡の男は違う。ラグナスの絵を手に取ったきり、離さなかった。両手で持って、連れの女に何か言われても、なかなか戻そうとしなかった。あの二人は、向こう側だ。


 そして今日の二人。アレンの名を口にした黒髪。ユーナと呟いた金髪。


「これで」


 さくらは数えるように言った。


「四人」


 声が、笑っていた。自分でも気づかないうちに笑っていた。店で作る笑みではない。もっと古い場所から出てくる笑い方だった。


 凛太郎がさくらを見た。怯えた顔だった。それで、すこし覚めた。



 霧島さくらは、幼い頃から人前が苦手だった。声を出すのが遅い子で、目立つのも嫌いだった。誰かに見られると、胸の奥が縮むような気がした。


 それなのに、人はさくらを見た。かわいいね。お人形さんみたい。大人たちは悪気なく言った。同じ年頃の子どもは、もっと正直だった。


 見られることと、好かれることは別だ。さくらは早い時期にそれを覚えた。


 書道教室へ通いはじめたのは、小学校に上がる前だった。古い家。畳の部屋。硯と半紙の匂い。そこで神崎凛太郎に出会った。


 最初の日、さくらはうまく筆を持てなかった。墨が落ち、半紙の端に黒い染みが広がる。周りの子どもが笑い、さくらは筆を置きそうになった。


 その時、凛太郎が横から半紙を覗き込んだ。


「線、細いな」


 笑われると思った。顔のことを言われると思った。けれど凛太郎は、半紙だけを見ていた。


「でも、曲がってない」


 それだけ言って、新しい半紙を一枚置いた。


「もう一回、書けば」


 初めてだった。顔ではなく、字を見られたのは。


 学校では、少しずつ孤立していった。陰口、無視、机の中から消える教科書。ひとつひとつは大したことではない。そう言われれば、それまでだった。けれど毎日続けば、人は少しずつ削られる。


 さくらは学校へ行けなくなった。それでも、書道教室だけは通い続けた。


 凛太郎は何も聞かなかった。学校はどうした。大丈夫か。そういう言葉を口にしなかった。ただ、いつもの場所に半紙を置いた。


「今日は、こっち」


 それだけだった。


 救いだ、と思ったことはない。そんな大層なものではなかった。ただ、息ができた。書道教室にいるあいだだけ、息ができた。



 いつからか、凛太郎は絵を描くようになった。細い竜。奇妙な塔。見たことのない鎧。


「何、それ」


「分からない。でも、描けるんだ」


 その言い方が嫌だった。描きたい、ではない。描ける。どこかにあるものをなぞっているような言い方だった。


 その頃から、さくらの夢にも黒い霧が出るようになった。焼けた城壁。玉座。顔の見えない魔王と、剣を持つ勇者。そして、振り返らない竜騎士。


 名前を、思い出した。


 セラヴィア。魔王ドロネオールの側近。人間に忌み嫌われ、魔族として戦い続けた女。


 思い出してしまえば、もう戻れなかった。


 人間は魔族を憎んだ。何をしたから、ではない。魔族だから、だ。それだけで焼かれ、追われ、殺された。セラヴィアは、人間との和解など信じていなかった。


 それを、ロードだけは分かっていた。軽薄に見えて、誰よりも現実を見ていた男。セラヴィアの怒りを否定しなかった男。


 そのロードが、裏切った。膝をついた銀の鎧。差し出された手。それを取った、ロードの指。すべて覚えている。


 だから――書道教室の奥の部屋で、ガーラシアの絵に埋もれた凛太郎を見つけた日、さくらは迷わなかった。


「ロード・ヴァルド」


 その名を呼んだだけで、十分だった。振り返った凛太郎は、ひどい顔をしていた。隠していた傷を暴かれた者の顔だ。


「君は……誰、なんだ」


「セラヴィア」


 自分に半紙を置いてくれた少年。自分の字だけを見てくれた人。その人の中に、裏切り者がいた。もう少し、別の男であってくれたら。何の関係もない、誰でもいい裏切り者であってくれたら、ここまで深く憎まずに済んだのに。


 あの日、言い合った。お前はセラヴィアじゃない。あなたはロードよ。違う。違わない。墨をこぼした、こぼしてないと争っていた頃と、何も変わらない子どもの言い合いだった。


 最後に、さくらは言った。


「あなたが次は裏切らないと言うなら、証明しなさい」


「……何をする気だ」


「絵は、そのまま部屋に残して。アレンも、ユーナも、ラグナスも。――私のも」


「何のために」


「ガーラシアの記憶を持つ者は、必ずあの絵に引っかかる。向こうから来るわ。それから機械を置いて。部屋が映るように」


「……正気か」


「私を止めたいなら、そばにいなさい」


 凛太郎は答えなかった。その沈黙を、了承として受け取った。受け取った、ことにした。



 風が庭木を揺らした。


 さくらは画面を消し、スマートフォンを返した。凛太郎はそれを受け取らず、しばらく手の中のさくらの指を見ていた。


「……あいつらに、何をする気だ」


「まだ決めてない」


「嘘だ」


「決めてないわ。順番をね」


 凛太郎の喉が、小さく動いた。


「黒髪の方は、たぶんアレンだ。金髪は……ルドルフだと思う」


「賢者まで揃ったの」


「さくら。頼む。あいつらは――」


「その名前で呼ばないで」


 声が冷えた。凛太郎は唇を噛んだ。それでも、今日は引かなかった。


「あいつらなら、術者を探してる。記憶を戻した術の、元を。それが分かれば、消す方法だって」


「まだそんなことを言ってるの」


「俺の中のロードも、お前の中のセラヴィアも、消せるかもしれないんだ」


「消したら」


 さくらは凛太郎を見た。


「あなたに半紙を置いてもらった私は、どこへ行くの」


 凛太郎が息を呑んだ。言うつもりのない言葉だった。口に出してから、さくら自身が一番驚いていた。


 沈黙が落ちる。庭木の影だけが、二人の間で揺れていた。


「……忘れて」


 さくらは先に目を逸らした。


「映像は、また送って。動きがあったら、すぐに」


「お前は、何を壊す気なんだ」


「奪われたものを、返してもらうだけ」


 店の方から、店主の声がした。


「さくらちゃん、そろそろ大丈夫?」


「はい」


 すぐに返事をする。髪を整え、表情を戻す。霧島さくらの顔を作る。柔らかく、静かで、誰からも好かれる顔。


 暖簾の向こうへ戻った。客の声。珈琲の匂い。午後の光。盆を手に取り、いつもの笑みを浮かべる。


「お待たせいたしました」


 人間たちは、何も知らずに笑っていた。それでいい。


 四人。高校生の女、眼鏡の男、黒髪の勇者、金髪の賢者。餌はもう呑まれている。あとは糸を一本ずつ手繰るだけだ。


 凛太郎を、返してもらう。そのためなら、何人壊れても構わなかった。


 ひとりだけ、そうはいかない。


 あの黒髪の青年――アレン。


 絵を見て、名を聞き、黙っていた。それだけだ。それだけなのに、さくらの奥のセラヴィアが、息を潜めた。


 あの目。


 怒りでも、憎しみでもない。本人さえ気づいていない、もっと底の何か。


 同じ目を、知っている。たった一人だけ。


 人間どもは、それを勇者と呼ぶ。


 胸の底で、声が低く笑った。さくらの声ではなかった。


 盆の端を握る指に、力が入っていた。客の前まで来て、さくらはようやく気づいた。

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