EP6 失意
あの日――
ダルカネットゥ王国に一人の王女が誕生した。
女王陛下は錯乱し、
その王女を、自らの手で葬ろうとした。
しかし。
周囲の者たちの加護により、
王女の身に、傷一つ付くことはなかった。
怒り狂う女王陛下に、国王陛下は告げる。
「二度と、この子には会いません。
名前を呼ぶことも、近づくこともしません。
だから――
どうか、この子を生かしてください。」
その声は、祈りに近かった。
女王陛下は、しばしの沈黙の後――
静かに、頷いた。
そして。
王女は――
女王陛下の親友の手へと託される。
5年後――
「ごきげんよう、ベニ様。」
「はい、ごきげんよう。今日はどっか行くの?」
「はい!庭園でお茶をしようと思います。」
ぱっと花が咲くように、少女は笑った。
少女の名前は――シャルト=ダルカネットゥ。
ダルカネットゥ王国、第一王女。
その名はローレンによって与えられたものだった。
シャルト。
それはダルカネットゥ語で、
“境界”――そして、“心を繋ぐ者”を意味する。
世界各国の人々の心を繋ぎ、
良き王族になるように。
そんな願いが、その名には込められていた。
シャルトは、父親譲りの淡いクリーム色の髪と、
母親譲りのピジョンブラッドの瞳を持っていた。
柔らかな光を含む髪とは対照的に――
その瞳だけが、異様なほど深い。
まるで、覗き込めば吸い込まれてしまいそうなほどに。
血のように濃く、鮮やかな赤を宿していた。
けれど。
その笑顔は、どこまでも無垢で。
そして――誰よりも、優しかった。
元々、ローレンもムスカリも心根が優しく、
国民から深く愛されていた。
その二人の子であると、疑いようもないほどに。
シャルトは、誰に対しても分け隔てなく手を差し伸べ、
そっと寄り添うことのできる少女だった。
「あまり、遅くならないようにね。」
「はーい!」
シャルトは嬉しそうに笑い、庭園へと駆けていった。
庭園の薔薇は咲き誇り、
風が吹くたびに、その美しい花弁を舞い上げる。
鼻歌を口ずさみながら、
一人きりのお茶の時間を楽しむシャルト。
その時だった。
ざわり、と空気が変わる。
仕えていたメイドたちが、みるみると顔を青ざめさせ、
一斉にその場に跪いた。
「……お…かぁ…さま……?」
視線を上げた先に居た人物に、
シャルトは、はっと息を呑む。
「ごきげんよう……!」
慌てて椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
本や、王宮の絵でしか見たことのない実母。
その姿は、あまりにも美しくて。
思わず、胸が高鳴る。
(……綺麗……)
「あなた、ひとり?」
「はい」
ほんの少しでも、言葉を交わせることが嬉しくて。
シャルトの胸は、ふわりと浮き立つ。
「……そう。」
短く、それだけ。
それっきり、言葉は続かなかった。
ただ――
ムスカリは、じっとシャルトを見つめていた。
まるで、何かを“確かめる”ように。
「………?」
その視線の意味が分からず、
シャルトは小さく首を傾げる。
やがて。
ゆっくりと、ムスカリは手を差しだした。
「来なさい。」
その声は、穏やかで。
けれど――
逆らうことを許さない響きを持っていた。
「はい!」
迷うことなく、シャルトはその手を取った。
初めて母親と言葉を交わし、
初めて母親と手を握る。
ずっと願っていたことが、
二つも同時に叶って、シャルトの心は浮かれていた。
連れてこられたのは、真っ白な部屋。
温もりも、生活の気配もない。
ただ、無機質に塗りつぶされた“白”。
部屋の中央には、ぽつんと一脚の椅子。
その周囲を囲むように、いくつものモニターが並び、
淡い光を放っている。
そして。
ガラス張りの向こう側。
まるで観察するかのように、
数人の男女がこちらを見つめていた。
「座りなさい。」
ムスカリは、椅子を指さした。
その瞬間。
モニターが一斉に光を帯びる。
シャルトは、びくりと肩を揺らし、
不安げに周囲を見渡した。
何が起きているのか分からず、
助けを求めるように、ムスカリを見上げる。
「……お母様……?」
「怖がる必要はないわ。」
静かな声。
けれど、その響きはどこまでも冷静で――
“安心させるための言葉”にしては、あまりにも温度がなかった。
「あなた、五歳になったのでしょう?」
「はい。」
「魔力が暴走しないように、“予防接種”が必要なのよ。」
その言葉に、シャルトはほっと息をついた。
むしろ。
母親が、自分のために用意してくれたものなのだと――
そう思うと、少しだけ嬉しかった。
「……はい!」
素直に頷き、言われた通り、椅子へと腰を下ろす。
「王女様、ごきげんよう。私はヴィタリクス=サイメディルと申します。」
一人の男が、恭しく頭を下げた。
白衣を纏い、穏やかな笑みを浮かべるその姿は、
どこまでも“安心”を感じさせるものだった。
そのおかげか、シャルトの緊張は、すっとほどけていく。
「ごきげんよう。」
「王女様は、他の方よりも魔力量が多い。」
やわらかな声音のまま、ヴィタリクスは続ける。
「ですので。少しだけ、副作用が強く出るかもしれません。頑張れますか?」
試すような問い。
けれどシャルトは、迷わなかった。
「もちろんよ!私は偉大なるムスカリ女王陛下の娘だもの。」
ぱっと顔を上げて、誇らしげに微笑む。
「……それは、心強い。」
ヴィタリクスは、満足そうに目を細めた。
「では――安全のため、手足に枷を付けさせていただきます。」
「……え?」
一瞬だけ。
その言葉が、理解できなかった。
しかし――
気付いた時には、もう遅かった。
冷たい感覚が、手首と足首に絡みつく。
金属の音が、やけに大きく響いた。
「……っ。」
身動きが、取れない。
先ほどまでの“予防接種”という言葉と、
あまりにもかけ離れた現実。
それでも。
自信満々に答えた手前、
恐怖を口にすることはできなかった。
だから――
助けを求めるように、ムスカリを見る。
「……お母様……。」
しかし。
その視界の先にいたのは――
何の感情も宿していない、無機質な眼差しだった。
そして、ゆっくりと口を開く。
「はじめなさい。」
ヴィタリクスが、ためらいなくシャルトの腕に注射器を刺した。
まるで血のような、赤黒い液体が――
ゆっくりと体内へ流れ込んでいく。
「――っ!?」
次の瞬間。
シャルトの視界が、歪んだ。
息が、できない。
体が痙攣し、肺がうまく動かない。
空気を吸おうとしても、喉がひくつくだけで――
呼吸にならない。
熱い。
冷たい。
全身の感覚が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
激しい頭痛と、強烈な吐き気。
「おえぇっ……!!」
吐き出されたものに、赤が混じる。
知らない感情が流れ込んでくる。
恐怖。絶望。苦痛。
まるで、“誰かの心”を、
無理やり押し込まれたかのような――
耐え難い、不快感。
「……いや……っ」
涙が止まらない。
頬を伝うそれは、赤く染まっていた。
「吐血、鼻血、血涙…ふむ。」
ヴィタリクスは、淡々と記録をとる。
「ムスカリ様。このままでは――失敗です。」
「それなら、それでいいわ。」
あまりにもあっさりと。
まるで、どうでもいいことを告げるかのように。
ムスカリは、相変わらず無機質な目でその光景を見ていた。
「むしろ――」
ほんのわずかに、口元が歪む。
「死んだ方が、楽なんじゃないかしら?」
その言葉は、あまりにも優しく。
あまりにも、残酷だった。
「……っ。」
シャルトの意識が、かすかに揺れる。
聞こえてしまった。
聞こえなくてもよかったはずの、その言葉を。
「はっ、はっ、はっ…」
全てを拒絶するかのように、
心拍数は跳ね上がり、
血の流れる音が、耳の奥でうるさく鳴り響く。
息が、できない。
視界が、暗く――沈む。
朦朧とする意識の中で。
ヴィタリクスの声だけが、
異様なほど、はっきりと聞こえた。
「失敗だ。安死薬を。」
その言葉に――
抗う力は、もう残っていなかった。




