EP7 絶望
真っ白な部屋。
薬品の匂い。
ざわつく人の声。
「失敗だ。安死薬を。」
.
その声だけが、やけにはっきりと耳に残った。
(……いや……)
消えたく、ない。
その瞬間。
――ぶつん、と。
何かが、繋がった。
流れ込んでくる。
知らない感情。
恐怖。嫌悪。焦燥。苛立ち。
そして、“生きたい”という願い。
「……やめ…て……。」
拒絶しようとしても、止まらない。
「いやぁぁああああああっ!!」
その叫びと同時に――
空気が、歪んだ。
モニターが、一斉にノイズを走らせる。
「なっ……!?」
「数値が――異常だ!」
誰かの焦り。
誰かの恐怖。
「所長!!!」
「止めろ!今すぐ――」
ヴィタリクスも、慌てたように声を荒げる。
その中で。ただ一つ。
何もない“空白”が、そこにあった。
シャルトの視線が、ゆっくりと向けられる。
「お…かぁ……さま……」
かすれた声で、シャルトはムスカリを呼ぶ。
しかし――
「気持ち悪い。」
吐き捨てるように放たれたその言葉は、
まるで刃のように、シャルトの心を切り裂く。
その瞬間。
「一体、何をしているんですか!?」
扉が、乱暴に開かれる。
飛び込んできたのは――ローレンとベニロードだった。
「シャルト!!」
椅子に縛り付けられたその姿を見た瞬間、
ローレンの表情が一変する。
「ベニ!!」
「分かってる!!」
ベニロードが即座に手をかざすと、
拘束していた枷が、音を立てて弾け飛んだ。
ローレンが駆け寄ろうとした、その瞬間。
――バチッと。
黒い電撃が、二人の間を切り裂いた。
「っ……!」
反射的に足を止めるローレン。
空気が、焼けるような匂いを帯びる。
その先に立っていたのは――ムスカリ。
その瞳は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
静かな狂気ではない。
押さえきれない、激しい怒り。
「――誰が、触れていいと言ったのかしら。」
「ムスカリ……約束が違いますっ!!」
「あら?」
ほんの少し、首を傾げる。
「私はただ、見ていただけよ。」
にこり、と。
何事もなかったかのように微笑むムスカリに、
その場にいた誰もが息を呑んだ。
「それが……君の答えですか。」
低く、抑えた声。
ローレンは、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には――
はっきりと、怒りが宿っていた。
「なら、俺も遠慮はしません。」
躊躇いなく、ローレンは踏み込む。
「ローレン!!!!」
――バチッと。
再び空気が裂けた。
黒い電撃が、二人の間を薙ぐ。
それでも。
ローレンは止まらない。
「大丈夫。もう、大丈夫ですよ。」
そのまま、シャルトを強く抱きしめた。
瞬間。
バチバチッ!!
部屋中に黒い電撃が奔り、
空気が焦げる匂いとともに圧が弾ける。
モニターが一斉に悲鳴を上げ――
バチンッ!!
すべてが、ブラックアウトした。
「お……とぅ…さ…ま……?」
掠れるような、小さな声。
初めて顔を合わせたはずなのに、
自分を“父”と呼び、
縋るように服を掴むその小さな手に――
ローレンは、息を呑んだ。
遅すぎた後悔と。
それを塗りつぶすほどの、強い愛おしさ。
「……そうです。」
優しく、しかしはっきりと告げる。
「初めまして。あなたの父です。」
その手を、そっと握り返した。
「ローレン!!その女を離して!!」
黒い電撃が、再び走る。
――しかし。
ローレンの張った結界に触れた瞬間、
それは弾かれ、霧散した。
「ムスカリ。これ以上、この子を苦しめないでください。」
「うるさい!!」
張り裂けるような叫び。
「先に裏切ったのは、あなたの方よッ!!」
その言葉に。
ローレンの動きが、ほんのわずかに止まる。
「……俺が……?」
「その女が生まれたあの日から…」
ムスカリの声が、震える。
「あなたの中で、私は……一番じゃなくなったッ……!」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「私は……こんなにも、愛しているのにッ……」
その声は、怒りでもなく。
今にも壊れてしまいそうな、悲痛な叫びだった。
「違いますよ、ムスカリ。」
ローレンは、静かに首を振る。
「あなたはいつだって――俺の一番です。」
諭すように。
けれど、揺らぐことのない強さで、
真っ直ぐに、その想いを伝える。
「愛する女性に対する思いと、子への思いは、別ですよ。」
「でも、それは……女よ。」
かすれるような声。
ムスカリは、ゆっくりと首を振る。
「同じなのよ……。」
ぎり、と。
自身の頬に爪を立てる。
「あなたを奪う存在は……全部、同じ……。」
「………そうですか。」
ローレンは、小さく呟いた。
それ以上、何も言わない。
ゆっくりと視線を落とし――
腕の中のシャルトを見る。
そして。
そっと、その頭を撫でた。
「……シャルト。俺たちのことに巻き込んでしまって…すみません。」
ほんの一瞬、言葉を探すように沈黙し。
「本当は……君の成長を、ずっと見守っていたかった。」
指先に伝わる体温が、少しずつ、冷たくなっていく。
「……でも。」
ローレンは、目を閉じた。
「このままでは、君はずっと苦しみ続ける。
それだけは――耐えられない。」
腕の中の小さな命が、
今にも消えてしまいそうだと。
はっきりと、分かってしまった。
「……だから――」
その瞬間。
ふわり、と。
シャルトの体を、淡い緑の光が包み込む。
「……ッ!?何をしているの!?」
ムスカリの声が、震える。
悲鳴にも似たその叫びと同時に、駆け寄ろうとする。
しかし――
ローレンの張った結界に阻まれ、
一歩も近づくことができない。
「ローレン!!!」
初めて。
ムスカリの声に、明確な“焦り”が滲んだ。
「シャルト…愛しています。」
優しく、額に口づける。
その瞬間。
乱れていた呼吸が、すうっと整う。
冷えかけていた体に、ゆっくりと温もりが戻っていく。
あれほどの苦痛が――
嘘のように消えていった。
パァンッ!!
光が弾ける。
同時に、結界が砕けるようにほどけた。
「……お父様…?」
かすれた声。
ローレンは、そっとシャルトを離す。
その温もりを、確かめるように一瞬だけみつめてから――
ゆっくりと、立ち上がった。
そして。
茫然と立ち尽くすムスカリへと、歩み寄る。
「ムスカリ……。」
躊躇うことなく、その体を抱きしめた。
「いやっ…嫌よッ…」
ムスカリは、縋るようにローレンにしがみつく。
「…俺は……」
かすかに息を吐く。
「あなたと出会えて……あなたと愛し合えて……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「本当に……毎日が、幸せでした。」
慈しむように、ムスカリの頬に触れる。
その指先は――
あまりにも、冷たくて。
ムスカリは、はっと息を呑む。
「……やだ……」
自分の体温を分け与えるかのように、
必死にその手を握り締めた。
「温めるから……すぐっ、温かくなるからっ……。」
「……この五年間。」
ローレンは、静かに目を伏せる。
「辛い思いをさせて、すみませんでした。」
「まって……っ、お願い……。」
声が、震える。
「行かないで……。」
何千年も生きてきたはずなのに。
いくつもの奇跡を起こしてきたはずなのに。
この瞬間――
何一つ、魔法が思い浮かばない。
ただ、失う恐怖だけが膨れ上がり。
どうしようもない無力さに、押し潰されていく。
「ムスカリ。」
もう一度、はっきりと名前を呼ぶ。
視線が、絡み合う。
涙を含んだ、真っ赤な瞳。
それを見つめて――
ローレンは、愛おしげに微笑んだ。
「愛しています。」
どこまでも優しく、
どこまでも、慈しむように。
そっと、唇を重ねる。
――まるで、あの日、想いを告げた時に交わした口づけと、同じように。
そして――
ローレンの体から、力が抜けた。
「いやあああああああああああああああああっ!!!!!!!」
その悲鳴は、王宮中に響き渡った。
愛していた。
誰よりも。
何よりも。
それなのに――
すべてを、奪われた。
取り戻すことも、やり直すこともできないまま。
ただ、壊れることしかできなかった。
その日。
“祝福”は終わり。
“呪い”が、生まれた。




