EP5 悲嘆
出産予定の日。
王宮は朝から慌ただしく、メイドたちが走り回っていた。
「そっちはもう準備できてる!?」
「まだです!あと少しで――」
「急いで!ムスカリ様の体調がいつ変わるか分からないんだから!」
廊下には、緊張を帯びた声が飛び交う。
普段は静寂と気品に包まれている王宮も、今日ばかりは違った。
足音が重なり、衣擦れの音が響き、
誰もが息を詰めるように働いている。
それでも――
無駄な動きはひとつもなかった。
この日のために、幾度も想定されてきた動き。
誰一人として、持ち場を間違えることはなかった。
「お湯、運びます!!」
「ルト先生は!?」
「すでに、ムスカリ様のお傍に居られます!」
次々と交わされる確認の声。
そのすべてが、たった一つの目的のために働いている。
――女王の出産。
ダルカネットゥ王国の未来を左右する、
たった一つの“誕生”のために。
「みんな、大慌てね。」
「そりゃあ…ねぇ。」
クスクスと笑うムスカリとは対照的に、
ベニロードはどこか落ち着かない様子で呟いた。
「そんなに緊張しなくても、ルトがいれば安全よ。」
「まさかと思うけど……飲んでないよね?」
二人の視線の先にいるのは、一人の女医。
ベルガモット=ハルバード。
王族専属医として仕える、腕利きの医者だ。
「飲んでない、飲んでない。」
肩をすくめながら、ベルガモットは軽く手を振る。
「さすがに女王陛下の出産に飲酒して参加できる度胸はないよ。」
無類の酒好きで、時には一升瓶を抱えたまま治療をこなす――
そんな彼女にしては、珍しく“まとも”な姿だった。
「あなた、素面で治療にあたるのは…いつぶり?」
「えーーー…っとぉ…」
ベルガモットは、わざとらしく視線を泳がせる。
「……何百年ぶり、かなぁ?」
いっそ初めてなんじゃないか――と、本人すら思い始めている様子に
ベニロードは思わず苦笑いを漏らした。
――その時。
空気が、ふっと静まった。
「うっ……。」
小さく漏れた声に、全員の動きが止まる。
「ムスカリ!!」
今まで、静かに傍にいたローレンが、弾かれたように立ち上がり、
その手を強く握った。
ムスカリは腹部を押さえ、わずかに息を乱す。
「……来た、わね」
その声は苦しげで――
けれど、どこか落ち着いていた。
陣痛が、始まったのだ。
「お湯持ってきて!!」
ベルガモットの声が、鋭く飛ぶ。
先ほどまでの軽い調子は消え失せ、
一瞬で“医者の顔”へと変わっていた。
「呼吸を整えてください。大丈夫、ちゃんとついてますよ。」
ローレンはムスカリの手を握り、
その額にかかる髪をそっと払う。
「………えぇ。」
ムスカリは小さくうなずいた。
苦し気に息を吐きながらも、
その瞳に不安の色はない。
「いい子に、生まれてくるのよ。」
そっと腹部をなでながら、優しく語りかける。
「――大丈夫。俺がいます。君も、この子も――必ず守る。」
手を握るローレンの指がわずかに強くなる。
その声は震えていたが、確かに強かった。
「はいはい、感動するのはあとにしな!」
ベルガモットが間に割って入る。
「集中して!今からが本番だよ!」
部屋の空気が、一気に張り詰める。
「……っ、は……っ」
ムスカリの呼吸が荒くなる。
時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていく。
それでも――
その手は、決して離されなかった。
ローレンの手を、強く握ったまま。
「……もうすぐだよ。」
ベルガモットが静かに告げる。
「……っ」
一瞬。
すべての音が、遠のいたように感じた。
そして――
「オギャー、オギャー!」
その産声が響いた瞬間――
部屋の全員の動きが、止まった。
ベルガモットの腕の中。
確かにそこにいる、たった今生まれたばかりの命。
その姿を、誰もが見つめる。
そして。
誰一人として、言葉を発さなかった。
赤子は――…女の子だった。
その瞬間。
空気が、ひどく冷えた。
先ほどまで満ちていた安堵も、祝福も、
すべてが音もなく消え失せる。
代わりに流れ込んできたのは――
理解できない、緊張。
ベニロードは、息をすることすら忘れていた。
背中を、冷たい汗がゆっくりと伝っていく。
(……そんな、はずが――)
「……ベルガモット。」
「……ひゅっ」
その名前を呼ばれただけで。
ベルガモットは、怯えたように息を呑んだ。
振り向くことも、顔を上げることもできない。
「……それは……なに?」
あまりにも、冷たい声音。
あまりにも、感情のない問い。
ベルガモットは俯いたまま、
ただ腕の中で泣き続ける赤子を見つめることしかできなかった。
「何って……」
静寂を破ったのは、ローレンだった。
「俺たちの子供ですよ」
この場にいる、誰よりも穏やかな声で。
「ムスカリ、本当に頑張りましたね。
ありがとう。愛しています。
さぁ、もっと近くで我が子を見ましょう。」
そう言って、震えるベルガモットの腕から
赤子を受け取ろうとした――
その瞬間。
「その赤子に触らないで!!!!!!」
悲鳴に近い怒声が、部屋を切り裂いた。
「違う……」
震える声。
「こんなの……違う…」
そして――
「私の子じゃない。」
静かに。
けれど、はっきりと。
ローレンへ向けて告げられる。
「その赤子に触れないで。視界に入れないで。」
頭を抱え、爪を食い込ませる。
乱れた呼吸の中で、狂ったように言葉を紡ぐ。
「じゃないと……」
気味が悪いほどの静寂。
誰も、息をすることすら許されない。
そして。
ムスカリは、静かに口を開いた。
「国を……滅ぼしてしまうわ。」




